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シン公営競技論:Q

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シン公営競技:序
シン公営競技:破
の続きです。

– – –

競輪は国内では公営競技として70年以上の長い歴史を有していますが、同時に競技スポーツという側面も併せ持っています。日本のプロスポーツとしては国内最多の2000人以上の選手が登録され、2000年からはシドニー五輪からは正式種目に採用されています。日本発祥スポーツの五輪種目は柔道・競輪・空手(東京五輪)の3つで、海外でもそのまま「KEIRIN」と表記されています。

日本はKEIRINの母国でプロ選手も多く抱えていますが、これまで北京五輪で獲得した銅メダルが1個のみで金メダルはありません。かつて日本選手はトラック競技において世界選手権で圧倒するほどの成績を上げていました。当時の五輪は創始者クーベルタン男爵の提唱する「アマチュアリズム」を標榜しており、プロ選手が参加できませんでした。五輪は時代と共に商業化を強め、徐々にプロに門戸を開くようなっていきます。

日本の競輪選手が所属する「JKA」はオートレースと競輪の2つを管理する公益法人です。サッカーではJFA(日本サッカー協会)はFIFAの影響下にありますが、JKAは元々経済産業省所轄の団体で国際自転車競技連合「UCI」の関係先ではなく両者は目指す方向性に大きな違いがあり、協調しあって自転車競技の振興をしている訳ではありません。

UCIは2000年に自転車トラック競技の大改革を断行し、その際に日本はKEIRINを正式種目に入れ込むことに成功しました。同時にトラック競技のルールが変更され、1周250m板張りの「ベロドローム」と言われる室内競技場と厳格化されました。しかしながら、日本にはこの規格の公認競技場がなく参加選手はオーストラリアで合宿をするなどして五輪に挑んみましたが、新ルールに対応することがなかなかできませんでした。ルール改正に伴い、欧州各国・米国・カナダ・豪州などの先進国は公認ベロドロームを設置、中国・ロシア・香港・インド・イスラエル・コロンビア・トルクメニスタン・マレーシアなどでも国際大会が実施されています。母国日本はルール改正から遅れること11年、静岡県の伊豆半島の山中に「伊豆ベロドローム」がようやく完成、大きな大会を実施するにはアクセスが悪く、主に選手の練習場となっていました。

 

「お・も・て・な・し」

 

「世界一コンパクトな五輪」を公約にし東京都は2020年の五輪招致活動を行い、ブエノスアイレスの総会にて競合の末に見事に大会を勝ち取りました。猪瀬直樹都知事(当時)は、東京数キロ圏内に競技会場を集中させ、自転車競技のトラック種目は東京湾の臨海地区に20億円をかけ専用競技場「有明ベロドローム」を建設するとしていました。

しかし、小池百合子知事になるとこの計画の見直しを提言「これまでも会場の変更というのはしばしばあった」とし、有明の競輪場も白紙となります。伊豆のベロドロームはサッカーでいうなら「Jビレッジ」のような強化施設のため、五輪のような大きな国際大会を実施するには大規模な改修が必要となり、代表選手は実践を想定した練習ができずに2月の冷たい雨の中で屋根のないコンクリート走路で直前合宿をしいられました。東京五輪の反省点から分かるように、日本に必要なのは国際規格のベロドロームなのです。現存する40以上の競輪場は賞味期限が切れていて、新規格の競技場に更新していく必要性があるのです。

 

velodrome tokyo
白紙となった夢の競輪施設「ベロドローム有明」

 

競輪は誕生から70年以上が経過、施設は老朽化が進み、最盛期で全国に62あった競輪場も43施設となりました。減少した施設のほぼ半数は関西の施設で、革新自治体の首長による政治的判断によるもです。このような共産体制レジームは消滅しましたが、競輪を再開した自治体はひとつもありません。東京都の石原慎太郎知事(当時)が「新しい競輪」「お台場カジノ計画」構想を表明しましたが実現にはいたりませんでした。しかしながら、石原の意思は受け継がれ2018年にはカジノを含む統合型リゾート(IR)の整備法が成立、大阪は関西大阪万博が開催予定の人工島「夢洲」にて一体的な開発を行う予定となっています。

 

 

myakumyaku
 2025年夢洲で開催される「大阪・関西万博」 開催には競輪の協賛金が支出される

 

大阪は古くから自転車産業の中心的な役割を果たしてきました。また、自転車の普及率や利用状況も、欧州の「自転車都市」に引けを取らない高い水準となっていてます。競輪史においても住之江競輪場の熱狂的な人気が、全国へと拡大した経緯を見てみても、関西初の屋根付きのベロドロームは大阪にあるべきなのです。

とはいえ、大阪は財政的に困窮していた時期が長く緊縮体制を取っているため、競輪場の建設に対して公共政策として予算を組むとなると反対する意見も多く出てくるはずです。2000年以降に国内に建設された屋根付きの競輪施設は3施設ありますが、どれも税金は1円も使用されていません。小池知事は建設費を問題として、有明の施設を撤回しましたが、少し知恵を働かせれば税金を使わず施設を建設できるのです。

私が万博後の夢洲でKEIRINを実施すべきであるとしているのは、万博で建設されるパビリオンを競輪場に転用することで、税金を使わず「負のレガシー」を収益事業に変換することができるからです。カジノが開業すると国内外から収容できないほどの多くの観光客が訪れます。カジノは席数に限りがありますから、あふれ返ったギャンブラーたちをターゲットに日本独自の公営競技を楽しんでいただければ一石二鳥ですし、休催日にはボクシング・アイススケートやコンサートなどのイベント会場として貸し出せば、一層の収益を出すことができます。

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競輪の人気のピークは1950年代でファンも高齢化し、一般的には昭和の終わったコンテンツと認識されているのではないでしょうか。ところが令和になり、米国でスマホを介したスポーツベッティングが流行の兆しを見せると、ソフトバンク・サイバーエージェント・楽天・DMMなどのIT企業が相次いで事業として競輪に投資、売り上げも底を打ちイメージも変わりつつあります。ゴジラやウルトラマンが新装し再ブームを起こしているように、競輪も少しテコ入れをすれば新たなファン層を獲得し、世界から本場の競輪見たさに来日客が訪れ、他国のカジノと差別化にもつながります。

大阪からは、野球のダルビッシュ有選手、テニスの大坂なおみ選手、サッカーの本田圭佑選手など多くの一流アスリートが生まれています。これは自宅の近くに練習施設ある環境で幼少期を過ごした結果です。静岡の伊豆まで電車を乗り継いで行く必要がないのです。ベロドロームは、スポーツ振興という面でも、遅かれ早かれ設置しなければなならいのです。

「シン公営競技」と題して公共政策としての公営競技について妄言を交え3回にわたり投稿させていただきました。夢洲のカジノには賛否があることは承知をしていますが、印象として反対派も賛成派もギャンブルの現状を正確に認識して声を上げている訳ではなく、ポジショントークをしているだけのように感じます。私は、より深い議論をするため、本稿で述べてきたような歴史的経緯やギャンブルに対する正しいリテラシーを各々が身に着けていくべきではないかと思っています。

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シン公営競技論 :破

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(前回の続き)

戦後の我国の公営競技は競馬から始まりました。競馬は戦前より実施されていましたが、中央集権的な組織体制をGHQに問題視され、1948年に新しい競馬法が制定、現在へと続く市町村が主催する「地方競馬」へとなり再スタートをします。同年に自転車競技法も制定され「競輪」は熱狂的に支持され瞬く間に全国的に広がり、次いで50年には「オートレース」、51年には「競艇」が誕生、52年にサンフランシスコ講和条約により日本が主権を取り戻すと54年に中央競馬法が可決され「日本中央競馬会」が発足します。オートレースはあまり人気がでませんでしたが、公営競技の王者は【地方競馬 → 競輪 → 競艇 → 中央競馬】と誕生順に移り変わっていきます。しかしながら、1970年代に入るとパチンコが市場規模で競輪・競艇を超え、80年代には全公営競技の合計を上回る規模と増大し、90年代には30兆円市場の巨大産業となり圧倒的な存在となります。

まさに国民的ギャンブルと成長したパチンコですが、1959年に大物代議士の福田赳夫自民党幹事長に「2年以内に完全納税できなければ、一斉摘発する」と忠告を受け、危機的状況に追い込まれていました。パチンコ業界はこの難局をどのように乗り切ったのでしょうか。まずはその歴史をみてみましょう。

初期のパチンコは一銭銅貨を投入して遊ぶコインマシンでした。その登場は古く、杉山一夫著「パチンコ誕生」(2008,創元社)によるとルーツは1920年代の大阪の新世界であるとしています。新世界は現在では通天閣を中心に多くの観光客が押し寄せますが、そのきっかけは今から100年以上前の1905年に開催された「第五回内国勧業博覧会」です。博覧会終了後に跡地はルナパークという遊園地となり1923年まで営業をしていました。杉村氏よるとルナパーク終了後の新世界の一角、通天閣の袂にあった露店パチンコ「オーエヌ商会」が初号機であるとしています。1932年に大阪ではパチンコ禁止令がだされ、太平洋戦争へと突入し禁止令は全国的に広がります。「オーエヌ商会」はその影響を受けて、カフェーと転業し現在でも「コロンバイン」という店名の喫茶店を営業されています。

 

cafe
新世界の露店パチンコ「オーエヌ商会」があった場所  現在は喫茶「コロンバイン」となっている

 

 

戦争が終わると再び大阪市内でパチンコ店が営業が始まり出します。大阪府警に出身で戦時下は満州に駐屯していた水島年得(ねんとく)も心斎橋でパチンコ店を開業します。配給制で物資が不足していた状況下で、景品と交換できるパチンコは人気を博し、水島は道頓堀・玉造・鶴橋など多店舗化に成功、パチンコ店組合の全国組織「全遊連」の会長となります。「完全納税」の命を受けた水島ですが、当時は各地方ごとで指導法など違いがあり、統一化に向け「大阪方式」を導入、特殊景品を介し出玉をパチンコ店・景品交換所・景品問屋の3つの別々の業者が扱うこの方式は「三店方式」とも言われ、パチンコ店が出玉の換金行為に直接的に関与しないことから、賭博行為に相当しないという脱法的な営業形態です。水島が考案したこの方式でパチンコはどうにか一斉摘発を免れます。

 

「パチンコで換金が行われているなど、まったく存じ上げないことでございまして..」

 

2014年2月、高村正彦自民党副総裁らが発起人となる「時代に適した風営法を求める会」が設立、建前論ではなく実態に即して方式を整理し「パチンコ課税」の導入を要望すると、警視庁の担当者は「そういうこと(換金)もあるという話は聞いております」と官僚答弁に終始、「賭博」なく「遊技」で出玉交換は無関係の交換所で客が勝手に換金しているだけなので「課税する」という議論も成り立たないと白々しい答弁を繰り返し、現在でも協力姿勢を示していません。パチンコは公営競技と違い法的なプロセスを経て業態が成立していないという問題が常に付きまといます。

 

pachinko
警察はパチンコ以外の業種は「三店方式」を認めない方針  (朝日新聞 2014年8月26日)

 

 

「三店方式」の黙認も問題のですが、私がそれ以上に問題なのは「パチンコ依存症」だと思います。

ギャンブル依存症は1980年代から米国で精神医学の疾患として体系され、世界保健機関「WHO」においても病気とされています。2014年の厚生労働省の研究班の調査では国内のギャンブル依存の有病率は4.8%、わが国には500万人以上の依存者がいると推定されています。ギャンブル依存は重症度が高くなると精神疾患だけでなく、身体に異常が現れ日常生活が困難になる危険性もあります。加えて、借金を抱える事例が多く、場合によっては家族や職場など社会経済に悪影響をおよぼします。ゆえにギャンブルは一般事業者ではなく「公営」でしっかりとした大綱を設け、慎重かつ健全に開催する必要性があります。

研究者や医師においても明白にパチンコと公営競技を分けて研究している人は少なく、国内では精神科医の帚木蓬生(ははきぎ・ほうせい)氏の2005年から2年かけギャンブル依存の実態を初めて調査、100人のギャンブル症者の嗜癖をひとりひとり調べると、100人中96人がパチンコ・スロットであり、競輪は100人中たった1人でサイコロ賭博や花札よりも少ないという実態が報告されています。

私は患者数を減らすためにも、パチンコと公営競技を分けてしっかりと検証・研究していくことが予防につながると考えます。この2つは似ているようで、公益性など性質が大きく異なります。以下違いを説明しますが、結論から先に言うとパチンコ業界は競輪を規範に依存症対策をすべきなのです。分かりやすいように、「パチンコホール」か「競輪場」どちらかを我が町に1施設を設置すると仮定し、違いをみています。

 

(参考) パチンコ店 競輪場
営業 ほぼ毎日 月間 3~9日
利用者 ほぼ周辺住民 全国から投票
受益者 運営企業(非上場) 主催自治体(売上の25%)
ギャンブルの形態 遊戯業(大阪方式採用) 公営競技(自転車競技法)
平均使用額(回) 13600円 12300円
施設数 全国8000店舗 43施設

 

 

パチンコホールは全国8000店舗以上あるそうです。近所にも必ずあり店舗があり、新店が開業することも日常茶飯事、地域によっては向かい合って立地しています。一方、競輪場の開設は半世紀以上もなく、新設となると地域では反対活動が起こるかもしれません。しかし、2017年に施行された「自転車活用推進法」では12の基本方針が掲げられそのひとつに「自転車競技のための施設の整備」というが盛り込まれていて、地方公共団体の責務として基本理念の理解を住民に求め、協力を得るよう努めなければならないという内容になっています。もちろん、日本は法治国家ですから推進法に従い、本来ならプールや体育館のように都市のアメニティとして競輪場も設置すべきなのです。

パチンコホールは周辺住民から収益を得ます。昔は競輪場も同じような構造でしたが、近年はスマホの普及からインターネットを利用し全国から投票されます。周辺地域から金が散逸するパチンコと対照的に、競輪場は全国から金が集まり、その売上金の25%が主催自治体の一般財源として、地域に恩恵をもたらします。一方でパチンコホールはすべて非上場企業で、経営者は長者番付の上位にランクされ格差を生んでいます。

営業日数も明白に異なります。ほぼ毎日営業するパチンコホールに対し、競輪場は全国で分散して開催されているため月に5日程しか実施されません。月に25日労働し、5日競輪場で過ごすのが依存でしょうか。それとも、休催日にも競輪場に出向き自転車が走っていないバンクを見て、ドーパミンを放出しているのでしょうか。公営競技は前もって投票券などを購入しておくこともできます。精神状態が冷静な出走前に投票を締め切り、ライブベッティングはできません。パチンコに依存してしまうと朝から閉店まで10時間以上も、効果音響やパターン点滅などの仕掛けのある遊技台の前に座り続けてしまう人もいます。健常な人でも毎日射幸心煽るこの状況に置かれれば、正確な判断ができなくなってしまいます。

パチンコホールも全国で100施設ほどに漸減し、営業も月に3~9日ほどに減らせば、依存症の数は大幅に減らすことができます。到底できっこない話となりますが、公営競技はこれを実行してもなお依存症対策が不十分であるというご指摘を頂戴しているのです。競輪はスポーツですが、ゴールデンタイムのスポーツニュースで出走結果が報道されることもありません(中央競馬はたまにあります)。青少年への影響を考慮して、少女アイドルグループや少年マンガ・アニメをコマーシャルに使用することもありません。

 

 

robot anime
少年が主人公のロボットアニメ「エヴァンゲリオン」がタイアップするパチンコ

 

私は競輪場を全国に8000施設に増設すべきだと主張しているのでありません。選手が3000人ほどしかいませんので限界があります。ただ、財政論として公営競技の実施を各都道府県・市区町村で議論のテーブルにあげるべきであると言いたいのです。

本ブログでは繰り返し、大阪は夢洲のカジノの隣に競輪場を新設すべきと主張をしています。関係者の方に怒られるかもしれませんが、今の競輪は賞味期限が切れています。私は、舞洲に1施設作るだけでドミノ倒しのように公営競技が生まれ変わり、戦後期の奇跡的な経済成長が再び訪れると確信しています。現代貨幣理論(MMT)やマルクス経済理論のような絵に描いた餅ではありません。終戦後、わが国は焼野原から競輪・競艇という独自の経済構造をひねり出し、その収益を原動力に経済成長を実現しました。しかしながら、パチンコの台頭により日本経済は長期にわたり停滞、このいわゆる「失われた20年」に日本人がパチンコに使用した額は500兆円以上だそうです。

次の投稿ではなぜに今、大阪の夢洲に競輪場が必要なのかもう一度詳説したいと思います。

 

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シン公営競技論 : 序

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私の出身は大阪府北部の箕面市というところです。18歳まで実家で暮らし、今も両親は箕面に住んでいます。箕面市は府下でも屈指の高級住宅地域として知られていますが、私の家は普通の農家の家系で、地区がまだ「豊川村」と呼ばれていた時代から実家があり、私や両親は開発による周囲の変貌に驚いています。箕面市がこのようなまちづくりに成功した背景として、1954年から公営競技「競艇(ボートレース)」を主催し、安定的な税収外収入を確保していることは知られています。箕面市の財政は公営競技に依存しており、今後もその利権を手放すことはまず考えられません。公営競技があってよかった、少なくとも「豊川村」の住民は皆がそう思っています。

 

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住之江競艇場   大阪市内に所在するが市はレースを主催しない

 

逆に「豊川村」の出身の私から見ると、なぜ他の自治体は公営競技を実施しないのだろうかと問いたくなります。公営競技による恩恵を受けたことのない地区に住んでいる方は全くピンとこない話で、むしろ公営競技を実施すると周辺の治安が下がったり、ギャンブル依存症が増加したりするのではないかと不安に思われるかもしれませんが、決してそんなことはありません。確かにかつてはそのような問題が指摘されていました。しかし、公営競技は「反対する声」を真摯に受け止め、行政と一体となり改善を重ね、現在では適正円滑に遂行され、その収益は地方財政を支える有力な財源となり、社会福祉・公衆衛生・公共施設整備・公共事業の振興などに寄与しています。正しく認識をしていただけるなら公営競技が、パチンコ・スポーツ賭博・インターネットカジノなどと全く性質が異なり、社会的に有益であることが分かっていただけると思います。

 

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岸和田競輪場  所有は岸和田市 (2018年撮影)

 

現在、全国に競艇場が24施設、競輪場43施設あります。現存するこれらの施設はすべて1948(昭和23年)年からの8年間に開場したもので、競艇場は1956(昭和31)年、競輪場は52年(昭和27)年を最後にして70年程新設がありません。大阪府下にもかつては多くの公営競技場があり、なかでも競輪は熱狂的な人気がありましたが、日本共産党が単独推薦する黒田了一知事が誕生したことで、政治的なイデオロギーでから公営競技から撤退、競輪場も廃止となりました。

 

– – – –

<戦後の大阪府下の公営競技場>

住之江競艇場 [1956年-] 箕面市など主催
住之江競輪場 [1948-1964年] 政治的判断で休止
大阪中央競輪場 [1950-1962年] 政治的判断で廃止
豊中競輪場 [1950-1956年] 政治的判断で休止
岸和田競輪場 [1951年-] 岸和田市主催
大阪競馬場 1948-1959年] 政治的判断で廃止
春木競馬場 1929-1974年] 売上低迷により廃止
長居オートレース場 [1951-1952年] 売上低迷により廃止

osaka keirin
廃止となった「大阪中央競輪場」全国でも屈指の人気であった

 

その後、公営競技の存廃議論は全国的に広がり、池田勇人内閣は公正取引委員会の長沼弘毅委員長を会長とした諮問機関「公営競技調査会」を設置、1961年7月に調査会は運営方法など基本方針を示した「長沼答申」を打ち出し「公営競技場数やレース数等について規定より増やさない」という基本態度で委員が一致、運営改善の具体策を提案します。長沼が公営競技を全廃せずに存続という結論を出した理由は主催自治体に対する財政面での影響が大きいことと、全廃すれば「非公開のとばく」の拡大の懸念があるという2点でした。

 

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公営競技の運営指針「長沼答申」(朝日新聞1961年7月26日朝刊)

 

池田首相はギャンブルに対し否定的な立場をとっていて、大蔵大臣時代の1951年1月の衆議院予算委員会では「パチンコは全国津々浦々まで浸透しており苦々しく思っている、これは百害あって一利のないものである。競輪は私の所轄ではない」と、庶民の娯楽であるパチンコにも厳しい態度を示していました。池田内閣は、公営競技の運営体制を厳格化すると同時に、パチンコの産業の関係者に対しても「全国組織の結成」と「完全納税」という条件を突き付け、出来なければ「一斉摘発する」と内密に通達しました。

日本では賭博行為は禁止されていますが、競輪は自転車競技法(1948年)、競艇はモーターボート競走法(1951年)、地方競馬は地方競馬法(1946年)と、それぞれ法令に基づき例外的に運営されています。しかしパチンコはそうではありません。そもそも、なぜ法的に認められていないパチンコホールが黙認されているのでしょうか。次回の投稿では、追い込まれたパチンコ業界に現れた救世主「水島の後に水島なし」と言われた大阪府警OBで、パチンコ店組合の全国組織「全遊連」会長の水島年得を通してパチンコの歴史を辿ってみたいと思います。

 

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忘れ去られた霊園、国内最大の軍人墓地「真田山陸軍墓地」

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(前回の投稿の続き)

法円坂交差点の南西角には、「大阪医療センター」という国立の大病院があります。その敷地には松下幸之助などによって建造された大村益次郎の大きな石碑が鎮座しています。益次郎は幕末~明治期の政治家で、近代化する日本の富国強兵のため大阪に陸軍の中枢を置き、事実上の指導者となります。しかしそれが災いし、1868年(明治2)京都にて襲撃され大傷を負い44歳という若さで絶命します。益次郎の死後も大阪は大阪城周辺を中心に軍都として栄え、1877年(明治10)の西南戦争では全国から多くの兵士が集められました。

 

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大阪医療センターの南東角にある「兵部大輔大村益次郎卿殉難報國之碑」

 

西南戦争は九州で勃発した日本最後の大規模内戦で、西郷隆盛率いる士族の反乱を制圧するため多くの犠牲者が発生、難波宮は臨時の野戦病院として使用され、病院で亡くなった戦死者を埋葬する墓地が必要となりました。そこで1kmほど南側の真田山に全国初の国立墓地が設置され、以後も日清・日露戦争などの戦没者を埋葬し国内最大規模の兵隊墓地となりました。

墓地の入り口には鉄製の門があり閉ざされていますが、くぐって入れるようになっていて、24時間誰でも墓参りができます。私が初めてこの墓地を知ったのは10年程前で、そのような歴史的経緯は一切知らずにたまたま訪れ、方錐形の風化した墓碑が並ぶ不思議な光景に驚き、関心を持っていました。

 

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墓石が並ぶ「 旧真田山陸軍墓地」

 

敷地内には納骨堂と5000基以上の墓碑があり、明治期の戦死者が中心となっています。靖国神社との関係で第二次世界大戦の被葬者が少なく、戦後は忘れ去れてた存在となっていました。

 

<真田山陸軍 戦時別の墓碑数>
西南戦争 767基
日清戦争 1337基
乙未戦争 370基
日露戦争 413基
第一次世界大戦 20基
満州事変 25基
日中~大東亜戦争 2基

 

霊園施設の管理も国と自治体が押しつけ合い全く行き届いておらず、同じ天王寺区にある四天王寺の官長が中心となり設立された「大阪靖国霊場維持会」と地元町会の献身的な保護活動でなんとか維持をしていましたが、戦後70年以上の歳月を経て、墓石や施設などの傷みは大きく活動も厳しい状況だったようです。

2016年にNHKの大河ドラマ「真田丸」が放送されると、真田幸村のゆかりの古戦場として真田山は注目を集め、地元の商店組合や墓地に隣接する「三光神社」などではPR活動をしましたが、墓地を再整備する大きな動きはありませんでした。

 

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墓地に隣接する三光神社 大坂の陣「真田丸」推定地とされている

 

風向きが変わったのは2018年5月の橋下徹氏の訪問です。ご存じの通り橋下氏は2008~11年に大阪府知事、11~15年は大阪市長として政治活動をしていました。任期中は同霊園に訪問したり特別予算を組みことはありませんでしたが、引退後に政治コメンテーターとして精力的に活動、国会議員の靖国神社参拝の姿勢に対して自身の信念を強く表明するのに加え、同霊園の悲惨な状況の改善の要求を方々で展開しました。

橋下氏の要望に応え、2018年8月に日本維新の会が菅義偉官房長官(当時)に軍用墓地の管理の在り方について要望を提出、吉村洋文市長(当時)も会見にて安倍晋三首相(当時)に対して真田山墓地の管理修復を要求「国がやらなければ、大阪市として対応したい」と強い態度で焚きつけました。政府は翌年1月、全国44カ所ある旧軍用墓地について、年間300万円程度だった補修費を5年間で5億円程度に増額する予算を編成、地元自治体と補修計画を協議するなど対応を取り、現在は一部が工事作業中となっています。

 

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▲ 風化によりダメージがある墓石 (2015年筆者撮影)

 

 

靖国神社は神道系の神社ですが、この真田山は墓地です。それぞれの役割も異なっっていて、霊園敷地内には個人の墓碑以外に、5基の合葬碑、そして4万3000人以上の遺骨や遺髪を納めた木造の納骨堂があります。被葬者は、病死者や脱走兵、自殺者、外国人も数名含まれています。感染予防のため火葬された者もいれば、軍靴や帽子着用の正装で土葬で眠っている兵士もいます。明治期の戦没者が主となっているため、大東亜戦争後の東京裁判による「A級戦犯」はひとりもいません。訪問日は最後の大阪空襲があった8月14日でしたが参拝者の姿はなく、セミが鳴き散らしていました。おそらく大阪市内で最も三密を回避できる場所でしょう。

 

 

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▲ フェンスで囲われた木造の納骨堂

 

橋下氏は自身のツイッターで「霊園の国有化」と「首相・天皇陛下の参拝」を提案しています。任期中に何もしなかった橋下氏が陛下に進言するのはどこか腑に落ちないような気がしますが、当時は大阪の財政状況が悪く緊縮体制で、2021年11月のABEMA.TV「NewsBar橋下」で「抜かっていて、(墓地の存在を)知らなかった」と手落ちを認める発言をしています。

 

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▲ 将校の墓碑  墓碑の大きさは階級ではなく遺族の財力によるもの

 

私は自宅マンションが近いため初訪問からおそらく20回近く訪れていますが、霊園は本堂やモニュメントのようなものがないため、どこを向いて拝めばいいのか分からず、哀悼の意を儀礼化しにくいように感じます。(大きな将校の墓碑もありますが、はずかしながら不勉強で誰一人としてどなた分かりません…)
靖国神社に参拝したこのがある方はご存じかもしれませんが、参道には立派な大村益次郎の銅像があります。個人的は考えなのですが、医療センターの大村益次郎の石碑をこの霊園に移設してはどうでしょうか。明治期の人物の石碑が1000年以上時代が違う難波宮の交差点に鎮座している場違い感もありますし、共に戦った一兵卒と同じように合祀されることを本人も望んでいるような気がします。ちなみに益次郎は襲撃後に大阪に運ばれ真田山近くの仮病院で絶命しています。現在の位置に石碑があると、大阪医療センターで亡くなったような誤解が生まれるように思います。

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人身事故 全国ワースト1、魔の交差点「法円坂交差点」

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昨年末の本ブログで、大阪市「新今宮駅」の放置自転車が全国ワースト1であるという投稿をしました。大阪市による駐輪場数が不十分であり撤去自転車が他の自治体と比べ桁違いで、その背景をたどると在日朝鮮人による「鉄くず」収集という非常にデリケートな歴史的問題に行き着き、一筋縄にはいかないという内容であるという投稿です。この問題は引き続き本ブログで考察していきたいと思いますが、大阪には改善して欲しい社会問題がまだまだあります。

 

人身事故 全国ワースト1 「法円坂交差点」

日本損害保険協会「全国交通事故多発交差点マップ」によると2020年の交通事故の全国ワーストが大阪の「法円坂交差点」だそうです。協会によると人身事故件は交差点に集中、件数の多い交差点のランキングを公開しています。

 

hoenzaka

 

第1位 法円坂交差点 (大阪府) 22件
第1位 針摺交差点   (福岡県) 22件
第3位 梅新東交差点 (大阪府) 18件
第4位 讃良川交差点 (大阪府) 16件
第4位 西本町交差点 (大阪府) 16件
第6位  谷町9丁目交差点(大阪府) 15件
第6位  樋口町交差点 (大阪府) 15件
:

法円坂交差点の人身事故件数は22件、福岡県の交差点と同数でワーストとなっていますが、上位の大半が大阪府下の交差点となっています。大阪は人や自動車が密集しているため、全体として上位になりやすいのかもしれませんが、それ以外にも何か理由があるのでしょうか。自転車利用者としても事故に巻き込まれないため、現地がどのようなところなのか調査してきました。

 

houenzaka

大阪市中央区法円坂、交差点は南北に走る「上町筋」と東西に貫く「中央大通」が交差する場所で、大阪城天守の南西側、要するに大阪のド真中に位置しています。法円という名称からもわかる通り、高低差があり坂の頂上付近で、十字だけでなく高架道と合わせて上下にも交差した複雑な構造となっています。大阪は比較的平坦で坂道は少なく、大きな坂「大」の地名もこの上町台地の高低差に由来し、歴史的にも重要な坂となります。

それだけではなく、この交差点は「日本」「天皇」という呼称など自国史の起源となる重要な地なのです。

 

osaka

 

「中央大通」は今から1400年程前の7世紀の史跡「難波宮」の中を貫き敷設されています。難波宮と聞いてピンと来ない方は「大化の改新」が行われた場所と説明すると分かりやすいかもしれません。「大化の改新」は古事記や日本書記などの最古級の歴史書が編成される以前の出来事で、その正確な所在地は長らくミステリーとされてきました。

 

namiwanomiya

 

「我、幻の大極殿を見たり!」

 

1952年、堀江出身の考古学者・山根徳太郎は、それまで正確な所在が分かっていなかった「難波宮」を発見、古代国家史上最大の国政変革は戦後になってからの発掘でその詳細が分かるようになりました。日本人にとって非常に重要な難波宮は割と最近まで地中に埋まったため、道路が先んじて敷設されしまったのです。

このように国史上、重要な古都「難波宮」ですが、「平城京」や「平安京」などと比べ、イマイチ知名度が低い感じが否めません。そこで、大阪市と大阪府は難波宮遷都2050年に向けて国指定の史跡を再整備し、NTT都市開発を中心としたグループを指定し、レストランやカフェなどを整備し2024年の工事完成を目指し観光地化する計画となっているようです。

 

そうなると、ただでさえ全国ワーストの危険交差点がより、事故が増加しないのかという懸念が残ります。

この交差点での事故を分析すると、自転車は歩道橋を押して走行する構造になっているため、自転車事故は少なく、自動車の動静不注視による追突事故が多いようです。協会は十分な車間距離を取るようにドライバーに呼び掛けていますが、複雑に行き交う走行路や交通標識などに問題はないのかを再検証する必要性があるように感じます。

 

hodoukyou

 

2020年は全体として交通事故死者数が統計開始以来初めて3000人を下回ったそうです。交通事故発生件数もこの20年間減少を続け、30万件を下回る水準になってきています。減少の理由として、自転車レーンの設置や交通安全教育・悪質運転の取り締まりの強化などで自動車・自転車利用者のマナーが向上が主要因で、コロナの影響で外出機会が減りさらに大きく減少しました。

マスコミの印象操作やSNSデマで「危険!自転車交通事故は増えている!」などという内容を目にすることがあります。これは事実はありません。大前提として近年は交通事故は大激減しているというファクトと合わせて考察し、まちづくりしていくことが重要となります。

データは交通事故低減のヒントとなり、毎年取りまとめられて交差点改良の参考資料となります。今後も法円坂交差点の事故がどのようになるか注視していきたいと思います。

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