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三大騒擾事件「吹田事件」をたどる、ひとり反戦サイクリング

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先月の本ブログで、大阪の自転車販売の朝鮮人支配の源流をたどるため、アパッチ族のキム・ジジョンについて投稿しました。今回はキムがアパッチ族になる以前に参加した騒擾事件「吹田事件」を、事件を先導した秘密組織「祖国防衛委員会」リーダーである夫徳秀(ブ・トクス)らの視点で散走していきたいと思います。

日本がサンフランシスコ講和条約で主権を回復した1952年4月から破壊活動防止法が本格的に施行される2ヶ月の間、各地で多くの武装闘争がおこりました。特に皇居前「血のメーデー事件」、愛知県「大須事件」、「吹田事件」の3つは三大騒擾事件とされ、戦後史に刻まれています。

とはいえ、「吹田事件」の詳細は、複雑な事情から教科書やテレビなどでは取り上げられることはなく、初耳の方もいるかと思いますので、歴史的背景と共に説明していきたいと思います。

 

suita

1950年、朝鮮戦争が勃発すると、GHQは日本の占領政策を転換、日本は民主化路線から再び右傾化、米軍の兵站としての役割を果たすようになります。このような状態下で、日本共産党はマルクス主義に基づく革命闘争「51年テーゼ」を協議会にて決議、暴力による革命を公然と掲げ、各地で闘争を繰り返します。

共産党大阪委員会幹部の上田等(うえだ・ひとし)は、朝鮮戦争から勃発から2年となる52年6月24日に、大阪大学豊中キャンパスの北グランドにて反戦デモ集会「伊丹基地粉砕、反戦・独立の夕」を計画します。伊丹基地というのはキャンパスの西側にある大阪空港のことで、米軍はこの空港から朝鮮半島に空路で軍事物資を輸送していました。

osaka university

大学側はデモを黙認、グラウンドのある待兼山には学生や共産党員などおよそ1000人が集まり、労働歌が歌われ、反戦プラカードや北朝鮮国旗が掲げられていたようです。日本の共産主義運動は、日本共産党の1955年の武装放棄決議までは在日朝鮮人が支えていて、1948年には国内の騒擾事件の86%が在日朝鮮人によるものでした。そして、この集会の参加者の3分の2は朝鮮人で、その首謀者が夫徳秀です。

上田はグラウンドでの集会終了後に空港までデモ行進を行う予定でしたが、警備が強固だったため作戦を変更、吹田にある米軍の輸送拠点「吹田操車場」を標的にしました。操車場というのは列車の停車場にことで、大阪人には「ヤード」と英語でいう方が分かりやすいかもしれません。当時は米兵が吹田操車場に駐屯し、鉄道を利用して伊丹に物資を輸送していました。

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デモ隊は二手に分かれ、一隊は西国街道を西へ行進し操車場へ向かい、もう一隊は阪急石橋駅に向かい警備は混乱します。石橋駅では終電がすでに出ていて、上田の実弟の上田理(うえだ・おさむ)が、駅長に臨時電車を出すように強要、梅田行の電車を手配します。大阪大学と伊丹空港のあるこの辺りは、ちょうど豊中・池田・箕面・伊丹の境界で、管轄警察の連携もうまくいきませんでした。

 

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臨時電車に乗った一隊は「人民電車部隊」とされ、学生運動を指導していた理は電車隊の指揮します。集会において重要な人物である上田兄弟ですが、両者はデモ参加を互いに当日グラウンドで会うまで知らず、出会ってびっくりしたそうです。ちなみに上田兄弟の祖母は私立学校金蘭会学園の創設者のひとりで、教育者一家に育ち、哲学者の西田幾多郎とも縁者関係だそうです。

警察は梅田にて電車を待ち構えますが、理の指揮する部隊は服部駅で下車し操車場に向かいます。

 

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一方、西国街道からデモ行進する部隊は「山越部隊」とされ、首魁は三帰省吾(みき・しょうご)という日本人が務め、夫徳秀も朝鮮人を従え三帰と共に操車場に向かいます。夫徳秀は在日2世で東淀川で「鉄くず」収集で生計を立てる一方で、アパッチ族のキム・ジジョンらと祖国防衛委員会の機関誌「マルセ」を発行し、当時36歳という若さながら総連の地区委員長でした。朝鮮人たちは51年秋に共産党メンバーと生駒山地の山寺にて「大阪古物商総会」という名目で集まり、工作がバレないよう朝鮮語にて計画をしたようです。

 

夜を徹したデモ行進は吹田に向かう道中、西国街道(国道171号)沿いの豊川村小野原(現在の箕面市小野原)にて「右翼のドン」笹川良一宅を襲撃、笹川は事前に避難をしていて難を逃れました。

私の実家はこの小野原にあり、高校生時代に、ケンタッキー・フライド・チキン好きの「聖地」とされているカーネルバフェ(食べ放題)が実施されている小野原店でアルバイトをしていたので、昼食に食いまくってやろうと目論んでいたのですが、衝撃的なことに食べ放題が終了して、店も休業(改装中?)していました。

大阪市内では最近韓国チキン店が急増していますが、私はどうもあまり好きになれません。米朝の対立も、チキンのおいしさで競い合ってくれっれば良かったのですが、吹田操車場にて両陣営は対峙することとなります。

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夫徳秀やキム・ジジョンの属した「祖国防衛委員会」は、秘密組織ゆえにその実態や内幕は長く秘匿されていました。毎日放送の西村秀樹記者は、夫徳秀が「鉄くず」収集を辞め十三で焼鳥店をしていることを突き止め、20年通い顔なじみとなり、体験談を聞き出し「大阪で闘った朝鮮戦争」(2004,岩波書店)、「朝鮮戦争に参戦した日本」(2019,三一書房)という2冊の書籍にまとめています。

西村記者が仲間と研究会を立ち上げる以前は事件の関係者は口をつぐみ、相談をした関西大学教授からも「ゲスの勘ぐり」と困り顔をされたとしています。十三の焼鳥店は韓国チキン店ではなく「一平」という店名の赤ちょうちんの炭焼き焼鳥店のようなのですが、残念ながら探してもみつかりませんでした。

 

「軍需列車を10分止めれば同胞の命が1000人救われると言われ、必至の思いでした」

 

同書籍によるとデモ隊は「須佐之男命神社」(スサノオノミコト)に火炎瓶や竹やりで武装し集結、対峙する警備隊の警備線を越え毅然と操車場に進みました。書籍には夫徳秀の他に多くの関係者が事件を振り返っていますが、立場の違う者同士でそれぞれ考え方が違い、誰の目線で語るかによって事件の見え方が変わります。

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デモ隊は操車場内を行進後に投石など攻撃を行いましたが、朝になると解散、多くの通勤客がいる中で警備と揉み合いになり多くの逮捕者を出しました。

 

現在、吹田市は府下屈指の「住みやすいまち」として知られています。大阪大学(吹田キャンパス)や金蘭会学園の金蘭千里大、関西大などの有名大学が所在、Jリーグ「ガンバ大阪」も吹田をホームスタジアムとして使用し、1970年の万博も吹田市と茨木市の境界にて開催されるなどQOLの高いまちとなっています。

上田・兄は晩年に心筋梗塞で倒れ「国立循環器病センター」にて緊急手術で一命をとりとめます。国内屈指の先進医療を誇る同センターは、2019年に上田たちが闘争を行ったJR岸辺駅前へ移設、駅前エリアは「健都」として再整備されています。

 

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事件から70年経ちましたが朝鮮半島はいまだに統一されることなく、ロシアと西側陣営の対立も長期化しようとしています。ウクライナ情勢に関しては、平和主義を標榜する日本はできることは限られていますが、戦争終了後、樺太・千島列島・オホーツク・カムチャッカ・シベリアなど地域の平和的独立支援、ロシアが実効支配している北方領土の返還と平和協定締結、ウクライナ復興支援など果たせる役割は大きいと言えると思います。

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ママチャリ大国ニッポン  ~世紀の大発明はいかに生まれ、普及したのか~

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前回の投稿では大阪の自転車企業「サンスター自転車」の興亡を通して、戦後の日本の自転車文化を紹介させていただきました。

わが国の自転車利用者の男女比は51:49とほぼ半々で、他国と比べ女性の利用割合が最も高い国だそうです。その理由のひとつに、高度経済成長期より主婦が子育てのために自転車を利用しているという点があります。前回のブログで、1950年代の自転車の主用途が「運搬」であったと投稿しましたが、「ママチャリ」の登場により、その構図に変化が現れます。

 

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サンスターの女性用自転車「婦人サンスター号」

 

今からちょうど60年前の1962年、ロンドンのアールズコートで開催された展示会に画期的な自転車が出品されます。前年9月に英誌「エンジニアリング」にて発表されたこの「MOULTON」(モールトン)という小さな車輪の自転車は、構造的にも注目され欧州各地で続々とコンパクトな類型車がつくられるようになります。

 

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▲ 「MOLTON」が紹介された記事   [ニューサイクリング誌より  1963年4月発行]

 

日本国内では、1955年にすでに片倉工業が16インチのオリタタミ自転車「ポーターシルク」を製造していましたが、モールトンの登場は日本にもすぐさま伝えられ、64年には変速機メーカーの前田工業の河合淳三が英国から持ち帰ります。河合は16インチ車輪のモールトンを研究、日本の道路事情に合わせ20インチの自転車を設計し、これを「婦人」をターゲットに普及に努めます。戦後間もない時期は「不妊になる」となど言われ自転車に乗る女性は全体の10%以下、女性専用車はあるにはありましたが使用は女医や女学生の一部などに限られていました。このタイプの婦人向け自転車をなんとか普及させようと、日本サイクリング協会委員の鳥山新一が「ミニサイクル」と命名、各社は開発を進めていきました。

 

 

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▲ 片倉工業「ポーターシルク」(関西サイクルスポーツセンター所蔵)

 

現在の日本では車輪径が小さい自転車は、全く珍しいものではありませんが、海外ではほとんど利用されていません。欧州の一部で、自転車にこだわっている人が、折り畳み式高級車を乗っていることはありますが、日本の様に価格の安いスモールホイールの自転車は販売すらされていませんし、「ミニベロ」という言葉も外国人には通じません。「ミニサイクル」や「ミニベロ」を日常的に誰もが利用するという文化は、実は日本自出の独特の文化で「ママチャリ」というのも土俗的なものではなく、マーケティングによって創造されたカテゴリーなのです。1968年のサイクルショーにて、販売促進のため当時の自民党幹事長福田赳夫にまだなじみの薄い「ミニサイクル」を見てもらうと、福田は「おい、私に子供用を乗せようというのかね」と困惑したというエピソードがあったそうです。

 

同じ頃、大阪市内では千林商店街のドラッグストア「主婦の店 ダイエー」や衣料品店「赤のれん」、天神橋筋商店街の下着店「ハトヤ」、西成の衣料品店「イズミヤ」などの有力商店が、セルフ販売による米国式の新しい小売店のスタイルの研究組織「ペガサスクラブ」を結成、このクラブには四日市の呉服店「岡田屋」や東京の「ヨーカ堂」なども参加し、スーパーマーケットへと進化します。大阪万博が決定すると千里や泉北にニュータウンが建設され、経済成長を支える人口が都市部に集中し始め、生活様式が大きく変化し、それまで「家内」とよばれて文字通り家の中の家事仕事をしていた主婦がスーパーのチラシをチェックして特売品を自転車で買いまわる「ママ」となります。ママ用の自転車「ママチャリ」はオイルショックも手伝い、自転車保有台数も急増、1955年から70年の15年間で2倍以上、生産台数も4倍と増産に次ぐ増産となります。

 

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▲ナショナル自転車のミニサイクルの販促物

 

販売方式もこれまでの自転車店だけでなく、スーパーマーケットやディスカウントストアでも販売されるようになり、客寄せ用の目玉商品として仕入れ原価以下で廉売されるようになり、自転車業界内では「ママチャリ害悪論」まで浮上し、安売り店と対立するようになります。なかでも、ナショナル自転車工業の松下幸之助とダイエーの中内功は裁判沙汰になり「流通戦争」といわれるほど激しく対立ます。販売店との共存共栄を標榜し「天与の尊い道」といった精神論的な経営をする松下、研究による研究で科学的かつ合理的な方式で急拡大を目指す中内、互いの考えは水と油で、ママチャリメーカーは系列店重視の「工業型」と廉売志向の「商業型」と区別されるようになります。

 

1985年プラザ合意以後の急激な円高と89年自転車輸入関税撤廃により、海外から輸入される安い自転車が急増、平成不況も相まって「工業型」メーカーや部品メーカーは大打撃を受け事業縮小や倒産が相次ぎ、日本の自転車産業は空洞化、「商業型」メーカーも中国依存を強めます。2000年代に入ると自転車の低価格化は一層進み、平均価格は10500円、局所的には7000円台で廉売されるようになり、「コーナン商事」に代表されるホームセンターや「サイクルベースあさひ」など小売業が主導権を握るようになります。

 

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▲ ショッピングセンターで販売される自転車

 

2008年の広辞苑(第6版)で「ママチャリ」という言葉を調べると「婦人用の自転車」と掲載されています。
それが、2018年の最新版(第7版)では「俗に生活用自転車のこと」と「女性用」という説明がなくなっています。この10年で、ママチャリは男女問わず使用される乗り物へと変質した証左だといえます。長身の男性も使用するため車輪径もミニではなくなり26または27インチが主力となり、 海外とは全く異なる独自の自転車文化となっているのです。ママチャリはその存在があまりに身近であるため、評価されることはほとんどありませんが、日本の生活に与えた影響は非常に大きいといえます。

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オーラルケアの「サンスター」祖業を調べたら〇〇〇メーカーだった 

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前回の投稿で、自転車だけ60年前と現在の物価水準がほぼ同じというデータを紹介しました。うどんやたこ焼き、ランドセルや散髪などは、およそ10倍の価格になっているのに一体どういうことなのか・・・

金属の価格が暴騰していた時期というのもその理由のひとつなのですが、1950年代と現在では自転車が果たす役割が大きく変化しているというのもその要因です。現在、自転車は移動や育児またはスポーツなど多様な使われ方をしますが、戦後間もない時期の主用途は「運搬」でした。

佐野裕二著「自転車の文化史」(1985,文一総合出版)によれば、「人だけが乗る自転車」への転換が意識され出したのは、1954年になってからとされています。それ以前は、業務目的の運搬車「実用車」が主役でした。

当時の大阪では金田邦夫が起こした「サンスター」というブランドの実用車が人気を博していたようです。

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戦時中は軍需からほぼ途絶していた自転車の生産も、終戦直後から三菱重工や片倉工業など多くの企業が参入します。戦前に自転車部品の輸入業を行っていた金田はパンク修理用のゴムのり容器に歯磨き粉を入れ販売すると評判となります。

 

「二兎追ふものは一兎も得ずと云ふ言葉が御座居ます、ハミガキと自転車を同等の力で追つて居れば何れは双方とも失つてしまふでせふ」

 

1951年、金田は大阪星輪社の中矢徳一と髙橋商店の髙橋勇らをアドバイザーにむかえ、新会社「サンスター自転車株式会社」 を創立、生野区中川町に工場を新設します。社名には、太陽の昼も星の夜もたゆまぬ精進を続けるという意味が込められています。当時の自転車業界では、サンツアー、サンシン、サンヨー、サンビー、サンライト、サンエス、サンキなど「サン〇〇」という商標が流行していて、関連企業の星光社の「星」とかけて「サンスター」と命名されます。

 

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▲ 大阪星輪社の新聞広告 取り扱いメーカーにサンスターの自転車が紹介されている

 

自転車の部品を製造する小さな工場が集中する関西は、自転車製造を一手に担う「一貫工場」より「アッセンブル工場」が優勢で、ギアクランクの製造に強み持つサンスターも、リムのアラヤ工業やペダルの極東、星スポークなど30以上のメーカーと1200軒以上の特約店の協力により、大阪のみならず北海道から九州に及ぶ販売網をつくります。注文は電報で受付け、自転車輸送は自社のトラックを使用したようです。

私は数年程前から同社の社友・髙橋勇の経営していた自転車店について調べていて、没後に散逸してしまった氏のプライベートライブラリーの書籍を再収集しています。そんなこともあって、サンスター自転車の関連資料が数点ばかり手元にあり、自転車メーカーとしての同社の興亡を推察することができます。

 

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サンスター自転車の主力商品 実用車「キング号」

 

自転車のラインナップとしては主力車種「キング号」や社名にもなっている「サンスター号」など実用車となっています。写真は同社のカタログ作成に使用したもので、髙橋が保管していたもので、横から撮影されたものが4種類あります。自転車の写真以外には販売促進用に撮影されたものが数点あり、そのうちの1枚には女性4人と自転車が写っていて、裏面には当時の女性の名と日付が記されています。よくわからないので、ネットで調べると宝塚のスターのようです。

昭和28.4.5

川路 立美
筑紫 まり
八十島 晴美
八代 洋子

 

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髙橋商店は特約店としても別格で、月報「サンスターマンスリー」十号(1952.6)では、同店のディスプレイが見開きで紹介されています。路面電車によるホコリのためセットバックしている建物部分のファサードに、新たに三面ガラス張りの突き出た陳列を増設する事例の報告です。

 

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▲ 自転車店にて展示されるサンスターの自転車   大阪市上町「髙橋サイクル」

 

運搬用として活躍していた実用車も、原動機付きのモペット(ペダル付オートバイ)の登場により、下火となります。サンスター自転車は「REX」というモペットを製造、バイクには詳しくないのでこちらも詳細はよくわかりませんが、写真を見る限り3種類製造していたようです。サンスターのホームページなどインターネットで調べても、このバイクの情報は得ることができないため、本当に詳細不明の謎の写真です。バイクに詳しい方がいましたら教えて下さい。

 

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▲ サンスター自転車 原動機付のモペット「REX」

 

当ブログでは主に基礎自治体の財政政策論として競輪場施設について投稿してきました。サンスター自転車も始まったばかりの競輪に競争車を提供、各地で活躍する選手の状況を「サンスタークラブ便り」を通じて競走結果を報告してました。

自転車業界は新たな顧客層獲得のため「人だけが乗る自転車」の普及活動が始まり、スポーツ車や軽快車を使用した「サイクリング」という発想が提唱されます。日本語でいう「サイクリング」は「ハイキング」の自転車版のような独特の意味を持っています。英語ではオリンピックの競技も「CYCLING」で、少し日本語とはずれがあります。これはこの頃の普及活動の名残といえます。

sunstar cycling

現在、欧米の自転車文化の主役がスポーツ自転車であるのに対し、我が国のスポーツタイプの普及率は自転車全体の15%ほどと低い水準となってます。1950年代の「サイクリング」ブームは長続きせず、業界の期待は空振りとなり、サンスター自転車も生き残りを賭けてギアクランク製造に注力し、完成車製造から身を引くこととなります。

これらの残された資料を読み返すと、金田や髙橋など当時の人たちは非常に勉強熱心で一生懸命であることが分かります。集会や研究会で知恵や意見を出し合い創意工夫や試行錯誤の連続で、それでも思うようにいかない様子は、まるでドラマを見ているような気分になります。私は彼らの半生をNHKの朝ドラにするといいのではないかと思います。アニメやゲームに興じて、なるべく効率的に金を儲けることばかり考え、「社会が悪い、政治が悪い、助成金よこせ」と言っている落ちぶれた令和の日本人が、まさに規範にすべき生きざまだと思うからです。

うたかたと消えたサイクリングブーム、突破口が見いだせず斜陽産業とまで言われた日本の自転車生産ですが、研究の末に以後100年以上売れ続けるであろう空前絶後のヒットアイテムを生み出します。それは大阪人の手によってつくり出されました。

世紀の大発明「ママチャリ」の登場です。
(次回に続く)

 

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在日朝鮮文学の金字塔「夜を賭けて」大阪砲兵工廠~アパッチ集落 散走

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1月、本ブログで、大阪の自転車販売の在日朝鮮人支配ついて投稿しました。「鉄くず」収集などの静脈産業を生業としていた在日朝鮮人が、中古自転車販売のローカルチェーン店を展開し勢力を伸ばしているという現状に問題点があるという内容の投稿です。

詳しくは、その投稿を読んでいただきたいのですが、「そもそもなぜ在日朝鮮人が鉄くず収集を支配的に行っているのだろうか」と疑問を持っていると、その歴史的な経緯を紐解くような小説を見つけたので、その舞台をポタリングしてきました。

 

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梁石日「夜を賭けて」

1994年に発売された小説で、2002年には山本太郎主演で映画にもなった作品です。梁は朝鮮・済州島出身の在日の小説家で、実父をモデルとした代表作「血と骨」も崔洋一監督、ビートたけし主演で映画化され、高い評価をえています。

梁の出世作となった「夜を賭けて」は、終戦間もない頃の大阪の在日朝鮮人による怪盗団「アパッチ族」を描いた作品です。

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大阪城公園の北東側の端に明治期に建てられた古びた廃墟が残されています。このレンガ造りの建物は大日本帝国軍の兵器工廠で、太平洋戦争の終戦まで陸軍の兵器を製造していました。

かつては、天守閣周辺の森ノ宮から大阪ビジネスパーク辺りまで一帯が巨大な軍事施設で、極東最大の設備や技術力を誇り、シマノの創業者島野庄三郎や日本自転車産業の父・宮田栄助もこの施設で従事しました。

 

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明日 十四日 大阪を くうしゆうします
このばくげきがさいごで あります 一九四五年 U.S.A.

大阪上空より爆撃予告が投下され、終戦前日の8月14日に大阪はB29による空襲で焦土となり、工廠も大きな被害を受けました。工廠跡は近畿財務局の管理下に置かれますが、不発弾の残る一帯は立ち入りが禁止され、長らく放置されていました。

 

物語は、在日朝鮮人の「ババア」が誰も立ち入らない工廠跡で拾った「鉄くず」が5万円で買取された噂が広がるシーンから始まります。

1923年、関東大震災が発生。朝鮮人は「火事場泥棒をした」「井戸に毒を入れた」と差別され、大阪は以後現在に至るまで日本最大の在日朝鮮人の居住区となります。なかでも大阪市の東部を南北に流れる平野川周辺に肩を寄せ合うように住み着きました。「ババア」の住む集落は平野川の北端にあたり、地区には現在も朝鮮籍の住居が点在しています。

 

大阪城公園内には「ピースおおさか」という戦争資料の調査研究や展示を行っている施設があり、当時の様子を調べることができます。1960年当時の大阪の物価の展示を見ると、中華そば1杯55円、たこ焼き12個30円、サイダー35円、お好み焼き80円、散髪200円、ランドセル3000円、そして自転車は1万8000円だったあります。
今と比べると10分の1ほどの物価水準で、自転車の価格だけ現在とかわらず、鉄が高価であり、ババアの手にした金額が大金であることがわかります。

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小説ではババアの噂は一夜で集落中に広がり、朝鮮人窃盗団が警察の目を盗み夜な夜な工廠内に侵入し、盗みを働く様子が、さながらアニメ「ルパン三世」のような活劇として描かれています。この朝鮮人窃盗団は実在し、梁は映画公開時にキム・ジジョンという人物が小説のモデルであったことを明かしています。

金時鐘(キム・ジジョン)、1929年朝鮮半島生まれ。

49年に日本に密航し、翌年に共産党に入党したキムは52年に「吹田事件」に関与します。「吹田事件」とは朝鮮戦争に反対する左翼運動の暴力事件で「血のメーデー事件」「大須事件」と合わせて「三大騒擾事件」とされている事件です。キムは「山越部隊」の一員として「笹川良一宅襲撃」や「吹田操車場襲撃(吹操襲撃)」に関わったとされている要注意人物でした。しかし、重要な襲撃当日にキムはあろうことか緊張のあまり脱糞、後にこの時の自らの様子を脱北者ならぬ「脱糞者」と称した詩を発表しています。

 

ズボンの/内側を/はぎとり/むれる/悪臭の/修羅場を/城ごと/あけ渡したのだ。
悲哀とは/山に包まれた/脱糞者の/心である。 (金時鐘「わが生と詩」から詩の一部を抜粋)

 

この事件は警察の不手際が重なり、裁判で弾圧の不当性を訴え司法は紛糾(吹田黙祷事件)、有罪となる証拠がそろわず騒擾罪が適用されませんでした。そして、その後にキムは怪盗「アパッチ族」となります。

 

korean town

在日集落といえば、生野「御幸通り商店街」や鶴橋のように、韓流グッズ店やおいしい焼肉やチキン店がたくさんあるのかと想像していましたが、実際に行ってみると、この「アパッチ集落」は西成の崖下のような老朽化した木造住宅が密集していて、残念ながら観光を楽しむようなところではありませんでした。

再開発され大型の福祉センターなどに建て替えられている箇所もありましたが、廃墟のような状態のバラックや入り組んだ路地に洗濯物が干されていて、どことなく一帯に異臭がただよっているような感じがしました。

耐えかねて平野川沿いにでると、川一面が見たことないほどの夥しい数のボラの死骸で覆いつくされていて、行き場を失った水鳥がゆっくり流れる悪臭の元を眺めていました。

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(「吹田事件」に続く)

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楽しい自転車が40種類大集合!万博記念公園「おもしろ自転車広場」

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一般財団法人 自転車センターが運営している万博公園の「おもしろ自転車広場」に行ってきました。

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万博公園は大阪府北部の吹田市にあり、1970年に開催された「大阪万博」の跡地で、現在は有料の自然公園となっています。公園のシンボル「太陽の塔」が耐震工事が行われ、2018年から内部が有料公開となり、初めて見学したのですが、本当に腰が抜けてヘナヘナになってしまうほど物凄い迫力で衝撃的でした。

コロナの影響で完全予約制となっていますが、まだ、見ていない方は必見です。

taro okamoto

2025年には夢洲で「関西万博」がありますが、1970年の「大阪万博」は来場者数6400万人を集め、まさに日本の黄金期を象徴する大イベントなりました。「人類の進歩と調和」をテーマに大規模整備が行われ、競輪からも20億円が捻出し「動く歩道」が設置され話題になった他、三洋から10台の「電気自転車」が提供され来場者を驚かせました。

sanyo expo

万博公園は大きな公園ですが「おもしろ自転車広場」は、太陽の塔から見下ろすと左側にあり、街では乗ることができないユニークな自転車に乗ることができます。

hobby cycle

この施設は「一般財団法人 自転車センター」が運営していて、入場料は30分500円、40種類100台以上の自転車を自由に乗ることができます。「自転車センター」いってもあまり馴染みがありませんが、「関西サイクルスポーツセンター」のことです。

expo cycle

さすがに「関西サイクルスポーツセンター」ほどの広大な敷地ではなく、大半が幼児向けとなっています。そのために自転車があまりスピードが出ない設定となっていて、30分間真剣に漕ぐと普通の自転車よりヘトヘトとなり、あっという間に時間が過ぎます。

banpaku cycling

また、このコーナーの北側の「夢の池」では白鳥型の「サイクルボート」もあり、池の水面をのんびり走ることができます。施設は悪天候の際は休止となり、この日も突然の強風でボートに乗ることができませんでした。

swan cycle

そして、この池の東側では例年西日本最大のスポーツサイクルフェスティバル「サイクルモードRIDE」が開催されます。2022年は3月5日(土)、6日(日) の2日間の予定で、400台以上のスポーツ自転車が登場、試乗することができます。

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1月に本ブログで、夢洲の万博跡地に競輪場を建設すべきであるという投稿をしました。カジノと親和性があり、スピルオーバー効果が期待でき、困窮する市の財政の安定させることができます。万博のような大きな事業には、公営競技の収益が欠かすことができません。しかし、その貢献度に比べ、その有益性を正しく評価する人は少ないように思います。特に競輪は地方色が強く、自治体がどのように運営していくかという課題を各々もっと考える必要性があると思います。

 

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