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戦後復興、四天王寺夕陽丘「復興大博覧会」成功の秘策

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資材価格や人件費の高騰により2025年夢洲「大阪・関西万博」の開催が危うくなってきています。
なにわ商人の私としては、時期を遅らせてでもなんとか開催にこぎつけて欲しいのですが、どうも「いのち輝く未来社会」をテーマが1970年に千里で開催された大阪万博を引きずり、どこかワクワク感がないように思います。

 

banpaku

 

1970年というのはちょうどベトナム戦争の最中で、暴力革命によるマルクス主義が台頭、国内においてもエスタブリッシュメントやアカデミズムの中枢に共産主義ユートピア思想が入り込み、万博の計画委員にも西山夘三や丹下健三といったマルキストの建築家が名を連ねていした。開催中には、過激派が太陽の塔を占拠した「アイジャック事件」が発生するハプニングもあり、万博のテーマ「人類の調和」をいかに実現するかといった重要なテーマが課せられてました。

丹下は17才まではマルクス主義に陶酔していましたが、広島大学在学中に建築家のル・コルビジェの書籍に出会い転向、東京帝国大にて建築を学びます。コルビジェは著名な建築家で1925年パリ万博にて前衛的なパビリオンを出展、「300万人の計画都市」は丹下を大いに刺激しました。太陽の塔は「お祭り広場」というオープンスペースにそびえ立っていますが、70年以前の日本には中央広場という概念自体が希薄で、コルビジェの「公園の中のタワー」(Tower in Park)といった思想を反映、そして、マルクス主義ではなく土木や移動技術の進歩こそがユートピアを創造するといったコルビジェが描く未来を見事に投影し来場者を魅了しました。

 

 

戦後復興をテーマにした「復興大博覧会」

 

あまり知られていませんが、戦後間もない1948年にも、戦後復興をテーマにした「復興大博覧会」が大阪市の四天王寺北側の夕陽丘一帯で開催されました。米軍占領下、東京では戦勝国の事後法による一方的な戦後処理「極東国際裁判」がクライマックスを迎える最中、復興博は毎日新聞が主催し160万人の来場者を集め、跡地は建物を府が買収しそのまま活用し市立文化会館や郵便局などに転用されました。

 


四天王寺夕陽丘で開催された「復興大博覧会」 跡地はそのまま市街地となった

 

 

会場は約20のパビリオンが出展され、主なところでは京都館・兵庫館・外国館・西日本館といった地域振興の出展や衛生館・貿易館・理想住宅・復興館といった生活に根差した施設、そして、電器館・科学館・機械館・自動車館・日立館といった産業技術の紹介といったテーマ展示でした。

テーマ展示以外にも遊園地やサーカス、相撲や野球選手のサイン会、コンサートなどのイベントも開催され復興気分を盛り上げました。

 

 

なかでもひときわ人気だった自転車館は入り口付近に156坪の敷地に、自転車工業会と関西を中心とした70以上の自転車企業が出品しました。工業会は以下の11についての展示を実施、完成車は宮田製作所・新家工業(つばめ)・日米商会(富士)・サンスター・島野自転車をはじめ、三菱重工・片倉工業などの軍事産業からの「転換メーカー」も出品されました。部品メーカーのシマノも、生活物資の供給が乏しい戦後の6年間だけは「3・3・3号」という完成車を販売していました。

 

<復興博 自転車工業会の出品>
①自転車の歴史

②自転車関連資材
③自転車部品
④自転車保有台数
⑤自転車生産台数
⑥自転車工業現有勢力
⑦自転車の規格
⑧仕向地別輸出実績
⑨外国製自転車
⑩自転車スピード記録
⑪競輪関連(大阪府出品)

 

 


関西中心の自転車企業が出品した復興大博覧会「自転車館」

 

博覧会の開催期間は9月18日から11月17日の61日間、11月13日は「自転車デー」とされ盛り上がりを見せ、銀輪シャンソン発表会やダンサーをモデルにした自転車撮影コンクールといったイベントで会場は押すな押すなの大賑わいだったそうです。

 

復興博は十三日「自転車デー」というので八時前には会場正面廣場は身動きもならぬ人の波、四十分開門を早め八時二十分に開場<中略>自転車に乗れぬ娘さんも現れ大賑わいだつた。 (毎日新聞1948年10月14日)

 

 


抽選会やイベントで盛り上がった「自転車デー」 毎日新聞 1948年10月14日

 

復興博を主催する毎日新聞社は前年の1947年と2年間、東京ー大阪間の自転車レース「ツーリスト・トロフィ選手権」を自転車連盟と共催していました。13日は会場では3日間に渡ったレースの表彰が選手全員参加で行われレースの幕を閉じました。この大会は軍事産業から平和産業へと転換した新参メーカーと既存の自転車業界がプライドを掛けて戦ったレースで次回の投稿で詳しく説明させていただきます。

 

 


▲博覧会跡地に建つ天王寺郵便局  

 

 

万博の跡地利用と共進化

復興博の覧会会場をそのまま市街地とする構想は当時は「画期的」とされ、戦争未亡人の母子関連施設や郵便局、学校などが設置され、一帯は大阪屈指の高級住宅地となり文化的で、現在では住みたい街の上位にランキングされています。1970年大阪万博の敷地は公園と商業施設「ららぽーとEXPOCITY」となり、こちらも賑わいを見せています。

 

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大阪万博跡地「関西サイクルスポーツセンター」のおもしろ自転車コーナー

 

2025年開催予定の夢洲にはカジノを中核としたIR施設ができるとしていますが、そもそも万博が無事開催できるのでしょうか。

私は、昨夏の「安倍晋三銃撃事件」がひとつのターニングポイントだったと考えています。リオデジャネイロ五輪の閉会式で見せたスーパーマリオのコスプレパフォーマンスは世界にインパクトを与えました。かつてはまじめで勤勉だった日本人像は崩れ、いつしかマンガ・アニメ・ゲーム・アイドルに没頭し堕落、低い労働生産性・低賃金ひいては低成長国家に成り下がりました。しかし、外国人は意外なほどに日本のポップカルチャを受け入れ、今では重要なコンテンツとなっています。

 

 

 

 

原発爆発、ロケット打ち上げ失敗、国産コロナワクチン開発断念、GDP順位下降、インフレ貧困進行中、、、
「いのち輝く未来社会」とは程遠い現状を救い、未来を創造できるのは、ガンダム、ポケモン、ドラゴンボール、トランスフォーマー、ゴジラ、宮崎駿、アニソン、、、といった海外にはない日本の文化のように思います。今からでは遅いのかもしれませんが、中止するくらいならこれらポップカルチャーを中心に据えたエンタメ色強い万博に再計画できないものでしょうか。

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天王寺動物園「戦時中の動物園展」チンパンジーのプロパガンダ

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日本国内の自転車産業の中心は大阪です。それは敗戦直後から現在に至るまでそうなんですが、戦後自転車産業史を見てみると、東京は東京で全く別の盛り上がり方をすることがあります。

ようやくスポーツ自転車というものが一般普及を見せ始めた1965(昭和40)年、東京を中心としたハンドメイドスポーツ自転車専門の7社が「東京セブンメンバーズ」という団体を結成し、各自のブランドの責任において、1丸となりサイクリング自転車の普及に乗り出します。

 

エバレスト:土屋製作所
ホルクス:横尾双輪館
ゼファー:東京サイクリングセンター
ダザイ:パターソンズハウス
トーエイ:東叡社
アルプス:アルプス自転車工業
サンノー:山王スポーツ

 

 

関西では部品メーカーの団体JASCAグループが結成され、交流が盛んになり、ひたひたと勢力を拡大する体制が整い始め、対する東京セブンメンバーズは新しい自転車のアイデアを一般公募するなど奇策を展開、その後のサイクリング車黄金期のきっかけを作りました。

そのうちの1社、パターソンズハウスを手掛ける太宰茂秀氏は1927年生まれ、59年に自転車部品の輸入を開始、自転車文化センター資料収集委員や日本サイクリング協会委員やメーカーの顧問などを兼任し、自転車店も運営していました。獣医の家庭に育ち博識で、著書に「自転車の整備と組み立て」(八重洲出版)・「自転車専科」(山海堂)があり、専門誌でも精力的に執筆してました。

 

「サルの自転車を作成して欲しい、東京都からの依頼だ」

 

ある日、太宰氏は父親から奇妙な依頼を受けます。
動物愛護団体から大目玉を食らうと一度は固辞したものの、「どこに行っても断られる」という動物園からの再三にわたる依頼に断り切れず、太宰氏は上野にサルの採寸に出向きます。

 

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サル用自転車「Velo WING」 自転車文化センター所蔵 (2020年1月撮影)

 

「大変も大変、頭が変になりそう」

 

苦労の末、太宰氏はサイドカー付きのサル用の特注自転車を2台作成。
ペダルは丸い形、幼児用自転車や乳母車の部品を使い、ギアはサイクルポロ用の20Tの固定ギアを使用。そして、サルが自転車の練習をする姿がニューサイクリング誌(1967.1月号)の表紙を飾ると大きな反響がありました。

 

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太宰氏作成の自転車を乗るチンパンジーの表紙 「ニューサイクリング」1967年1月号

 

 

しかし、サル用自転車というのはこの上野の2台以前より前になかった訳ではないようなのです。実際、太宰氏も同誌にて「数年前に丸都で作ったサル用自転車に乗らせて寸法を取る事にした」としています。

一体いつ頃からサル用自転車というものがあるのかはよく分かりませんが、大阪の天王寺動物園では戦時中にチンパンジーの猿回しをプロパガンダとして利用、そして自転車にのる曲芸を披露していたようです。

 

tennouji zoo

 

天王寺動物園は1915年、日本で3番目の動物園として開園。チンパンジーは規模を拡大した32年から飼育され、自転車に乗るほかに、馬やゴーカートも乗りこなしたそうです。現在、同園では動物に芸を仕込むことは一切しておらず、自然環境に近い状態で飼育されています。霊長目も多く飼育されていてチンパンジーの他にも、国内で唯一、ドリルという強面の大型サルを飼育しています。芸ではないのですが、このドリルは「バイバイ」と言いながら手を振ると振り返してくれます。

 

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ただ、近年では入場者の減少などで運営の維持が困難となり、経費の掛かるゾウやコアラなどの姿が園から消し、動物のいないオリが目立つ寂しい状況に陥っていました。再生に向けて、ビジネスパートナーの公募や一般へ寄付を募ったり対策をしてきましたが、21年4月運営が大阪市から独立行政法人へと移管されました。

 

再生計画の一環として園の中心に新しい施設「TENNOJI ZOO MUSEUM」が完成。7月27日から8月29日の期間「戦時中の動物園 ~Our Wars,Not Theirs.~」と題して企画展が開催され、第二次世界大戦中の同園で殺処分された動物のはく製や当時の写真などが展示されています。

 

戦争に加担しなければ殺される ⁻
国家総動員の状況下、笑顔のない観衆を前にサルはまさに決死の覚悟でペダルを踏んで戦意を高めました。ブログの公開が遅れ、特別展はすでに終了してしまっていますが、新施設には、はく製や骨格標本が美しくディスプレイされている小さな博物館になっていて、自由に読める動物関連の書籍やきれなトイレもあり、新体制の革新的な姿勢を感じました。

 

monkey cyclist

 

天王寺は、梅田・難波に次ぐ大阪市でも屈指のターミナルで、近年ではあべのハルカスやキューズモールなど再開発され「住みたい街」ランキング上位になるなど賑わいがみられます。天王寺動物園はハルカスから天王寺公園内「てんしば」を通りすぐの好立地にあります。普通、動物園というところは多くの見物客を集める施設であると思うのですが、天王寺動物園はむしろ周囲に比べてひと気がなくなり、昭和のすたれた場末感が漂います。

園の西側は、通天閣がある新世界地区でコロナ前は多くの観光客で賑わい活気があり、間に位置している動物園が、新世界とハルカス周辺とのコミュニティを断絶するような存在になってしまっているのです。

 

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老衰のため死亡した天王寺動物園のアジアゾウ (2014年撮影)

 

現在「てんしば」があるゾーンも数年前まで動物園と同様に有料だったのですが、全面リニューアルを機におしゃれなカフェやレストランが出店する誰もが楽しめる芝生公園に生まれ変わりました。動物園内に新設された「TENNOJI ZOO MUSEUM」は「てんしば」のような雰囲気があり、運営交代の期待感が高まりました。

 

厳しい財政事情があるなら、ほとんどの大都市が実施している公営競技を大阪市はなぜ主催しないのでしょうか。当ブログでは繰り返しになりますが、本当に理解に苦しみます。働きもせずに「金がない」といっているようなものです。

 

– –

 

2021年10月、いよいよ千葉市「千葉JPFドーム」にて、250mの新しい競輪が始動します。この新しいドーム型の競輪場がある千葉公園は、中央図書館などが所在する市の中心部にあり、天王寺公園に似ています。

 

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2021年10月完成予定の「千葉JPFドーム」完成予想図 (千葉市ホームページより)

 

前回の投稿で書いた通り、17年に自転車活用推進法が施行され、地方公共団体は「自転車競技のための施設の整備」を推し進めていかなければなりません。動物のいないオリを設置しているスペースがあるのなら、千葉市の様に競輪場を誘致し、その収益金で園を運営すれば、ユーカリ代が払えないなどとコアラの口減らしをする必要なかったのではないかと本当に残念でなりません。

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