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【追憶の競輪場FILE④】競輪史上最悪の大暴動が起きた鳴尾競輪場

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「大阪人=阪神ファン」
大阪人にはそういうイメージがあると思います。

阪神タイガースの本拠地「阪神甲子園球場」は、兵庫県西宮市の南部にありプロ野球だけでなく、春夏と高校野球も戦前から開催されています。兵庫県なのに、大阪のイメージが強い地域です。

 

koushien

 

第二次世界大戦末期、甲子園球場を含む西宮市一帯は、米軍による空襲を繰り返し受け大きな被害を被りました。その様子は「火垂るの墓」(1988 スタジオジブリ)としてアニメ映画化されているので、イメージしやすいと思います。

 

一村の存続を賭けた「鳴尾競輪場」

鳴尾競輪場は戦後間もない1949年に甲子園球場のやや浜手に設立されました。

 

koushien baseball

 

当時、球場のある一帯は鳴尾村という小さな村で、2005年にまとめられた「鳴尾村誌 1889-1951」(鳴尾村誌編集委員会)によると、村は入場税を戦災復旧に充てるため、テニスコートの跡地2万7000坪という広大な敷地に東洋一の規模の競輪場を設立、隣接する西宮市「西宮競輪」、尼崎市「園田競馬」と共に復興財源のため競走を実施したようです。

 

naruo bank  naruo keirin

 

しかし、開場翌年の50年、近畿地方を襲った大型台風「ジェーン台風」で大きな被害を受けてしまいます。当時の施設は突貫工事で作られただけでなく、競技法により戦災で倒壊した家屋の廃材の利用が競輪場の建設に義務付けされ強度に難があり、屋根が吹き飛ばされ開催継続が危ぶまれるほどだったそうです。そのような状況にも関わらず主催者は災害救援と銘打ち競走を強行しました。

 

競輪史上最悪の大事件「鳴尾事件」

事件は台風直撃から6日後の9月9日第11レース、本命の選手の機材トラブルで、高額配当となり観衆が混乱、競走のやり直しを求めて怒号が飛び交う混乱の中、11レースは成立しました。しかし、レース内容に納得のいかない一部のファンが走路に雪崩込み暴徒化、続く第12レースは中止となり、主催者は車券の払い戻しを発表するも、事態は収拾にはいたりませんでした。

 

naruo jiken

さらには、審判員を包囲し暴行を加え、車券売り場を破壊、売上金の強奪を図る者、ガソリンを巻き放火する者など悪質行為はエスカレートし、観衆1万人のうちおよそ半数の5000名が騒動に加わり、警察や米軍憲兵が鎮圧にあたる事態となりました。

死者1名、逮捕者250名。

競輪史上最悪の大事件は「鳴尾事件」と呼ばれ、競輪廃止論のきっかけとなりました。

 

naruo riot

 

事件により鳴尾競輪場は休止となり、競走による収入を期待していた鳴尾村は一転し、財政が立ち行かなくなり隣の市に編入を決意、51年に編入先を巡る住民投票にて尼崎市案を西宮市案が上回り、鳴尾村の名は地図から消滅することとなります。

競輪史に残る汚点を残した鳴尾競輪場は廃止も検討されましたが「甲子園競輪場」として再スタートを切ることとなり名勝負を繰り広げ、大きな収益をもたらします。

 

koshien keirin

 

しかし、レジャーの多様化、特にパチンコの射幸心を煽るド派手な台や少年漫画のキャラクターを採用した台などなりふり構わない無秩序な拡大が影響し、睨みを利かされている競輪はファンを奪われ甲子園競輪場も収益が伸びず継続が難しくなってしまいます。

西宮市にはもう一ヶ所近隣に「西宮競輪」があり、両施設を統合する案も検討されましたが、事業収支の悪化が予想されることから、2002年に半世紀にわたる長い歴史に幕を下ろすこととなりました。

跡地は売却され、現在では大規模なマンションが建設されています。

 

naruokeirin

 

地元の方に話を伺うと甲子園競輪場に反対していた住民は全くおらず、廃止に追い込んだというより「役割を終えた」という感じでした。現地は閑静な住宅街となり当時の名残は見当たらず、事件のことを切り出すと地元の主婦の方は非常に驚いた表情をされていました。

 

パチンコ栄えて、国滅ぶ

競輪の売上高と日本経済の盛衰は見事なまでに一致します。
景気が良くなると、遊興する余裕が出るので、当然と言えば当然で、これは他の公営競技にもおよそ当てはまります。

しかし、同じように見えるパチンコは、景気との連動性はなく、むしろその逆のようにも思えます。パチンコ産業は規模も大きく平成期には消費者金融の「グレーゾーン金利」と相まって日本の長引く不況や貧困化の片棒を担いでしまった前科もあります。依存による害悪が大きく、コロナ禍でも槍玉に挙げられています。

公営競技が日本の公衆衛生や施設建設など地域発展の原動力になっているのに反し、パチンコはその収益が海外へと送金され日本がさらに弱体化されるのではないかといった懸念も持たれています。

兵庫県には、甲子園競輪場の他に3つの競輪場がありました。
今では全廃され、県は収益を失っています。

【FILE⑤】では、西宮市内にあったもう一つの競輪場「阪急西宮スタジアム」を紹介したいと思います。

 

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【追憶の競輪場FILE③】わずか5年で幕を閉じた豊中競輪場

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大阪府の北部・豊中市に服部緑地という大きな公園があります。

当ブログでは、定期開催されている自転車パーツ類の蚤の市「シクロジャンブル」の会場として何度か紹介していますが、かつてこの公園内には「豊中競輪場」という競輪場がありました。

 

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(シクロジャンブル 2020年撮影)

 

 不祥事のあおりで5年で幕をとじた「豊中競輪場」

「豊中競輪場」は住之江、大阪中央競輪場に続き1950年に突貫工事で建設されました。敷地総面積39600坪、コンクリート舗装された500mの走路と15000席の観覧席を含む30000名の収容人員の競輪場で、55年までの5年間、大阪府や豊中市が主催となり競走が開催されました。

 

toyonaka keirin

toyonaka velodrome toyonaka keirin

 

公園内の詳細位置は「シクロジャンブル」がいつも開催されている「古民家集落広場」と言われている場所の北側にある「服部緑地陸上競技場」のあるところとなります。

この競輪場は、前述の「住之江競輪八百長騒ぎ」や「鳴尾事件」など相次ぐ不祥事を重く見た赤間文三知事[在任期間:1947-1959年]が、真っ先に閉鎖した施設で、現在では400mの陸上トラックやサッカーのコートに再整備され利用されています。

 

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自民党所属だった赤間は知事に当選すると次第に高慢な態度を取り、中央政治と対立、独断で府下の公営競技の全廃を決定します。こういった知事の姿勢はどことなく東京の小池百合子知事にも共通しているように思います。ただ、赤間は主立った成果のない小池氏と違い、大阪北部の丘陵地帯の開発案「千里ニュータウン構想」の地ならしなど後世に残る実績を挙げています。服部緑地もニュータウンの最南部に位置し、大型団地群と合わせて住環境の向上の一役を担っています。

 

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 | 大阪の絶頂期を支えた公営競技

千里ニュータウンには、計画的に千里北公園や千里中央公園などいくつか大きな公園が点在していますが、服部緑地の知名度はとりわけ高く、大阪で単に「緑地公園」といえば服部緑地のことを指します。理由としてはその大きさもさることながら、北大阪急行「緑地公園駅」の駅設置の強い影響があるといえます。1970年の日本万国博覧会(大阪万博)のアクセス手段として着工された同路線は、大阪の大動脈である地下鉄御堂筋線に直結し、北摂地域の主要路線になっています。また2年後の2023年には、現在の終着駅「千里中央」から箕面まで競艇マネーにより北へ延伸される予定となっています。

 

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70年の大阪万博には、競輪・競艇からそれぞれ約20億円が協賛金として拠出され、広報費や設備建設の事業費にあてられました。2005年の愛知万博でも、民間負担分の3分の1にあたる約200億円が公営競技からの資金となっていて、25年の大阪・関西万博でも資金源の柱と期待されています。

でも、どうでしょうか。

公営競技を反故にし続けてきた歴史がある大阪府に資金を要求できる権利があるのでしょうか。実際、70年の万博では、中央競馬会は支援を断っています。

大阪・関西万博は、大阪府だけの事業ではなく国家的プロジェクトです。前例を踏襲し、競輪を統括するJKAはおそらく大きな支援をすることでしょうが、見返りとして万博跡地の夢洲に競輪場施設の建設を許可することぐらいはしないと、筋が通らないのではないでしょうか。

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【追憶の競輪場FILE②】府下最大のマネーマシン 大阪中央競輪場の興亡

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現在、大阪市には競馬場はひとつもありませんが、かつては長居公園内に「大阪競馬場」がありました。
1948年から59年までの11年間、地方競馬が開催され一時期は全国2位の売上があったそうです。

 

nagai park

長居公園は、住之江公園の2km東に位置し、地下鉄なら御堂筋線が利用でき交通アクセスも抜群です。

nagai kouen

 

敷地も広大で住之江公園の3倍ほどの面積があり、1年を通して四季折々の花が楽しめるだけでなく、公園内には博物館やプール、セレッソ大阪がホームとして使用しているサッカー場「ヤンマースタジアム長居」など施設も充実し市民の憩いの場となっています。

 

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長居公園にあった日本一の競輪場「大阪中央競輪場」

大阪中央競輪場は住之江競輪場の大成功を受け建設省に計画を出願、GHQ総司令部の了解のもと1950年に開場しました。年利1000%以上の投資効果が上がっていた住之江の勢いを示すように、正門アーチには桃山調の色彩美しい大理石、足元には厚さ10cmの御影石を敷き詰め、周囲には銀杏やつつじを植林、競走路も日本一立派に仕上げられ総工費はなんと住之江の4倍の9000万円という戦後間もない時期とは思えぬ豪華な施設でした。

 

osaka keiba

 

1958年発行の「大阪競輪史」によると、競馬場の北側に建てられた施設は、敷地総面積22000坪、コンクリート舗装された500m走路と25000の観覧席、106の窓口が設けられ、収容人員55000名という日本一の施設だったそうです。詳細位置は、現在の「ヤンマースタジアム」のある辺りにあったと推定できます。相乗効果があるのかは分かりませんが、この頃は公営競技場を併設するというスタイルよく見られ長居公園もこの形をとり、短い期間ですがオートレース場もあったそうです。

 

osaka keirin

 

大阪中央競輪場は、住之江と並び主要会場として空前の盛況を呈し全国屈指の売上高になり、府下の自治体に驚くべき収入をもたらしました。その使途は市営住宅の建設・病院の整備・地下鉄の延伸・厚生施設や学校の建設・保健衛生費、中小企業や失業者対策など多岐にわたり、敗戦で荒廃した都市を復興へと導きました。そして、大阪での成功を見て全国に拡大した競輪の総売上高は年間600億円、同書によるとこの金額は政府発行紙幣の6%に相当するらしく、娯楽としてだけでなく国民経済に多大な影響をあたえる公共事業だったようです。

 

osaka money

 

公営競技全廃を決めた大阪府の大誤算

 

しかし、住之江競輪場で発生した放火暴動騒ぎや鳴尾事件をきっかけに起こった「競輪廃止論」に大阪府知事赤間文三は、施行都市や関連執務員に相談することなく1955年にあっさりと府営の公営競技場の廃止を決定。すると、大阪府の財政は翌年の56年には赤字に転落、府の新規事業は殆ど見送り状態となり赤字危機は深刻な様相を呈するようになり、大阪府の後に続く自治体はありませんでした。

 

「人間は馬以下」 (東京新聞)

「便所が汚いからやめてしまえというような競輪廃止論は軽率だ (産業経済新聞)

 

マスコミや世論による批判は小さいものではなく、しばらくは全国各地の競輪場は自粛体制のもとで競走を実施、しかしながら競輪人気は高く、中央組織である日本自転車振興会や選手育成のための競輪学校を設立するなど事業の健全化を図り総売上高は2兆円にまで大きく成長、住之江・大阪中央競輪から得られる収益金は5000億円規模(WTCタワー 5個分)と推計され、赤間のとった方針は、あまりに独断的で明々白々と権力の乱用であったといえます。

 

 

コロナ禍、存在感を示す「進化した競輪」

 

仮に一点、暴動やギャンブル依存症による地域の治安悪化を理由に公営競技場の再開しないというなら、私はその考えは古く改めなければならないフェイズになっていると思います。

奈良競輪場の投稿でも少し説明しましたが、かつては周辺に住む人々がわざわざ競輪場に出向いて購入していた車券も、現在ではスマホやパソコンを利用し、インターネットで投票ができるようになり、「立地」と「治安」の関連性がなくなり、競輪場は所在するだけで全国からただ自動的に大きな収益を獲得できる優良なマネーマシンへと変貌を遂げているのです。

財政的に困窮している大阪府は、コロナ対策にも大規模な政策を打てずに感染が拡大しています。今こそ、府営競輪の再開を打ち出し、収益を病院建設や失業者対策、事業助成金などにあてるべきではないでしょうか。

 

【FILE③】では、大阪府北部にあった「豊中競輪場」の紹介をしたいと思います。

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【追憶の競輪場FILE ①】熱狂と騒擾の住之江競輪場

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以前の投稿「大阪にはなぜ公営競技場が少ないのか」で少し触れた住之江公園内にかつてあった住之江競輪場ですが、その面影を求めてサイクリングいってきました。

suminoe park

大阪市の中心部から新なにわ筋を10kmほど南進すると、自然と大阪湾側に大通りは寄れ、住之江公園と競艇場が見えてきます。地下鉄ならば四つ橋線の終着駅なので、非常に分かりやすい場所に所在しています。住之江公園駅はニュートラムの乗換駅として何度か利用したことはありましたが、公園に来たのは初めてです。住之江区の最大面積の公園で、緑地面積が少ない大阪市においては貴重な空間となっています。

 

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競輪ブームの火付け役となった 「住之江競輪場」

住之江競輪場は1948年の自転車競走法成立を受け、日本初の競輪開催を目指し大阪府が着工しますが、小倉競輪場に先を越され1ヶ月遅れの48年12月に日本で2番目の競輪場として開場、日本で初めての連勝複式車券の販売実施など注目を浴び、驚異的な人気となり、その成果を見て全国各地で競うように競輪場が短日月のうちに建設されるようになりました。

1958年発行の「大阪競輪史」によると、住之江競輪場は敷地総面積13000坪、コンクリート舗装された500m走路と1200席の観覧席、2ヶ所の投票場が設けられ、収容人員20000名、総工費は1885万円だそうです。

 

suminoe keirin  suminoe bank

 

| 競輪の存廃議論のきっかけとなった「住之江競輪 八百長騒ぎ」

華々しい成果を納めた府営競輪も八百長騒ぎが相次ぎ、49年5月には大きな暴動騒ぎが発生、レース内容に不満もった観衆の一部が走路内に乱入しやり直しや払い戻しを要求、さらには関係者を暴行し、投票所に油をかけ放火をしました。脅迫を受けた執務委員は身の危険を感じ不的中車券を買戻しをすることを発表しその場を収めましたが、翌日に前言を撤回するなど事態が混乱、施設も騒擾による破損で三ヶ月間の休止となります。

その後もお隣の兵庫県の鳴尾競輪場でも同じような暴動騒ぎが起こり、遂には競輪の存廃が国会で議論される事態となってしまいます。

惨事を重く見た大阪府知事が55年に府下の公営競技場の廃止の意向を示し、64年に12年間という短い期間で幕を閉じます。

 

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公園で休憩をしていた地元のご老人に話を伺うと、事件はおろか公園内に競輪場があったことすら初耳で驚いた様子でした。普通なら園内に歴史を記す石碑やモニュメントがあってもいいものなのですが、今ではちょっと考えられないような物騒な幕切れを好く思っていなかったのか、競輪場の名残を偲ぶものは何もありませんでした。

古い航空写真で見ると野球場の外野側に施設はあったようですが、園内にあった野球場は比較的新しく最近に造り直された感じがします。球場のレイアウトが当時のままだとすると南側にある広場に施設があったということになります。

 

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競輪と競艇が共存した住之江公園

また、新なにわ筋を挟んだ公園の東側には府下唯一のボートレース場があります。全国屈指の競艇施設として知られ「ボートレースの聖地」とされるほどファンからの支持されています。先ほどの休憩中のご老人もボートの大ファンで、嬉しそうに自身のギャンブル歴や競艇の歴史を語ってくれました。

 

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ニュートラムを借景にした施設は近未来的で整備が非常に行き届いていて、聖地化されるのも頷けます。先月に行った奈良競輪場の惨状を見た後にこの施設を見ると、同じ公営競技場なのにここまで違うのかと複雑な気持ちになります。

 

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住之江競艇場は1956年に狭山池で開催されていた競走を引き継ぐ形で開場、主催は箕面市で大阪市には恩恵がほとんどありません。このような収益体系になっている理由は競艇の歴史的経緯があり、競艇の父・笹川良一が深く関係しています。

 

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笹川は三島郡豊川村出身、今でいう箕面市の南東部の生まれ。裕福な造酒屋の家で、英国製自転車「ラージ号」を三島郡で初めて入手し登録したのも、笹川の父・鶴吉だったそうです。

公営競技の歴史をたどると競馬(地方競馬)・競輪の開催に遅れて、1951年にモーターボート競走法が定められています。競輪発足時の1948年、戦時中に代議士だった笹川は戦犯として巣鴨に収監されていて、東京裁判の判決を待っていました。同じように見える公営競技も戦後間もないこの激動の数年間が、双方の在り方を大きく変え、後の発展に大きな違いをもたらします。

 

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GHQに間接統治され、初の日本国憲法による選挙により誕生したのは社会党政権の片山内閣でした。GHQは敗戦後の日本が再び強国になるのを恐れ中央集権的な組織ではなく地方分権を進めます。競輪や競馬も地方ごとで開催するように法整備され国営競馬は廃止し、新たに「競馬法」と「自転車競走法」が制定されました。

日本と対峙していた連合国軍(米・中・ソ・仏・英)はそれぞれ異なった政治思想があり、ポツダム宣言以後、世界情勢は「枢軸(帝国主義) vs 連合」の構図から「西側 vs 社会主義」へと変質化します。1949年には中華人民共和国が誕生、50年には東西の代理戦争である朝鮮戦争が勃発します。このような状況下でGHQは、日本を共産主義の防波堤として傀儡化した方が都合がいいと考えを変えるのです。その結果、死刑を覚悟で豊川村に墓まで立て志願して収監された笹川は不起訴となり釈放されます。

この時に釈放されたメンバーを中心に日本はアメリカと協調し、敗戦で焦土化した日本に奇跡的な成長をもたらします。

後に総理大臣となる岸信介、読売グループ総帥正力松太郎、ロッキード事件の黒幕でフィクサーとして悪名高い児玉誉士夫、そして笹川です。日本は1951年にサンフランシスコ平和条約にて主権を回復し、再び中央集権的な体制へと舵を切り、笹川は競艇の中央組織である振興会を設立、競艇は競輪を抜き去り公営競技の王者となり、日本最大の財団へと成長をとげます。

競馬も54年に中央競馬設立され、従来の地方競馬場と合わせ現行の体制が成立、発展していきます。

【FILE②】では、長居公園にあった(地方)競馬場「大阪競馬場」と「大阪中央競輪場」の紹介をしたいと思います。

 

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冒険家 池本元光と「タルーゼ号」

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私の目の前に1冊の古い本があります。

数年前に入手したこの書籍は1982年に出版された「アフリカよ、キリマンジャロよ」というタイトルの冒険記で、著者は大阪出身の池本元光というアドベンチャーサイクリスト、79年にアフリカを走破した記録が綴られた1冊です。

私はこの冒険家が好きで、同書籍と前作「世界ペダル紀行㊤㊦」(1974)を併せて図書館で借り、以前に読んだことがあったので、購入後もしばらく読まずに書棚に置いていました。そして、忘れたころに何気なくページをめくってみて大変驚きました。

 

africa cycle

 

40年前の本の初頁には1枚に写真とともに著者のサインが書かれていたのです。

親愛なる
髙橋 勇さまへ

どうやらこの本は著者が自転車研究家の髙橋勇氏に贈った本だったようなのです。

– – –

(前回の続き)

大阪・河内長野市の自転車遊園地「関西サイクルスポーツセンター」の正面入り口を入って左手にターミナルハウスという2階建ての建物があります。1階部には総合案内所や売店がありスタッフもいるのですが、2階に上がると古い自転車や資料の展示コーナーがあり、賑やかな遊園地の中の静かな空間が広がっています。

これらの貴重な展示品は、関西の自転車企業から寄贈されたもので、なかでも高度経済成長期に大阪の自転車業界のリーダー役として存在感を示した城東輪業社(大阪市)の寺島常雄氏のコレクションが目を引きます。

 

terashima bunko

当時は本格的な自転車博物館が国内にはなく、ニューサイクイリング誌(1973年1月号)では、前田工業の資料館と寺島・髙橋の両氏のコレクションの存在を挙げています。前田工業は変速機メーカー「サンツアー」として一時代を築きましたが1990年代に廃業、髙橋氏も他界し収集品が散逸状態にあります。

私は数年前から髙橋氏の収集していた書籍類の再収集のため、古書店や骨董市巡りなどをしていた経緯があり、冒頭のサイン本「アフリカよ、キリマンジャロよ」を偶然にも入手したのです。

著者の池本氏は1947年生まれで、髙橋氏のサポートを受け68年から4年4か月をかけ5大陸を走破、帰国後も同氏の紹介で関西サイクルスポーツセンターに勤務、自転車冒険家との二足のワラジを履きながら昨年に勇退されるまでセンターで勤めました。そして、ねぎらいを込め昨年11月から「世界を駆け抜けた自転車冒険家の軌跡」と題して、池本氏の愛車「タルーゼ号」など10台のキャンピング自転車が常設され、体験を伝えています。

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▲ 1978年にキリマンジャロ登頂したタルーゼⅢ号 

 

「タル―ゼ号」のネーミングは「やったるぜ!」という意気込みが由来でNational製のツーリング車です。池本氏は、髙橋氏とメーカーによるサポート、そして持ち前のタルーゼ精神により、世界五大陸走破やキリマンジャロ登頂など偉業を成し遂げます。

その冒険旅行は書籍だけでなく、雑誌広告やカレンダーにもなり、僻地の記憶とロマンを当時の人たちに紹介しました。バックパッカーのバイブルとされている沢木耕太郎「深夜特急」が1980年代の紀行書なので、その10年以上前に道なき道を単独で自走していたというのですから驚きです。

 

national bike
1974年ナショナル自転車のカレンダー (所蔵:サイクルショップ203)

 

アフリカから帰国後、池本氏は日本アドベンチャーサイクリストクラブ(JACC)を創設。自転車で世界一周を達成したメンバーを中心に構成されるこの団体には、植村直己賞受賞者の中西大輔氏や劇作家の平田オリザ氏などおよそ300名が所属、次世代へ夢をつなげています。

 

pedalian

 

また、JACCが1982年から年4回発行している季刊紙「ペダリアン」は、150号を超え、現在の発行部数は10000部と冒険家たちの体験を伝え続けています。

 

kansai cycle sports center

センターには「タルーゼ号」を含む10台が出展者の行程やメッセージなどと共に展示されていますので、遊びに行った際は是非ご覧ください。

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