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自転車本を1000冊読んだ自転車技士がガチで選んだ10冊

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20年の自転車技士生活で読んできた自転車本は雑誌などを含めると1000冊以上となります。その中でも、この本はすごいという10冊を選んでみました。

 

自転車本を1000冊以上読んだ自転車技士がガチで選んだ10冊

 

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【書籍名】
二十四の瞳
【ジャンル】小説
【著者】壺井 栄
【発売】1952
【書評】現在国内では男女共に自転車に乗る。「二十四の瞳」はまだ自転車が高価だった昭和初期の瀬戸内海の島に都会から自転車に乗った洋装の女先生が赴任してくる場面から始まり、大きく社会情勢が変化する数年間を描く不朽の名作。

 

 

nc 1968
【書籍名】ニューサイクリング -1968年12月号-
【ジャンル】雑誌
【発行】今井彬彦
【発売】1968
【書評】1960年代の数少ない自転車情報の発信源「ニューサイクリング」誌。68年12月号は読者にとって伝説となる沼勉氏がフランスでオーダーしたルネルスが表紙、太い650Bタイヤや俯瞰した構図は日本の自転車業界に大きな衝撃を与え、名車中の名車として神格化。

 

 
cyclingbook
【書籍名】サイクリング事典
【ジャンル】実用書
【著者】鳥山 新一
【発売】1972
【書評】東大医学部卒、サイクリングの啓蒙ため「鳥山研究所」を設立し多くの手引書を残した輪業界の最重要人物である著者の代表作。とても一人で書いているとは思えない充実の内容は、それまで中学生まで遊びだったサイクリングを大学生や大人にまで広げ、バイブルとなった。難解な内容を明解に解説し、読後たちまち理論と教養を持ち合わせた「自転車マニア」になれる圧倒力は鳥山の真骨頂。

 

 

 

 

peddle kiko
【書籍名】世界ペダル紀行
【ジャンル】紀行
【著者】池本 元光
【発売】1974
【書評】4年4ヶ月かけ、五大陸42000kmを走破した自転車旅行記の金字塔。1968年8月に大阪を出発、旅先での出会いや苦労話は後に続くバックパッカーへの金言となる。帰国後は関西サイクルスポーツセンターに勤務、サイクリングの普及活動に人生をささげる。

 

 

 

 

 

 

cycleshports
【書籍名】サイクルスポーツ -1982年12月号-
【ジャンル】雑誌
【発行】八重洲出版
【発売】1982
【書評】「サイクルスポーツ」誌は、サイクリングから欧州ロードレースなどの競技まで網羅し、日本のスポーツ自転車文化をけん引する存在。1982年12月号ではその年公開の映画「E.T」のBMXとアラヤのニューモデルのインプレッションを特集、誌上初めてマウンテンバイクを紹介し、これをきっかけに国内でも広く普及するようになる。

 

 

 

 

monster bike
【書籍名】魔物たち
【ジャンル】企画本
【著者】新田 眞志
【発売年】1994
【書評】「ニューサイクリング」誌にて1985年から8年間続いた人気企画「魔物について」。連載当初はこだわりのドロヨケ付きのサイクリング車とオーナーの人物像にフォーカスした企画だったが、86年から新田氏が解説を担当し次第に読者から支持を獲得、100台を超える掲載車から32台を厳選した愛蔵版。

 

 

 

pistbikebible
【書籍名】ザ・ピストバイク・バイブル
【ジャンル】ムック
【発行】宝島
【発売年】2007
【書評】今まで公道で使用されることのなかった競輪用自転車「ピストバイク」がファッションとして注目され始め、若い男性がこぞってカスタムを始めるムーブメントが突如起こった。その全貌をファッションスナップなどストリートカルチャとして紹介、刺激を求める都会の不良の新たな自己表現の方法となる。

 

 

 

 

taiwan
【書籍名】「環島」ぐるっと台湾一周旅
【ジャンル】紀行
【著者】一青 妙
【発売年】2017
【書評】ミュージシャンの一青窈さんの姉で歯科医でもある著者が、父親の祖国でもある台湾一周自転車旅「環島」に自転車メーカーGIANTの誘いで参加した旅行記をまとめたエッセイ。およそ1000kmを9日間かけて出発地点に戻ると同じ風景がまた違って見えるという。台湾の名所やグルメガイド、自転車旅のハウツーなど見事に一冊に凝縮されていて読んでいて飽きない。

 

 

 

keirin culture
【書籍名】競輪文化 働く者のスポーツの社会史
【ジャンル】文化研究
【著者】古川 岳志
【発売年】2018
【書評】大阪で文化社会学の研究をしている著者が、戦後公営ギャンブルとし誕生し、歴史と共に発展する競輪の独自性を「文化」という切り口で考察。社会的影響や組織マネジメントなど新設予定のカジノにも通じる部分が多く、関係する方は必ず読んでおきたい一冊。

 

 

 

 

nostalgic cycle
【書籍名】日本 懐かしの自転車大全
【ジャンル】文化研究
【著者】内藤 常美
【発売年】2020
【書評】「関西輪業界の生き字引」新家工業の内藤氏による初の著書。内藤氏の知識量は膨大で世界でも右に出る者はいないほど。幅広い知識があるにもかかわらず「フラッシャー自転車」という誰も取り組んだことない専門書を送り出す意外性、作り手という実体験から得られた見地、豊富な資料など読み応え抜群の一冊。読んでいるだけで楽しくなる昭和の憧れの自転車の総覧は唯一無二の傑作資料。

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ママチャリ大国ニッポン  ~世紀の大発明はいかに生まれ、普及したのか~

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前回の投稿では大阪の自転車企業「サンスター自転車」の興亡を通して、戦後の日本の自転車文化を紹介させていただきました。

わが国の自転車利用者の男女比は51:49とほぼ半々で、他国と比べ女性の利用割合が最も高い国だそうです。その理由のひとつに、高度経済成長期より主婦が子育てのために自転車を利用しているという点があります。前回のブログで、1950年代の自転車の主用途が「運搬」であったと投稿しましたが、「ママチャリ」の登場により、その構図に変化が現れます。

 

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サンスターの女性用自転車「婦人サンスター号」

 

今からちょうど60年前の1962年、ロンドンのアールズコートで開催された展示会に画期的な自転車が出品されます。前年9月に英誌「エンジニアリング」にて発表されたこの「MOULTON」(モールトン)という小さな車輪の自転車は、構造的にも注目され欧州各地で続々とコンパクトな類型車がつくられるようになります。

 

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▲ 「MOLTON」が紹介された記事   [ニューサイクリング誌より  1963年4月発行]

 

日本国内では、1955年にすでに片倉工業が16インチのオリタタミ自転車「ポーターシルク」を製造していましたが、モールトンの登場は日本にもすぐさま伝えられ、64年には変速機メーカーの前田工業の河合淳三が英国から持ち帰ります。河合は16インチ車輪のモールトンを研究、日本の道路事情に合わせ20インチの自転車を設計し、これを「婦人」をターゲットに普及に努めます。戦後間もない時期は「不妊になる」となど言われ自転車に乗る女性は全体の10%以下、女性専用車はあるにはありましたが使用は女医や女学生の一部などに限られていました。このタイプの婦人向け自転車をなんとか普及させようと、日本サイクリング協会委員の鳥山新一が「ミニサイクル」と命名、各社は開発を進めていきました。

 

 

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▲ 片倉工業「ポーターシルク」(関西サイクルスポーツセンター所蔵)

 

現在の日本では車輪径が小さい自転車は、全く珍しいものではありませんが、海外ではほとんど利用されていません。欧州の一部で、自転車にこだわっている人が、折り畳み式高級車を乗っていることはありますが、日本の様に価格の安いスモールホイールの自転車は販売すらされていませんし、「ミニベロ」という言葉も外国人には通じません。「ミニサイクル」や「ミニベロ」を日常的に誰もが利用するという文化は、実は日本自出の独特の文化で「ママチャリ」というのも土俗的なものではなく、マーケティングによって創造されたカテゴリーなのです。1968年のサイクルショーにて、販売促進のため当時の自民党幹事長福田赳夫にまだなじみの薄い「ミニサイクル」を見てもらうと、福田は「おい、私に子供用を乗せようというのかね」と困惑したというエピソードがあったそうです。

 

同じ頃、大阪市内では千林商店街のドラッグストア「主婦の店 ダイエー」や衣料品店「赤のれん」、天神橋筋商店街の下着店「ハトヤ」、西成の衣料品店「イズミヤ」などの有力商店が、セルフ販売による米国式の新しい小売店のスタイルの研究組織「ペガサスクラブ」を結成、このクラブには四日市の呉服店「岡田屋」や東京の「ヨーカ堂」なども参加し、スーパーマーケットへと進化します。大阪万博が決定すると千里や泉北にニュータウンが建設され、経済成長を支える人口が都市部に集中し始め、生活様式が大きく変化し、それまで「家内」とよばれて文字通り家の中の家事仕事をしていた主婦がスーパーのチラシをチェックして特売品を自転車で買いまわる「ママ」となります。ママ用の自転車「ママチャリ」はオイルショックも手伝い、自転車保有台数も急増、1955年から70年の15年間で2倍以上、生産台数も4倍と増産に次ぐ増産となります。

 

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▲ナショナル自転車のミニサイクルの販促物

 

販売方式もこれまでの自転車店だけでなく、スーパーマーケットやディスカウントストアでも販売されるようになり、客寄せ用の目玉商品として仕入れ原価以下で廉売されるようになり、自転車業界内では「ママチャリ害悪論」まで浮上し、安売り店と対立するようになります。なかでも、ナショナル自転車工業の松下幸之助とダイエーの中内功は裁判沙汰になり「流通戦争」といわれるほど激しく対立ます。販売店との共存共栄を標榜し「天与の尊い道」といった精神論的な経営をする松下、研究による研究で科学的かつ合理的な方式で急拡大を目指す中内、互いの考えは水と油で、ママチャリメーカーは系列店重視の「工業型」と廉売志向の「商業型」と区別されるようになります。

 

1985年プラザ合意以後の急激な円高と89年自転車輸入関税撤廃により、海外から輸入される安い自転車が急増、平成不況も相まって「工業型」メーカーや部品メーカーは大打撃を受け事業縮小や倒産が相次ぎ、日本の自転車産業は空洞化、「商業型」メーカーも中国依存を強めます。2000年代に入ると自転車の低価格化は一層進み、平均価格は10500円、局所的には7000円台で廉売されるようになり、「コーナン商事」に代表されるホームセンターや「サイクルベースあさひ」など小売業が主導権を握るようになります。

 

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▲ ショッピングセンターで販売される自転車

 

2008年の広辞苑(第6版)で「ママチャリ」という言葉を調べると「婦人用の自転車」と掲載されています。
それが、2018年の最新版(第7版)では「俗に生活用自転車のこと」と「女性用」という説明がなくなっています。この10年で、ママチャリは男女問わず使用される乗り物へと変質した証左だといえます。長身の男性も使用するため車輪径もミニではなくなり26または27インチが主力となり、 海外とは全く異なる独自の自転車文化となっているのです。ママチャリはその存在があまりに身近であるため、評価されることはほとんどありませんが、日本の生活に与えた影響は非常に大きいといえます。

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天王寺動物園「戦時中の動物園展」チンパンジーのプロパガンダ

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日本国内の自転車産業の中心は大阪です。それは敗戦直後から現在に至るまでそうなんですが、戦後自転車産業史を見てみると、東京は東京で全く別の盛り上がり方をすることがあります。

ようやくスポーツ自転車というものが一般普及を見せ始めた1965(昭和40)年、東京を中心としたハンドメイドスポーツ自転車専門の7社が「東京セブンメンバーズ」という団体を結成し、各自のブランドの責任において、1丸となりサイクリング自転車の普及に乗り出します。

 

エバレスト:土屋製作所
ホルクス:横尾双輪館
ゼファー:東京サイクリングセンター
ダザイ:パターソンズハウス
トーエイ:東叡社
アルプス:アルプス自転車工業
サンノー:山王スポーツ

 

 

関西では部品メーカーの団体JASCAグループが結成され、交流が盛んになり、ひたひたと勢力を拡大する体制が整い始め、対する東京セブンメンバーズは新しい自転車のアイデアを一般公募するなど奇策を展開、その後のサイクリング車黄金期のきっかけを作りました。

そのうちの1社、パターソンズハウスを手掛ける太宰茂秀氏は1927年生まれ、59年に自転車部品の輸入を開始、自転車文化センター資料収集委員や日本サイクリング協会委員やメーカーの顧問などを兼任し、自転車店も運営していました。獣医の家庭に育ち博識で、著書に「自転車の整備と組み立て」(八重洲出版)・「自転車専科」(山海堂)があり、専門誌でも精力的に執筆してました。

 

「サルの自転車を作成して欲しい、東京都からの依頼だ」

 

ある日、太宰氏は父親から奇妙な依頼を受けます。
動物愛護団体から大目玉を食らうと一度は固辞したものの、「どこに行っても断られる」という動物園からの再三にわたる依頼に断り切れず、太宰氏は上野にサルの採寸に出向きます。

 

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サル用自転車「Velo WING」 自転車文化センター所蔵 (2020年1月撮影)

 

「大変も大変、頭が変になりそう」

 

苦労の末、太宰氏はサイドカー付きのサル用の特注自転車を2台作成。
ペダルは丸い形、幼児用自転車や乳母車の部品を使い、ギアはサイクルポロ用の20Tの固定ギアを使用。そして、サルが自転車の練習をする姿がニューサイクリング誌(1967.1月号)の表紙を飾ると大きな反響がありました。

 

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太宰氏作成の自転車を乗るチンパンジーの表紙 「ニューサイクリング」1967年1月号

 

 

しかし、サル用自転車というのはこの上野の2台以前より前になかった訳ではないようなのです。実際、太宰氏も同誌にて「数年前に丸都で作ったサル用自転車に乗らせて寸法を取る事にした」としています。

一体いつ頃からサル用自転車というものがあるのかはよく分かりませんが、大阪の天王寺動物園では戦時中にチンパンジーの猿回しをプロパガンダとして利用、そして自転車にのる曲芸を披露していたようです。

 

tennouji zoo

 

天王寺動物園は1915年、日本で3番目の動物園として開園。チンパンジーは規模を拡大した32年から飼育され、自転車に乗るほかに、馬やゴーカートも乗りこなしたそうです。現在、同園では動物に芸を仕込むことは一切しておらず、自然環境に近い状態で飼育されています。霊長目も多く飼育されていてチンパンジーの他にも、国内で唯一、ドリルという強面の大型サルを飼育しています。芸ではないのですが、このドリルは「バイバイ」と言いながら手を振ると振り返してくれます。

 

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ただ、近年では入場者の減少などで運営の維持が困難となり、経費の掛かるゾウやコアラなどの姿が園から消し、動物のいないオリが目立つ寂しい状況に陥っていました。再生に向けて、ビジネスパートナーの公募や一般へ寄付を募ったり対策をしてきましたが、21年4月運営が大阪市から独立行政法人へと移管されました。

 

再生計画の一環として園の中心に新しい施設「TENNOJI ZOO MUSEUM」が完成。7月27日から8月29日の期間「戦時中の動物園 ~Our Wars,Not Theirs.~」と題して企画展が開催され、第二次世界大戦中の同園で殺処分された動物のはく製や当時の写真などが展示されています。

 

戦争に加担しなければ殺される ⁻
国家総動員の状況下、笑顔のない観衆を前にサルはまさに決死の覚悟でペダルを踏んで戦意を高めました。ブログの公開が遅れ、特別展はすでに終了してしまっていますが、新施設には、はく製や骨格標本が美しくディスプレイされている小さな博物館になっていて、自由に読める動物関連の書籍やきれなトイレもあり、新体制の革新的な姿勢を感じました。

 

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天王寺は、梅田・難波に次ぐ大阪市でも屈指のターミナルで、近年ではあべのハルカスやキューズモールなど再開発され「住みたい街」ランキング上位になるなど賑わいがみられます。天王寺動物園はハルカスから天王寺公園内「てんしば」を通りすぐの好立地にあります。普通、動物園というところは多くの見物客を集める施設であると思うのですが、天王寺動物園はむしろ周囲に比べてひと気がなくなり、昭和のすたれた場末感が漂います。

園の西側は、通天閣がある新世界地区でコロナ前は多くの観光客で賑わい活気があり、間に位置している動物園が、新世界とハルカス周辺とのコミュニティを断絶するような存在になってしまっているのです。

 

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老衰のため死亡した天王寺動物園のアジアゾウ (2014年撮影)

 

現在「てんしば」があるゾーンも数年前まで動物園と同様に有料だったのですが、全面リニューアルを機におしゃれなカフェやレストランが出店する誰もが楽しめる芝生公園に生まれ変わりました。動物園内に新設された「TENNOJI ZOO MUSEUM」は「てんしば」のような雰囲気があり、運営交代の期待感が高まりました。

 

厳しい財政事情があるなら、ほとんどの大都市が実施している公営競技を大阪市はなぜ主催しないのでしょうか。当ブログでは繰り返しになりますが、本当に理解に苦しみます。働きもせずに「金がない」といっているようなものです。

 

– –

 

2021年10月、いよいよ千葉市「千葉JPFドーム」にて、250mの新しい競輪が始動します。この新しいドーム型の競輪場がある千葉公園は、中央図書館などが所在する市の中心部にあり、天王寺公園に似ています。

 

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2021年10月完成予定の「千葉JPFドーム」完成予想図 (千葉市ホームページより)

 

前回の投稿で書いた通り、17年に自転車活用推進法が施行され、地方公共団体は「自転車競技のための施設の整備」を推し進めていかなければなりません。動物のいないオリを設置しているスペースがあるのなら、千葉市の様に競輪場を誘致し、その収益金で園を運営すれば、ユーカリ代が払えないなどとコアラの口減らしをする必要なかったのではないかと本当に残念でなりません。

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