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自転車文化センター 特別展示「THE KEIRIN展」

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東京・目黒の自転車文化センターで開催中の「THE KEIRIN展」を見てきました。

 

jitensha bunka center

 

自転車文化センターは、財団法人日本自転車普及協会が運営する総合施設で、希少な自転車や関連文献の管理や研究をおこなっています。定期的にテーマ展示をおこなっていて、一般の人も自由に内覧できる施設となっています。

 

cycle culture center

 

2022年12月14日から「THE KEIRIN展」と題して、テーマに沿った歴史的な競技車両の現車が展示されています。自転車には説明パネルが添えられ、競輪や自転車に関心のない方でも分かるようになっています。

 

keirin uniform

 

本ブログでは2021年に同施設で開催された「競輪の魅力展」を紹介しましたが、前回はどちらかというとフレームビルダーに焦点があてられ、今回は主に全国にある「競輪場」を展示テーマとし、「推し」ポイントを紹介していました。

競輪は日本生まれの世界スポーツで、戦後間もない1948年から全国各地で公営され、2000年のシドニー五輪からは正式種目として採択されています。国内では着順を予想するギャンブルとして43競輪場にて競走が開催されています。

 

karavinka

 

競輪場はすべて円形走路でバンクの周長は333.3~500m、入場料も無料から100円と各施設バラバラで統一されたルールがありません。競馬には地方競馬と1954年から始まった中央競馬(JRA)の2つが併存しますが、競輪は歴史的経緯からどちらかというと地方競馬に近い性格を持ち、各地の主催が異なるためその結果として周長が異なるバンクが建設されました。62年には中央組織の前身となる「日本自転車競技会」が発足、2008年には同じく公営競技のオートレースを実質的に吸収する形で「JKA」(Japan Keirn Autorace foundation) として事業を統括しています。

始まったばかりの時期はスポーツ自転車でない実用車レースなども行われていたそうですが、現在では「トラックレーサー」と呼ばれる変速のない自転車がレースで使用されています。使用機材の審査は厳格に行われ、フレームは国内の26ヶ所の登録事業者が製作したものに限定、部品ひとつに至るまで審査を通過した登録業者が生産した製品が使用されています。

 

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スーパースターの中野浩一選手の自転車  (製作 長澤義明)

 

競輪選手のレジェンドである中野浩一選手は1977~86年までの10年間、世界選手権のスプリント競技で前人未到の10連覇の偉業達成、日本の競輪の実力を世界に見せつけました。展示の中野氏のトラックレーサーは82年英・レスターで開催された大会で実際に使用されたナガサワ製の自転車となります。

スプリント競技は1対1の競技で、マススタートのケイリンとはまた違った争いとなりますが、中野氏の脚力は抜きんでていて、その他の日本選手団もレベルが高く世界選手権では好成績を残していました。ケイリン競技の五輪正式種目認定にはこういった功績があり、中野氏はシドニー五輪では先頭誘導員を務めました。

 

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シドニー五輪のペーサー

 

最盛期には売上高2兆円、4000人以上の選手が在籍した競輪も人気が低迷し各地で競輪場の廃止が相次ぎました。売上高も6000億まで落ち込み存在感が薄れていましたが、女子競輪(ガールズケイリン)の復活やマスコット戦略など懸命な活動で売上高1兆円まで回復、IT系企業に事業価値を再評価され投資が盛んになってます。

しかしながら、競輪場への来場者数は減少の一途を辿り最盛期の30分の1と振るいません。その原因にひとつに施設の老朽化であることは本ブログでも度々考証し、新施設建設の必要性を提起していますが、積年の願いに共感をいただくことはほとんどありません。

 

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深刻な問題としては、五輪正式種目となった同年にケイリン種目を含む自転車競技の規定が変更され、競輪が「ベロドローム」と呼ばれる屋内型競技場で開催されるスポーツへと厳格化されたことです。これにより既存施設は国際的には「賞味期限切れ」となり更新が必然とされましたが、対応したのは千葉競輪場のみで、日本の「競輪」と国際スポーツ「KEIRIN」が別の競技へと変質化してしまっています。千葉競輪は「PIST6」として登録選手は二足の草鞋を履き世界を目指していますが、状況は複雑で日本は潜在力を発揮できずにやきもきする状態となっています。

この企画展も競輪の現状を広く一般にもPRする目的の展示で入場料は無料、VRシミュレーターでリアルな競輪世界を体感できる展示や映像、ご当地グッズがもらえるくじびきなど楽しめます。

 

kokura keirin
小倉けいりんのキャラクター「かねりん」

 

私はギャンブルは一切しませんが、公器である競輪場の老朽化問題はこれからも避けては通れない課題だと思います。そのためにも公営競技の有益性を各々がしっかり再認識する必要性があるのではないでしょうか。企画展は3月31日まで開催です。

 

 

 

自転車文化センター

  • 〒141-0021 東京都品川区上大崎3-3-1 自転車総合ビル1F
  • Tel. 03-4334-7953
  • [開館時間] 11:00〜15:00 [時短営業中]
  • [定 休 日] 月曜日(祭日の場合は翌平日)
  • [入 館 料] 無料

 

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【追悼】石原慎太郎の屈辱と野望「新しい競輪」

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本年2月、作家で政治家の石原慎太郎が亡くなりました。ブログ投稿のためちょうど「巷の神々」(1967,サンケイ新聞出版)を図書館で借り、読んでいたところだったので大変に驚いたように覚えています。私は1978年生まれで作家時代の石原のことは実はあまり良く知らず、20年程前、東京都民だったせいか都知事としての印象が強く残っています。没後にその他の著作や関連書籍などを読み、私なりに「政治家 石原慎太郎」の政治人生を考察、本稿にまとめ、振り返ってみました。

石原は大学時代に「太陽の季節」(1956,新潮社)で芥川賞を受賞、産経新聞で「巷の神々」を連載したことをきっかけに宗教的な後援を獲得し、68年に自由民主党公認で参議院選挙に出馬、圧倒的知名度で史上最高の票数を集め初当選、72年には衆議院に鞍替えをします。

 

その頃、東京では社会党と日本共産党は同和問題を巡り対立、両党が支持する美濃部亮吉知事は、1975年4月の次期都知事選に不出馬を表明していました。ところが、衆議院任期中の石原が名乗りを上げると分裂状態の左派が「ファシストの石原だけには都政は渡せない」と一枚岩となり、3選を目指し美濃部を引きずり出します。

 

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都知事選で落選した石原慎太郎と片目ダルマ  (朝日新聞 1975年4月14日夕刊)

 

 

「都政の荒廃を立て直し、新しい東京をつくる。私は生まれ変わるつもりでこの大仕事に取り組みます」

石原は自民党の推薦を受け美濃部に挑みますが、大都市を中心に革新勢力が躍進、人口の多い東京・大阪・神奈川の3都府県で保守勢力が破れます。

 

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▲ 公営ギャンブル廃止を掲げ当選した美濃部亮吉 (朝日新聞 1975年4月14日)

 

美濃部亮吉はマルクス経済学者で、任期中に公営競技を公害の一種とし「公営ギャンブル廃止」の見解を掲げ、東京都競走事業廃止対策本部を設立し後楽園競輪・京王閣競輪など5施設の廃止の方針を示していました。石原の敗北はこれらの方針を決定づけるものとなりました。

 

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1973年に廃止された後楽園競輪場 「競輪二十年史」(1971,自転車振興会)

 

石原はその後に国政に復帰、1990年には長男の伸晃氏と共に親子で衆議院となり、95年に在職25年表彰を受け衆議院議員を辞職しました。伸晃氏は「父の頭の中には、24年前から一貫して都知事のことがあった」としています。

石原の衆議院議員辞職から4年後の1999年、青島幸男知事がわずか1期で都知事を退任、青島は東京都初の中道ノンポリのタレント政治家で、臨界副都心開発事業「世界都市博覧会」中止を公約に掲げ当選、公約通り都市博を中止したものの、ただそれだけで主だった実績がなく都民の支持を得ることなく任期を終えました。4月11日の選挙戦では石原は渡哲也など実弟の裕次郎の残した「石原軍団」総動員で、他の候補を退け雪辱を果たします。

 

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都知事に当選した㊨石原慎太郎と㊧長男・伸晃氏 (読売新聞1999年4月12日)

 

バブル崩壊による長期的な停滞や杜撰な会計で東京都の財政状況は石原の想像以上で、都は財政再建団体に転落寸前、石原は在任中に外形標準課税の導入や複式簿記化など財政の健全化に取り組みます。また同時に、「東京マラソン」や「首都大学東京」など意欲的に新しい政策事業にも取り組み支持を集め、共同通信の世論調査では「次の首相」として現職の小泉純一郎氏を抑え第1位となります。

 

「これまでの常識を覆す、若者や女性にも楽しめる斬新でスマートな競輪を目指す」
「ドームは雰囲気も違うので、昔と違ったイメージ活用したらいい」

 

石原は、公営競技廃止により美濃部都政以降に減少した都の財源の確保として、後楽園競輪の復活と「お台場カジノ構想」を2つを提唱します。

 

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美濃部路線の転換を表明した石原都政  (朝日新聞 2003年6月24日夕刊)

 

 

東京ドームは88年に完成、後楽園競輪場の跡地に建設され、地下に折り畳み式の競輪用バンクが設置されていると言われています。後楽園競輪場廃止は東京近郊にいくつも競輪場があったことからファンが分散しただけで、競輪の売上げが落ちることはありませんでした。しかし、公営競技の歴史に詳しい大阪商業大の古川岳志氏は「競輪文化」(青弓社,2018)で、後楽園競輪場廃止は「象徴的損失」であったとしています。
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後楽園競輪場の跡地に建つ東京ドーム (2021年7月撮影)

 

石原の新競輪の計画は地元住民の反対にあい難航、お台場のカジノ計画も構想を実現するには現行法の枠内では実現が難しく2003年に断念を発表しました。在任中、石原は2016年五輪招致に失敗や設立した「新銀行東京」の赤字化、さらには築地移転問題など批判も多かった一方で、長期不況で経済が全国的に停滞する中で「東京一極集中」といわれるほど、東京は発展し続け都民から高い支持をえていました。

都民そして全国の支持を受けて2010年に新党を設立、同年に大阪で産声を上げた地域政党「大阪維新の会」と協調し、12年には知事を辞職し「日本維新の会」代表に就任し国政に復帰すると、翌年には悲願のカジノ法案を提出します。法案は議論を重ね18年に成立、石原は高齢のため政界を引退していましたが、舞台は大阪の夢洲に移り準備を着々と進めています。

 

 

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▲ ㊧府市主導のディストピア「咲州」と㊨2025年万博・IRカジノ予定地「夢洲」

 

 

大阪では1955年に赤間文三知事が全国に先駆けて競輪・地方競馬の全廃を決定、55年に豊中競輪場、59年に大阪競馬場、62年に大阪中央競輪場、64年には住之江競輪場と次々に廃止または休止され、大阪府の財政状況は東京以上に悪化、財政健全化のため大阪維新の会代表の橋下徹知事が2010年にベイエリアにカジノ誘致の方針を表明します。安倍政権下で増加したインバウンド需要の恩恵を最も受けた大阪は街の景色を変えるほど観光客であふれ返り、カジノ新設は受け皿として打ってつけだったのです。計画では万博前の2024年に開場を目指していたのですが、コロナや土地整備問題で遅れ、首尾よくいっても26年頃となり経済効果を疑問視する声も上がっています。

 

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石原からバトンを受けた「日本維新の会」副代表の吉村洋文知事 (2020年11月撮影)

 

私は全くと言っていいほどギャンブルはしないのですが、財政論としてカジノという施設の有益性は大いにあり、施設ができたらどんなところなのか一度行ってみたいと思っています。カジノ賛成派です。公営ギャンブルの是非について様々な意見があることは知っていますが、石原が財政策として公営ギャンブルを推し進めてきた経緯はあまり知られていないように思います。

本ブログでは、以前から夢洲の万博跡地を競輪場として活用するべきであると主張しています。カジノ施設は収容人数が限られていて、日本だけでなく全世界から多くの来客があり、オープンからしばらくは入場ができないことは目に見えています。溢れ返った観光客をただただ返してしまうのはもったいないことで、本場のKEIRINを体感していただければ、他国のカジノとの差別化にもなり再訪にもつながるのではないでしょうか。

 

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なぜ、競輪場を「夢洲」につくらなければならないのか

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大阪市は2021年12月20日、IR誘致を目指している人工島「夢洲」(ゆめしま)の土壌対策費として、新たに800億円を負担する方針を示しました。夢洲は2025年には「関西万博」、29年に米MGMリゾーツとオリックスによるカジノの開業も予定され、財政状態の健全化に取り組む大阪市は新たな不安材料に市民から批判的な声が上がっています。

すでに「夢舞大橋」や「夢咲トンネル」などの投資がされ、さらに膨れ上がる開発費をどのように捻出するのでしょうか。私はこの難題に、公営競技場の建設・主催レースの実施で、なるべく市民の税金負担を少なくするべきであると考えています。

 

公営競技というのは、中央競馬・地方競馬・競艇・競輪・オートレースのことです。公営競技場は全国37都道府県97場あり、200を超える地方公共団体が主催し、戦後まもない頃から経済を支えてきました。戦災からの復興という目的があり、原則的に空襲にあった都市を中心に設置され、東京は7施設、福岡と愛知は6施設、大阪は少なく岸和田市「岸和田競輪場」と大阪市「住之江ボートレース場」の2施設が所在しています。

中央競馬は国営体制ですが、他の競技は各都道府県と市区町村によって競走が主催されます。住之江のボートレース場はただ立地しているだけで住之江興産という株式会社が所有し、主に箕面市が主催しています。したがって、大阪市は大きな都市でありながら、公営競技による収益がありません。私は箕面市出身で現在は大阪市民なのですが、大阪市が財政状態があまり良くないにもかかわらず、大きな収益のある公営競技を実施しないことが不思議で不思議で仕方ありません。

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本ブログでは、廃止された「大阪中央競輪場」と「住之江競輪場」について以前に紹介しましたが、市が公営競技を主催しなくなった経緯は政治的思想が関係していて複雑です。ほとんどの方は関心がないかもしれませんが、大阪市の将来のために重要なことだと思いますので、読者の方に是非興味を持っていただき議論のテーブルに挙げていただきたいと思っています。

 

公営競技「競輪」爆誕とイデオロギーの対立 

住之江競輪場は1948年の自転車競走法成立を受け、48年12月に日本で2番目の競輪場として開場します。この頃は中央競馬・ボートレース・オートレースの誕生前で、競輪は熱狂をさらい全国に60施設以上の競輪場が建設され、競馬(地方競馬)を抜いて瞬く間に公営競技の王者となりました。

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戦後間もない時期で、GHQ監視下の下で、再び日本が米国の脅威とならないように中央集権体制をとらず、地方公共団体が主催する形態をとっていました。51年にサンフランシスコ講和条約を締結し日本は主権を回復、中華人民共和国の成立や朝鮮戦争の勃発で、米国の思惑に変化が現れます。

 

「日本を共産主義に対する防波堤にしよう」

 

岸信介・笹川良一・児玉誉士夫・正力松太郎など戦犯として巣鴨プリズンにとらわれていた右翼の亡霊が再び表舞台に登場、日本は米国と協調し再び右傾化します。笹川は小型船舶の競走を考案、競馬も集権体制の中央競馬(JRA)が誕生、55年には自由民主党が設立し、現在まで続く日本の礎ができあがります。

1960年代になると自民と対峙する日本共産党・社会党などが自治を握る「革新自治体」が現れはじめ、京都や横浜などで左派が支持する首長が当選し、公営競技からの撤退が各地で相次ぎ、大阪市の競輪場もこの時に全廃されてしまいます。

東京都でも「天皇機関説」の美濃部達吉を父に持つマルクス経済学の美濃部亮吉が政権を握っていましたが、1975年部落解放同盟を巡る問題で日本共産党と社会党が対立し、高齢ということもあり美濃部は次期選挙に不出馬を表明します。しかし、自民党参議院議員の石原慎太郎が出馬を表明すると、「ファシストを都知事にするな」と左派が一枚岩となり、美濃部は不出馬を撤回、後楽園競輪場など都が行っている公営競技の撤退を公約し、石原に勝利します。

公営競技は合法ながらも政治思想によって運営が制限され、開催日を土日祝に限定する「ギャンブルホリデー」(1963~84年)や公営競技場の新設を推奨しない「長沼答申」(1961年)などの方向性がしめされます。このような状況をみて、大阪府警OBの水沼年得はパチンコの換金を仲介業者で行う「三店方式(大阪方式)」を考案、それまで出玉を景品に交換していた遊戯は金銭に交換可能なギャンブルとなり大流行し、競輪は王者の地位を失ってしまいます。

 

 |競技として評価される「KEIRIN」の課題

細々と活動していた競輪は、2000年に転機を迎えます。
柔道に続き日本発の競技として、シドニー五輪から「KEIRIN」が新たに正式種目として追加され、競輪は「スポーツ」として世界から評価されます。この決定は自転車競技のトラック種目の大改革の一環で、これまで屋外で行われていた競技が「室内の一周250mの板張り走路」とルールが厳格化されます。喜びもつかの間、日本にはこの規格の競輪場がなく、長沼答申により新設も難しい状況で、日本の選手団は自国発の競技でありながら、練習のためオーストラリアに行かなければならず、いまだに同種目でのメダルは獲得できていません。この規格の競輪場は欧州ではほぼ各国にあり、中国や香港、マレーシアにも建設されていますが、関西にはありません。日本からメダルが出ない理由の一つに練習のできる環境が整っていないという点を深く考えなければなりません。

はずかしいことに2008年のアジア選手権では屋根のない奈良競輪場で競技を実施、競輪の母国を夢見て来日した選手たちは、老朽化した施設に驚いたことでしょう。想像してみて下さい、バレーボールやバスケットボールの世界選手権が外国であったとして、それが屋外だったら、と。

それはもう、別の競技です。

nara velodrome

少し話はそれましたが、言いたかったのは財政面だけでなく、「スポーツ」という意味でも、「日本文化」という意味でもしっかりとした競輪場が必要だということです。

 

「これまでの常識を覆す、若者や女性にも楽しめる斬新でスマートな競輪を目指す」

 

このような状況にただ一人声を上げる男がいました。四半世紀前に美濃部に敗れた石原は、1999年の都知事選に再び立候補し圧勝、雪辱を晴らします。不況下でも「東京一極集中」と言われるほど辣腕を発揮し「次の首相にふさわしい政治家」に選ばれるほど圧倒的な支持を集めます。任期中、石原は「お台場カジノ計画」や東京ドームを利用した新しい競輪の提案する一方で、パチンコ産業に対する批判を繰り広げます。

石原の主張は在日産業に対する差別的な考えがあるように思えますが、パチンコ産業は法的にもグレーな部分があり2兆円企業のマルハンですら上場が認められていません。

「失われた20年」と言われるこの期間に日本人がパチンコに浪費した金は500兆円以上、500億ではない「兆」です。国債(国の借金)のおよそ半分ほどの膨大な金額で、公営競技なら20~30%が控除され、公共福祉や公衆衛生などに地方の財政に回されるはずの金なのですが、パチンコは民営のためそうはいかず、結果として日本の巨大な富を持つ上位資産家の10人に1人がパチンコ産業の関係者という構造を生みました。

 

石原は2012年に橋下徹大阪府知事に代わり日本維新の会の代表に就任、大阪のローカルパーティであった維新の国政進出に力を貸し、14年に政界を引退します。そして、カジノ論争の舞台も東京から大阪に移ります。

yoshimura osaka

日本維新の会は2013年、カジノを含む統合型リゾート「IR」に関する法案を提出、16年には与党の自民党の賛成も得て修正案が成立すると、大阪は関西万博開催予定地の人工島「夢洲」を候補地として開発、オリックスと米MGM社との合意もあり、当初は万博までにカジノが開業する予定だったのですが、コロナの影響により先送りとなっています。

こうなってくると本当にカジノで大阪の経済は良くなのだろうかという疑念が湧いてきます。

そもそも、カジノは公営ではなくパチンコ同様に民営です。したがって、カジノの売上げが直接的に地方の自主財源となる訳ではないのです。カジノは呼び水に過ぎず、誘致する都市はカジノの来場者に対して、金を使ってもらう何らかの仕組みを作らないといけないのです。

そこで私の提案は、カジノの隣、つまり万博跡地に競輪場を建設し、世界から押し寄せるギャンブル好きの観光客に、本場のKEIRINを楽しんでいただき、市の収益に充てるという方法です。冒頭に示した通り、大阪は大都市の割に公営競技場が2施設しかなく、財政的に困窮しています。維新が政権を担う大阪市が日本共産党・社会党による「革新政治」を踏襲し、公営競技を実施していないのは不自然であり怠慢です。

 

夢洲はの面積は広大で、万博後の活用法が明確にされていません。競輪場の新設は、カジノのような法律の変更は必要なく、許可さえ出せば建設できます。2017年に成立した自転車活用推進法では、自転車競技のため施設の整備が基本方針に盛り込まれていて、都道府県・市町村は大綱をまとめ、住民に協力を求める法律となっています。大阪市にはこの「自転車競技のための施設」というのがひとつもないという現状なのです。中国・韓国・香港・マレーシアにはありますが、大阪市にはないのです。

今を生きる大阪市民は公営競技の恩恵を受けた経験がないため、その有益性を想像するのは難しいかもしれませんが、多くの政令都市が採用している実績のある確実な方法なので、ぜひ新設の可能性を模索していただいきたいと思います。

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徳島県唯一の競輪場、潮騒と女性実況の「小松島競輪場」

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徳島県に小松島にある「小松島競輪場」に行ってきました。

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JR徳島駅から牟岐線で20分、県の東部の紀伊水道に面した人口3.5万のまち小松島。競輪場は市の中心部、南小松市駅より徒歩10分の海沿いに立地しています。

 

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江戸時代にたぬきの縄張り争いがあったという言い伝えがあり、市ではたぬきをマスコットにしているようです。初めて知りましたが、この狸合戦の話は何度も映画化されたりしているみたいです。

 

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役場や消防署のある市の中心部の通りを東に向かうと大きく分かりやすい黄色の入場門が見えてきます。

四国には5施設の競輪場がありましたが、2012年に香川県の観音寺競輪場が廃止となり、現在では各県に1ヶ所ずつ市営の競輪場があります。自転車競技法が施行された翌年の1949年12月に愛媛県で松山競輪が始まると、高知、高松と競うように矢継ぎ早に造られ、小松島は50年7月に開場、昭和・平成・令和と名勝負を繰り広げてきました。

 

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ゲートをくぐり施設に入ると、子供が遊べる滑り台などの遊具があり、マスコットは名物のたぬきをモチーフにした「ポンスター」が出迎えてくれます。入場料は無料で、珍しく競走の実況は女性の方がされています。

 

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バンクは一周400mの屋外型、海からの風がレースに影響を与えることがあるそうです。バンクは藍色にきれいに塗り替えられていました。この日は競走が開催されていて、許可を申請しその写真も撮るにはとったのですが、選手の撮影は「個人で楽しむ限りOK」で「ウェブ掲載はNG」だそうです。最近はいろいろあってそういう決まりになっているみたいです。ちなみに、同施設ではガールズケイリン(女子競輪)は、設備の都合で実施されたことはないそうです。

 

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開場から70年が経ち潮風にさらされ老朽化して人影も疎らですが、奈良競輪場のように倒壊の危険があるとかではなく、見ようによっては1周回ってかっこよく見えます。繰り返しになりますが、「Onomichi U2」みたいに少し手を加えれば、もっとこの好立地が地域の活性化につながるのではないかと思います。

 

komatsushima keirin

 

2017年に施行された自転車推進法では、自転車専用道や駐輪場の整備など12の基本方針を明示しています。 国はこの基本理念を実施する責務を有し、各都道府県は「都道府県自転車活用推進計画」し、地方公共団体は区域の実情に応じた施策を策定し住民に理解を深め実施していくように努めなければなりません。

この法律は少し踏み込んだ内容になっていて、12の基本方針の4番目に自転車競技のための施設の整備というのがもりこまれています。

自転車競技の環境の整備」なら分かるのですが「自転車競技のための施設の整備」なのです。つまり、各市区町村は、競輪場(MTBやBMXパークでもいいけど)を図書館や公民館のように設けなければならないのです。

当ブログでは以前に大阪市内の競輪場が全廃された経緯を説明しましたが、大阪市には現在も「自転車競技のための施設」というのはありません。「大阪市自転車活用推進計画」を見ても具体的な計画は全く示されておらず、大阪市はいったいどうするのでしょうか。

小松島のバンクがきれいになったのがこの法の影響かどうかは知りませんが、コロナで競輪が一時中止になった時期があり、この期間を利用してリニューアルした施設も多いらしいので、またほかの競輪場も行ってみたいと思います。

 

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徳島県立近代美術館 特別展「自転車のある風景展」

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徳島近代美術館で開催中の特別展「自転車のある風景展」を見てきました。

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南海・なんば駅から南海本線で終着駅の和歌山港駅へ、そこから南海フェリーに乗船し約2時間。目的地の徳島県立近代美術館は、徳島の中心部のJR徳島の南西約3kmほどの「文化の森」と呼ばれている山すその一角にあります。

tokushima

気温35度。
強烈な日差しと暑さですが、徳島初上陸ということで昼食に名物の徳島ラーメンをいただき、美術館に向かいます。

tokushima ramen

なぜ、市の中心部ではなく、わざわざ公共交通機関で行くことが難しいこんな離れた場所にあるのか理解に苦しみますが、田園風景の中に新興宗教の施設のような大きな建物が見えてきました。

bunkanomori

特別展は2021年9月5日まで開催され、入場料は大人900円。常設されているピカソの絵画やイサムノグチの彫刻、地元のアーチストの作品なども併せて見ることができます。支払いは現金のみで、クレジットカード等は使用できません。ちなみに、鉄道・バス・タクシー、ラーメン屋、自販機にいたるまで県内の支払いはすべて現金しか使用できませんでした。

tokushima muse

展示は4部構成

第1部 自転車誕生
第2部 自転車とオリンピック・パラリンピック
第3部 自転車と美術
第4部 自転車とデザイン

料金を支払い入場すると私以外入場者は見当たらず、ゆっくり展示物を見ることができました。

ordinary

第1部は当ブログでも度々紹介している堺の自転車博物館所蔵の貴重な欧州のクラシック自転車が展示。撮影はここまでで展示室内は撮影禁止でした。

ちょうど五輪開催日時と重なるためか第2部は五輪の使用車や記念資料が展示され、この辺りまでは、美術館というより博物館といった感じです。

tokyo 1964 olympic
▲1964東京五輪 自転車競技ロードのゼッケン  自転車博物館にて2020年に撮影

美術館らしくなるのは第3部で、
展示は4つのテーマに分けられていて

①自転車とポスター
②明治・大正・昭和の日本の作品
③20世紀 モダンアート
④自転車写真

となっています。

自転車文化センター所蔵の欧州の販促用ポスターと京都工芸繊維大所蔵の京都競輪場(通称:宝ヶ池競輪場)のポスターが個人的にはこのパートの最大の見どころのように思います。

特別展の目録が店にありますので、見たい方はご用命ください。

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▲シンプソンのチェーン (1900年) (目録の背表紙)

第4部は再び自転車の展示になり、個性的なハンドメイドのスポーツ自転車が中心となっています。展示の自転車は合計で20台ほどでしたが、私はここにあるほぼすべての自転車を今までに見たことがあったので、見せ方を含めてとりわけて特別な印象はなく、予定より短い時間で会場を出ることとなってしまいました。

cherubim hummingbird
▲ 今野真一作 ケルビム「ハミングバード」(2012) 茅ヶ崎美術館にて2017年に撮影

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▲ 栗田秀一作 メビウス「カヴァイシャスフレーム」(1995年頃)  自転車博物館にて2017年に撮影

2021年9月17日から11月23日は八王子市夢美術館にて、同じ内容の展示会が引き継がれる予定となっていますので、関東圏の方はぜひ行ってみて下さい。

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