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戦後初の女性国会議員「山口シヅエ」の正体

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ヤクザが仕切る盗品が並んだ新橋の闇市、桃太郎旗を掲げた男がカランカランと鐘を鳴らすと食べ物屋が来たと思い込んだ人がつられて焼け跡のバラックから駆け出し外へ出てきます。集まった人を前に白いブラウスにハイヒールを履いた初々しい女性がおさげ髪を揺らし壇上に上がり、名を名乗り笑顔でなにやら演説を始めました。老猿のような男性が持つ旗には「山口シヅエ」とあり、演説は二人三脚で脚がパンパンになるまで歩き回り、貴重品の紙を大量に手配しパンフレットを配布、戦火で荒廃した東京の新しい時代の幕開けでした。

 

「一日六時間働けば食べていける、そんな世の中をつくりましょう。そうすれば、女が働きながら子供を育てられます」

 

1945年8月、日本は二発の原爆の投下により壊滅的な被害を受け降伏、6年あまりにわたって続いた連合国との戦争は昭和天皇による玉音放送にて終結します。その後、GHQの管理下で婦人参政権が認められ翌年4月10日の総選挙では1300万以上の女性が投票、39名の女性代議士が誕生しました。

 

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 山口シヅエ 日本で初めての女性国会議員 

 

新憲法下初めての総選挙は31%の議席を獲得した日本社会党が比較第一党となり、民主党などと連立を組み片山内閣が発足しました。日本社会党というと中ソと交流を重視した政党のイメージがありますが、社会党が東側諸国から秘密資金を受けるなど左傾化したのは、日本共産党が「非武装」路線に主義を修正し中国共産党との関係が悪化した1955年以降になってからで、発足当初は党内に複数の派閥があり、シヅエはキリスト教社会主義指導者の強い影響と後ろ盾を受けて初当選、日本で初めての女性代議士としての道を歩み始めました。

5月16日、この日に初めて国会に登庁した39人の女性議員の中でシヅエは最年少の28歳、東京1区という大激戦区で鳩山一郎(後の首相)に次ぐ得票数を獲得し「下町の太陽」と評され、党の看板娘となります。このときの39名の大半が再選できず1期で政治家生命を終えるのに対して、シヅエは通算当選回数13回で1980年代まで政治家として活動し、在任中には女性運動や売春防止法の制定に力を注ぎ、全国婦人連盟会長や経済企画庁政務次官などを務めました。

シヅエは30年以上に亘る政治家人生で幾度となく辛酸を舐めます。なかでも1967年の衆議院選では、党内の派閥抗争で選挙違反を問われ書類送検、不起訴となったものの不信感から社会党を離党、追いかかるように恋愛スキャンダルや元秘書の資金横領にも見舞われました。シヅエは戦争で実弟を亡くし、深川にあった自宅も空襲で被災に遭い丸裸で、唯一心の頼りにしていたのは父親の重彦でした。

 

 

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▲ 山口重彦 独自の経営力で山口自転車を一代で築いた

 

父親の山口重彦は1894年生まれ、ダット自動車(現在の日産自動車)で技師として勤務後に「山口自転車」を設立、8000店もの小売店網を構築し一代でトップメーカーにしました。ABCD包囲網により国内の原油備蓄がわずかとなった戦時中、蒋介石を支援する英国の援蒋ルートを断つため、シンガポールを目指し侵攻していた我が国の歩兵部隊は英領マレーに石油を使用しない自転車部隊で南進、山口の自転車の工場は「銀輪部隊」の軍需によりフル回転しました。戦後も商才を発揮し、自転車業界が協会の談合で販売価格を決めあぐねている間に他社を出し抜く廉価価格の長期月賦方式を採用し自由競争時代をけん引、ママチャリなどまだ存在もしない時代に女性にターゲットをしぼった専用自転車「スマートレディ」の発売など業界を騒然とさせました。シヅエが立候補を決めると、仕事そっちのけで選挙活動に付き添い惜しみなく私財を投入、自身も選挙にのめり込み出馬を決め参議院議員を2期務め、政治と自転車メーカーという二足のわらじを履き周囲の注目を集めていました。

 

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山口自転車の女性専用自転車「スマートレディ」 シマノ自転車博物館所蔵  [筆者撮影]

 

シヅエが初当選した翌年9月、首相となった片山哲に愛知県選出の社会党代議士から政策に関わるある計画の詳細が説明されました。

「車券付き自転車競技、つまり競馬のようなものだね。まあ、ちょとだけの賭け金なら認めてもいいだろう」

片山はキリスト教徒で社会民主主義者として知られ、滅多に自分の意見を明らかにしない人でしたが、戦災で映画館や劇場も焼け、労働者の娯楽があまりない情勢を考慮して「車券付き自転車競技」の実現の協力を約束しました。11月、衆議院内の議員食堂にて各党の代議士と提案者が会合を開き趣旨や経緯を説明、シヅエは集まった出席者に茶菓を接待し会合は和気あいあいと進められ、計画は提案者から懇請されました。

車券付き競走という奇抜なアイデアの種をまいたのは南関東自転車競技会の海老沢清文副会長でした。海老沢は「自転車産業の復興とサイクルスポーツの振興」を大義名分に自転車産業界とパイプを持つ倉茂貞助に原案の作成を依頼、自転車総合メーカー日米商店(現在のフジ)の岡崎進社長を引き込み議員に陳情にあたりました。岡崎の父は日米商店の創業者で当選6回の衆議院岡崎久次郎、そして叔父も外務大臣をつとめた代議士で、法案は瞬く間にまとまりました。

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㊧倉茂貞助 自転車競技法の制定に尽力
㊨海老沢清文 競輪の発案者

 

ところがこの頃はまだわが国はまだ連合国軍の占領下にあり、法律案には総司令部の了承が必要でした。法案は一旦は総司令部民政局に受理されたましたが、GHQ内の派閥関係の事情で不認可となります。認可取り消しに驚いた議員団は、改めてひざ詰めで法案の上程を談判し、ようやく「自転車競技法」が審議されます。

法案は共同提案として超党派で付託され、シヅエら委員によって審議、自転車産業の復興と京都市・大阪市・横浜市・神戸市・名古屋市の5都市地方財政の増収を目的と定めて議論されました。法案は衆議院で満場一致、参議院では賛成多数で可決し競技法は成立、衆議院本会議において日本自由党の委員から一部修正の申し出があり、主目的が「自転車産業の復興」から「戦災都市の復興」に重点が変更され空襲の被害にあった206都市が開催候補地としてリストされました。

競輪というスポーツは日本以外では開催されていない新競技で、主催することで利益が本当に得られるのか分からず各地の反応はさっぱりでしたが、1947年には福岡県小倉競輪と大阪の住之江競輪で開催されました。すると熱狂的な人気を博して、全国の60の超える競輪場で開催されるようになり、復興の貴重な財源となり主催自治体の財政を下支えました。そして、75年経った現在もこの内で43施設が現役で、当時の想定をはるかに超える天文学的な恩恵を地域にもたらしています。

一方で競輪は直接的に自転車産業にもたらす恩恵は少なく、山口自転車は1963年に経営不振となり重彦も体調を崩し65年に71歳で他界してしまいます。倒産の原因は選挙に資金をかけすぎたこととオートバイ事業の失敗といわれ、生産設備は台湾の穂高(ホダカ)に売却、「山口」のブランドは大手商社の丸紅に受け継がれ「山口ベニー」としてランドナー「べニックス」などヒット車を生みます。シヅエは同社に飯事部の部長して勤務していましたが、立候補後は家業を離れ政治活動に専念していました。

 

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山口ベニー「べニックス」の雑誌広告  サイクルスポーツ1975年6月号

 

シヅエは1967年に政権与党の自由民主党に入党、異端の政治家また同政党の唯一の女性代議士として精力的な活動をし、80年には女性として初めて国連平和賞を受賞、引退後には女性政治家の草分けとして瑞宝章を授与されます。

「日本の女性の社会的地位は、戦後飛躍的に向上しましたが、まだ男性と対等に実力を発揮している訳ではありません。対等の報酬を受ける時代がいずれ来るでしょうが、そうした時代に向けての捨て石になれたと、満足しています。」

2012年、山口シヅエは94歳にて波乱の生涯に幕を閉じます。
競輪誕生から75年、孫の世代まで恩恵をもたらす驚異の構想、そして功名心を捨て献身的な姿勢で将来を見据え達観する姿、サンスター自転車の金田邦夫の投稿にも記しましたが、落ちぶれた令和の日本人がまさに規範とすべき人生のように思います。

 

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瑞宝章を授与された山口シヅエ 読売新聞 1987年11月27日夕刊

 

 

■参考 <日本人の国連平和賞受賞者>
1979年 岸信介 (元首相) 日本人初の受賞
1980年 山口シヅエ 女性初の受賞
1981年 福田赳夫 (元首相)他1名
1982年 笹川良一 (日本船舶振興会会長)他2名
1983年 池田大作 (宗教法人会長)他1名
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ママチャリ大国ニッポン  ~世紀の大発明はいかに生まれ、普及したのか~

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前回の投稿では大阪の自転車企業「サンスター自転車」の興亡を通して、戦後の日本の自転車文化を紹介させていただきました。

わが国の自転車利用者の男女比は51:49とほぼ半々で、他国と比べ女性の利用割合が最も高い国だそうです。その理由のひとつに、高度経済成長期より主婦が子育てのために自転車を利用しているという点があります。前回のブログで、1950年代の自転車の主用途が「運搬」であったと投稿しましたが、「ママチャリ」の登場により、その構図に変化が現れます。

 

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サンスターの女性用自転車「婦人サンスター号」

 

今からちょうど60年前の1962年、ロンドンのアールズコートで開催された展示会に画期的な自転車が出品されます。前年9月に英誌「エンジニアリング」にて発表されたこの「MOULTON」(モールトン)という小さな車輪の自転車は、構造的にも注目され欧州各地で続々とコンパクトな類型車がつくられるようになります。

 

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▲ 「MOLTON」が紹介された記事   [ニューサイクリング誌より  1963年4月発行]

 

日本国内では、1955年にすでに片倉工業が16インチのオリタタミ自転車「ポーターシルク」を製造していましたが、モールトンの登場は日本にもすぐさま伝えられ、64年には変速機メーカーの前田工業の河合淳三が英国から持ち帰ります。河合は16インチ車輪のモールトンを研究、日本の道路事情に合わせ20インチの自転車を設計し、これを「婦人」をターゲットに普及に努めます。戦後間もない時期は「不妊になる」となど言われ自転車に乗る女性は全体の10%以下、女性専用車はあるにはありましたが使用は女医や女学生の一部などに限られていました。このタイプの婦人向け自転車をなんとか普及させようと、日本サイクリング協会委員の鳥山新一が「ミニサイクル」と命名、各社は開発を進めていきました。

 

 

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▲ 片倉工業「ポーターシルク」(関西サイクルスポーツセンター所蔵)

 

現在の日本では車輪径が小さい自転車は、全く珍しいものではありませんが、海外ではほとんど利用されていません。欧州の一部で、自転車にこだわっている人が、折り畳み式高級車を乗っていることはありますが、日本の様に価格の安いスモールホイールの自転車は販売すらされていませんし、「ミニベロ」という言葉も外国人には通じません。「ミニサイクル」や「ミニベロ」を日常的に誰もが利用するという文化は、実は日本自出の独特の文化で「ママチャリ」というのも土俗的なものではなく、マーケティングによって創造されたカテゴリーなのです。1968年のサイクルショーにて、販売促進のため当時の自民党幹事長福田赳夫にまだなじみの薄い「ミニサイクル」を見てもらうと、福田は「おい、私に子供用を乗せようというのかね」と困惑したというエピソードがあったそうです。

 

同じ頃、大阪市内では千林商店街のドラッグストア「主婦の店 ダイエー」や衣料品店「赤のれん」、天神橋筋商店街の下着店「ハトヤ」、西成の衣料品店「イズミヤ」などの有力商店が、セルフ販売による米国式の新しい小売店のスタイルの研究組織「ペガサスクラブ」を結成、このクラブには四日市の呉服店「岡田屋」や東京の「ヨーカ堂」なども参加し、スーパーマーケットへと進化します。大阪万博が決定すると千里や泉北にニュータウンが建設され、経済成長を支える人口が都市部に集中し始め、生活様式が大きく変化し、それまで「家内」とよばれて文字通り家の中の家事仕事をしていた主婦がスーパーのチラシをチェックして特売品を自転車で買いまわる「ママ」となります。ママ用の自転車「ママチャリ」はオイルショックも手伝い、自転車保有台数も急増、1955年から70年の15年間で2倍以上、生産台数も4倍と増産に次ぐ増産となります。

 

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▲ナショナル自転車のミニサイクルの販促物

 

販売方式もこれまでの自転車店だけでなく、スーパーマーケットやディスカウントストアでも販売されるようになり、客寄せ用の目玉商品として仕入れ原価以下で廉売されるようになり、自転車業界内では「ママチャリ害悪論」まで浮上し、安売り店と対立するようになります。なかでも、ナショナル自転車工業の松下幸之助とダイエーの中内功は裁判沙汰になり「流通戦争」といわれるほど激しく対立ます。販売店との共存共栄を標榜し「天与の尊い道」といった精神論的な経営をする松下、研究による研究で科学的かつ合理的な方式で急拡大を目指す中内、互いの考えは水と油で、ママチャリメーカーは系列店重視の「工業型」と廉売志向の「商業型」と区別されるようになります。

 

1985年プラザ合意以後の急激な円高と89年自転車輸入関税撤廃により、海外から輸入される安い自転車が急増、平成不況も相まって「工業型」メーカーや部品メーカーは大打撃を受け事業縮小や倒産が相次ぎ、日本の自転車産業は空洞化、「商業型」メーカーも中国依存を強めます。2000年代に入ると自転車の低価格化は一層進み、平均価格は10500円、局所的には7000円台で廉売されるようになり、「コーナン商事」に代表されるホームセンターや「サイクルベースあさひ」など小売業が主導権を握るようになります。

 

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▲ ショッピングセンターで販売される自転車

 

2008年の広辞苑(第6版)で「ママチャリ」という言葉を調べると「婦人用の自転車」と掲載されています。
それが、2018年の最新版(第7版)では「俗に生活用自転車のこと」と「女性用」という説明がなくなっています。この10年で、ママチャリは男女問わず使用される乗り物へと変質した証左だといえます。長身の男性も使用するため車輪径もミニではなくなり26または27インチが主力となり、 海外とは全く異なる独自の自転車文化となっているのです。ママチャリはその存在があまりに身近であるため、評価されることはほとんどありませんが、日本の生活に与えた影響は非常に大きいといえます。

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