Pocket
Bookmark this on Google Bookmarks

大阪平野を東西に流れる神崎川は大阪市北端の境界で、中流で北から流れる安威川(あいがわ)と合流し大阪湾に注ぎます。安威川は茨木・摂津・吹田市など三島郡を流れる一級河川で河川敷が整備され、自転車が走行できるようになっています。秋も深まり自転車に乗るのに気持ちいいシーズンとなりましたので、大阪平野の最北端の茨木市まで、安威川沿いをサイクリングしてきました。

 

kanzaki

 

茨木市は「伊豆の踊子」「雪国」で知られているノーベル賞作家の川端康成が幼少期に過ごした郷です。川端は成績優秀で茨木中学(現・茨木高等学校)に首席で入学、作家を志望するようになります。茨木中は府下でも屈指の名門校で、地元農家の二反長半二郎(にたんちょう はんじろう)も川端の影響を受け入学、二反長半(にたんちょう なかば)のペンネームで文筆活動をしていました。二反長半は児童文学や伝記などを数多く執筆「自転車と犬」(鶴書房,1941)、「松下幸之助」(盛光社,1964)、「若き池田大作」(集英社,1971)といった作品を残しています。二反長家は村をまとめる篤農家でしたが、半は法政大学に進学後に教員となり作家活動をしていたそうです。父の後を継がなかった理由としては川端の影響もありますが、それ以上に二反長家が栽培していた植物の品種に関連しています。

 

ibaragi

 

半の父・二反長音蔵は1875(明治8)年三島郡福井村生まれ、旧姓は川端。
20歳頃からケシの栽培に興味を持ち船場の道修町で種子を買い込み、独自で品種改良や栽培方法を研究します。ケシはアヘン・モルヒネ・ヘロインの原料で当時でも国内では中毒などの薬害が十分に認識されていて、政府の厳重な管理のもとで栽培されていました。音蔵は薬用アヘンの国内での自給自足を目指し、台湾産ケシから「福井種」、中東産から「三島種」といった優良種を開発、台湾総督府の後藤新平にも高く評価され日本政府から信頼を受けていました。

 

aigawa

 

江戸時代に日本は200年以上も鎖国政策をとっていましたが、その間世界では交易が盛んになり、コーヒー・紅茶・タバコなど依存性の高い嗜好品の貿易が増えていきました。なかでもアヘンは東アジアで嗜好され諸国に広がりました。1895年日本は日清戦争の勝利により下関条約で清国から台湾の割譲を受けます。台湾原住民はアヘンを嗜好し、蔓延の対策に指名されたのが医師の後藤新平でした。後藤は原住民との衝突を避け円滑に統治できるようにアヘンを禁止するのではなく漸減策とります。アヘンを日本の管理下に置き台湾国内での栽培を禁止、星製薬の星一(作家の星新一の父)の力を借り専売制を実施、毒をもって毒を制する手段を取ります。

 

ahen
一面に広がるケシ畑の光景  向かって一番右が二反長音蔵   「戦争と日本阿片史」より

 

国家的な政策により音蔵のケシ畑の耕地面積は増え福井村を中心に500アール、18000人の搾取人を要し、春になると安威川沿いには一面のケシの花が咲き、最盛期には和歌山県有田郡にも作付けされ、国内の98%を供給したそうです。音蔵はケシ栽培に情熱を掛ける一方で自転車で「テクッ」ることを好み、船場や和歌山の耕作地まで汽車を使わず英国製「ラーヂ号」を使って移動してたようです。

 

ibaragi
「ラーヂ号」を販売する茨木市内の自転車店 (1934年頃) 在郷町古きまちなみ写真展より

 

時は流れ1905年、日露戦争でロシアに勝利した日本はポーツマス条約により南満州鉄道の運営に着手、鉄道の警備員「関東軍」を配備します。歴史はこの鉄道を舞台に諜報戦となり、31年に日本は清朝最後の皇帝・溥儀を担ぎ中国北東部に満州国の建国を宣言します。五族協和を掲げ建国された満州国でしたが実態は日本の傀儡国家で、各国の諜報員が暗躍するスパイ天国となっていました。アヘンは戦略的物資として特務機関「里見機関」よって地下組織に密売され、中国と軍事衝突していた関東軍の秘密資金とされました。

満州国内では急速にアヘンの需要が増加、吉林で900軒、チチハルで500軒と各地でアヘン窟が公然と営業されました。なかでもハルビンは魔窟「大観園」をはじめ3000軒以上の吸引所があり、過酷な労働に従事する人を蝕んでいました。

アヘンは国際条約で禁止されているため日本が国家主導で直接売買はできませんので、政府はあくまで「民間企業」が法の目をくぐり狡猾に密売を行っているという建前で、実態は関東軍主導の極秘任務で音蔵はその片棒を担いでいました。

 

nitancho

 

もちろん、このような事実は当時の日本人は知るすべもなく長く秘匿されていました。しかし1998年10月、愛知県立大学倉橋正直教授が音蔵の遺品である門外不出の箱の調査を二反長家に依頼、死後一度もあけられた形跡のない箱内の資料により音蔵の特務が明らかにされました。

音蔵は馬にまたがり50名の満州国軍の護衛兵を率いて吉林省の山岳地帯の奥地に出向きケシの栽培を指導、満州国から招かれたこのときの自らの様子を「阿片王一行」と記しています。音蔵は67歳にして伊勢から自宅まで自転車に跨り1日で走破する健脚ぶりだったそうですが、初めて乗った馬のサドルは音蔵には合わず移動中は尻の痛みに悩まされたようです。ケシ栽培は実地指導だけでなく、作付け品種の選定から技術面の指導など非常に計画的に行われ、朝鮮・蒙古を含み合計で少なくとも37回の外地旅行に出かけたとしています。

 

IMG_1707
満州国の阿片精製の実景 二反長半著「戦争と日本阿片史」(すばる書房,1977)より 

 

しかし、関東軍のこのような偽装工作は米国スパイによって徹底的に監視され、軍拡を警戒した米国は国際連盟の諮問機関の委員会にて日本を糾弾、満州の独立を認めず中国からの撤退を勧告します。英米は蒋介石率いる中国国民党を支援、中国侵攻から大東亜共栄圏の確立を目指す日本に原油の輸出禁止措置など経済的に制裁を下します。引くに引けない日本は国連脱退を表明、英米との全面戦争へと発展していきます。

 

 

fukui

 

日本国内ではアヘンが蔓延した歴史はありませんが東アジアでは通貨のように使用され、法律で禁止しても断つことは難しく、扱いを間違うと人だけでなく国家そのものをダメにしてしまうこともあります。音蔵はアヘンの吸引や密売に手を染めることはありませんでしたが、研究や旅費に多額の財産を費やし所有していた山林や田畑など財産を次々と手放し、晩年は「尊農」を自称し宗教にのめり込みました。

現在、福井ではケシ畑のあった形跡は消え去り、二反長家の隣にあるJAの職員や近所の老人たちに聞いても、そんな話は初耳だと言っていました。100年前、音蔵が「テクッ」た安威川の河川敷の轍、伊勢から150kmを走り帰宅した際も音蔵は「少しも疲れなかった」と言っていたそうです。