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前回の投稿で、自転車だけ60年前と現在の物価水準がほぼ同じというデータを紹介しました。うどんやたこ焼き、ランドセルや散髪などは、およそ10倍の価格になっているのに一体どういうことなのか・・・

金属の価格が暴騰していた時期というのもその理由のひとつなのですが、1950年代と現在では自転車が果たす役割が大きく変化しているというのもその要因です。現在、自転車は移動や育児またはスポーツなど多様な使われ方をしますが、戦後間もない時期の主用途は「運搬」でした。

佐野裕二著「自転車の文化史」(1985,文一総合出版)によれば、「人だけが乗る自転車」への転換が意識され出したのは、1954年になってからとされています。それ以前は、業務目的の運搬車「実用車」が主役でした。

当時の大阪では金田邦夫が起こした「サンスター」というブランドの実用車が人気を博していたようです。

kishimoto cycle

戦時中は軍需からほぼ途絶していた自転車の生産も、終戦直後から三菱重工や片倉工業など多くの企業が参入します。戦前に自転車部品の輸入業を行っていた金田はパンク修理用のゴムのり容器に歯磨き粉を入れ販売すると評判となります。

 

「二兎追ふものは一兎も得ずと云ふ言葉が御座居ます、ハミガキと自転車を同等の力で追つて居れば何れは双方とも失つてしまふでせふ」

 

1951年、金田は大阪星輪社の中矢徳一と髙橋商店の髙橋勇らをアドバイザーにむかえ、新会社「サンスター自転車株式会社」 を創立、生野区中川町に工場を新設します。社名には、太陽の昼も星の夜もたゆまぬ精進を続けるという意味が込められています。当時の自転車業界では、サンツアー、サンシン、サンヨー、サンビー、サンライト、サンエス、サンキなど「サン〇〇」という商標が流行していて、関連企業の星光社の「星」とかけて「サンスター」と命名されます。

 

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▲ 大阪星輪社の新聞広告 取り扱いメーカーにサンスターの自転車が紹介されている

 

自転車の部品を製造する小さな工場が集中する関西は、自転車製造を一手に担う「一貫工場」より「アッセンブル工場」が優勢で、ギアクランクの製造に強み持つサンスターも、リムのアラヤ工業やペダルの極東、星スポークなど30以上のメーカーと1200軒以上の特約店の協力により、大阪のみならず北海道から九州に及ぶ販売網をつくります。注文は電報で受付け、自転車輸送は自社のトラックを使用したようです。

私は数年程前から同社の社友・髙橋勇の経営していた自転車店について調べていて、没後に散逸してしまった氏のプライベートライブラリーの書籍を再収集しています。そんなこともあって、サンスター自転車の関連資料が数点ばかり手元にあり、自転車メーカーとしての同社の興亡を推察することができます。

 

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サンスター自転車の主力商品 実用車「キング号」

 

自転車のラインナップとしては主力車種「キング号」や社名にもなっている「サンスター号」など実用車となっています。写真は同社のカタログ作成に使用したもので、髙橋が保管していたもので、横から撮影されたものが4種類あります。自転車の写真以外には販売促進用に撮影されたものが数点あり、そのうちの1枚には女性4人と自転車が写っていて、裏面には当時の女性の名と日付が記されています。よくわからないので、ネットで調べると宝塚のスターのようです。

昭和28.4.5

川路 立美
筑紫 まり
八十島 晴美
八代 洋子

 

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髙橋商店は特約店としても別格で、月報「サンスターマンスリー」十号(1952.6)では、同店のディスプレイが見開きで紹介されています。路面電車によるホコリのためセットバックしている建物部分のファサードに、新たに三面ガラス張りの突き出た陳列を増設する事例の報告です。

 

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▲ 自転車店にて展示されるサンスターの自転車   大阪市上町「髙橋サイクル」

 

運搬用として活躍していた実用車も、原動機付きのモペット(ペダル付オートバイ)の登場により、下火となります。サンスター自転車は「REX」というモペットを製造、バイクには詳しくないのでこちらも詳細はよくわかりませんが、写真を見る限り3種類製造していたようです。サンスターのホームページなどインターネットで調べても、このバイクの情報は得ることができないため、本当に詳細不明の謎の写真です。バイクに詳しい方がいましたら教えて下さい。

 

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▲ サンスター自転車 原動機付のモペット「REX」

 

当ブログでは主に基礎自治体の財政政策論として競輪場施設について投稿してきました。サンスター自転車も始まったばかりの競輪に競争車を提供、各地で活躍する選手の状況を「サンスタークラブ便り」を通じて競走結果を報告してました。

自転車業界は新たな顧客層獲得のため「人だけが乗る自転車」の普及活動が始まり、スポーツ車や軽快車を使用した「サイクリング」という発想が提唱されます。日本語でいう「サイクリング」は「ハイキング」の自転車版のような独特の意味を持っています。英語ではオリンピックの競技も「CYCLING」で、少し日本語とはずれがあります。これはこの頃の普及活動の名残といえます。

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現在、欧米の自転車文化の主役がスポーツ自転車であるのに対し、我が国のスポーツタイプの普及率は自転車全体の15%ほどと低い水準となってます。1950年代の「サイクリング」ブームは長続きせず、業界の期待は空振りとなり、サンスター自転車も生き残りを賭けてギアクランク製造に注力し、完成車製造から身を引くこととなります。

これらの残された資料を読み返すと、金田や髙橋など当時の人たちは非常に勉強熱心で一生懸命であることが分かります。集会や研究会で知恵や意見を出し合い創意工夫や試行錯誤の連続で、それでも思うようにいかない様子は、まるでドラマを見ているような気分になります。私は彼らの半生をNHKの朝ドラにするといいのではないかと思います。アニメやゲームに興じて、なるべく効率的に金を儲けることばかり考え、「社会が悪い、政治が悪い、助成金よこせ」と言っている落ちぶれた令和の日本人が、まさに規範にすべき生きざまだと思うからです。

うたかたと消えたサイクリングブーム、突破口が見いだせず斜陽産業とまで言われた日本の自転車生産ですが、研究の末に以後100年以上売れ続けるであろう空前絶後のヒットアイテムを生み出します。それは大阪人の手によってつくり出されました。

世紀の大発明「ママチャリ」の登場です。
(次回に続く)