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電撃!大東亜の共栄、八紘一宇のマレー作戦「銀輪部隊」

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84年前の今日、2月15日は世界の4分の1を支配した大英帝国に日本が勝利した日です。太平洋戦争は劇的な幕開けで日本軍はイギリスに大勝利、シンガポールを電撃的に侵攻し、指揮官の山下奉文中将は「マレーの虎」と畏怖されました。しかしながら、このような史実を日本人は敗戦を境に一切を忘れることとなります。

大日本帝国は無謀で残虐で愚かで非道、敵う訳もない英米相手に狂ったように暴走し、敗戦は自業自得であり、したがって憲法に陸海空軍その他の戦力を保持しないことを明記、平和主義を標榜し周辺国には謝罪の限りをつくし・・と教育をされてきました。歴史は勝者によってつくられ、敗戦国は戦争を美化することは糾弾され、ただただ反省することが要求されます。

子どもに兵法を教える時代ではないと思いますが、敗戦国にも自国の本当の歴史を知る権利があります。本稿ではお受験用の日本史Bでは習わない太平洋戦争の対英マレー戦を、戦闘で大活躍した自転車部隊の視点を中心に振り返ってみたいと思います。

 


マレー戦で活躍した「銀輪部隊」  森山康平著「秘蔵写真で知る近代日本の戦歴」より

 

日本海軍が真珠湾を奇襲した1時間前、山下中将率いる陸軍は英領マレー半島を侵攻、半島北部のタイに向かうと見せかけ南下、難攻不落のシンガポールを目指し進撃しました。日本はすでに1937年から蔣介石率いる中華民国と事実上戦争状態にあり、満州支配をめぐる主張の違いから国連を脱退し国際的に孤立していました。英米中から経済包囲網(ABCD包囲網)で揺さぶられ、石油が枯渇寸前となりロシアと対峙して北進するか、東南アジアに南進するかの二択となり、東側の諜報工作により北進を断念します。

日本軍は対支一撃で南京を攻略、中国国民党のナンバー2だった汪兆銘を立てて政府を樹立、欧米人による支配からのアジア解放をめざし「大東亜共栄圏」の確立を目指し蒋介石の懐柔を目論見ました(桐工作)。イギリスはオーストラリア先住民を娯楽として殺害、アメリカは黒人を劣悪な奴隷船にて売買、ロシアはウクライナ人を戦争の戦火の最前線に送り込み民族浄化を計るなど欧米列強による支配が世界を飲み込もうとしていました。しかしながら、蒋介石のバックには英米から軍事的な支援(援蒋ルート)があり、日本との和平交渉は決別、日本は孤立を何として避けるためにドイツ・イタリアと軍事同盟を締結し、1945年まで英米中と戦闘を繰り返しました。

 


▲ジョホールバハルを突進する日本軍  朝日新聞 1942年2月6日付

 

当時の日本には「太平洋」で戦っているという意識はなく「大東亜戦争」という呼称が用いられており、日本を盟主に共存共栄の秩序あるアジア経済の確立目指していました。そのためにも、兵站となっているマレー半島の侵攻は重要で、南洋の石油資源の獲得への一里塚でした。

自転車の内製化に成功しアジア最大の輸出国となっていた日本は、陸路での侵攻のために民生用の実用車を軍隊向けに転用、限られた石油資源でゴム林のジャングルの移動手段として、訓練不要で修理が容易な自転車はトラックの替わりとして大活躍しました。

 


侵攻が難しいマレー半島のジャングル地帯

 

イギリス軍は援軍がマレー半島に到着するまで日本軍の侵攻を阻止するために時間稼ぎの策として橋梁や道路を破壊、工兵隊が架橋してシンガポールに到達するまで100日かかると計算して、その間に防備を強化して迎え撃つ予定でした。ところが、日本軍は銀輪部隊は自転車を担ぎ河を渡り、1100kmをわずか55日で進撃、準備が整わないシンガポールは陥落しました。

 


英軍に破壊された橋梁と川を渡る自転車部隊  森山康平著「秘蔵写真で知る近代日本の戦歴」より

 

英軍が銀輪部隊の能力を見誤った原因のひとつに、1899年の対南ア戦「ボーア戦争」で実装された自転車部隊が偵察や負傷兵の護送など地味な任務に限られ、直接的な戦果にあまり結び付かず、その経験により進撃する日本軍に虚を突かれ必要不可欠な対抗措置の立案が遅れた点が挙げられます。

ボーア戦争以前は自転車は高級品で軍需用に実験的に開発された特別車で、活用方法も試行錯誤でした。マレー戦までの30年間に自転車は広く普及、生活にも浸透し誰しもが扱いに慣れ、現地調達も可能になっていました。皮肉にも日本に高品質な自転車を輸出し、その有用性を伝えたのはその頃のイギリスでした。

 

 


自転車でクアラルンプールに侵入する皇軍  朝日新聞 1942年1月27日付

 

マレー戦には勝利したものの、日本国内では軍事力確保のため、自転車の原材料が割当制となり、価格も公定化され自転車企業は採算が悪化、業者は転業または廃業を強要され、大阪府では45%の業者が憂き目を見ました。その後は銀輪部隊が活躍することなく終戦を迎え、自転車産業は焼野原となった日本の主要輸出品目としてふたたび経済を支えていきます。

 

朕深ク世界ノ大勢ト帝国ノ現状トニ鑑ミ非常ノ措置ヲ以テ時局ヲ収拾セムト欲シ茲ニ忠良ナル爾臣民ニ告ク 朕ハ帝国政府ヲシテ米英支蘇四国ニ対シ其ノ共同宣言ヲ受諾スル旨通告セシメタリ

 

日本の大東亜共栄圏の夢は破れましたが、アジア諸国は欧州列強に民族浄化されることなく、植民地支配からの独立を実現しています。そして現在、自転車産業は日・中・台による経済圏を確立して、世界に良質な自転車を供給しています。

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戦後初の女性国会議員「山口シヅエ」の正体

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ヤクザが仕切る盗品が並んだ新橋の闇市、桃太郎旗を掲げた男がカランカランと鐘を鳴らすと食べ物屋が来たと思い込んだ人がつられて焼け跡のバラックから駆け出し外へ出てきます。集まった人を前に白いブラウスにハイヒールを履いた初々しい女性がおさげ髪を揺らし壇上に上がり、名を名乗り笑顔でなにやら演説を始めました。老猿のような男性が持つ旗には「山口シヅエ」とあり、演説は二人三脚で脚がパンパンになるまで歩き回り、貴重品の紙を大量に手配しパンフレットを配布、戦火で荒廃した東京の新しい時代の幕開けでした。

 

「一日六時間働けば食べていける、そんな世の中をつくりましょう。そうすれば、女が働きながら子供を育てられます」

 

1945年8月、日本は二発の原爆の投下により壊滅的な被害を受け降伏、6年あまりにわたって続いた連合国との戦争は昭和天皇による玉音放送にて終結します。その後、GHQの管理下で婦人参政権が認められ翌年4月10日の総選挙では1300万以上の女性が投票、39名の女性代議士が誕生しました。

 

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 山口シヅエ 日本で初めての女性国会議員 

 

新憲法下初めての総選挙は31%の議席を獲得した日本社会党が比較第一党となり、民主党などと連立を組み片山内閣が発足しました。日本社会党というと中ソと交流を重視した政党のイメージがありますが、社会党が東側諸国から秘密資金を受けるなど左傾化したのは、日本共産党が「非武装」路線に主義を修正し中国共産党との関係が悪化した1955年以降になってからで、発足当初は党内に複数の派閥があり、シヅエはキリスト教社会主義指導者の強い影響と後ろ盾を受けて初当選、日本で初めての女性代議士としての道を歩み始めました。

5月16日、この日に初めて国会に登庁した39人の女性議員の中でシヅエは最年少の28歳、東京1区という大激戦区で鳩山一郎(後の首相)に次ぐ得票数を獲得し「下町の太陽」と評され、党の看板娘となります。このときの39名の大半が再選できず1期で政治家生命を終えるのに対して、シヅエは通算当選回数13回で1980年代まで政治家として活動し、在任中には女性運動や売春防止法の制定に力を注ぎ、全国婦人連盟会長や経済企画庁政務次官などを務めました。

シヅエは30年以上に亘る政治家人生で幾度となく辛酸を舐めます。なかでも1967年の衆議院選では、党内の派閥抗争で選挙違反を問われ書類送検、不起訴となったものの不信感から社会党を離党、追いかかるように恋愛スキャンダルや元秘書の資金横領にも見舞われました。シヅエは戦争で実弟を亡くし、深川にあった自宅も空襲で被災に遭い丸裸で、唯一心の頼りにしていたのは父親の重彦でした。

 

 

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▲ 山口重彦 独自の経営力で山口自転車を一代で築いた

 

父親の山口重彦は1894年生まれ、ダット自動車(現在の日産自動車)で技師として勤務後に「山口自転車」を設立、8000店もの小売店網を構築し一代でトップメーカーにしました。ABCD包囲網により国内の原油備蓄がわずかとなった戦時中、蒋介石を支援する英国の援蒋ルートを断つため、シンガポールを目指し侵攻していた我が国の歩兵部隊は英領マレーに石油を使用しない自転車部隊で南進、山口の自転車の工場は「銀輪部隊」の軍需によりフル回転しました。戦後も商才を発揮し、自転車業界が協会の談合で販売価格を決めあぐねている間に他社を出し抜く廉価価格の長期月賦方式を採用し自由競争時代をけん引、ママチャリなどまだ存在もしない時代に女性にターゲットをしぼった専用自転車「スマートレディ」の発売など業界を騒然とさせました。シヅエが立候補を決めると、仕事そっちのけで選挙活動に付き添い惜しみなく私財を投入、自身も選挙にのめり込み出馬を決め参議院議員を2期務め、政治と自転車メーカーという二足のわらじを履き周囲の注目を集めていました。

 

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山口自転車の女性専用自転車「スマートレディ」 シマノ自転車博物館所蔵  [筆者撮影]

 

シヅエが初当選した翌年9月、首相となった片山哲に愛知県選出の社会党代議士から政策に関わるある計画の詳細が説明されました。

「車券付き自転車競技、つまり競馬のようなものだね。まあ、ちょとだけの賭け金なら認めてもいいだろう」

片山はキリスト教徒で社会民主主義者として知られ、滅多に自分の意見を明らかにしない人でしたが、戦災で映画館や劇場も焼け、労働者の娯楽があまりない情勢を考慮して「車券付き自転車競技」の実現の協力を約束しました。11月、衆議院内の議員食堂にて各党の代議士と提案者が会合を開き趣旨や経緯を説明、シヅエは集まった出席者に茶菓を接待し会合は和気あいあいと進められ、計画は提案者から懇請されました。

車券付き競走という奇抜なアイデアの種をまいたのは南関東自転車競技会の海老沢清文副会長でした。海老沢は「自転車産業の復興とサイクルスポーツの振興」を大義名分に自転車産業界とパイプを持つ倉茂貞助に原案の作成を依頼、自転車総合メーカー日米商店(現在のフジ)の岡崎進社長を引き込み議員に陳情にあたりました。岡崎の父は日米商店の創業者で当選6回の衆議院岡崎久次郎、そして叔父も外務大臣をつとめた代議士で、法案は瞬く間にまとまりました。

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㊧倉茂貞助 自転車競技法の制定に尽力
㊨海老沢清文 競輪の発案者

 

ところがこの頃はまだわが国はまだ連合国軍の占領下にあり、法律案には総司令部の了承が必要でした。法案は一旦は総司令部民政局に受理されたましたが、GHQ内の派閥関係の事情で不認可となります。認可取り消しに驚いた議員団は、改めてひざ詰めで法案の上程を談判し、ようやく「自転車競技法」が審議されます。

法案は共同提案として超党派で付託され、シヅエら委員によって審議、自転車産業の復興と京都市・大阪市・横浜市・神戸市・名古屋市の5都市地方財政の増収を目的と定めて議論されました。法案は衆議院で満場一致、参議院では賛成多数で可決し競技法は成立、衆議院本会議において日本自由党の委員から一部修正の申し出があり、主目的が「自転車産業の復興」から「戦災都市の復興」に重点が変更され空襲の被害にあった206都市が開催候補地としてリストされました。

競輪というスポーツは日本以外では開催されていない新競技で、主催することで利益が本当に得られるのか分からず各地の反応はさっぱりでしたが、1947年には福岡県小倉競輪と大阪の住之江競輪で開催されました。すると熱狂的な人気を博して、全国の60の超える競輪場で開催されるようになり、復興の貴重な財源となり主催自治体の財政を下支えました。そして、75年経った現在もこの内で43施設が現役で、当時の想定をはるかに超える天文学的な恩恵を地域にもたらしています。

一方で競輪は直接的に自転車産業にもたらす恩恵は少なく、山口自転車は1963年に経営不振となり重彦も体調を崩し65年に71歳で他界してしまいます。倒産の原因は選挙に資金をかけすぎたこととオートバイ事業の失敗といわれ、生産設備は台湾の穂高(ホダカ)に売却、「山口」のブランドは大手商社の丸紅に受け継がれ「山口ベニー」としてランドナー「べニックス」などヒット車を生みます。シヅエは同社に飯事部の部長して勤務していましたが、立候補後は家業を離れ政治活動に専念していました。

 

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山口ベニー「べニックス」の雑誌広告  サイクルスポーツ1975年6月号

 

シヅエは1967年に政権与党の自由民主党に入党、異端の政治家また同政党の唯一の女性代議士として精力的な活動をし、80年には女性として初めて国連平和賞を受賞、引退後には女性政治家の草分けとして瑞宝章を授与されます。

「日本の女性の社会的地位は、戦後飛躍的に向上しましたが、まだ男性と対等に実力を発揮している訳ではありません。対等の報酬を受ける時代がいずれ来るでしょうが、そうした時代に向けての捨て石になれたと、満足しています。」

2012年、山口シヅエは94歳にて波乱の生涯に幕を閉じます。
競輪誕生から75年、孫の世代まで恩恵をもたらす驚異の構想、そして功名心を捨て献身的な姿勢で将来を見据え達観する姿、サンスター自転車の金田邦夫の投稿にも記しましたが、落ちぶれた令和の日本人がまさに規範とすべき人生のように思います。

 

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瑞宝章を授与された山口シヅエ 読売新聞 1987年11月27日夕刊

 

 

■参考 <日本人の国連平和賞受賞者>
1979年 岸信介 (元首相) 日本人初の受賞
1980年 山口シヅエ 女性初の受賞
1981年 福田赳夫 (元首相)他1名
1982年 笹川良一 (日本船舶振興会会長)他2名
1983年 池田大作 (宗教法人会長)他1名
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