サイクルショップ203の
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文明開化、大阪自転車はじめ「川口居留地」

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日本に初めて自転車が上陸したのは幕末とされています。文献によると1862年に福井藩の藩主 松平春嶽(まつだいら しゅんがく)が「ビラスビイデ独行車」に乗ったとあることから、これが自転車(velocipede)のことではないかとされています。1858年の日米修好通商条約により神戸・長崎・横浜・新潟・箱館が開港、条約により大阪は外国人居留地となり、大阪湾に面する現在の西区川口にが外国人宣教師や商人が居留するようになりました。

 


大阪開港の地 西区「川口」

 

川口居留地は中之島のある大川河口にあり、現在は倉庫街となっています。神戸や長崎などは旧居留地を観光資源として景観を保護して、まちおこしをしていますが、川口居留地には当時の建物は一切なく、観光客の姿も全く見当たりません。しかし、この居留地は現在の大阪の近代化や文明開化に大きな役割を果たしており、調べていくと大阪における自転車を始め様々なルーツがそこにあり、空襲により戦後は急速に輝きを失い、現在に至っていることが分かりました。現在、川口居留地はどうなっているのか、クリスマス直前の晴れた日にポタリングしてきました。

 


▲川口の倉庫街  物流拠点として大型車両の激しい往来がある

 

川口はサイクルショップ203と同じ大阪市西区ですが、203がほぼ南端で川口は北西の先端となり、自転車では20分ほどとなります。大川の川尻で舟運が盛んだったころから物流の拠点で「大阪開港の地」の石標があり、現在でも住友倉庫やヤマト運輸などの流通業者の事務所が多く所在しています。対岸には中央卸売市場があり、軽バンや大型トラックの往来が多く、その関係から電撃的な交渉で知られる労働組合組織「全日本建設運輸連帯労働組合関西支部」(関西生コン)の活動拠点となっていて、堀江とは全く違った雰囲気となっています。

 


川口居留地跡 当時の建物はないが1868-99年までは外国人居留地となっていた

 

居留地時代の建物は全くありませんが、一部では雰囲気を残す洋風建築があり赤レンガの川口基督教会の大聖堂はシンボルとして登録有形文化財となっています。開港当時は多くの宣教師が来日、ミッションスクールにて英語教育の始め、大阪信愛学院・桃山学院・大阪女学院・立教学院(東京都)・梅花学園・平安女学院(京都府)・プール学院などの創設地となっています。しかしながら、多くあったミッション校も現在ではすべて移転し、キャンパスはひとつも残っていません。

英語教育以外にも宣教師が大阪にもたらしたものは多く、パン・バター・精肉・ホテル・クリーニング・オルガン・時計、そして自転車の発祥地とされています。

 


宣教師が西洋から大阪に伝えた自転車 大阪くらしの今昔館展示より

 

川口で宣教師が自転車の販売を始めたのは1894(明治27)年頃とされ、2,3軒の販売店があったそうですが、1899年には外国人居留地制度が廃止となりました。現在、大阪は自転車のまちとして知られていますが、明治期には条例で「遊戯のために自転車に乗ること」を禁止していて、やや普及が遅れていました。先行する東京を見習って、堺で自転車の部品製造を始めたもこの頃となります。

 

都道府県別自転車保有台数 1913(大正2)年
東京都  4.1万台

愛知県    4.1万
兵庫県    3.1万
岡山県    2.6万
大阪府    2.3万

 

 


▲1920年竣工の壮大な川口基督教会

 

居留地が廃止後もしばらく洋館が立ち並び、付近の江之子島に大阪府庁や市庁舎ができたことから、大阪の文明開化の象徴となり、市内における自転車の売買の拠点となりました。私が数年前に発掘した1932~42年(昭和7~17年)の川口輪業会の「物品買譲請明細帳」には当時の売買記録が詳細に記されています。当時は自転車は高級品で主用途は運搬など業務用で売買先は米穀店や運送業、洗濯店、銀行などとなっています。日華事変(日中戦争)の影響でインフレが凄まじく、1935年1台1円程だったのが、7年後の42年には1台10円以上となっています。

 


▲川口輪業会「物品買譲請明細帳」(昭和7~17年) サイクルショップ203所蔵

 

明細帳の末尾には天満警察署から1943年2月27日より3年間保存が命じられ、そこには「髙橋タツ」のサインが記されています。髙橋タツは上町にあった有力店「髙橋サイクル」の経営者で、髙橋勇の実母となります。髙橋サイクルは大阪空襲で被災するまで中之島にあり、髙橋家はこの頃から大阪の輪業会に大きな影響を持っていたことが推測されます。この明細帳は読んでいると興味深い内容で詳細に調べてみる価値があるのかもしれません。

 


物品買譲請明細帳には川口の自転車の売買記録が記されている

 

衰退する日本経済のなかで観光はまだまだ伸びしろのある産業です。大阪にも外国人を中心に多くの観光客がおとずれますが、さらなる成長と観光公害を踏まえた分散を考慮してこの辺りも観光地化してもいいように思いますが、クリスマスを前に教会の扉は固く閉ざされていました。

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オーラルケアの「サンスター」祖業を調べたら〇〇〇メーカーだった 

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前回の投稿で、自転車だけ60年前と現在の物価水準がほぼ同じというデータを紹介しました。うどんやたこ焼き、ランドセルや散髪などは、およそ10倍の価格になっているのに一体どういうことなのか・・・

金属の価格が暴騰していた時期というのもその理由のひとつなのですが、1950年代と現在では自転車が果たす役割が大きく変化しているというのもその要因です。現在、自転車は移動や育児またはスポーツなど多様な使われ方をしますが、戦後間もない時期の主用途は「運搬」でした。

佐野裕二著「自転車の文化史」(1985,文一総合出版)によれば、「人だけが乗る自転車」への転換が意識され出したのは、1954年になってからとされています。それ以前は、業務目的の運搬車「実用車」が主役でした。

当時の大阪では金田邦夫が起こした「サンスター」というブランドの実用車が人気を博していたようです。

kishimoto cycle

戦時中は軍需からほぼ途絶していた自転車の生産も、終戦直後から三菱重工や片倉工業など多くの企業が参入します。戦前に自転車部品の輸入業を行っていた金田はパンク修理用のゴムのり容器に歯磨き粉を入れ販売すると評判となります。

 

「二兎追ふものは一兎も得ずと云ふ言葉が御座居ます、ハミガキと自転車を同等の力で追つて居れば何れは双方とも失つてしまふでせふ」

 

1951年、金田は大阪星輪社の中矢徳一と髙橋商店の髙橋勇らをアドバイザーにむかえ、新会社「サンスター自転車株式会社」 を創立、生野区中川町に工場を新設します。社名には、太陽の昼も星の夜もたゆまぬ精進を続けるという意味が込められています。当時の自転車業界では、サンツアー、サンシン、サンヨー、サンビー、サンライト、サンエス、サンキなど「サン〇〇」という商標が流行していて、関連企業の星光社の「星」とかけて「サンスター」と命名されます。

 

newspaper 1958
▲ 大阪星輪社の新聞広告 取り扱いメーカーにサンスターの自転車が紹介されている

 

自転車の部品を製造する小さな工場が集中する関西は、自転車製造を一手に担う「一貫工場」より「アッセンブル工場」が優勢で、ギアクランクの製造に強み持つサンスターも、リムのアラヤ工業やペダルの極東、星スポークなど30以上のメーカーと1200軒以上の特約店の協力により、大阪のみならず北海道から九州に及ぶ販売網をつくります。注文は電報で受付け、自転車輸送は自社のトラックを使用したようです。

私は数年程前から同社の社友・髙橋勇の経営していた自転車店について調べていて、没後に散逸してしまった氏のプライベートライブラリーの書籍を再収集しています。そんなこともあって、サンスター自転車の関連資料が数点ばかり手元にあり、自転車メーカーとしての同社の興亡を推察することができます。

 

sunstar king
サンスター自転車の主力商品 実用車「キング号」

 

自転車のラインナップとしては主力車種「キング号」や社名にもなっている「サンスター号」など実用車となっています。写真は同社のカタログ作成に使用したもので、髙橋が保管していたもので、横から撮影されたものが4種類あります。自転車の写真以外には販売促進用に撮影されたものが数点あり、そのうちの1枚には女性4人と自転車が写っていて、裏面には当時の女性の名と日付が記されています。よくわからないので、ネットで調べると宝塚のスターのようです。

昭和28.4.5

川路 立美
筑紫 まり
八十島 晴美
八代 洋子

 

takarazuka

髙橋商店は特約店としても別格で、月報「サンスターマンスリー」十号(1952.6)では、同店のディスプレイが見開きで紹介されています。路面電車によるホコリのためセットバックしている建物部分のファサードに、新たに三面ガラス張りの突き出た陳列を増設する事例の報告です。

 

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▲ 自転車店にて展示されるサンスターの自転車   大阪市上町「髙橋サイクル」

 

運搬用として活躍していた実用車も、原動機付きのモペット(ペダル付オートバイ)の登場により、下火となります。サンスター自転車は「REX」というモペットを製造、バイクには詳しくないのでこちらも詳細はよくわかりませんが、写真を見る限り3種類製造していたようです。サンスターのホームページなどインターネットで調べても、このバイクの情報は得ることができないため、本当に詳細不明の謎の写真です。バイクに詳しい方がいましたら教えて下さい。

 

sunstar bike
▲ サンスター自転車 原動機付のモペット「REX」

 

当ブログでは主に基礎自治体の財政政策論として競輪場施設について投稿してきました。サンスター自転車も始まったばかりの競輪に競争車を提供、各地で活躍する選手の状況を「サンスタークラブ便り」を通じて競走結果を報告してました。

自転車業界は新たな顧客層獲得のため「人だけが乗る自転車」の普及活動が始まり、スポーツ車や軽快車を使用した「サイクリング」という発想が提唱されます。日本語でいう「サイクリング」は「ハイキング」の自転車版のような独特の意味を持っています。英語ではオリンピックの競技も「CYCLING」で、少し日本語とはずれがあります。これはこの頃の普及活動の名残といえます。

sunstar cycling

現在、欧米の自転車文化の主役がスポーツ自転車であるのに対し、我が国のスポーツタイプの普及率は自転車全体の15%ほどと低い水準となってます。1950年代の「サイクリング」ブームは長続きせず、業界の期待は空振りとなり、サンスター自転車も生き残りを賭けてギアクランク製造に注力し、完成車製造から身を引くこととなります。

これらの残された資料を読み返すと、金田や髙橋など当時の人たちは非常に勉強熱心で一生懸命であることが分かります。集会や研究会で知恵や意見を出し合い創意工夫や試行錯誤の連続で、それでも思うようにいかない様子は、まるでドラマを見ているような気分になります。私は彼らの半生をNHKの朝ドラにするといいのではないかと思います。アニメやゲームに興じて、なるべく効率的に金を儲けることばかり考え、「社会が悪い、政治が悪い、助成金よこせ」と言っている落ちぶれた令和の日本人が、まさに規範にすべき生きざまだと思うからです。

うたかたと消えたサイクリングブーム、突破口が見いだせず斜陽産業とまで言われた日本の自転車生産ですが、研究の末に以後100年以上売れ続けるであろう空前絶後のヒットアイテムを生み出します。それは大阪人の手によってつくり出されました。

世紀の大発明「ママチャリ」の登場です。
(次回に続く)

 

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「京橋サイクルショップ」レジェンド 延片敏則氏訪問

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大阪の京橋駅の近くに「京橋サイクルショップ」という自転車店があります。
1980年に開業、今年でオープンから40年の老舗店に勉強させてもらいに行ってきました。

nobukata

オーナーの延片敏則さんは1941年生まれの79歳、自転車技士歴はなんと63年間というキャリアをもつとんでもないレジェンドです。

nobukata toshinori

京橋から徒歩数分、タワーマンションの北側に黄色い庇が目立つ自転車店「京橋サイクルショップ」があります。店に入ると普通の自転車だけでなく、電動自転車やスポーツ車がところ狭しと並んでいます。

 

kyoubashi cycle

「最近はパソコンがないと仕事にならん」

店にはスクーターの修理もできる若いスタッフもいますが、延方さんは修理だけでなくパソコン仕事も楽々とこなす現役の整備士です。

「先週は、奈良の大台ケ原にいってきた」

年齢的にはおじいさんと言ってもいいのですが、若々しく軽妙な語り口でいまもなお健脚、定休日の木曜と第3水曜日には輪行サイクリングを楽しんでいるそうです。

 

延方さんは1958年に大阪・上町にあった名店「髙橋サイクル」に入店。

takahashicycle

 

「少しでもミスすると、下駄でドツかれた思い出あるわ」

当時の「髙橋サイクル」は親方の髙橋勇さん、その親族の髙橋伸造さん、そして田川今朝七郎さんとうメンバーだったようですが、田川さんが平野区流町で「スポーツ車の店 田川」を開業するため退社、入れ替わる形で、延方さんがメンバーに加わったそうです。

教育係は勇さんの実母の髙橋タキさんが担当、若い延方さんにも大変きびしかったようです。

 

 

22年間「髙橋サイクル」で勤め、1980年に独立。
当初は「自身が60歳になる20年くらい自転車店をできたらいいな」と考えていたようですが、京橋ダイエーに近かったこともあって店は昭和・平成・令和と時代を超えて、40年。

競合店も次第になくなり、ダイエーもなくなって京橋が少し寂しくなっていると感じているそうです。

 

 

軒先に富士の古いランドナーがあったので眺めていると
「あなた、興味あるなら、いいよ。もってって」と思いもよらない言葉が!

fuji feather compo

常連のお客さんが乗っていたランドナーで高齢で脚が悪くなり店に置いて行ったものなのですが、延方さんにはフレームサイズが大きくて合わないようで、置きっぱなしになっていたそうです。

思いもよらないお土産を調べてみると1976年製「FEATHER COMPO」(フェザーコンポ)でした。
サイズもピッタリ!

この自転車の詳細はまた本ブログで

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