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2023年08月の記事一覧

シャンゼリゼを埋め尽くした自転車「天安門事件」反対デモ

7月のシャンゼリゼといえばツール・ド・フランスの最終ステージが恒例となっており、2025年はスロベニア出身のダデイ・ポガチャル選手が4度目の栄冠を獲得し閉幕しました。ポガチャル選手は1998年生まれの26歳、史上最強の自転車選手と呼び声も高く、フランスの三色旗が乱舞しパリは熱狂に包まれました。

しかし、1989年のシャンゼリゼ通りは少し様子が違い、白ハチマキと黒シャツ姿の中国人1000人が自転車と共にパレード、直径数十メートルもある赤い大太鼓には漢字で「自由・平等・博愛」の文字、NOUS CONTENTIONS!(我々は闘いを続ける)と仏語の横断幕を掲げ、大合唱をとどろかせていました。

 


パリの中国人自転車デモ   毎日新聞 1989年7月15日

 

自転車デモはフランス革命200周年を記念してミッテラン大統領はじめ各国首脳が集められ観光客やパリ市民など100万人が見守るパレード冒頭に催され、続いてコーラス隊やソプラノ歌手の革命歌によって観客全員が立ち上がり大合唱となりました。

 

「中国で現政権が続く限り、この国の将来はない」 

 

このパレードは明らかに前月6月4日の中国の弾圧事件への強い抗議を全世界に向けてアピールしたもので、ミッテラン大統領はフランス革命の基本精神が人権にあり、フランスが今後も「人権」を外交の太い柱にすることを宣言しました。

 

 


民主化を求めた人民を武力で制した中国政府軍  毎日新聞 1989年7月16日

 

紫禁城前の天安門広場では銃声が鳴り響き全身血だらけの女性が横たわる惨状、中国政府によると6月の動乱鎮圧による死者は319人と発表、首都の北京には厳戒令が発令され人民解放軍兵士や武装警察が民主化を求めて蜂起した学生・市民グループに対して一斉射撃、読売新聞は翌日朝刊で天安門広場近くで、つぶれた自転車の残がいの中に横たわる学生たちの死体とAP通信のショッキングな写真を一面に事件を大きく扱い、死者数1400~3000人、負傷者1万人規模と報道しました。

 

「発砲しながらこっちへ向かっている、人が殺された、みんな血だらけだ」

 

共産党一党独裁の国体を堅持するため20万以上武装兵に大量の戦車・装甲車・軍用トラックで自転車バリケードを突破し居座る学生を圧殺、幼児や老人など無差別に銃撃しました。北京の制圧事件が世界に報道されると各地で抗議活動が巻き起こり、中国政府の行動を激しく非難しました。

 


世界に報道された天安門事件 読売新聞 1989年6月5日

 

ハンガーストライキや抗議デモは北京から上海・アメリカと世界各地に広がり、サミットが開催中のパリでは象徴となる自転車を押しながらVサインを掲げ中国人留学生の大集団がパレード行進、対話を呼びかけました。

 

「軍の役割は人民を守ることで一部の人を守ることではありません」

 

当時、中国は交通網が未発達で、学生たちは地方から北京を目指し自転車で集まり、統制が利かないほどの状況だったようです。本ブログでは1957年に大阪で敢行された在日アパッチらによる「大阪府金属くず条例」反対の自転車デモについて投稿しましたが、小回りが利いて機動性の高い自転車はデモに向いているのかもしれません。

 

 


読売新聞 1989年6月10日

 

香港のフランス領事館は事態を受けて指名手配を受けた学運リーダーや作家の亡命活動を支援、「イエローバード作戦」と言われ、英秘密情報部(MI6)や米中央情報局(CIA)も協力しました。イエローバードというのは中国の故事成語「蟷螂捕蝉、黄雀在后」に由来し、セミを狙うカマキリをその背後からカナリアが狙っている状況のようで、中国語では「黄雀行動」というそうです。

しかしながら、中国では「黄雀行動」や「天安門」という事件を連想するワードでは検索できず、当時の「血の鎮圧」は完全に報道が規制され、歴史からかき消されています。我々は中国の大国としての責任を問い続けなければなりません。そして、そこから日本はどうあるべきかを学ばなければならないのではないでしょうか。

 


上海で発生した学生デモ  読売新聞 1989年6月9日夕刊

小林一三は不滅の「阪急ブランド」をいかに築いたのか

ユダヤ人経営学者ピーター・ドラッカーは戦後日本の経済復興の主因に資本主義の選択があったとしています。そして、成熟した資本主義は社会主義に移行することは不可避で、日本の成長の鈍化を予想しました。停滞する日本の処方箋として提唱したのが名著「マネジメント」です。マネジメントとは「マーケティング」と「企業家精神(イノベーション)」の両輪で、ドラッカーはダイエーの創業者中内功を実践者として高く評価しました。

中内は新商売は西から東へと流れるのが定説で、常に関西で生まれ、世界に名高いユダヤ商人も、大阪商人の相手ではないとしています。そして、その神髄をつかんでいた商人中の商人は阪急グループの創業者小林一三だと評しました。

本ブログでは以前に中内によるユダヤ商法を規範とした米国型チェーン店形態の日本導入を残存資料から考察、自転車販売のチャネルの多様化を追体験することで縮小する自転車市場の再活性化のヒントを模索しました。資料から阪急百貨店はダイエーが着眼する10年以上前から自転車販売に取り組んでいたことが分かりました。現在、阪急は自転車販売から退いていますが、阪神間における「阪急」の存在感は別格で、鉄道沿線の生活水準は平均を上回る高いものになっています。小林の企業家精神とはどのようなものだったのでしょうか。
池田市にある追頌する施設「小林一三記念館」にいってみました。

 

 

阪急は鉄道を中心とした企業グループで都市開発、小売業、観光、エンターテインメントなど20世紀初頭より阪神間において生活基盤となる事業を広く展開しています。同じころ半官半民の南満州鉄道が巨大化していましたがこちらは石炭や大豆等の物資の輸送の収益で都市開発の赤字を埋める収益構造となっていました。一方、阪急は郊外型住宅やターミナルデパートなど都市開発を軸に西洋スタイルのハイカラな生活スタイル「阪神間モダニズム」を導入、持ち前の経営手腕で質の高い「阪急ブランド」を構築、沿線は関西随一の住みやすさを誇っています。記念館は阪急宝塚線池田駅から北へ15分ほど歩いた大阪平野北端の五月山の麓にあります。

 

 

記念館は住宅地にある小林一三の旧邸で、茶室がある日本庭園の中にある洋館です。施設は品があり、文化財に登録され歴史の流れを感じることができます。館内には小林の交友関係から人柄を示唆する展示から阪急の歴史が分かる鉄道古物、実際に使用されていた書斎など入館料300円とは思えない充実したものとなっています。

また、記念館の西側には無料で利用できるライブラリー「池田文庫」があり、宝塚歌劇や阪急球団など阪急関連書籍が閲覧することができます。

 

 

阪急電鉄の前身となる箕面有馬電気軌道は明治末期の1907年創業、小林が専務となり1910年に梅田-宝塚間、箕面-石橋間が開業、当初は兵庫県の有馬温泉まで延伸予定でした。しかしながら、延伸計画が温泉街に歓迎されず、神戸線や京都線が敷設され、社名も阪急電鉄に変更となります。小林は設立時から実質的な代表として、郊外の宅地開発に取り組み、都心に電車通勤するサラリーマンをターゲットとして最初に開発されたのが猪名川左岸の池田市室町です。

1910年から始まった室町の住宅は木造二階建ての庭付きの戸建てで200戸が販売され、その後も宝塚沿線の服部駅(1912年)、豊中駅(1914年)、石橋駅(1924年)、曽根駅(1931年)、蛍池駅(1934年)などと売り出し、開発は兵庫県にも及びました。

 

 

また並行して、音楽校や実業専修女学校、商業校の運営や関西学院等の支援など教育にも力を入れ、文化スポーツ振興にも取り組みました。1937年に神戸線西宮北口駅南側に開設された西宮スタジアムはプロ野球球団阪急ブレーブスの本拠地となり、1949年から2002年まで西宮競輪も開催されました。

大阪府下の豊中・住之江・大阪中央競輪場が廃止となると西宮は近畿地区一の車券を売り上げ、甲子園競輪と両輪で沿線の都市開発の大きな資金源となりました。6月の投稿でも言及しましたが、テレビ放送が始まるまでは職業野球より競輪の方が人気で、電話やインターネット投票のない時代に車券を買い求めにスタジアム出向いた来場者数はブレーブスや大阪タイガースの公式戦の観客数を上回っていました。

 

 

 

京阪神に張り巡らされた鉄道網沿線は文化や価値感を共有し、社内報で北大阪沿線は「阪急平野」と称していたようです。本ブログでは以前から北大阪の千里地区の池田・豊中・箕面・吹田・茨木の5市を合併し、政令都市として日本経済のこれからのあるべき姿を示すべきだと投稿を繰り返しています。この地域は京都市・神戸市に匹敵する人口を擁しながら大都市と認識されず、高層ビルや基幹店のようなものがあまり設置されない傾向にあり、国際会議や大型イベントなども誘致する発想すら湧いていないのではないでしょうか。詳しくは過去の投稿を読んでいただきたいのですが、一帯は国内屈指の住みやすさとなっています。

 

・グレーター千里構想は「第二東京」となるか    (2024.5.9投稿)

 

小林の企業家精神はより良いまちづくりの規範となり、東急や近鉄、西武、東武、小田急、京王、名鉄、阪神などの私鉄各社に大きな影響を与えました。ただその評価は意外にも国内に留まっているような気がします。私は日本中を阪急沿線のような都市につくり変えることにより、国民がより豊かな生活を手に入れることができるのではないかと思っています。

違法モペッド販売店「G+DOCTOR」中国籍の劉玥(41)逮捕

2023年7月、道路交通法が改正され、特定電動小型原動機付自転車が合法化され、一定の要件を満たせば電動キックボードなど電動小型モビリティが免許なしで自転車同様に使用できるようになりました。多くの国民が「特定電動小型原動機付自転車」という謎の乗り物の合法化にとまどい、民意のないままLUUP社のレンタルサービスが各地でスタートしました。

自転車の開発・製造には通常1年以上、電動ならそれ以上の期間が掛かるため、法改正を前になぜLUUP社だけが大量のモビリティを供給できたのでしょうか。非常に不透明で謎だらけの経緯でしたが事業は飛躍的に広がり、定着をみせています。

 


改正道交法を機に躍進するLUUPの広告 2023年7月1日 日経新聞

 

このようなシェアリングモビリティは2010年代中頃の中国を発端にして、アリババやソフトバンク等が出資し拡大、破格の利用料で話題となり、なかにはGIANTを買収する計画を公言する企業もありました。しかしながら、なかなか収益化がうまくいかず撤退する事業者が相次ぎました。

国内においては、2017年に施行された自転車活用推進法(第8条三)にて、レンタル自転車の増進が自治体に求められNTTドコモなどが電動アシスト車を投入、営利性を担保した公共交通機関プラットフォームとして定着をみせつつあります。

LUUPのモビリティは主に電動キックボートと特定小型原動機付自転車と2種で兎角キックボードに注目されがちですが、私は自転車技士として同社の自転車が驚くほど高性能で他社が追従するのは難しいのではないかと所感をもっています。同社において課題はあるかもしれんが、コロナ期に工場がロックダウンしていた時期にどうやってあれだけの自転車を製造できたのか、1ベンチャー企業の所業ではなく、自転車業界に与える影響は小さくないと考えています。一度、電動車に乗った人は電動車を選好する傾向があり、日本の自転車業界は類型車の製造を急ぐ必要があります。電動自転車の開発というのは思った以上に難しく、これまで国内市場ではパナソニック・ブリヂストン・ヤマハの国を代表するような3社の寡占市場でしたが、今後は新規参入に取って代わっていくのではないでしょうか。

 


2025年6月26日 読売新聞[大阪版]

 

大阪市内では2023年7月の道交法改正を契機に、夜間営業の飲食店の従業員やホストなどを中心に電動3社以外の中国製電動車の利用者が増加、中国の年間のモーター付車体の生産台数は3000万台以上と、日本の30倍です。中国メーカーは日本の厳格な道交法と小さな小さな成熟市場を天秤に掛け、これまで日本市場を無視していましたが、インターネット通信販売等で容易に入手ができることから中国車じわじわと普及、道交法に合致しない違反車両や発火する危険性がある低品質な車両があり社会問題化しつつあります。2025年6月には中央区心斎橋のモペッド販売店「G+EBIKEDOCTOR」の関係者を逮捕、経営者は中国籍の男でした。

 

違法走行黙認モペット販売容疑で4人逮捕、送検

違法な状態で公道を走行する可能性があることを把握しながら、ペダル付きバイク「モペッド」を販売したなどとして、府警は25日、大阪市中億区の販売店「G+EBIKE DOCOR」の経営者で中国籍の劉玥容疑者(41)らを道路交通法違反ほう助容疑などで逮捕、送検したと発表した。府警は認否を明らかにしていない。発表では、4人は6月上旬、同店で、サイドミラーやナンバープレートを….(読売新聞 2025年6月26日)

 

報道で容疑者が中国籍であることに驚いた方もいるかと思いますが、大阪市内では歴史的背景からブリヂストン、パナソニック、シマノ、ジャイアントといったいわゆる自転車業界と全く縁のない外国人経営の中古自転車チェーン店シンジケートがあり、店舗数ではサイクルベースあさひを上回っています。

 

 


違法車両を販売していた心斎橋「G+EBIKE DOCOR」

 

最近、埼玉県の川口市や蕨市の外国人が社会問題となり排斥運動が高まっていますが、大阪では戦前より在日朝鮮人が多住、本ブログでもこれまで大阪朝鮮人騒擾事件(1948年)、東成署襲撃事件(1951年)、親子爆弾事件(1951年)、吹田事件(1952年)と朝鮮人の徒党による大暴動を取り上げてきました。埼玉が針小棒大に報道される一方で、大阪のこれら戦後史は全く顧みられることはありません。

大阪で朝鮮人暴動が多発した時期は朝鮮戦争の最中で、金属価格が高騰し大阪では朝鮮人窃盗団による組織的な古鉄盗が相次ぎました。対応策として1957年に大阪府金属屑営業条例が施行されると、窃盗団は金属屑からターゲットを自転車に移し、府の自転車盗数は年間2万台以上と膨大な数となりました。この頃、朝鮮人はほぼ定職にありつけず75%が無職、多くは日雇いで何とかその日を生き、自転車盗だけでなく空き巣や洋犬盗、ヒロポンやドブロクの密造を稼業としていました。

 


半島へ北送される中古自転車 [京都・舞鶴港] 読売新聞 2003年6月14日

 

1950年代後半から日本は高度経済成すると、72年に日中の国交が正常化、87年には朝鮮半島南部の韓国が民主化しそれぞれ経済発展、東アジアの治安が安定化し、日本は留学生など移住者を積極的に受け入れはじめます。中国人経営の中古自転車店が大阪で増加したのは、今から15年程前にさかのぼり、シンジケートの実態はベールで包まれていますが、市が撤去した放置自転車を僑務としてブローカーが買い付けて各店舗に差配しています。

大阪市の放置自転車の過剰撤去については本ブログでもたびたび問題にしていますが、背景には在日朝鮮企業と中国人ブローカーの大きな暗躍があり、大阪市は独自で「自転車等の駐車の適正化に関する条例」を制定、禁止区域を拡大しながら、路上駐輪された自転車を間髪入れず撤去する「リアルタイム撤去」や同じ場所を繰り返し撤去する「集中撤去」、万博開催を口実とした「朝晩撤去」を”試験的”に導入し媚中体制をとり、全国の65万台の撤去車両のうち3分の1相当する20万台が大阪市と、不均衡に多くなっています。

 

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■撤去自転車の処分台数

大阪市 6万1590台
神戸市 8799台
横浜市 5665台
さいたま市 3261台
広島市  1294台
浜松市 1195台
(国土交通省 交通安全対策室資料 2020年)

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▲大阪市で増加する中古と新車を併売する中国系自転車チェーン店

 

最近では中古自転車店の増加により払下車が高騰、華人経営の店の不信感もあり、電動自転車に転業したのかもしれません。日本と中国で電動車のアシスト力が異なり、中国製のものをそのまま日本使用すると道交法違反となってしまします。本来なら使用者も重い罰則があるのですが、大阪では事実上黙認状態となっていますので、劉の逮捕をきっかけに摘発が本格化するかもしれません。

ビワイチ拠点、大津港サイクルステーション「o-portable」

10年程前からスポーツ自転車を活用した地域振興が盛んになり「サイクルツーリズム」などと言われて久しくなります。その筆頭が滋賀県です。琵琶湖を自転車で一周することを「ビワイチ」とし、湖畔をサイクリングすることを観光資源に周辺自治体は様々な取り組みをしています。

本ブログでは2017年に長浜から1泊2日で北湖の走破を投稿しましたが、今回は南湖湖西側の大津港に2022年4月にできたサイクルステーション「o-portable」に行ってみました。

 

o-portable

 

滋賀県は2018年の自転車産業振興会の調査で、1世帯あたりの自転車保有台数で大阪府を抑えて全国トップの都道府県です。少し意外な調査結果ですが、滋賀県は官民連携で利用環境の整備やシンポジウムの開催など積極的に取り組んできました。旗振り役は09年に設立された「輪の国びわ湖推進協議会」というNPOで琵琶湖を周遊するコースの紹介など地域に密着した文化を内外に広げるため活動を続けています。その結果もあり、少子化で京都市や神戸市が大きく人口が減少する一方で、滋賀県は人口増加を堅持しています。

県庁所在地の大津はビワイチで唯一「街」を感じることができ、JRの新快速が停車することから起点としやすい場所です。琵琶湖畔の京阪線浜大津駅はクルーズ船「ミシガン」の港で関西だけでなく、世界各地から観光客が押し寄せ、20年前ほど前から計画的に整備され湖岸を散策できるようになっています。

 

 

大津市は京都駅から10分で、古くは大津京(近江京)として首都とされ、比叡山や三井寺(園城寺)、最近では「ちはやふる」のカルタ大会の近江神宮や今村翔吾「塞王の楯」の穴太(あのう)も全国的に注目されています。

サイクルステーション「o-portable」はミシガンの乗船切符売り場の隣にあり、観光案内だけでなくレンタルサイクルや自転車用品や補給食の販売・修理までサイクリングに関する総合的なサポートをしているようです。

 

 

 

 

「ビワイチするため、二人で奈良からきました」

 

施設のは無料の休憩所やトイレもあって、自転車利用者以外の人との交流できる賑わいを創出するスポットで地域の活性化に一役かっています。日中35度以上の炎天下でしたが、大学生風の若い女性2人組のサイクリストがスポーツ自転車を輪行していました。

 

 

 

 

 

併設のカフェ「Bird Cafe」は、サンドイッチやコーヒー、地元野菜を使ったお料理が楽しめます。私が行った日はちょうど琵琶湖花火大会の前日でかき氷が提供されていました。琵琶湖は1993年に水鳥の生息地として国際的に重要な湿地に関する条約「ラムサール条約」に登録され、持続的な生態系を維持するため様々な取り組みが計画され、実施されています。

 

 

 

このように自治体が自転車環境に投資することは投資効果が高く、地域の魅力が向上します。大津市は草津市や守山市と比べるとやや寂れた感じが漂っている部分もありますが、このような新施設によってまちが再び活性化するのではないかと期待されます。

岸和田にあったもう一つの公営競技場「春木競馬場」

現在、大阪府下の競輪場は岸和田競輪場のみですが、かつては住之江大阪中央豊中と合計4施設で公営競技が実施されていました。また、競馬場は現存しませんが、かつては長居公園「大阪競馬場」と岸和田「春木競馬場」の2ヶ所で競走が開催されていました。春木競馬場は岸和田競輪場のすぐ近くに所在したのですが、一体なぜ廃止されてしまったのでしょうか。

 

 

 

岸和田競輪場は南海本線「春木駅」西側、駅から見える立地で難波から30分ほどです。2018年から施設の大規模改修を行ない、長期間にわたって競走休止していましたが、行ってみるとなんか改修前とあまり変わってない感じでした。訪れた日は高松宮競輪杯(G1)が開催され、フードトラックやイベントブースが出展され、超レジェンド中野浩一さんが解説で来場していました。しかしながら、相変わらず閑散としていて、今回の主な改修も観客席の撤去とむしろ寂しい感じになっていました。

 

 

 

春木競馬場は南海本線を挟んだ競輪場と逆側の現在の岸和田市中央公園のある場所にあり、1974年まで競走が開催されていました。私はてっきり春木競馬場は戦前競馬だと思っていたのですが、戦後も大阪府と岸和田市によって実施され、年間売上110億円、78万人ファンが来場したそうです。ちなみに2024年の阪神タイガース主催の甲子園球場公式戦入場者数が89万人のようですので、春木競馬がいかに熱狂的な人気だったことがわかります。つまり、競走廃止の原因は不人気や売上げの低下ではなく、別の理由があるのです。

 

 

2006年に発行された「春木競馬場廃止運動に取り組んだ女性たち」によると、競走廃止運動のきっかけは競馬場行バスの砂煙被害や馬の暴走の危険性についての住民の新聞投書とあります。競馬場は商店街や病院などがある住宅街の中にあり、馬小屋の悪臭や来場者の立小便、自転車盗も問題になっていました。全国でも競輪場と競馬場が併設されるケースは珍しくなく、奈良や長居公園など競輪場開設の影響を受けて、競馬場の人気が低下し廃止にいたった施設もありますが、春木競馬場は全国ではじめて住民運動の影響で廃止になった競馬場なのです。

 

 

時代背景として、大阪府は1971年に日本共産党・社会党が支持をする黒田了一が知事に就任、その後に同和利権問題「八鹿高校事件」(1974年)の影響で社会党が支持を取り辞め、共産党が単独支持する政権が発足します。今では考えられないことですが、東京都の美濃部亮吉知事などこの時代は都市圏を中心に共産主義を標榜する革新都市が誕生し、資本主義の象徴として公営競技を次々と廃止していました。

岸和田は保守の強い地盤でしたが、71年に「明るい革新大阪府政をつくる会岸和田連絡会議」が共産・社会党を中心に結成され、黒田と共闘しました。春木競馬場問題は黒田にとっても「つくる会」にとっても試金石となり、地元の町会や婦人会と連動し競馬場を廃止に追い込みました。岸和田の地殻変動は79年まで続く大阪府の共産政権誕生の強力な後押しとなったのです。

 

 

 

春木競馬の廃止は和歌山「紀三井寺競馬」の存続や「柏原競輪場」新設計画にも影響を与え、公営競技を社会悪とみなした左翼思想が跋扈するようになります。繰り返しになりますが、公営競技は日本の戦後復興に多大に寄与し、現在でも公衆衛生・公共福祉・文化振興・インフラ整備・地方財源・娯楽創出など社会に貢献しています。しかしながら、共産主義首長は自らの思想をこじらせ、小学生でもできる簡単な足し算ができなくなってしまうのです。大阪府下でも共産常勝区はありますが、残念ながら平等に貧しい地区になり下がってしまっています。

 

 

 

岸和田市中央公園には奇妙な立て看板が掲げられています。京都市の宝ヶ池公園にも怪文書のような難解な張り紙がありましたが、こういう看板があるところは大体ややこしい過去を背負っています。

 

バイク・スクーターは、公園内では押しましょう!
(警察・許可車両は除きます)
警察官には公園の治安維持のため、バイクに乗ったままでの効率的な巡回をお願いしています。
ご理解ご協力お願いいたします

 

同公園では警察官が治安維持のために公園内をバイクに乗って巡回をしているようです。バイクというのはもちろん自転車をおしゃれに言っているのではなくオートバイのことです。岸和田では毎年、11月3日に「イレブン・スリー」というデコレーションオートバイのデモ走行が爆音と共に実施され、安全管理の名目で公園を中心に警官が1000名配備、多くの観衆を集める華やかなイベントとなっているようです。

 

 

 

 

 

公園内には一部に競馬場だった遺構が残り、地元の人もその過去を知っていました。話を聞くと競馬場の反対運動が盛んになっても、競輪場に反対する人は全くなかったそうです。大阪は2030年頃に夢洲にカジノを開場予定ですが、競馬や競輪など大阪のギャンブル史をもう少し検証して、施設のあり方を長期的な視座で考えた方がいいのではないでしょうか。オープン当初は全世界から多くの来場者で溢れても、国内にカジノが乱立し70年たったらどうなるのか、岸和田競輪場を参考にされるといいと思います。

 

 

 

 

 

都市型BMXレース「DOWNTOWN BMX」初開催

梅田で開催されたBMXレースTOYOTIRES「DOWNTOWN BMX」を観てきました。

 

 

8月26日、グランフロント大阪の南側のうめきた広場にて開催された「DOWNTOWN BMX」は、北京五輪代表の阪本章史さん発案の新しい都市型の自転車競技です。レースとフリースタイルが融合したスタイルで、およそ150m特設コースを1対1で走行、着順とジャンプから勝敗を決める世界初のイベントです。

 

 

大阪の人でうめきた広場を知らない人はいないと思いますが、JR大阪と商業施設グランフロントの間にある都市空間で普段から多くの人が行き交う場所です。定期的にイベントが開催され冬場はスケートリンクになったりしています。私は仕事終わりに立ち寄りセミファイナルから観戦、大勢のギャラリーで寿司詰め状態の会場はショーアップされ、すでに熱狂に包まれていました。

 

 

BMXは20インチの変速のない自転車で、ダートコースのレース競技「レース」とスケートパークでの演技種目の「フリースタイル」の2種目がオリンピックの正式種目となっています。このイベントには東京五輪BMXフリースタイル代表の大池水杜選手など両種目からトップ選手が出場、会場を沸かせていました。

 

 

コースレイアウトはダートレースをコンパクトにしたようなリズムセクションや湾曲ランプがあり、最大の見せ場は最後のジャンプ台でのエアーとなっています。どうやら、インコース側とアウトコース側を入れ替えて合計2本同じ選手と走り、2本とったら勝利、1勝づつで引き分けた際は最後のエアーの高さで勝敗を決するルールのようです。

 

 

ダートレースはスタートダッシュでおおよその勝敗が決まることが多いのですが、新競技はコーナリングも目が離せず、命知らずの選手が格闘技さながらの激しいバトルを見せつけ会場はヒートアップ、激しい接触で走行不能に破壊した自転車をなりふり構わず担いで猪突猛進する選手や鮮やかなトリックを披露し会場を沸かせる選手、初開催ゆえに本当に何が起こるかハラハラするスリリングな展開にボルテージは決勝を前に最高潮となりました。

 

 

 

決勝は雷鳴轟くなか、男子は吉村樹希敢選手の落車により2023年全日本選手権覇者の増田優一選手が初代王者に、女子は野村凪沙選手と浅見渚選手との「なぎさ対決」を蝶のような華麗なコーナーリングで浅見選手が制しました。両者ともにインタビューでは多数のギャラリーのいる大会での勝利を喜んでいる様子でした。

 

 

普段から人が多いこのエリアですが会場はいつもにも増して大盛り上がり、興行としても大成功だったのではないでしょうか。初開催でこの反響なら今後はさらなる発展の期待ができ、様々な場所から開催オファーが来るように思います。御堂筋エリアやアメ村、京都、神戸でも絶対に成功する感じがします(オレンジストリートでも是非やってください…)。この大会を観ると、そもそも、なぜBMXのレースは土走路のダート競技だけなのだろうと疑問が湧き、公道や公園を使用したBMXのストリートレースの発展の可能性を感じました。

 

 

競技の垣根を越えて融合した新種目は、さながら格闘技「K-1」の黎明期の雰囲気に重なります。メジャースポーツとはいえなかった空手がプロレスのリングに場所を移し新しいファン層を獲得したように、もしかすると近い将来、日本の大晦日は家族そろってBMX中継を観るというような未来もあるかもしれません。

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