7月のシャンゼリゼといえばツール・ド・フランスの最終ステージが恒例となっており、2025年はスロベニア出身のダデイ・ポガチャル選手が4度目の栄冠を獲得し閉幕しました。ポガチャル選手は1998年生まれの26歳、史上最強の自転車選手と呼び声も高く、フランスの三色旗が乱舞しパリは熱狂に包まれました。

しかし、1989年のシャンゼリゼ通りは少し様子が違い、白ハチマキと黒シャツ姿の中国人1000人が自転車と共にパレード、直径数十メートルもある赤い大太鼓には漢字で「自由・平等・博愛」の文字、NOUS CONTENTIONS!(我々は闘いを続ける)と仏語の横断幕を掲げ、大合唱をとどろかせていました。

 


パリの中国人自転車デモ   毎日新聞 1989年7月15日

 

自転車デモはフランス革命200周年を記念してミッテラン大統領はじめ各国首脳が集められ観光客やパリ市民など100万人が見守るパレード冒頭に催され、続いてコーラス隊やソプラノ歌手の革命歌によって観客全員が立ち上がり大合唱となりました。

 

「中国で現政権が続く限り、この国の将来はない」 

 

このパレードは明らかに前月6月4日の中国の弾圧事件への強い抗議を全世界に向けてアピールしたもので、ミッテラン大統領はフランス革命の基本精神が人権にあり、フランスが今後も「人権」を外交の太い柱にすることを宣言しました。

 

 


民主化を求めた人民を武力で制した中国政府軍  毎日新聞 1989年7月16日

 

紫禁城前の天安門広場では銃声が鳴り響き全身血だらけの女性が横たわる惨状、中国政府によると6月の動乱鎮圧による死者は319人と発表、首都の北京には厳戒令が発令され人民解放軍兵士や武装警察が民主化を求めて蜂起した学生・市民グループに対して一斉射撃、読売新聞は翌日朝刊で天安門広場近くで、つぶれた自転車の残がいの中に横たわる学生たちの死体とAP通信のショッキングな写真を一面に事件を大きく扱い、死者数1400~3000人、負傷者1万人規模と報道しました。

 

「発砲しながらこっちへ向かっている、人が殺された、みんな血だらけだ」

 

共産党一党独裁の国体を堅持するため20万以上武装兵に大量の戦車・装甲車・軍用トラックで自転車バリケードを突破し居座る学生を圧殺、幼児や老人など無差別に銃撃しました。北京の制圧事件が世界に報道されると各地で抗議活動が巻き起こり、中国政府の行動を激しく非難しました。

 


世界に報道された天安門事件 読売新聞 1989年6月5日

 

ハンガーストライキや抗議デモは北京から上海・アメリカと世界各地に広がり、サミットが開催中のパリでは象徴となる自転車を押しながらVサインを掲げ中国人留学生の大集団がパレード行進、対話を呼びかけました。

 

「軍の役割は人民を守ることで一部の人を守ることではありません」

 

当時、中国は交通網が未発達で、学生たちは地方から北京を目指し自転車で集まり、統制が利かないほどの状況だったようです。本ブログでは1957年に大阪で敢行された在日アパッチらによる「大阪府金属くず条例」反対の自転車デモについて投稿しましたが、小回りが利いて機動性の高い自転車はデモに向いているのかもしれません。

 

 


読売新聞 1989年6月10日

 

香港のフランス領事館は事態を受けて指名手配を受けた学運リーダーや作家の亡命活動を支援、「イエローバード作戦」と言われ、英秘密情報部(MI6)や米中央情報局(CIA)も協力しました。イエローバードというのは中国の故事成語「蟷螂捕蝉、黄雀在后」に由来し、セミを狙うカマキリをその背後からカナリアが狙っている状況のようで、中国語では「黄雀行動」というそうです。

しかしながら、中国では「黄雀行動」や「天安門」という事件を連想するワードでは検索できず、当時の「血の鎮圧」は完全に報道が規制され、歴史からかき消されています。我々は中国の大国としての責任を問い続けなければなりません。そして、そこから日本はどうあるべきかを学ばなければならないのではないでしょうか。

 


上海で発生した学生デモ  読売新聞 1989年6月9日夕刊

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