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国内最大級自転車販売店のための展示会「JAPAN BIKE SHOW 2025」

東京で開催された「Japan Bike Show 2025」に行ってきました。

 


▲国内最大級の自転車展示会「Japan Bike Show 2025」

 

「Japan Bike Show」は一般財団法人自転車産業振興協会主催のイベントで、国内最大級の自転車販売店向けの商談会です。2025年は10月15日・16日の2日間、東京・江東区「有明GYM-EX」開催され、多くの来場者が集まっていました。

会場は東京オリンピックの体操競技が実施されたかなり大きな施設でメインのフロアにメーカーや商社などの企業がブースを出展、展示されたニューモデルのサンプル車やイメージ展示などを見ながら来場する販売店側に個別で説明していく方式です。

 


▲ Japan Bike Show 2025が開催された「有明GYM-EX」

 

世界的有名なCOLNAGOやMERIDA、国内輪業を代表するブリヂストンサイクルやヤマハ、少ない従業員ながら技術が光る町工場など、傾向としては日本市場に展開されている自転車よりやスポーツ志向が強い印象があります。BIKE SHOWといってもオートバイの展示はなく、特定小型原動機付自転車も出展できない規約となっています。

 


▲ツール・ド・フランスや世界選手権で採用された高速走行可能なロードバイク

 

電動アシストE-BIKEも出展され、FUJI「MX-E」やHONDAのユニットは注目を集めていました。これまで電動アシスト車はブリヂストン、ヤマハ、パナソニックの三強で、国産ユニットを採用していましたが規制緩和で中国製のユニットを採用したモデルが増加しそうな感じを受けました。

 


▲ 最新のBMX型電動アシスト自転車

 

Japan Bike Show、ジャパンといっても海外の輸入商品も多く展示され、コロナで新商品の開発が止まっていた時計も大きく動き出そうとしています。為替やインフレの輸入品は総じて値上げ、一方で国産品は海外からの引き合いが増えて、生産が追い付いていない工場もあるそうです。

ただ、何度か本ブログで言及していますが、これまで品質で選ばれていいた日本製品が価格の安さで選好されているという現状は歓迎することではなく、台湾製品より低価格な国産品は日本の軽工業の国際競争力の低下を象徴しているように感じます。

 


▲国内外の自転車部品がずらりと並ぶ

 

ブランド力の高い海外部品はパッケージを含めた総合的なマーケティングがなされていて機能や用途がパンフレットや説明書なしでも分かりやすく高単価となっています。ERGONやTOPEAKの展示は「製品」に「マーケティング」を足した「品」となっているのです。

一方で、日本の「製品」は小箱に入っていてエンドユーザーはおろか私たち自転車技士がみても、一体どういう製品なのか判断が難しく納得いく付加価値が見出せません。これは零細メーカーだけでなく、SHIMANOやOGK、MKSといった国内No1メーカーでも、共通パッケージを採用していて製品に差異なく、補修パーツなのか高級パーツなのか賢者しか分からなくなっていて、我々店頭の技士も困るのです。

 


▲ 世界的に人気の日本の自転車パーツ

 

社名と製品名だけ表記されたパッケージ、ビニール袋に入った鳴らせないベル、箱を開けなければどのような製品か分からない製品、これらはセルフサービスの店頭には並びません。店頭に並ぶのは「商品」、バックヤードや工場にあるのが「製品」。日本メーカーは「製品」を作り続け、そこに商品戦略がないのです。大型自転車店やチェーン店、ホームセンターの自転車コーナーには十分な専門知識を持ったスタッフがいないことも多いため、パッケージはこれからより重要になっていくと思います。

展示会で見てきた新商品も入荷してきています。
最新の入荷情報はTwitter(X)を更新しておりますので、フォローください。

国内最大級のヴィンテージ自転車部品蚤の市「シクロジャンブル」2025 秋

服部緑地公園で開催のシクロジャンブルに行ってきました。

シクロジャンブルは西日本最大の自転車のスワップミートで1999年から毎年、春と秋の2回開催されています。2025年秋は10月12日、北大阪急行「緑地公園駅」に近い「東中央広場」で開催されました。

 

 

朝9時スタートとなっていますが、9時にはすでに約40ブース出店され盛り上がっていました。出店は協力金1000円を払えば誰でも可能でコレクターから業者など様々な品々が交換取引されています。車体の出品は盗品売買の怖れから制約があるため出品は少なく、パーツ中心で不用品から博物館級の年代物まであり、関西だけでなく中部や関東地方からも日帰り遠征に来ている方も結構います。

私は10時ころにまでいましたが11時以降はあいにくの雨模様でした。

 

 

出品側はプロという訳ではないので雨天の際の用意はほとんどしていないため、事実上の中止となります。また金儲けで来ている訳ではなりませんので、目ぼしい代物がある際は手さげ袋・小銭・メジャー・ノギスなど工具は持参した方がいいかもしれません。

 

 

欲しいものがなくとも、1960年代前半の初期ALEX MOULTON(アレックス・モールトン)や110年前のPEUGEOT(プジョー)のレストア車など品評会クラスの普段目にすることができない貴重なモノが無造作に駐輪されていたりします。

このイベントの運営「NPO法人 シクロジャンブルコミニティ」は本年7月に豊中文化芸術センターでポルトガル映画「サイクリストの魂~ゆっくり走る人々」の上映を企画、予想を上回る来場者が訪れ好評だったことから、来年も同様の自転車関連映画の上映を企画しているようです。

 

 

今回の戦利品は謎の工具、出品者の方に話を聞くとリベットの工具だといいます。サドルやドロヨケの鋲打ちに使えるのでしょうか?? ちょっと分かりませんが、100円だったので勉強代ですね。

 

 

このイベントは趣味人だけでなく周辺コミュニティの活性化の一役を担い、地域のブランディングに間違いなく貢献し、自然発生的な参加型イベントのロールモデルとして今後も継続してもらいたいと思います。イベントは基本的にFacebookやXで情報を発信していますので、詳しいこと知りたければフォローするといいと思います

大阪・関西万博閉幕、「夢洲レガシー」をどう活用すべきなのか

大阪関西万博が閉幕まであと数日となりました。開催前は建設費の収益面や安全面で多くの不安材料があり、開催反対の声も多くみられましたが、来場者2500万人で280億円の黒字、想像以上に評価され期間中に日経平均株価も高値を更新、訪日客も増加しました。

サイクルショップ203のある立花通りは普段から多くの外国人観光客がいるため、万博だからと言って目に見えて変わったという訳ではありませんが、国恥級の東京五輪の惨状と比べてはるかに素晴らしく、意味のあるイベントだったと思います。私は9月の休みに1日だけ行きましたがパビリオンの予約もすべて外れ、とにかく比較的空いているところに入って暑さをしのぐような感じでした。

 

 

一番注目を集めていたイタリア館ではジロ・デ・イタリアのトロフィーとイタリアンロードバイクが並べられ、文化財級のホンモノの展示物に長蛇の列ができていました。イタリア以外も人気パビリオンは2時間待ちはあたり前で入場制限され、行き場を失った人が大屋根リングを歩きまわり記念に写真を撮っていました。

SNSやインバウンドといった言葉もなかった時代の「愛・地球博」がそこそこ成功したのだから、まあそれなりには成功すると思っていましたが、猛暑の中これだけの人が来るのならもう少し開催期間を延長して欲しいと思えるくらい名残惜しさを感じました。

地下鉄のダイヤが乱れ帰宅できない人が発生したり、一部のパビリオンが開幕に間に合わないなどのトラブルはありましたが、開催前から懸念されていたガス爆発、テロ、津波といった惨事はなく、声高に反対していた識者が滑稽に映り、ますます大阪が活気づいたような気がします。

 

 

すぐに入場できたのは自国でパビリオンを出展できない小国を寄せ集めた「コモンズ」であまり耳なじみのない国の原始的な楽器や木彫りのお面などが展示、貧しさから脱っせない非文明地域の展示物はどれも同じに見えました。そんななかでバングラデシュが自転車部品を展示、内製化できる工業力をアピールしていました。

車輪は人類最大の発明の一つであり、国の経済の発展に寄与します。途上国が家内制手工業から工場制手工業(マニュファクチュア)に移行しさらに大きな設備投資をする際にはそれに見合う労働力が必要になり、人員の確保のため遠方からの通勤が必要となります。自転車があれば半径20kmくらいから労働力が確保できるため、経済発展の一里塚は自転車工場、特に消耗品であるタイヤ工場は非常に重要であると言えます。

中国も建国当初は朝の自転車通勤が風物詩となり「世界の工場」となりました。電車や自動車はおろかバイクやガソリンすらない途上国にとって自転車は重要で、いつまでも民族楽器を作っている国とバングラディッシュではどちらが経済発展をするかは明白です。

 

 

万博には公営競技から多額の費用が捻出され、広告や警備などの競輪の補助がなければ開催ができません。しかしながら、大阪府・市は一時期共産主義に肩入れしており、大きな収益を生んでいたにも関わらず迷惑施設として競輪場を廃止、共産主義政権が倒れた現在も施設の再開はありません。

1970年大阪万博の際も競輪資金で世界初の水平型エスカレーター「ムービングウォーク」を設置、日本の輸出品目となり今では世界のショッピングセンターや空港施設などに波及しています。ちなみに中央競馬は大阪は関係ないと協力姿勢をみせませんでした。大阪人が恩知らずなのか、競輪の運営がおひとよしなのか、夢洲にカジノ施設を設置すらなら、競輪場も併設すべきではないでしょうか。

 

 

数兆円を掛けて失笑された東京五輪と比較すると、夢洲を3000億円で新都市のたたき台となるビジョンやインフラ整備をできたことは日本経済にとっては非常に有益で、特に大阪府民・市民にとっては、府市所有の夢洲の土地が高く売却でき、IRなどの新産業の恩恵も受けることができます。

私としては木製の大屋根リングはそのまま競輪場の木製バンク(トラック)に転用して、批判を浴びた建設費2億円の公衆トイレは南堀江に移設して観光ニーズにしっかり対応して欲しいと思います。

 

 

酷暑だったので長くは滞在できませんでしたが、ガンダムの立像が人気だったのでまたアニメ博でもしたらどうでしょうか。夢洲は広大です。今後はどのように跡地が有効的に活用されるのか楽しみです。

丸尾良昭「朝来町 自転車店糾弾事件」 荊の葛藤

1960年代、日本は年間経済成長が始めて二桁に達し、移動に自転車が利用されるようになり需要が高まりました。兵庫県但馬地方の朝来町にある自転車店では数百台の自転車を仕入れても、部品の生産が追い付かずオート三輪で大阪まで買い付けていたそうです。ある日、ジープに乗った作業着の男が朝来町にある上田貞雄の経営する自転車店を訪れボールベアリングを無償で譲るように要求、上田が代金を請求すると男は激怒し硬貨を投げつけ1時間ほど口論の末、警察沙汰となり駆け付けた警察官は作業着の男に謝罪を要求しました。

 

「それでわしはカァときた」

 

自転車店の上田貞夫の父は町会議員を務める地元の名士、作業着の男は暴力を振ったとして警察官は「謝罪しなければ逮捕する」と取り調べもせず脅しました。作業着の男は名は丸尾良昭(23)、勤務中に故障した自動車の修理にベアリングが必要だったが持ち合わせの小銭がなく、助けをもとめ自転車店入ったと状況を説明しました。

丸尾は自宅に戻ると近所の青年を集め自転車店に乗り込み上田を糾弾、「一切の脅迫をうけておりません」と自己批判書を書かせ、町会議員の父の実印を捺印させました。そして、その書面を持参し警察署を連日訪れ署員を詰問しました。ただ、この事件は丸尾の波乱万丈の活動人生の序章にすぎませんでした。

 


南但の名門八鹿高校  「八鹿高校事件から半世紀」東上高志編著より

 

 

丸尾は被差別部落の出身で、1973年9月から100日間兵庫県西宮市役所が部落解放同盟によって占拠された「西宮事件」をきっかけに本格的に人権活動に取り組み、後に起こる「八鹿高校事件」では解放同盟のリーダーとして、教職員と対峙しました。丸尾は同和のドン朝田善之助の理念である部落排外主義・反共主義に心酔、暴力的交渉術を学び南但馬の多くの学校の同和窓口を一本化していきました。

 

「トンビはトンビ、タカはタカ、生まれは変わらん」 

 

解放同盟は1960年代半ばに日本共産党と決別、共産党と連繋している教職員組合とも反目し合い、同和の利権をめぐって左翼陣営同志の主導権争いとなり、解放同盟は教育現場にも介入、1974年11月に兵庫県の八鹿高校を舞台に戦後の左翼政治史の分岐点となる凄惨な事件が巻き起こります。

 


丸尾一派に対する抗議集会

 

八鹿高校は南但の名門として知られ、早い段階から実践的な同和教育に取り組み、校内に同和教育室が設けられ生徒のクラブ活動として「部落問題研究会」がありました。ところが5月に転校してきた生徒が解放同盟系統の「部落解放研究会」の設置を新たに申請、丸尾は同会の正常化要求会議の議長となり、発足を後押ししました。八鹿高の教員は職員会議の末に新しい解放研究会の設置を認めませんでしたが、丸尾は校長を長時間糾弾し設置を認可させ、教員を激しく批判し対立しました。

 

「赤犬教師が解放研を認めないのは差別だ!」
「八鹿高校の教育が差別教育であることを認めよ!」

 

丸尾は部落解放同盟に呼びかけ50名の同盟員が集まり、教員の背中、腕、頭などを殴りつけ両手足をとってトラックに投げ込み暴行、そして体育館にて糾弾しました。教員は解同グループに激しく暴行を受け、そこでもまた蹴る、棒で打つ、水をかけられる、髪を引っ張られ服を破られる、たばこの火を幾度も押し付けられるなど13時間にわたり徹底的に集団リンチ、一部にはバスケットゴールに逆さづりの拷問を行ったという報道などもみられました。女性にも容赦なく、教員2年目の女教師は無理やり裸にされ、男二人に1時間近くも「マッサージ」や「生理の介抱」を受けたとされ、女教師は今日の事はだれにも言わないで欲しいと懇願したと報道、他にも脊髄骨折・気絶など多くの負傷者を出し、はっきりとしているだけで7人が病院送りとなりました。

 

 


丸尾議長を追及する八鹿高校の生徒

 

町民は警察に対して丸尾の逮捕を要求しましたが不介入の姿勢をみせ、高校生は丸尾を囲み教員に暴力を振わないように懇願、丸尾は集まった高校生を前に長い間の不当な差別を理由に暴力を正当化、雄弁に自身の主張を語りました。

 

「確かに先生を殴った、蹴った、でも仕方なかったんだ!他に方法があったら教えてくれ!」

 

事件に関しては大手各紙は沈黙、共産党機関誌「赤旗」だけが報道し、国民は国会のテレビ中継によって惨状を知ることとなりました。丸尾は逮捕され、解放同盟メンバーは傷害罪など13人がそれぞれ執行猶予半年から4年の刑が言い渡されました。これに対して社会党の影響下にある機関紙は「目撃者は一人もおらず誇大な入院劇を演出」と解同を支持し反論しましたが、1990年11月最高裁で丸尾らの有罪が確定しました。

八鹿高校事件は公営競技の在り方が争点となった1975年の東京都知事選大阪府知事選の戦局にも影響を与え、石原慎太郎が落選し革新政治が台頭しました。刑期を終えた後年、丸尾は部落解放同盟を除名されNPO法人を設立「すべての人々が人間らしく生きることができる地域の創造」を目的に人権活動をおこない、表舞台に立つことはなくなりました。

本年5月に神戸の新川スラムについて投稿しました。妄信的な丸尾の生き様は賀川豊彦と正反対のようにも見えますが、被差別問題に対する強い思いは共通していた部分もあるのかもしれません。事件は政治色が濃く、背後関係から異なる解釈がされますが、同和出身者以外が同和に意見することを差別と考えている方がいるようなので、今回は私の所感は差し控えさせていただきます。

戦後大阪の光と影、NHKドラマ「大阪激流伝」

8月31日のNHKスペシャル「大阪激流伝」は終戦から1970年万博までの大阪城近くの小さな町工場と実在した陸軍工廠に残された金属クズにまつわる家族のドラマでした。ドラマは堤真一さん主演で、町工場に残された資料や取材証言をもとに構成されゴールデンタイムに放送されました。

 

 

本ブログではかつて大阪が軍都として栄え、真田山の陸軍墓地安威川海軍倉庫など遺構が残っていることを投稿してきました。また、焦土化した大阪の混沌から復興平和産業への転換の経緯を自転車を通じて紹介してきました。ドラマは本ブログをなぞるような内容で、在日朝鮮人による静脈産業や左翼活動デモなどこれまでメディアが避けていた秘史にも踏み込んでおり、史実に近い現実味あるストーリーとなっていました。

 

 

堤さん演じる田口留蔵は、戦中に大阪城公園にあった東洋随一の軍事工場「陸軍大阪砲兵工廠」で兵器の製造に従事、戦後は金属加工を生業とし朝鮮戦争をきっかけに爆弾を米軍に供給、新しい工場は雇い順調に軌道に乗り、従業員を雇い仕事に打ち込みます。そこに在日朝鮮人の青年が工場に訪れ爆弾製造の中止を懇願、祖国を憂いながら大阪でギリギリの生活をする朝鮮人の葛藤が込み上げ、衝突寸前の人間模様が表現されていました。

 

「ウチは忘れへん、大阪が鉄クズやったことを」

 

本ブログではこれまで大阪朝鮮人騒擾事件(1948年)、東成署襲撃事件(1951年)、親子爆弾事件(1951年)と猪飼野不逞朝鮮による騒擾事件を取り上げてきましたが、朝鮮人暴動は難解な情勢を理解できるリテラシーがなければ差別主義を助長する恐れもあるため描写はなく、アパッチ族や自転車窃盗団へ言及もありませんでした。

 

 

猪飼野(いかいの)の在日朝鮮人は激しく職業差別を受けほぼ定職にありつけず75%が無職、ほとんどは日雇いや古鉄収集で何とかその日を生き、ヒロポンやドブロクの密造・空巣や洋犬盗など組織犯罪を繰り返し、共産主義を支持する北鮮系「朝鮮総連」と米国を支持する民団系の代理戦争が日常化していました。アパッチ族というのは大阪工廠から古鉄を盗んでいた朝鮮人窃盗団のことで、1956年にはよせや経由の鉄スクラップを規制する大阪府金属屑営業条例が成立しました。私が放送をみて一番驚いたことは、アパッチ族だった金時鐘(キム・シジョン)本人が出演していたことです。

金時鐘は日本共産党(解放戦線)の上田等らとともに「吹田事件」に参加、吹田操車場や笹川良一宅を狙った騒擾事件は血のメーデー・大須事件とともに「三大騒擾事件」の一つとされています。金は詩人として活動して、私は本ブログでファンを公言していましたが、初めて肉声を耳にしました。失礼ながら存命されていることにも驚いたほどで大変貴重な放送だったように思います。

 

 

最後に私の好きな金時鐘の詩の一節を紹介したいと思います。

 

ズボンの/内側を/はぎとり/むれる/悪臭の/修羅場を/城ごと/あけ渡したのだ。
悲哀とは/山に包まれた/脱糞者の/心である。 (金時鐘「わが生と詩」から詩の一部を抜粋)

金は吹田操車場襲撃直前にあろうことか緊張のあまり脱糞、自らを脱北者ならぬ「脱糞者」として左翼運動に心酔していた若いころをユーモアを交え綴っています。金は朝鮮人であり日本人ではありませんが紛れもない大阪人であり、大阪の昭和史の一部なのです。

 

 

見逃した方は9月23日の昼1時からBSでデレクターズカット版が再放送されるようです。

シャンゼリゼを埋め尽くした自転車「天安門事件」反対デモ

7月のシャンゼリゼといえばツール・ド・フランスの最終ステージが恒例となっており、2025年はスロベニア出身のダデイ・ポガチャル選手が4度目の栄冠を獲得し閉幕しました。ポガチャル選手は1998年生まれの26歳、史上最強の自転車選手と呼び声も高く、フランスの三色旗が乱舞しパリは熱狂に包まれました。

しかし、1989年のシャンゼリゼ通りは少し様子が違い、白ハチマキと黒シャツ姿の中国人1000人が自転車と共にパレード、直径数十メートルもある赤い大太鼓には漢字で「自由・平等・博愛」の文字、NOUS CONTENTIONS!(我々は闘いを続ける)と仏語の横断幕を掲げ、大合唱をとどろかせていました。

 


パリの中国人自転車デモ   毎日新聞 1989年7月15日

 

自転車デモはフランス革命200周年を記念してミッテラン大統領はじめ各国首脳が集められ観光客やパリ市民など100万人が見守るパレード冒頭に催され、続いてコーラス隊やソプラノ歌手の革命歌によって観客全員が立ち上がり大合唱となりました。

 

「中国で現政権が続く限り、この国の将来はない」 

 

このパレードは明らかに前月6月4日の中国の弾圧事件への強い抗議を全世界に向けてアピールしたもので、ミッテラン大統領はフランス革命の基本精神が人権にあり、フランスが今後も「人権」を外交の太い柱にすることを宣言しました。

 

 


民主化を求めた人民を武力で制した中国政府軍  毎日新聞 1989年7月16日

 

紫禁城前の天安門広場では銃声が鳴り響き全身血だらけの女性が横たわる惨状、中国政府によると6月の動乱鎮圧による死者は319人と発表、首都の北京には厳戒令が発令され人民解放軍兵士や武装警察が民主化を求めて蜂起した学生・市民グループに対して一斉射撃、読売新聞は翌日朝刊で天安門広場近くで、つぶれた自転車の残がいの中に横たわる学生たちの死体とAP通信のショッキングな写真を一面に事件を大きく扱い、死者数1400~3000人、負傷者1万人規模と報道しました。

 

「発砲しながらこっちへ向かっている、人が殺された、みんな血だらけだ」

 

共産党一党独裁の国体を堅持するため20万以上武装兵に大量の戦車・装甲車・軍用トラックで自転車バリケードを突破し居座る学生を圧殺、幼児や老人など無差別に銃撃しました。北京の制圧事件が世界に報道されると各地で抗議活動が巻き起こり、中国政府の行動を激しく非難しました。

 


世界に報道された天安門事件 読売新聞 1989年6月5日

 

ハンガーストライキや抗議デモは北京から上海・アメリカと世界各地に広がり、サミットが開催中のパリでは象徴となる自転車を押しながらVサインを掲げ中国人留学生の大集団がパレード行進、対話を呼びかけました。

 

「軍の役割は人民を守ることで一部の人を守ることではありません」

 

当時、中国は交通網が未発達で、学生たちは地方から北京を目指し自転車で集まり、統制が利かないほどの状況だったようです。本ブログでは1957年に大阪で敢行された在日アパッチらによる「大阪府金属くず条例」反対の自転車デモについて投稿しましたが、小回りが利いて機動性の高い自転車はデモに向いているのかもしれません。

 

 


読売新聞 1989年6月10日

 

香港のフランス領事館は事態を受けて指名手配を受けた学運リーダーや作家の亡命活動を支援、「イエローバード作戦」と言われ、英秘密情報部(MI6)や米中央情報局(CIA)も協力しました。イエローバードというのは中国の故事成語「蟷螂捕蝉、黄雀在后」に由来し、セミを狙うカマキリをその背後からカナリアが狙っている状況のようで、中国語では「黄雀行動」というそうです。

しかしながら、中国では「黄雀行動」や「天安門」という事件を連想するワードでは検索できず、当時の「血の鎮圧」は完全に報道が規制され、歴史からかき消されています。我々は中国の大国としての責任を問い続けなければなりません。そして、そこから日本はどうあるべきかを学ばなければならないのではないでしょうか。

 


上海で発生した学生デモ  読売新聞 1989年6月9日夕刊

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