競輪は終戦間もない1948年に始まり、テレビもパソコンもない時代に瞬く間に娯楽の頂点となりした。現在では野球やサッカー・格闘技など競輪以上に人気があるスポーツは多数ありますが、再び競輪が人気スポーツに返り咲くことはあるのでしょうか。
▲後楽園球場となりにあった後楽園競輪場 「競輪二十年史」(1971,自転車振興会)
1953年にテレビ放送が始まると、日本テレビは後楽園球場の巨人戦のプロ野球放送を開始、立教大のスター長嶋茂雄が入団すると観衆が倍増、巨人軍の黄金期となります。後楽園球場は後楽園競輪場の隣にあり、1987年に競輪場が東京ドームに建て替えられるまで巨人軍の本拠地とされていました。
長島を口説き、プロ野球を人気スポーツに押し上げたのは、読売グループ総帥の正力松太郎です。正力はA級戦犯容疑で巣鴨に疑獄され、釈放後は政界で閣僚を務め、球界では絶大な権力を掌握「プロ野球の父」と称されました。
▲右から正力松太郎・正力夫人・娘婿の小林與三次 「巨怪伝」(1994年,佐野眞一)より
グループただひとつの上場企業の株式会社よみうりランドは正力の娘婿の関根長三郎が代表となり、川崎競馬場や船橋競馬・オートレース場および場外投票券販売施設を管理、後楽園競輪も所有していました。現存する関西の競輪場はすべて公営で、企業による競輪場運営に違和感を覚える方もいるかもしれませんが、京王閣・西武園・富山・伊東温泉競輪場と一部に民間企業所有施設もあり、千葉県の松戸競輪場も読売グループ傘下となっています。
後楽園競輪場は都の財政に寄与し人気を集めていましたが、美濃部亮吉都知事は独断で競輪の休止を宣言し政治家引退を表明していました。美濃部を支持してきた日本共産党と社会党は八鹿高校事件をきっかけに同和問題を巡り対立、1975年4月の次期都知事選には出馬しない予定でしたが、石原慎太郎が名乗りを上げると分裂状態の左派が「ファシストの石原だけには都政は渡せない」と一枚岩となり、美濃部を引き張り出しました。
「都政の荒廃を立て直し、新しい東京をつくる。私は生まれ変わるつもりでこの大仕事に取り組みます」
石原は大学時代に「太陽の季節」(1956,新潮社)で芥川賞を受賞、産経新聞で「巷の神々」を連載したことをきっかけに宗教的な後援を獲得し、68年に自由民主党公認で参議院選挙に出馬、圧倒的知名度で史上最高の票数を集め初当選、その後に衆議院に鞍替えし任期中でしたが自民党の推薦を受けて新しい東京をつくると宣言し、都知事選に出馬しました。しかしながら大阪で共産党単独推薦の知事が誕生するなど革新勢力が躍進、石原は人生で賭けた選挙で屈辱的な大敗北を喫し、後楽園競輪の撤退が決定的となりました。
▲ 都知事選で美濃部に敗れ落選した石原慎太郎 (朝日新聞 1975年4月14日夕刊)
後楽園球場は阪急の小林一三らとの共同経営で複数の球団で使用され、正力は自前の球場の建設を夢みていました。不忍池を埋め立て球場にする構想や新宿に巨人軍専用施設「正力ドーム」建設の計画がありましたが、実現せず正力は1969年に他界しました。正力の死後、長男の亨、娘婿の関根と小林與三次が組織の要職となり事業は拡大、世界一のメディアグループとなり、競輪場の跡地は日本初の屋根付き球場「東京ドーム」が計画され、88年3月に竣工されました。
開場当初、東京ドームは日ハムファイターズとの共用球場でしたが、2003年にハムが札幌に本拠地を移して以降は巨人軍専用となり、よみうりランドと株式を持ち合っていました。
▲後楽園競輪場の跡地に建つ東京ドーム (2021年7月撮影)
一方、石原は1999年に再び立候補した都知事選で当選すると、東京ドームでの競輪開催を検討する方針を表明、災害復興の財源の確保や観光振興のため本格的な調査をするとしていました。
「これまでの常識を覆す、若者や女性にも楽しめる斬新でスマートな競輪を目指す」
「ドームは雰囲気も違うので、昔と違ったイメージ活用したらいい」
東京ドームのグラウンド地下には将来の後楽園競輪復活も視野に入れ400メートルのバンクが格納されていて、2008年までは競輪や自転車イベントが開催され、世界選手権やオリンピックの開催も検討されていました。石原はドーム競輪以外にも臨海の埋立地でカジノを運営する計画を立案するなど公営ギャンブルによる財政健全化を提唱しましたがいずれも任期中に実現にはいたりませんでした。
▲物議を呼んだ石原都知事の競輪再開表明 (朝日新聞 2003年6月24日夕刊)
2023年3月には読売新聞・よみうりランド・巨人軍が東京都稲城市にある遊園地内に2軍球場を中心とした複合型ボールパーク「TOKYO GIANTS TOWN」を一部開業、老朽化が懸念される東京ドームの築地移転も検討されています。築地市場を豊洲に移転を決定した石原は政治家引退後に住民訴訟や百条委員会で土壌汚染について激しく責任訴追され、移転の経緯のを求められましたが、自身が主導的立場でなかったと主張、2022年2月に他界しました。
読売新聞は築地移転を公言していませんが、築地市場跡地には読売新聞を中心とした企業連合が5万人収容の多目的スタジアムのパースが公開され、憶測を呼んでいます。歴史的経緯を見返すと巨人軍の本拠地移転に伴って、東京ドームで競輪が再開される可能性は期待できるのではないでしょうか。一部では長島茂雄と同時に国民栄誉賞を受賞した元読売軍の松井秀樹外野手の監督就任と併せて本拠地移転をするのではないかと言われています。