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安威川に咲いた「尊農・二反長音蔵」の白い花

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大阪平野を東西に流れる神崎川は大阪市北端の境界で、中流で北から流れる安威川(あいがわ)と合流し大阪湾に注ぎます。安威川は茨木・摂津・吹田市など三島郡を流れる一級河川で河川敷が整備され、自転車が走行できるようになっています。秋も深まり自転車に乗るのに気持ちいいシーズンとなりましたので、大阪平野の最北端の茨木市まで、安威川沿いをサイクリングしてきました。

 

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茨木市は「伊豆の踊子」「雪国」で知られているノーベル賞作家の川端康成が幼少期に過ごした郷です。川端は成績優秀で茨木中学(現・茨木高等学校)に首席で入学、作家を志望するようになります。茨木中は府下でも屈指の名門校で、地元農家の二反長半二郎(にたんちょう はんじろう)も川端の影響を受け入学、二反長半(にたんちょう なかば)のペンネームで文筆活動をしていました。二反長半は児童文学や伝記などを数多く執筆「自転車と犬」(鶴書房,1941)、「松下幸之助」(盛光社,1964)、「若き池田大作」(集英社,1971)といった作品を残しています。二反長家は村をまとめる篤農家でしたが、半は法政大学に進学後に教員となり作家活動をしていたそうです。父の後を継がなかった理由としては川端の影響もありますが、それ以上に二反長家が栽培していた植物の品種に関連しています。

 

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半の父・二反長音蔵は1875(明治8)年三島郡福井村生まれ、旧姓は川端。
20歳頃からケシの栽培に興味を持ち船場の道修町で種子を買い込み、独自で品種改良や栽培方法を研究します。ケシはアヘン・モルヒネ・ヘロインの原料で当時でも国内では中毒などの薬害が十分に認識されていて、政府の厳重な管理のもとで栽培されていました。音蔵は薬用アヘンの国内での自給自足を目指し、台湾産ケシから「福井種」、中東産から「三島種」といった優良種を開発、台湾総督府の後藤新平にも高く評価され日本政府から信頼を受けていました。

 

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江戸時代に日本は200年以上も鎖国政策をとっていましたが、その間世界では交易が盛んになり、コーヒー・紅茶・タバコなど依存性の高い嗜好品の貿易が増えていきました。なかでもアヘンは東アジアで嗜好され諸国に広がりました。1895年日本は日清戦争の勝利により下関条約で清国から台湾の割譲を受けます。台湾原住民はアヘンを嗜好し、蔓延の対策に指名されたのが医師の後藤新平でした。後藤は原住民との衝突を避け円滑に統治できるようにアヘンを禁止するのではなく漸減策とります。アヘンを日本の管理下に置き台湾国内での栽培を禁止、星製薬の星一(作家の星新一の父)の力を借り専売制を実施、毒をもって毒を制する手段を取ります。

 

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一面に広がるケシ畑の光景  向かって一番右が二反長音蔵   「戦争と日本阿片史」より

 

国家的な政策により音蔵のケシ畑の耕地面積は増え福井村を中心に500アール、18000人の搾取人を要し、春になると安威川沿いには一面のケシの花が咲き、最盛期には和歌山県有田郡にも作付けされ、国内の98%を供給したそうです。音蔵はケシ栽培に情熱を掛ける一方で自転車で「テクッ」ることを好み、船場や和歌山の耕作地まで汽車を使わず英国製「ラーヂ号」を使って移動してたようです。

 

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「ラーヂ号」を販売する茨木市内の自転車店 (1934年頃) 在郷町古きまちなみ写真展より

 

時は流れ1905年、日露戦争でロシアに勝利した日本はポーツマス条約により南満州鉄道の運営に着手、鉄道の警備員「関東軍」を配備します。歴史はこの鉄道を舞台に諜報戦となり、31年に日本は清朝最後の皇帝・溥儀を担ぎ中国北東部に満州国の建国を宣言します。五族協和を掲げ建国された満州国でしたが実態は日本の傀儡国家で、各国の諜報員が暗躍するスパイ天国となっていました。アヘンは戦略的物資として特務機関「里見機関」よって地下組織に密売され、中国と軍事衝突していた関東軍の秘密資金とされました。

満州国内では急速にアヘンの需要が増加、吉林で900軒、チチハルで500軒と各地でアヘン窟が公然と営業されました。なかでもハルビンは魔窟「大観園」をはじめ3000軒以上の吸引所があり、過酷な労働に従事する人を蝕んでいました。

アヘンは国際条約で禁止されているため日本が国家主導で直接売買はできませんので、政府はあくまで「民間企業」が法の目をくぐり狡猾に密売を行っているという建前で、実態は関東軍主導の極秘任務で音蔵はその片棒を担いでいました。

 

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もちろん、このような事実は当時の日本人は知るすべもなく長く秘匿されていました。しかし1998年10月、愛知県立大学倉橋正直教授が音蔵の遺品である門外不出の箱の調査を二反長家に依頼、死後一度もあけられた形跡のない箱内の資料により音蔵の特務が明らかにされました。

音蔵は馬にまたがり50名の満州国軍の護衛兵を率いて吉林省の山岳地帯の奥地に出向きケシの栽培を指導、満州国から招かれたこのときの自らの様子を「阿片王一行」と記しています。音蔵は67歳にして伊勢から自宅まで自転車に跨り1日で走破する健脚ぶりだったそうですが、初めて乗った馬のサドルは音蔵には合わず移動中は尻の痛みに悩まされたようです。ケシ栽培は実地指導だけでなく、作付け品種の選定から技術面の指導など非常に計画的に行われ、朝鮮・蒙古を含み合計で少なくとも37回の外地旅行に出かけたとしています。

 

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満州国の阿片精製の実景 二反長半著「戦争と日本阿片史」(すばる書房,1977)より 

 

しかし、関東軍のこのような偽装工作は米国スパイによって徹底的に監視され、軍拡を警戒した米国は国際連盟の諮問機関の委員会にて日本を糾弾、満州の独立を認めず中国からの撤退を勧告します。英米は蒋介石率いる中国国民党を支援、中国侵攻から大東亜共栄圏の確立を目指す日本に原油の輸出禁止措置など経済的に制裁を下します。引くに引けない日本は国連脱退を表明、英米との全面戦争へと発展していきます。

 

 

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日本国内ではアヘンが蔓延した歴史はありませんが東アジアでは通貨のように使用され、法律で禁止しても断つことは難しく、扱いを間違うと人だけでなく国家そのものをダメにしてしまうこともあります。音蔵はアヘンの吸引や密売に手を染めることはありませんでしたが、研究や旅費に多額の財産を費やし所有していた山林や田畑など財産を次々と手放し、晩年は「尊農」を自称し宗教にのめり込みました。

現在、福井ではケシ畑のあった形跡は消え去り、二反長家の隣にあるJAの職員や近所の老人たちに聞いても、そんな話は初耳だと言っていました。100年前、音蔵が「テクッ」た安威川の河川敷の轍、伊勢から150kmを走り帰宅した際も音蔵は「少しも疲れなかった」と言っていたそうです。

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シマノ自転車博物館 特別展「自転車の旅 様々なかたち」

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堺東にあるシマノ自転車博物館で開催中の特別展「自転車の旅 様々なかたち」とみてきました。
特別展は「心と心の共鳴」をテーマに4階の特別展示室で2023年3月19日まで催される予定となっています。

 

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展示は3つの旅が取り上げられていて、実際に旅で使用された自転車だけでなくパネルやVTRなどを使用し、旅先でのふれあいや思い出が再現されています。

①宇都宮夫妻
②坂本達ファミリー
③西川昌徳と参加者

 

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★★

 

 

 世界で一番長いハネムーン 宇都宮一成・トモ子

宇都宮夫妻は1997年から10年半、五大陸88ヶ国10万キロを2人乗りのタンデム自転車で走破、その旅行記「世界でいちばん長いハネムーン」(風濤社,2010)は495ページあり、一日一日の旅の様子が残されています。エピソードから鉄砲玉のようなご主人を勝手に想像していましたが、展示車からは意外と用意周到で本のイメージとは少し違ってました。

自転車は「zephyr」(ゼファー)製のMTBタイプのクロモリ製のスペシャルメイド、同著によると自転車は2台あるようで「二代目はアルミ製フレーム」とあることから、1台目の自転車の方なのでしょうか。zephyrは以前にも紹介した「東京セブンメンバーズ」一員の自転車店「東京サイクリングセンター」のオリジナルで、おそらく鳥山新一監修、フレームは東叡社によって製作されたものだと思われます。

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宇都宮夫妻の東京サイクルリングセンター「zephyr」のタンデム自転車

 

 

 

② 家族で自転車世界冒険 坂本ファミリー

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▲ TOPEAK「Babyseat」を装着した坂本ファミリーのマウンテンバイク

 

坂本達さんは子供衣料ブランド「ミキハウス」の社員で、特別有給休暇を取得し1993年から4年3ヶ月かけ5万5千キロの自転車で世界一周を走破、2015年10月からは佳香夫人と3人の子供共に自転車旅を続けています。著書「やった。」は私が初めて読んだ自転車紀行文で個人的に思い入れがあります。続編の「ほった。」とそれぞれ写真が豊富で読みやすく、高校や中学の教科書に採択されているようです。

ミキハウスは八尾市の企業で坂本ファミリー以外にも多くの支援活動を行っていて、博物館では自転車絵画コンテスト「ミキハウス賞」の展示も同時にされていました。

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▲自転車絵画コンテストに協賛する子供服衣料メーカー「ミキハウス」

 

③子供たちと自転車旅  西川昌徳と参加者

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▲西川昌徳さんは2019年からは「daily life bicycle cafe」で日本縦断

 

西川さんは1983年兵庫県姫路市生まれ、12年間で36ヶ国9万キロをマウンテンバイクで走り学校公演などで子供たちに旅人の物語を伝える活動をされているそうです。私はこの特別展で初めて西川さんのことを知りましたが、2019年からはコーヒーを通じて出会いを生み出す「daily life bicycle cafe」にて日本を縦断、そして反日政治や反日デモを性懲りもなく展開する韓国に見かねて、あえて服の袖に日の丸を付けて無料でコーヒーを振る舞う活動「Free Coffee」をしているようです。

 

 

★★

博物館は本年3月に大仙公園から堺東駅にリニューアル、特別展以外にアドベンチャーバイクが何台か展示されていて楽しめるようになっています。

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シマノ自転車博物館
[施設] 大阪府堺市堺区南向陽町2-2-1
[開館時間] 午前10:00~午後4:30
[休館日] 月曜日、祝日の翌日(土、日の場合は開館)

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戦後初の女性国会議員「山口シヅエ」の正体

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ヤクザが仕切る盗品が並んだ新橋の闇市、桃太郎旗を掲げた男がカランカランと鐘を鳴らすと食べ物屋が来たと思い込んだ人がつられて焼け跡のバラックから駆け出し外へ出てきます。集まった人を前に白いブラウスにハイヒールを履いた初々しい女性がおさげ髪を揺らし壇上に上がり、名を名乗り笑顔でなにやら演説を始めました。老猿のような男性が持つ旗には「山口シヅエ」とあり、演説は二人三脚で脚がパンパンになるまで歩き回り、貴重品の紙を大量に手配しパンフレットを配布、戦火で荒廃した東京の新しい時代の幕開けでした。

 

「一日六時間働けば食べていける、そんな世の中をつくりましょう。そうすれば、女が働きながら子供を育てられます」

 

1945年8月、日本は二発の原爆の投下により壊滅的な被害を受け降伏、6年あまりにわたって続いた連合国との戦争は昭和天皇による玉音放送にて終結します。その後、GHQの管理下で婦人参政権が認められ翌年4月10日の総選挙では1300万以上の女性が投票、39名の女性代議士が誕生しました。

 

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 山口シヅエ 日本で初めての女性国会議員 

 

新憲法下初めての総選挙は31%の議席を獲得した日本社会党が比較第一党となり、民主党などと連立を組み片山内閣が発足しました。日本社会党というと中ソと交流を重視した政党のイメージがありますが、社会党が東側諸国から秘密資金を受けるなど左傾化したのは、日本共産党が「非武装」路線に主義を修正し中国共産党との関係が悪化した1955年以降になってからで、発足当初は党内に複数の派閥があり、シヅエはキリスト教社会主義指導者の強い影響と後ろ盾を受けて初当選、日本で初めての女性代議士としての道を歩み始めました。

5月16日、この日に初めて国会に登庁した39人の女性議員の中でシヅエは最年少の28歳、東京1区という大激戦区で鳩山一郎(後の首相)に次ぐ得票数を獲得し「下町の太陽」と評され、党の看板娘となります。このときの39名の大半が再選できず1期で政治家生命を終えるのに対して、シヅエは通算当選回数13回で1980年代まで政治家として活動し、在任中には女性運動や売春防止法の制定に力を注ぎ、全国婦人連盟会長や経済企画庁政務次官などを務めました。

シヅエは30年以上に亘る政治家人生で幾度となく辛酸を舐めます。なかでも1967年の衆議院選では、党内の派閥抗争で選挙違反を問われ書類送検、不起訴となったものの不信感から社会党を離党、追いかかるように恋愛スキャンダルや元秘書の資金横領にも見舞われました。シヅエは戦争で実弟を亡くし、深川にあった自宅も空襲で被災に遭い丸裸で、唯一心の頼りにしていたのは父親の重彦でした。

 

 

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▲ 山口重彦 独自の経営力で山口自転車を一代で築いた

 

父親の山口重彦は1894年生まれ、ダット自動車(現在の日産自動車)で技師として勤務後に「山口自転車」を設立、8000店もの小売店網を構築し一代でトップメーカーにしました。ABCD包囲網により国内の原油備蓄がわずかとなった戦時中、蒋介石を支援する英国の援蒋ルートを断つため、シンガポールを目指し侵攻していた我が国の歩兵部隊は英領マレーに石油を使用しない自転車部隊で南進、山口の自転車の工場は「銀輪部隊」の軍需によりフル回転しました。戦後も商才を発揮し、自転車業界が協会の談合で販売価格を決めあぐねている間に他社を出し抜く廉価価格の長期月賦方式を採用し自由競争時代をけん引、ママチャリなどまだ存在もしない時代に女性にターゲットをしぼった専用自転車「スマートレディ」の発売など業界を騒然とさせました。シヅエが立候補を決めると、仕事そっちのけで選挙活動に付き添い惜しみなく私財を投入、自身も選挙にのめり込み出馬を決め参議院議員を2期務め、政治と自転車メーカーという二足のわらじを履き周囲の注目を集めていました。

 

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山口自転車の女性専用自転車「スマートレディ」 シマノ自転車博物館所蔵  [筆者撮影]

 

シヅエが初当選した翌年9月、首相となった片山哲に愛知県選出の社会党代議士から政策に関わるある計画の詳細が説明されました。

「車券付き自転車競技、つまり競馬のようなものだね。まあ、ちょとだけの賭け金なら認めてもいいだろう」

片山はキリスト教徒で社会民主主義者として知られ、滅多に自分の意見を明らかにしない人でしたが、戦災で映画館や劇場も焼け、労働者の娯楽があまりない情勢を考慮して「車券付き自転車競技」の実現の協力を約束しました。11月、衆議院内の議員食堂にて各党の代議士と提案者が会合を開き趣旨や経緯を説明、シヅエは集まった出席者に茶菓を接待し会合は和気あいあいと進められ、計画は提案者から懇請されました。

車券付き競走という奇抜なアイデアの種をまいたのは南関東自転車競技会の海老沢清文副会長でした。海老沢は「自転車産業の復興とサイクルスポーツの振興」を大義名分に自転車産業界とパイプを持つ倉茂貞助に原案の作成を依頼、自転車総合メーカー日米商店(現在のフジ)の岡崎進社長を引き込み議員に陳情にあたりました。岡崎の父は日米商店の創業者で当選6回の衆議院岡崎久次郎、そして叔父も外務大臣をつとめた代議士で、法案は瞬く間にまとまりました。

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㊧倉茂貞助 自転車競技法の制定に尽力
㊨海老沢清文 競輪の発案者

 

ところがこの頃はまだわが国はまだ連合国軍の占領下にあり、法律案には総司令部の了承が必要でした。法案は一旦は総司令部民政局に受理されたましたが、GHQ内の派閥関係の事情で不認可となります。認可取り消しに驚いた議員団は、改めてひざ詰めで法案の上程を談判し、ようやく「自転車競技法」が審議されます。

法案は共同提案として超党派で付託され、シヅエら委員によって審議、自転車産業の復興と京都市・大阪市・横浜市・神戸市・名古屋市の5都市地方財政の増収を目的と定めて議論されました。法案は衆議院で満場一致、参議院では賛成多数で可決し競技法は成立、衆議院本会議において日本自由党の委員から一部修正の申し出があり、主目的が「自転車産業の復興」から「戦災都市の復興」に重点が変更され空襲の被害にあった206都市が開催候補地としてリストされました。

競輪というスポーツは日本以外では開催されていない新競技で、主催することで利益が本当に得られるのか分からず各地の反応はさっぱりでしたが、1947年には福岡県小倉競輪と大阪の住之江競輪で開催されました。すると熱狂的な人気を博して、全国の60の超える競輪場で開催されるようになり、復興の貴重な財源となり主催自治体の財政を下支えました。そして、75年経った現在もこの内で43施設が現役で、当時の想定をはるかに超える天文学的な恩恵を地域にもたらしています。

一方で競輪は直接的に自転車産業にもたらす恩恵は少なく、山口自転車は1963年に経営不振となり重彦も体調を崩し65年に71歳で他界してしまいます。倒産の原因は選挙に資金をかけすぎたこととオートバイ事業の失敗といわれ、生産設備は台湾の穂高(ホダカ)に売却、「山口」のブランドは大手商社の丸紅に受け継がれ「山口ベニー」としてランドナー「べニックス」などヒット車を生みます。シヅエは同社に飯事部の部長して勤務していましたが、立候補後は家業を離れ政治活動に専念していました。

 

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山口ベニー「べニックス」の雑誌広告  サイクルスポーツ1975年6月号

 

シヅエは1967年に政権与党の自由民主党に入党、異端の政治家また同政党の唯一の女性代議士として精力的な活動をし、80年には女性として初めて国連平和賞を受賞、引退後には女性政治家の草分けとして瑞宝章を授与されます。

「日本の女性の社会的地位は、戦後飛躍的に向上しましたが、まだ男性と対等に実力を発揮している訳ではありません。対等の報酬を受ける時代がいずれ来るでしょうが、そうした時代に向けての捨て石になれたと、満足しています。」

2012年、山口シヅエは94歳にて波乱の生涯に幕を閉じます。
競輪誕生から75年、孫の世代まで恩恵をもたらす驚異の構想、そして功名心を捨て献身的な姿勢で将来を見据え達観する姿、サンスター自転車の金田邦夫の投稿にも記しましたが、落ちぶれた令和の日本人がまさに規範とすべき人生のように思います。

 

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瑞宝章を授与された山口シヅエ 読売新聞 1987年11月27日夕刊

 

 

■参考 <日本人の国連平和賞受賞者>
1979年 岸信介 (元首相) 日本人初の受賞
1980年 山口シヅエ 女性初の受賞
1981年 福田赳夫 (元首相)他1名
1982年 笹川良一 (日本船舶振興会会長)他2名
1983年 池田大作 (宗教法人会長)他1名
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女性のレインコート320枚、怪盗「かっぱ男」依田淑雄(51)逮捕

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本ブログでは以前に大阪は人身事故や放置自転車数が全国ワーストである投稿をしました。人口が多く、自転車の保有率が全国2位の大阪は不名誉にも自転車関連の犯罪が多く、自転車盗難率も全国ワーストとなって、街頭犯罪の80%が「自転車盗」となっています。これは「ひったくり」の60倍で、大阪の警官は自転車の盗難の書類作りが日課となっている状況なのです。

 

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大阪市中央区の街頭犯罪  自転車の盗難が大半をしめている

 

大阪府は2008年に橋下知事(当時)が「街頭犯罪 全国ワースト1」の返上を表明、自転車盗「脱ワースト1」を公表していましたが、2014年に大阪府警による組織的統計偽装が発覚、全65署おいて8万件の街頭犯罪のを過少計上し、統計偽装に関わった90人の警官を口頭注意など処分をしています。8万件のうち45%占める3万7000件の自転車盗を統計に加えると偽装期間の2008~12年も全国最悪で、防犯登録所である弊社にも「警察が被害届を受理してくれない」などのクレームが寄せられていました。

 

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戦後最大の集団偽装事件、大阪府警による組織的治安偽装 産経新聞 2014年7月31日

 

 

 

自転車には「防犯登録」が義務付けられていて足が付き易いため、最近ではライトなど付属している部品を盗み、インターネットオークションやフリマアプリで売却する手口が横行しています。特に、電動アシスト自転車のバッテリーを狙った被害が急増していて大阪府は警戒を呼びかけています。

サイクルショップ203では、常時30種100錠以上の自転車錠をストック、「iPhoneを探す」で位置が分かる最新のバイクファインダーknog「SCOUT」も店頭販売しています。街頭犯罪ワースト脱却のためにも、ぜひ愛車に「SCOUT」を装備するなど自衛策をお願いいたします。

 

そしてまたしても、我が街大阪でとんでもない窃盗犯が逮捕されました。

 

「かっぱ男」窃盗疑い逮捕 320着押収

自転車のかごから女性用の雨がっぱを繰り返し盗んだなどとして、大阪府警阿倍野署は22日までに、窃盗などの疑いで大阪市東住吉区、会社員依田淑雄容疑者(51)を逮捕、追送検した。自宅から雨がっぱ約320着を押収。雨がっぱばかりを狙う手口から、捜査員の間で「かっぱ男」と呼ばれていた。  

署によると、依田容疑者は「女性の肌に触れる雨がっぱを見ると、下着と同じような感じがして興味があり、2009年ごろから始めた」と供述。雨天時に雨がっぱを着た女性の後を付けたり、止めてあった自転車の前かごに干されていた雨がっぱを物色したりしていた。  (共同通信 2022年9月22日)

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▲毎日新聞 大阪版 2022年9月23日

 

窃盗の疑いで逮捕・送検された東住吉区桑津1丁目の新聞配達員・依田淑雄容疑者は、2013年12月から今年5月までの間、大阪市や東大阪市で雨の日に女性のあとをつけ、脱いだレインコートを盗むなど、100件以上の窃盗を繰り返し、警察は「かっぱ男」として男の行方を追っていました。

依田容疑者のように定期的に現れるパラフィリア障害とみられる自転車部品盗は、今までサドルに限定されていたため、自転車の前カゴに入ったレインコートという社会通念から大きく逸脱した異常な性的嗜好には困惑してしまいます。また、2020年に発覚した須田広昭による大量サドル盗難事件と犯行時期・エリアが重なることから、両者は地下で熾烈な犯行合戦が繰り広げていたということとなり、大阪府警にとってはまさに汚名返上となる逮捕で、地域に住むの女性はようやく安心して眠れます。

 

 

こうした収集癖が起こす事件はたびたびニュースで目にしますが「変態」や「フェチ」などと一言で片づけられ、なぜ窃盗を起こすのかという本質に迫ることはありませんでした。文筆家のインベカヲリ★氏は、2013年に横浜で発生した連続サドル盗事件で逮捕された近藤丈司(35)を取材、メディアが事実を大げさに歪曲し近藤を異常性癖者のように報道されたことを不服とし訴状が提起されている事実を明るみにし、コメントを得ることに成功、「新潮45」(2016年4月)に投稿しました。

 

 

「新潮45」によると2013年神奈川県横浜市にて自転車のサドルを200個を盗んだとして35歳の男が逮捕、1日平均3~4個、最高で8個のサドルを盗んだとしています。

 

「匂いを嗅いだり舐めたりした」
「サドルに若い主婦の股部が付いている姿に興奮し舐めてみたいと思うようになった」

 

男は自慰行為によってたまらなく性欲が満たされ、次々に盗むようになったと供述しているとしています。神奈川県警は2012年12月頃から県内で自転車のサドル盗事件が頻発していたため、プロジェクトチームを編成し捜査、狙われるサドルはベビーシートが付いているなど一目で女性が使用していると推測ができる自転車であるという共通性があり警戒を強めていました。

 

男はその後に不起訴となり、報道したメディア6社と神奈川県に対し深刻な名誉毀損を受けたとして提訴、

「サドルに対して性的な興奮を覚えるフェチではない」
「盗んだサドルの匂いを嗅いだり舐めたりしたことがあったのは事実であるが、それが盗みの目的ではなかった」

男は犯行の動機は行きつけの日焼けサロンでの「人間関係のストレス」であり、性的な目線は一切なくテレビ報道で「仰天!サドルフェチ男」などと陳列された200個の押収品の映像とともにデフォルメされた報道に不快感を持ち、さらに2015年に受けた知能検査で成人の平均がIQ100に対し、それをはるかに下回るIQ50という知能指数の低さに苦しみ通院歴があり、薬物治療を続けていることを神奈川県警が発表しなかったことで記事が不本意に拡散したとしている。これに対し、県警は普通免許を所持している点や犯行の際に指紋を残さないように黒手袋を着用している点などから「責任能力がない訳ではない」としています。

犯行時の精神的疾患や障害の程度は分かりませんが、犯行が狡猾で計画性があり逮捕時の供述を修正しているため近藤の主張を受け入れるにはさらに詳しい説明が必要となります。また、近藤は革製品が好きでサドルの「革」のにおいや質感がたまらないと供述していようですが、ママチャリ用のサドルはポリウレタン製の合成皮革であり本革ではありません。ストレスが原因で「サドル盗」を引き起こすという心理も極めて難解です。真相は分かりませんが、自転車店という立場から見ると近藤が変態かどうかは問題ではなく、自転車製品を繰り返し盗むことが大迷惑で許しがたい行為なのです。

「かっぱ男」こと依田淑雄が今後どのような処罰がくだされるか、本ブログでも注目していきたいと思います。

 

 

<自転車関連の街頭犯罪事件簿>

① 2013年4月 横浜 サドル盗事件 近藤丈司(35)
② 2019年10月 東京 大田区 サドル盗事件 羽鳥秋夫(61)
③ 2018年6月 長野県議 自転車サドル器物破損事件 生出光(28)
④ 2020年2月 トラック運転手 サドル盗事件  須田広昭(57)
⑤ 2022年9月  大阪 かっぱ男事件 依田淑雄(51) ←New

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【ケース①】近藤 丈司

女性の自転車のサドルを盗んだとして、神奈川県警山手署は24日、窃盗の疑いで、横浜市中区立野、無職、近藤丈司(じょうじ)容疑者(35)を逮捕した。

1月ごろから、女性が使っているとみられる自転車から革製のサドルだけを選んで盗みを重ねていたといい、同署は自宅からポリ袋に入ったサドル計200個(計120万円相当)を発見、押収した。(2013年8月25日 サイクリスト)

 

 

【ケース②】羽鳥 秋夫

自転車のサドルを盗んだとして、警視庁蒲田署は窃盗の疑いで、東京都大田区南六郷、アルバイト、羽鳥秋夫容疑者(61)を逮捕した。同署によると「去年の夏ごろにサドルを盗まれて買い直し、他人に同じ思いを味わわせてやろうと、腹いせに盗むようになった」と供述している。

自宅からサドル159個を押収。羽鳥容疑者が自転車の前かごに複数のサドルを入れて走行する姿が防犯カメラで確認されており裏付けを進めている (2019年10月3日 産経ニュース)

 

【ケース③】生出 光

長野地検は21日、器物損壊罪で元長野市議の生出光容疑者(28)=長野市伊勢宮=を起訴した。認否は明らかにしていない。起訴状によると、生出被告は1月30日午後11時50分ごろ、市内の住宅敷地に駐輪されていた自転車のサドルに体液を付けて汚し、損壊したとしている。器物損壊容疑で5日に逮捕されており、同7日に市議を辞職していた。一方、県警長野中央署は21日、強制わいせつの容疑で生出被告を再逮捕した。逮捕容疑は4月19日午後7時40分ごろ、市内の路上で、通行中の10代の女性の身体を触るなどしたとしている。関係者によると、生出容疑者は、いずれの事件についても、容疑を認めているという。(産経ニュース 2018年6月21日)

 

【ケース④】須田広昭

大阪府東大阪市で自転車のサドルを盗んだとして、河内署は28日までに、窃盗の疑いで静岡県沼津市、トラック運転手須田広昭容疑者(57)を逮捕した。署によると「約25年前に仕事のストレス解消で東京や大阪で盗み始め、収集がだんだん楽しくなった」と容疑を認めており、署は須田容疑者が借りていた貸倉庫からサドル約5800個を押収した。

 署によると、これだけの量のサドルを押収するのは異例。大半は一つずつポリ袋に入れられて保管されていた。須田容疑者は各地をトラックで回りながら、都市圏を中心に、行く先々でサドル窃盗を繰り返していたとみられている(2020年2月28日 共同通信)

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皇統と稲作で読み解く「前方後円墳」の謎 ~ 古墳巡りサイクリング ~

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季節も良くなってきたので、サイクリングで堺市に古墳巡りに行ってきました。

大阪市の中心部から南に20km、大和川の南岸には今から1500年以上前に造られたとされる大小多くの古墳が現存しています。大仙古墳など巨大な前方後円墳や陪塚は、2019年には「百舌鳥・古市古墳群」として大阪府下で初めての世界文化遺産に認定され、再注目されています。

 

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世界文化遺産に登録された大仙古墳

 

古墳時代はまだ文字がなく、中国が内乱期で当時の日本を記した文献もないため「空白の四世紀」とされ、なぜこのような巨大な古墳が造営されたのか未だに良くわかっていません。私が初めて百舌鳥・古市古墳群について知り、この時代に興味を持ったのは「キン肉マン」という格闘プロレス漫画で、自身の左腕を鍵にして前方後円墳に突き刺し、悪役レスラーを弱体化させるという、伏線なしの衝撃のクライマックスシーンのくだりです。作者「ゆでたまご」の嶋田隆司さんは大阪出身、荒唐無稽でスリリングな世界観は「ゆで理論」と言われ連載終了後もファンから礼賛されています。

 

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▲ 富士山麓に突如出現した前方後円墳に左腕を刺すキン肉マン 23巻「わが身を捨てて鍵となれ」より

 

「ゆで理論」では前方後円墳は地球を活動させたり停止させたりするための鍵穴とされていますが、鍵のような形状になっている墳丘は「穴」ではなく実際は土が盛られ凸型で、しかも巨大です。そもそも、この時代にはまだ日本に鍵は伝来していないため、歴史学や考古学的にも仰天のフィニッシュホールドです。「ゆで理論」以外にも、この時代においては「騎馬民族征服王朝説」や「日本ユダヤ同祖論」などユニークな考察がされていますが、文化遺産登録後も本格的な発掘調査は許可されず、いまだに多くの謎を残しています。

それにしても、これほど大きな古墳を一体、誰が、何のために、どうやってつくったのでしょうか。現地に行けばなにか謎を紐解くヒントがあるかもしれません。

 

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百舌鳥と古市古墳群の間に位置する「大泉緑地」 広大で誰でも利用できるBMXコース

 

古墳群は百舌鳥古墳群と古市古墳群の2つに分かれていいます。両古墳群は5kmほど離れていて、その間には広大な敷地の府営緑地「大泉緑地」があります。緑地内には無料で誰でも利用できるBMXのダートコースがあり、南側には田園風景が広がっています。

前方後円墳は上空から見ると確かに鍵穴のような形状にみえますが、真横から見ると全貌が分からず陵墓は木が生い茂る小高い丘で、外濠はただの水路のように見えます。世界遺産になってまだ時が浅いためか、大仙古墳の周囲ですらまだ観光向けの再開発が本格化しておらず、昭和時代の老朽化したラブホテルや文化住宅が残っていています。

 

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水路の様に見える「大仙古墳」の外濠  

 

大仙古墳はエジプトのピラミッドより巨大で、推計によるとを当時の土木技術で築造すると工期は15年以上、作業員数は延べ680万人だそうです。盛り土の総容量は140万㎥以上、これは10tダンプ25万台分で周濠の切削残土だけでは半分ほどにしかならず、周辺から墳墓のために膨大な土が集められたということになります。これほど多くの労働力を賄うためには水や食料が必要となり、狩猟採集だけでなく稲作などの農耕が行われていました。

稲作農業には灌漑施設が必須となるため、前方後円墳の周濠は農業用水の確保のために掘削されたとも考えることもできます。つまり一帯を共同事業で農地の開墾をした副産物が古墳で、主目的は水田稲作だったのではないでしょうか。大泉緑地の南側の水田地帯には世界遺産指定の古墳はありませんが、その代わりため池が点在しています。大仙古墳周辺も昭和期までは水田地帯で、現在も奈良県の一部では周濠の水を農業用水に利用しているようです。

 

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大泉緑地の南側に残されている水田地帯

 

自宅にもどり図書館で調べてみると、稲作のために古墳を築造したという説は全く無い訳ではありませんが、通説では周濠の水を灌漑利用しだしたのは中世以降という見解が有力のようです。農業土木の技術者である田久保晃氏は考古学や歴史学の常識とはまた違ったアプローチで独自考察、著書「水田と前方後円墳」(2018, 農文教プロダクション)にて、前方後円墳は、墓であるとともに、その周濠が溜池として機能していたとしています。ピラミッドは農閑期の公共工事としての役割を担っていたそうですが、前方後円墳もきっと同様の役割を果たしていたのでしょう。

 

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水田に囲まれている昭和期の大仙古墳 山根徳太郎「難波王朝」(学生社,1969)より

 

巨大な前方後円墳も大化の改新以後は薄葬令が出され姿を消していきます。大化の改新では首都が難波宮に遷都されます。難波宮は8月にも本ブログで取り上げましたが台地の上にあり、当時は半島で一帯は水田利用された地歴がありません。政治の中枢と農地が離れた場所になったため天皇が直接的に農地開発する農本的思想から律令体制に移行、農地の中心にである古墳に価値を求めなくなり、簡素化していったのではないでしょうか。

大和民族は端的に「皇統」と「米」の民族といえます。大化の改新以降は大和川水系を離れ、長岡京や平安京など琵琶湖~淀川水系に首都を設置することが多くなりますが、現在でも宮中催事で新嘗祭などの収穫を祝う儀礼が執り行われています。

謎が多い古墳時代ですが、世界遺産の登録は今後の調査・研究を活発にするきっかけとなり、新しい発見があるかもしれません。堺は国内輪業の中心で仕事柄行く機会が多いので、また新発見があれば行ってみたいと思います。

 

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