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シマノスクエア「ツール・ド・フランスカフェ」開催

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梅田グランフロントのシマノスクエアが期間限定で「ツール・ド・フランス カフェ」になっていたので行ってきました。

 

 

シマノスクエアは2017年にオープンした自転車部品や釣り具を生産する株式会社シマノが運営する「アーバンライフ」を提唱するPRカフェです。グランフロンの北館「ナレッジ・キャピタル」というイノベーションを創出するエリアにあり、施設は関西の「知」の交差点となっています。普段はサイクリングやフィッシングをより多くの人に知ってもらうためのカフェで、同社の足跡やブランドイメージを紹介する店内となっていますが、6月25日から特別企画として店内の一部がツール・ド・フランステーマとした公認カフェとなっていました。

 

 

ツール・ド・フランスとはフランスを舞台に毎年開催される自転車ロードレースで、フランスを23日かけて一周する世界最高峰、111回目の伝統的なレースです。本年は6月29日イタリアのフィレンツェからスタート、例年はパリのシャンゼリゼを目指すのですがパリ五輪の影響で南部ニースでフィニッシュとなっています。

ステージは超級山岳コースを含む21ステージ(2日休息日あり)、合計のタイムを競い、全ステージ完走しなければリタイヤとなる過酷な3週間となります。

 

 

自転車ロード競技は100km以上、数時間に及ぶ長時間競技です。海外レースは20年ほど前から日本でもケーブルテレビや衛星放送で視聴することができるようになり、現在ではオンデマンド等で生放送も視聴できるようになってます。カフェでは大型スクリーンにより、ツールのレースがモニター観戦できるようになっています。期間中、プロ選手や監督による観戦講座といった特別企画イベントも実施されるようです。

 

 

 

7月21日まではツール・ド・フランスにちなんだ特別メニューが期間限定で提供され、自転車関連書籍やモニターを見ながらゆっくりできます。梅田エリアはファストフードチェーン店のようなところでも人が多くて狭っ苦しいので、シマノスクエアは都会のオアシスとなっています。

 

 

期間中、ツール・ド・フランスの応援グッズやノベルティなどの販売もあり、Tシャツは人気で私が行った時は主要サイズはほぼ品切れ状態となっていました。商品は再入荷予定でサンプルがあって、山岳賞ジャージを模した赤い水玉デザインのTシャツが気になりました。フランスではツールは誰もが知る毎年の恒例行事で、沿道の人はそれぞれ個性的な服を誂え、選手を盛り上げます。観戦は熱狂的ですがマナーは最低で、観戦客が選手に迷惑をかけることもしばしばあり、日本の感覚とは大きく異なります。

 

 

シマノスクエアのツールドフランスカフェは7月21日まで開催です。

 

 

|| シマノスクエア
住所:大阪市北区大深町3-1 グランフロント北館4階
運営:シマノ
アクセス:JR大阪・阪神線・阪急線・地下鉄御堂筋線梅田下車すぐ
営業:11:00-19:00 (月曜休業)

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軍用自転車200台、府下最大の旧海軍秘密隧道「安威地下倉庫」遺構

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戦時中、大阪府北部の茨木市の安威川流域は、国家的な政策としてケシが耕作され、福井村を中心に一面に白い花が広がっていました。詳しくは2022年に川沿いをサイクリングした時の投稿をみていただきたいのですが、今回はさらに安威川を山間部までさかのぼり、戦中の日本軍の秘史を探究してみました。

 

【参照】安威川に咲いた二反長音蔵の白い花 (2022年12月1日投稿)

 

 

安威川は2022年に上流にダムが完成、茨木市は「ダムパークいばらき」として開発を進めています。今回は安威川ダムの1km南側、下流の本龍寺周辺に海軍の遺構があるようなので探索してみました。川は山間部を蛇行しながら南へ流れ、「阿片の里」から神崎川に合流、大阪湾にそそぎます。極秘任務なので海軍と阿片がどのような関係性があったのか分かりませんが、北摂のこの一帯には軍事施設が点在し、本土決戦に備えるための巨大な食糧備蓄の地下施設があったようです。

施設の存在は1993年になるまで公にはされず、全容は謎のままとなっています。これまでの調査で地下空間はトンネル状で「イ地区」「ロ地区」「ハ地区」と分かれ全長で650m、熊谷組創業者の次男の熊谷太三郎が工事を請け負った記録が残っています。

 

 

トンネルは現存しているようですが一般公開されておらず、地元の人にもほとんど存在自体が知られていないため、とりあえず旧海軍がGHQに引き渡したとされる図面とGOOGLEマップを照らし合わせて、最初に事務所が設置されたとされる本龍寺を目指します。掘削工事は1944年秋から本龍寺の南側「イ地区」から始まり、「ハ地区」は完成を待たず終戦をむかえているようです。

本龍寺南側には祠と鳥居はありましたが、トンネルは道を挟んだ山塊にあり、私有地のようで入ることはできませんでした。イ地区は長さ50mの隧道が4本並行して掘削され、食料・航空機部品・下着類などの服、麻薬入りチョコレート・自転車200両が備蓄されていたと証言されています。麻薬入りチョコレートというのは、当時、食料工場となっていた茨木高等女学校(現在の府立春日丘高校)の校内で製造されていた携帯食で、特攻隊の最後の食事とされていた重要なものだったようです。

 

 

「ロ地区」はイ地区の500mほど北西側にあり、川の西岸沿いの未舗装の農道を抜けた「桑原運動公園」というテニスコートや野球場のある公園で小高い丘となっています。クルマの通行は難しく、農家の方の作業に差し障りがありそうなので、グラベルロードやマウンテンバイクの利用がおすすめです。

 

「こんなとこに、昔、秘密基地?! そんな話、聞いたことない」

 

農作業中の男性に話を聞きましたが、旧軍施設やケシ作付の話は全く初耳で驚いた様子で、興味深々の様子でした。農道を抜けると宅地開発された山に囲まれた閑静な住宅地となっていました。

 

 

運動公園では若い男性グループがサッカーをしていました。地下トンネルは大きなもので高さ3m、長さ110mで現在は内部に水が溜まっているそうです。掘削には20名ほどの朝鮮人が徴用され、うち1名の金泳久(キム ヨンク)元作業員が強制連行を主張、これに府立山田高校の教職員グループが注目し、加害責任や侵略戦争に踏み込んだ銘版設置や冊子作成など精力的に運動されているようです。教職員グループの行動力は感心しますが、このグループが主体となって朝鮮人視点の郷土史を紡ぐことには疑義が残ります。

トンネル工事には測量や図面作成といった高い技術が必要となり、朝鮮人が指揮した訳ではありません。過酷な労働ではありますが、半島工員は日本人と同じ食事が与えられ、臣民として現場で従事しました。朝鮮人は練度が低く、米軍のB29から機銃操射された際も、頭を抱え「アイゴー」と泣き叫さけび、隠れもせずに逃げまわり、作業期間中は盗みや脱走など不逞行為が相次いだようです。

 

 

 

山田高は1993年に3年生7名による地元の住民や関係者など55人に聞き取りを実施、生きた教材として文化祭で発表しています。調査は高校近くの「山田海軍地下弾薬庫」についての調査でしたが、朝鮮人強制連行の事実はつかめなかったとしています。生徒達は「朝鮮文化研究会」という部活動に所属、戦後にトンネル内で笠置シズ子の歌謡ショーがあったことやケシ栽培の二反長音蔵に会った女性の証言などがまとめられた資料「故郷への轍」を作成しています。資料は大変貴重な証言が多数掲載されていますが、朝鮮人による歴史観が色濃く、ちゃんとした歴史家や構造建築の専門家による再調査の必要性を感じます。ちなみに「故郷への轍」と書いて「コヒャンへわだち」と読みむようです。

 

 


安威川地下倉庫を調査する一団 (朝日新聞1996年6月1日)

 

大阪には戦前より在日朝鮮人が多住していて、本ブログでもこれまで親子爆弾事件阪神教育運動グリコ森永事件猪飼野愚連隊アパッチ族また生駒山の朝鮮寺と在阪の朝鮮人について触れてきました。私は日本人ですが、朝鮮文化というのは本当に独特の思考で、ひきつけられるものがあります。

金泳久元作業員は重労働に耐えきれず逃げ出しましたが、辿り着いた場所は10mごとに死体が転がる無残な光景が広がり、なんとか職にたどり就けた途端に皮肉にも終戦となった当時を振り返っています。金泳久以外の作業員の行方は不明ですが、1952年には在日朝鮮人と上田等ら共産過激派による騒擾事件「吹田事件」が発生、笹川良一代議士宅や吹田の操車場を襲撃しました。事件と工員の直接的な関連性は分かりませんが、アパッチ族の金時鐘(キム・ジジョン)は事件の際に陸軍の拠点となっていた「茨木カントリークラブ」北側に隣接する道祖本(さいのもと)地区の協力者を頼ったとしています。ちなみにカントリークラブ西隣は笹川の本妻宅がある辨天宗本部で、笹川によって巨大な戦没者慰霊塔が建てられています。

 

 

朝鮮人が蔑視された歴史的経緯を含めて、山田高の教職員やクラブ員の方には今後も調査を継続していただきたいと思います。最後に金時鐘が吹田事件に参加したことを回想した詩が残されていますので紹介したいと思います。

 

ズボンの/内側を/はぎとり/むれる/悪臭の/修羅場を/城ごと/あけ渡したのだ。
悲哀とは/山に包まれた/脱糞者の/心である。 (金時鐘「わが生と詩」から詩の一部を抜粋)

 

 

金時鐘は操車場襲撃直前にあろうことか緊張のあまり脱糞、自らを脱北者ならぬ「脱糞者」として左翼運動家だった若いころを綴っています。「悲哀とは山に包まれた脱糞者の心である」という一節は金泳久とも重なり、当時の朝鮮人の心境を見事に表現しています。

今後も本ブログでは郷土の歴史を探索していきたいと思います。

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45年間放置されたサイクリングロード、府民の森「ホトトギスの道」

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今年の3月から調査中の生駒山西麓の「ホトトギスの道」ですが、今のところ有力な情報もなく、当時の状況や頓挫している再開計画の詳細は依然としてよく分からないままです。本ブログでは、このサイクリング道の再開のため、自転車走行禁止になった詳しい経緯や整備道の現状などを調べております。長年放置され、役所でももはや存在そのものが忘れ去られた荒道に再び光をあてるべく調査を継続、中之島の図書館に向かいました。

 

【参考】
えっ?!自転車走行禁止のサイクリング道「ホトトギスの道」(2024年3月17日投稿)
幻の自転車道「ホトトギスの道」の全貌とは         (2024年3月24日投稿)

 

 

大阪府には府立図書館が東大阪と中之島に2館あり、中之島は主にビジネス書と郷土資料を所蔵、2012年に橋下徹知事が廃館を表明しましたが、13年に松井一郎知事が撤回、耐震工事や外壁リニューアルをして、現在も書庫の工事中で、明治期の中之島の歴史的な建造物のひとつとして、図書館機能を堅持しています。大阪市内には西区北堀江の大阪市立図書館もあり二重行政のひとつと位置付けていましたが、廃止が報道されると抗議が殺到、すると一転して、三軒隣に絵本など児童書専門の図書館「こども本の森 中之島」が20年新設されました。

ただ中之島図書館は古い建物ゆえに市立図書館と比べ利用しづらく、法律で設置が義務付けられている駐輪場の設置もありません。個人的には統合して民間に貸し出してレストラン等にした方がいいと橋下案を支持していましたが、北堀江にない持ち出し厳禁の古い府政資料があるようなので閲覧しました。

 

中之島は2021年に「こども本の森」の前を通る車道を自動車通行禁止に再整備、憩いの空間が広がりました。市内は外国人観光客であふれている場所もありますが、中之島は歴史景観と都市公園の緑地が見事に融合した美しい地区なのですが、大阪らしさがないためか外国人観光客の姿はあまりありません。

中之島公園では、以前に大阪市が主催で「スマイルサイクルフェスタ」という交通マナーや交通安全をテーマにした自転車イベントを開催、市の関係者に聞くと予想以上の人出があり好評だったようです。しかしながら、予算がカットとなり、18年以降は開催が見送られ今年も開催されないようです。近年では、主婦や自走式自転車の利用者の交通違反動画をSNSで拡散することが娯楽化していて、今こそこのような啓発イベントを開催する意味があるように思います。

 

 

少し話がそれてしましましたが、中之島図書館には「府政百年記念 府民の森」という1968年に府の農林部が作成した資料が蔵書されているようなので、書庫から取り寄せ、事業のあらましを調べました。1週間待って司書の方が差し出した資料は1枚モノの見開きで詳細な記述がないパンフレットのようなもの、分厚い年史のようなものを想像していただけに落胆しました。

資料を開くと帯となった生駒山の山影写真がヘッダーとなり、その下にスケッチとポエムが並んでいました。
スケッチは風景画と挿絵・詳細に描かれた地図がそれぞれ数点あり、事業はあらましが小さく書かれていました。

 

 

地図は割と山道や谷が詳細に描かれ森と森をつなぐ自転車専用道のコースも記されています。1969年3月20日の読売新聞にはサイクリングコースは全長55km、10ヶ年計画で総工費が90億円余り「生駒山を貫く壮大な計画」と紹介され、「ホトトギスの道」という呼称こそみられませんが、計画が遂行されていたことが分かります。また、1992年10月9日の朝日新聞によると自転車道がゲートで閉鎖されたのは1979年であることが分かりました。

 

 

 

資料のあらましには1967年からの9年間で事業費60億円、自転車道は40kmと掲載されていますが、計画と言っていい程の計画はなく完全にどんぶり勘定で、事業自体も明解に大失敗で幻となっています。

 

事業期間  昭和42年度から昭和50年度まで(9ヶ年)
事業費 約60億円
面積  約560ヘクタール 4地区
道路 自動車道(5メートル) 15キロメートル
   自転車道(3メートル) 40キロメートル
   遊歩道(2メートル) 60キロメートル
緑地帯として道路を含め巾員30メートルとし展望台苑35ヘクタールを設置する。

 

これらの無謀な計画は鳥取環境大の吉村元男客員教授が現地調査やデータの収集を含めて、わずか10日で作成を依頼されたもので、時間的な余裕がなく論理的な筋立ては「簡略化」され政府に提出されたようです。というのも、プロジェクトは大阪湾の埋め立てに使用される採石事業の妨害が主目的で、自転車道の敷設など美辞麗句は口実にすぎなかったのです。

 

 

1979年から放置されていた自転車道は、92年に北川イッセイ府議会議員の指摘により、農林水産部長が出入り口の改修と自転車道ネットワークの形成のため様々な施策を協議したいと復活させる意向を示し、9月には開放イベントが開催、家族連れから最高齢の70歳男性など600名、広がり始めたマウンテンバイクブームに多くサイクリストが参加しました。

 

「家族とふれあうゆとりができた」
「自転車ほどおもしろいものはおまへんなあ」

 

北川氏は現地に何度も足を運び計画を「ほんとうに素晴らしい」と絶賛、古い行政資料を発掘し繰り返し陳情しました。その後、北川氏は第2次安倍内閣で国土交通副大臣を歴任、21年に志なかばで永眠されたようです。

 

 

北川氏の死後も門扉は固く閉ざされ、もはや管理道が自転車道であったことも忘れ去られようとしていますが、私は暗峠を含めて、遅れている大阪のサイクルツーリズムの起爆剤として再活用すべきと考えています。今後も再開のための調査を続けていきたいと思います。

 

 

 

<生駒山 ホトトギスの道 年表>
1958 生駒山 国定公園に指定
1968 府民の森計画 開発開始
1969 読売新聞「90億円 壮大な計画」と紹介
1973 ホトトギスの道が開通
1979   ゲートが閉鎖 (自転車道 廃道)
1992 府議会での質疑
2002 府議会にて再陳情

 

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西淀川公害裁判「あおぞら財団」

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大阪はかつて東洋のマンチェスターと称され、東京をしのぐ日本最大の都市でした。終戦後も大小の工場が集中し、経済的な復興を支えてきました。一方で、大気汚染や水質汚濁など工業化に起因する公害問題が発生、ぜんそく等公害病や動植物の生態系の破壊など自然環境が大きく破壊されました。

西淀川地区では1930年代以降に工場や排ガスによる健康被害が発生、70年代には住民が団結し裁判を続け、20年かけて国・企業と和解、地域再生のために双方が協調し合いまちづくりを進めています。

 

 

4月に投稿した大野川緑陰道もこのような活動の成果で、住環境が改善され周辺は以前より人口が増加し、環境汚染や健康被害に苦しんだ時代のことも過去のこととなりつつあります。いわゆる四大公害病は社会科の授業などで習って知っている人が多いことと思いますが、地元大阪でもかつて公害があったことを後世に伝えるために西淀川には環境資料館「エコミューズ」が運営されています。

 

 

資料館は大野川緑陰道と国道2号線の交差する西淀川区千舟の「あおぞらビル」5階にあり、当時の裁判資料や環境関連の書籍が所蔵されています。ビルは裁判の和解金の一部で購入され、研究活動やイベントなど公害のないまちづくりの拠点となっています。資料館は普段は施錠されていていますが、4階の財団事務局に職員の方がいると鍵をあけてくれて見学することができます。

 

 

事業活動による公害は①大気汚染、②水質汚濁、③土壌汚染、④騒音、⑤振動、⑥地盤沈下、⑦悪臭の7つが認定されていますが、四日市は「喘息で死ぬのは高齢者で子供はほとんど死なない」と大気汚染の見解を示しており、「国」を相手取り和解した西淀川の事例は画期的な判例でした。

和解後は、持続可能な未来のために「あおぞら財団」設立、四半世紀にわたって資料館の運営だけでなくまちづくりや環境学習に取り組んでいます。汚染物質を出さない移動手段として自転車の普及にも精力的に取り組み、自転車の健全利用や交通安全啓蒙活動のみならず、幼児や障害者向けに自転車ゲームやタンデム(二人乗り)自転車の推進などユニークな取り組みも実施しているようです。

 

 

 

タンデム自転車は20台ほどあり、レンタルもおこなっています。1日1000円と料金も格安なので、大野川緑陰道や大阪市内の観光に最適です。営利企業に貸し出す際は1日3000円となりますが、インバウンド向けのサイクリングツアーなどを企画して、タンデムを楽しんでみてはいかがでしょうか。

 

 

 

9月には中之島公園にて「大阪サイクルピクニック」というイベントを共催し、自転車レーンの推進のため御堂筋をアピール走行を実施しているようです。御堂筋は2016年から自転車レーンを整備、道路空間の再編に取り組み将来的に完全歩道化(自転車走行可?)を目指しているようです。大阪が環境都市としてさらなる成長するため、財団の活動に今後も注目がされます。

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自転車部品の蚤の市「シクロジャンブル」2024 春

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2024年5月26日、国内最大級のビンテージ自転車やパーツの蚤の市「シクロジャンブル」にいってきました。

 

シクロジャンブルは大阪北部・豊中市の服部緑地公園で開催される中古自転車と部品のフリーマーケットです。西日本最大規模で1999年から毎年春と秋に実施され、関西の自転車マニアの間では恒例の行事として定着しています。これまで、イベントは園内の「古民家集落広場」で開催されていましたが、前回から少し西側の「集いの広場」に会場が変更されています。広場は延伸されて話題の北大阪急行「緑地公園駅」から園内を歩くこと20分、陸上競技場の南側となります。

 

 

 

緑地公園は、京都の大宮交通公園同様に2022年からパークPFI制度により大和リースが管理者に選定され公園管理をおこなっています。半年ぶりに公園に行くと集いの広場の南側にスターバックスがあり、フードトラックも多数出店されていて、以前に比べて公園ににぎわいがありました。

朝9時スタートとなっていますが、8時にはすでに大勢の人で賑わっていました。出店は誰でも可能でコレクターから業者など約50ブース、自転車部品の出店が多く、不用品から骨とう品まで様々な品々が交換取引されています。車体の出品は盗品売買の怖れから制約があり、メインはロードバイク・マウンテンバイク・ランドナー・ミニベロ・クロスバイク等の部品で新古品や年代不明のジャンク品などが活発に取引されています

 

 

絶好の行楽日和でいつもよりも広場には人が集まり、物珍しさから自転車に関心のない通りすがりの人もしげしげと様子をみています。出店者は関西だけでなく中部地方からも日帰り遠征に来ているようで、なかには筋金入りの人もいるようです。

 

「シクロジャンブルはほぼ毎回出店しています。不参加は3回だけ、普段は岐阜の誰もいない場所でランドナーの自転車店をしています」

 

岐阜から参加されている「ヴェロ・ドゥ・レーヴェ」さんは、まだシクロジャンブルが小規模だった初回からほぼ毎回出店されているようです。店主の永井さんは愛知の有名自転車商社に勤務の後に地元でシクロツーリズムの店を経営、普段は部品よりも完成車販売やレストアで忙しくされ、この日も顔なじみの探究者の方と異次元のマニアックな話で談笑されていました。

 

 

他にも様々出店者がいて、商品は一応値札のような数字の書いたモノが張ってあるありますが、気になれば出展者の方に交渉してみるといいと思います。出品者は金儲けで来ている訳ではない(公園での商行為は禁止されている)ので、交渉次第では譲ってもらえるかもしれません。特に昼頃になると持ち帰るのも荷物になるので、無料でもらえたり、おまけをしてくれたりします。出品側はプロという訳ではないので、手さげ袋・小銭・メジャー・ノギスなど工具は持参した方がいいかもしれません。

置いてある自転車も博物館級の骨董品から珍品など様々あり、魔改造されたブリヂストンのピクニカが並んでいてひときわ来場者の関心を集めていました。

 

 

私は仕事の都合で10時までに広場を離れましたが、まだまだ人は増えていっていました。戦利品は使いやすそうな工具があったのでそれと「AMERICAN BICYCLIST」という英文の書籍、400ページ近くある1980年代前半の米国書籍のようです。あまり英語は得意ではありませんが、世界の自転車産業史がアメリカ目線で書かれていて読み応えありそうなので、少しずつ読んでいこうかと思います。

 

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