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えっ?!自転車走行禁止のサイクリング道「ホトトギスの道」

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本ブログでは昨年より生駒山地の大阪側を縦走する管理道を「生駒山グラベル道」として、将来的な自転車利用の可能性を考察し、現地調査を実施しています。この縦走道はヒルクライマーの聖地暗峠(くらがりとうげ)と「サイクリストのための百名峠ガイド」(八重洲出版)にも選ばれた十三峠(じゅうさんとうげ)の2つの峠を頂上付近で連絡する林道で、現在は両峠の入り口に侵入防止のゲートが設けられ、自転車を含む車両が通行禁止となっています。

 

【参考】生駒山グラベル道 第1回現地調査 (2023年10月14日投稿)

 

前回の2023年10月の調査にて、この林道は大阪市内を一望できる標高500mの山中にあるものの路面の高低差はそれほどなく、草木も刈り取られ歩きやすいようによく整備され、地元の人は「なるかわ管理道」と呼んでいることが分かりました。ゲート間はおよそ6km、路面は全体の3分の2以上が未舗装で、幅員は3mほどあり雄大な自然の中、ハイキングやトレイルランニングを楽しむ人の姿も見られました。

 

 

現地調査を踏まえて、林道が所在する自治体の東大阪市の道路管理室に出向き、管理状況を問い合わせると、山地内の道路は大阪府の管理で、現状を把握していない様子でした。また、同市は「ものつくりのまち」を標榜しているため、中核市としては珍しく観光やまちづくりに関する部署がなく、自転車関連としては駐輪場整備の管理部署のみで、本来ならば計画するものとされている「自転車活用推進計画」も未作成でした。当然、前回の現地聞き取りでシニア男性が言及していたレンタルサイクル事業廃止の経緯についても分かる者もいませんでした。

 

「自転車活用推進法の成立は知っていますが、東大阪市は推進計画は作成しておらず、部署もありません」

 

生駒山は1958年に国定公園に指定、自然公園法に基づいて大阪府が管理し、府民が自然に親しめる解放区として67年から数百億円を投じて合計面積600ヘクタールを整備、7つの「府民の森」を運営しています。80年代には「大阪府民の森利用促進事業」の5ヵ年計画を策定、91年には年間利用者が100万人を上回り、バーベキューやキャンプなどを楽しめる施設として賑わいました。一見すると順調にも見える生駒山の西麓の森林整備はいったいどこでボタンを掛け違い、奈良側と差がついてしまったのでしょうか。

 

 

 

私は活用推進法の地域間の温度差を痛感しながらも、帰り際に市役所に隣接する府立中央図書館に立ち寄り、生駒山についての資料を漁りました。大阪府立中央図書館は国内最大の公立図書館で、職員が地下書庫内の移動に自転車を用いるほど広大です。司書の女性に協力してもらい所蔵資料を手分けして探し、いくつか当時の事業に関する記述をあたりましたが、管理道について明瞭な文献は探し出すことはできませんでした。あきらめかけて、東大阪の市史を両手に抱えて書棚に戻していると「東大阪の昭和」という背表紙が見え、手に取りページをめくるとセピア色の古いカラー写真が目に飛び込んできました。

自転車に乗った3名の青年が「祝 ホトトギスの道 開通」と書かかれたゲートを通過するカラー写真で、支柱には「大阪府」「ぼくらの森 香りの森 開苑記念」とあります。そして、写真の説明として「府民の森が開園」<生駒山 昭和48年>と記されていました。周囲の感じがやや異なりますが、まぎれもなく管理道の写真です。しかしながら「ホトトギスの道」というのは初耳で、インターネット検索でも全くヒットせず、詳細は分かりません。

 


1973年開苑「府民の森」のサイクリング道「ホトトギスの道」 出典:石上敏監修「東大阪の昭和」

 

1973年の新聞で開通の記事がないかを探していると先ほどの女性司書が大きな資料を抱えて、私を探して館内中を歩き回っていたようで、行政資料を見つけ出してくれました。行政資料によると73年に開通した自転車道(ホトトギスの道)は5km、既存の自転車道と直結して全長15kmに及ぶとされています。

驚いたことに私が直観的にサイクリング道に向いていると思った林道は、そもそもサイクリング道として整備された道だったのです。それにしても、大金を投じて華々しく開通した「ホトトギスの道」がなぜ封鎖され、自転車走行禁止となってしまったのでしょうか、新たな疑問です。

 

「東大阪の昭和」にはもう一枚、1957年に生駒山麓で撮影されたサイクリストの写真が掲載されています。そして、写真の説明として1954年に自転車産業協議会が中心となり日本サイクリング協会(JCA)が結成、サイクリングの対象地が生駒山に拡大していたことが記されています。

 

 


1957年第一次サイクリングブームの生駒山 出典:石上敏監修「東大阪の昭和」

 

67年前の白黒写真が生駒山のどの辺りなのかは分かりませんが、比較すると現在の道路状況が一番醜いように感じます。繰り返しになりますが、生駒山の大阪側は廃墟・廃道・立入禁止と荒廃が進んでいます。このような管理下でも「なるかわ管理道」は利用可能な状態に維持され、なんとか再生することができるように思います。そして、人が戻れば、ふたたび地域に活気出ます。

 


閉ざされた「府民の森」のゲート 禁止x4 来る者を拒むような注意看板 

 

 

今回、「生駒山グラベル道」がもともと自転車道として開発された「ホトトギスの道」だったという忘れ去れた過去の発掘は私にとっては非常に有益な情報でした。これを踏まえ、さらに大阪市立図書館とシマノ自転車博物館にて調査を続けました。(つづく)

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【独自考察】神器でたどる「日下町」と「日本」

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太宰治の小説で「パンドラの匣」という作品があります。結核療養施設に隔離された少年と太宰の文通が書簡形式で書き記された異色の小説で、2009年に染谷将太・川上未映子主演で映画化され話題となった作品です。自虐的な作品が多い太宰ですが、本作品は少年の病床日記への返信が素材のため太宰の前向きな一面が垣間見えファンからの評価も高く、療養生活の実態の記録としても読み継いでいきたい作品です。

この小説に登場する結核療養施設のモデルは「孔舎衙健康道場」という病院で、戦前に生駒山の西麓に実在しました。「孔舎衙」というのは辺りの地名で、難読ですが「くさか」と読み、現在では施設は解体され「パンドラの丘」という空地となりベンチが置かれ、地域の住民やハイキング客が休憩できるように整備されています。

 


結核隔離施設「孔舎衙健康道場」跡

 

孔舎衙という字名は大正時代まで使用され、現在では日の下と書いて「日下町」(くさか ちょう)として継承されています。下を「か」と読むのは理解できますが「日」がなぜ「くさ」になるのでしょうか。さまざまな説があるようですが、記紀に由来するほど時代が古く、よく分かっていないようです。

日下町には、大正期に近鉄「孔舎衛坂駅」(くさえざか えき)がありましたが、1964(昭和39)年に廃止され、最寄り駅は200m南側の近鉄奈良線「石切駅」となります。大阪人に石切とえば、お百度参りの神社「石切神社」が有名です。神社の創建時期は不明ですが神武天皇(初代天皇)の創建と伝えられ、正式名は「石切剣箭神社」(いしきり つるぎや じんじゃ)といい、太刀が奉納されています。三種の神器に草薙(くさなぎ)剣がありますが「日(くさ)」となにか関連があるのでしょうか。ちなみに石切神社は「石切駅」より、近鉄けいはんな線「新石切駅」で降車した方が近くなります。

 


太刀を持った「石切不動」 2022年撮影

 

けいはんな線は地下鉄中央線直通で、奈良方面に行く際の交通手段として利用されています。地下鉄は「中央大通」の地下を通り、大阪の東西軸の大動脈となっています。沿線の森ノ宮駅の南西側には勾玉に由来した「玉造稲荷神社」があります。そして、石切神社と玉造稲荷を横一直線で結んだ北緯34.6上には、難波宮と平城宮があり、西大寺と東大寺、孔舎衙もこの直線上に位置しています。要するに孔舎衙は平城宮から見ると真西に位置し、日が沈む場所「日の下」となるのです。これで日下が「くさか」と読まれる由縁ではないかと推察されます。

 

 


「玉造稲荷神社」祭りにてたこ踊りを踊る男性 2016年撮影

 

難波宮は孔舎衙よりさらに西に位置し、遷都した大化の改新の際に「日本」と国号が決まったとされています。この時代にはまだ平城京はありませんので、孔舎衙から見て日の沈む場所「日の本(もと)」となったのではないでしょうか。つまり、皇記の文明の基準点は孔舎衙にあり、時代的に「孔舎衙」が「日下」となったのは、平城京遷都後ではないかという推測です。そして、この説が正しいなら、孔舎衙の地が古代の日本の原点であることを意味する論拠となるのではないでょうしょうか。

 

 


大化の改新で遷都された「難波宮」跡

 

 

自宅に帰り、三種の神器の八咫鏡を祀るところはないかとインターネットで探していると、石切神社と同じ東大阪市内に若江鏡神社という仲哀天皇(西暦149-200年?)を祀る神社があるようなので、また行って調べてみたいと思います。この神社は例の一直線上から南に1kmほどずれてしまっています。文献に登場する最初の記述も9世紀と時代が異なり、地歴から見ても当時、周囲は湿地帯だったと考えられます。しかしながら、北緯34.6上の皇統の歴史が単なる偶然とも思えなくなってしまったので、古事記・日本書紀の歴史書の記述と併せて、この国の起源をじっくり考え直してみたいと思います。

ちなみに難波宮から東大阪市日下町までは直線で12km、日下町から奈良側には生駒山があるため自転車では直線的には行けませんので、お気をつけください。

 

<参考年表>
645年 難波宮 遷都(大化の改新 ~667年)

694年 藤原京 遷都
710年 平城京 遷都
712年 古事記 完成
720年 日本書紀 完成

※神武・仲哀天皇の即位や石切神社・玉造稲荷の完成は年表以前の時期となり、歴史学的には年代は分かっていません。

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自転車パーツ Amazon店 売上ベスト10 【2023年】

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2023年の Amaozn通販の販売点数トップ10ランキングです。
プライムでの出店なので送料もかからず、書籍や日用品類と同送できますので是非ご利用ください。

 

第1位()
ergon gp1
【メーカー】ERGON
【商品名】GP1
【税込価格】5,500円
【特徴】握りやすい形状の定番のコンフォートグリップ

 

 

第2位 ()
mks always
【メーカー】三ヶ島 MKS
【商品名】ALLWAYS
【税込価格】8,316円
【特徴】ミニベロからグラベルバイクまで多目的で使用されるスパイクピン付きペダル

 

 

 

第3位()
wald 137
【メーカー】WALD
【商品名】137 バスケット
【税込価格】6,820~7,700円
【特徴】米国製のフロントバスケット

 

 

 

 

第4位(↑)

【メーカー】WALD
【商品名】37 バスケット
【税込価格】4,950~5,720円
【特徴】米国製のフロントバスケット

 

 

第5位()
FJP600
【メーカー】THERMOS
【商品名】FJP-600
【税込価格】3,960円
【特徴】保冷力の高い真空断熱のステンレス製自転車用スポーツ水筒

 

 

第6位(↑)

【メーカー】TIOGA
【商品名】STEM BAG
【税込価格】3,080円
【特徴】ペットボトルやスマホを入れるのに便利なステム取り付けるバッグ

 

 

 

第7位(↑)


【メーカー】TOPEAK
【商品名】AERO WEDGE PACK S (QUICK CLICK)
【税込価格】3,850円
【特徴】着脱が容易なクイッククリック式のサドルバッグ

 

 

第8位()

【メーカー】MAXXIS
【商品名】DETONATOR (ケブラー)
【税込価格】5,280円
【特徴】耐パンク性、耐久性にすぐれたロングセラーの街乗りスポーツタイヤ

 

 

 

 

第9位(↑)

【メーカー】WALD
【商品名】215 リアラック
【税込価格】6,930円
【特徴】シンプルなデザインのスチール製リアキャリア

 

 

 

 

第10位(↑)

【メーカー】TOPEAK
【商品名】TOPLOADER
【税込価格】5,830円
【特徴】ロングセラーのトップチューブバッグ

 

 


 

自転車パーツ高騰が小休止、品不足が一転在庫過多に

 

コロナの影響で工場停止などでサプライチェーンが崩壊して品不足だった2021年、
インフレや為替の影響で商品の値上げが相次いだ2022年。

2023年は品不足も解消され、商品の値上げも一段落してきました。

しかしながら、需要は低迷、新しいトレンドやヒットアイテムもなく、ランキングもこれといった特徴のない退屈なラインナップとなっています。米国製のWALDのバスケットの販売個数が例年に比べ多かった傾向がみられましたが、24年の年初早々に再値上げをしたため、もはや割安感はなくなってしましました。

新商品の開発など止まっていた自転車業界の時計は再び動き出し始めましたが、世界的な製造コスト増大と円安で、一物一価の国際ブランドの商品がコロナ前より割高になってしまってしまいました。

台湾の半導体メーカーが熊本県に新工場を建てて話題になっていますが、ひょっとすると海外資本の自転車部品工場が国内にできる時代も近いのかもしれません(反語)

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底冷え京都、官民連携「大宮交通公園」

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今月初めにおこなわれた京都市長選は、維新が候補者の推薦を取り下げ、実質「共産vs非共産」という構図となり、自・公・立憲・国民が支持した元内閣官房副長官の松井孝治氏が当選、4期16年務めた門川大作氏に代わり新しい市長となりました。京都市は深刻な財政難・人口流出・オーバーツーリズム(観光公害)など問題が山積みで、新市長の手腕が問われています。

 

 

京都は1950年から7期28年にわたり革新系知事が政権を担い、日本共産党が伝統的に強い地盤があり、本ブログではこの体制から脱却し財政健全化の道筋を立てることが最優先で、具体策として高山義三市長が廃止した市営の宝ヶ池競輪の再開をすべきであると主張しています。

 


競輪場があった宝ヶ池公園 子供の姿はなく野生の鹿が生息

 

競輪場跡は現在、中学生以上の入園を禁止した「子どもの楽園」という施設となり、保護者以外の大人が利用できない公園となっています。この園の利用料は無料で、運営には年間3200万円かかり、隣接の駐車場からの収入1500万円を差し引いても、市民一人あたり64円の負担となっています。これはわざわざ調べたのではなく、どういう意図なのか分かりませんが、楽園の入口に目に付くように掲示されていました。雪のちらつく1月、寒さのせいか子供はおろか人の姿も全くありませんでした。

 


宝ヶ池公園の「子供の楽園」年間3200万円、市民一人あたり64円の負担となる

 

政府は公園施設の財政負担を軽減するため、公園運営を民間事業者に委託する制度「パークPFI制度」を法改正により導入、財政難の京都市でも新制度を活用し北区の「大宮交通公園」が2021年にリニューアルされました。

 


パークPFI制度を活用した「大宮交通公園」

 

大宮交通公園は昭和40年代からゴーカートで遊べる施設として親しまれてきた都市公園で、京都市民が交通ルールを学べる市内唯一の交通公園となります。リニューアル後はゴーカートは廃止され、信号機が設置された自転車ルールを学べるようになりました。公園改装費4.6億円の半分は民間事業者の大和リースが負担、テナントやコミュニティルームを設置し、官民協働により再整備されました。

 

 

大和リースは大和グループの企業で、年間160万円を京都市に支払い公園を運営します。民間企業側はガイドラインに基づいて、駐車場利用料やテナントを誘致して家賃収入などで維持管理するスキームとなっています。園内の伐採した木を再利用した腰掛や遊具など、到底お役所仕事ではできないような雰囲気で、入り口に鬼気迫る怪文書が掲示されていた宝ヶ池とは大違いでした。

 

 

 

寒い一日でしたが園内にはSDGsを意識したカフェがあり、木漏れ日のなかで入れたてのドリップコーヒーが味わえ、普通の児童公園とは全くことなる特別な場所となっています。訪問日は平日でしたが、土日には定期的にキッチンカーやマルシェなどイベントが開催され地域の交流の場所となっているようです。

 

 

公園のリニューアルとあわせて敷地内に消防署を移設、放水訓練や消防車の出動を園内のデッキから見下ろすことができるようになっています。災害時には避難者救護のための応急設備やマンホールトイレも新設され、いざという時の避難場所に指定されています。

 

 

レンタル自転車も4事業者がポートを設置、園内のサイクリングだけではなく、少し離れた金閣寺や上賀茂神社など観光にも利用できます。驚いたのは、テナントとして自転車店の出店があり、自転車の販売・修理もおこなっているようでした。このお店は、自転車技士の私から見ても信頼できそうな立派でおしゃれな外観で、交通公園の要となり、周辺地域のクオリティ・オブ・ライフを高めていました。

 

 

ただ、京都市の人口流出はこの公園の完成後も続いています。この難局を打破できるのか、新しい市長の一挙手一投足に注目です。

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電撃!大東亜の共栄、八紘一宇のマレー作戦「銀輪部隊」

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84年前の今日、2月15日は世界の4分の1を支配した大英帝国に日本が勝利した日です。太平洋戦争は劇的な幕開けで日本軍はイギリスに大勝利、シンガポールを電撃的に侵攻し、指揮官の山下奉文中将は「マレーの虎」と畏怖されました。しかしながら、このような史実を日本人は敗戦を境に一切を忘れることとなります。

大日本帝国は無謀で残虐で愚かで非道、敵う訳もない英米相手に狂ったように暴走し、敗戦は自業自得であり、したがって憲法に陸海空軍その他の戦力を保持しないことを明記、平和主義を標榜し周辺国には謝罪の限りをつくし・・と教育をされてきました。歴史は勝者によってつくられ、敗戦国は戦争を美化することは糾弾され、ただただ反省することが要求されます。

子どもに兵法を教える時代ではないと思いますが、敗戦国にも自国の本当の歴史を知る権利があります。本稿ではお受験用の日本史Bでは習わない太平洋戦争の対英マレー戦を、戦闘で大活躍した自転車部隊の視点を中心に振り返ってみたいと思います。

 


マレー戦で活躍した「銀輪部隊」  森山康平著「秘蔵写真で知る近代日本の戦歴」より

 

日本海軍が真珠湾を奇襲した1時間前、山下中将率いる陸軍は英領マレー半島を侵攻、半島北部のタイに向かうと見せかけ南下、難攻不落のシンガポールを目指し進撃しました。日本はすでに1937年から蔣介石率いる中華民国と事実上戦争状態にあり、満州支配をめぐる主張の違いから国連を脱退し国際的に孤立していました。英米中から経済包囲網(ABCD包囲網)で揺さぶられ、石油が枯渇寸前となりロシアと対峙して北進するか、東南アジアに南進するかの二択となり、東側の諜報工作により北進を断念します。

日本軍は対支一撃で南京を攻略、中国国民党のナンバー2だった汪兆銘を立てて政府を樹立、欧米人による支配からのアジア解放をめざし「大東亜共栄圏」の確立を目指し蒋介石の懐柔を目論見ました(桐工作)。イギリスはオーストラリア先住民を娯楽として殺害、アメリカは黒人を劣悪な奴隷船にて売買、ロシアはウクライナ人を戦争の戦火の最前線に送り込み民族浄化を計るなど欧米列強による支配が世界を飲み込もうとしていました。しかしながら、蒋介石のバックには英米から軍事的な支援(援蒋ルート)があり、日本との和平交渉は決別、日本は孤立を何として避けるためにドイツ・イタリアと軍事同盟を締結し、1945年まで英米中と戦闘を繰り返しました。

 


▲ジョホールバハルを突進する日本軍  朝日新聞 1942年2月6日付

 

当時の日本には「太平洋」で戦っているという意識はなく「大東亜戦争」という呼称が用いられており、日本を盟主に共存共栄の秩序あるアジア経済の確立目指していました。そのためにも、兵站となっているマレー半島の侵攻は重要で、南洋の石油資源の獲得への一里塚でした。

自転車の内製化に成功しアジア最大の輸出国となっていた日本は、陸路での侵攻のために民生用の実用車を軍隊向けに転用、限られた石油資源でゴム林のジャングルの移動手段として、訓練不要で修理が容易な自転車はトラックの替わりとして大活躍しました。

 


侵攻が難しいマレー半島のジャングル地帯

 

イギリス軍は援軍がマレー半島に到着するまで日本軍の侵攻を阻止するために時間稼ぎの策として橋梁や道路を破壊、工兵隊が架橋してシンガポールに到達するまで100日かかると計算して、その間に防備を強化して迎え撃つ予定でした。ところが、日本軍は銀輪部隊は自転車を担ぎ河を渡り、1100kmをわずか55日で進撃、準備が整わないシンガポールは陥落しました。

 


英軍に破壊された橋梁と川を渡る自転車部隊  森山康平著「秘蔵写真で知る近代日本の戦歴」より

 

英軍が銀輪部隊の能力を見誤った原因のひとつに、1899年の対南ア戦「ボーア戦争」で実装された自転車部隊が偵察や負傷兵の護送など地味な任務に限られ、直接的な戦果にあまり結び付かず、その経験により進撃する日本軍に虚を突かれ必要不可欠な対抗措置の立案が遅れた点が挙げられます。

ボーア戦争以前は自転車は高級品で軍需用に実験的に開発された特別車で、活用方法も試行錯誤でした。マレー戦までの30年間に自転車は広く普及、生活にも浸透し誰しもが扱いに慣れ、現地調達も可能になっていました。皮肉にも日本に高品質な自転車を輸出し、その有用性を伝えたのはその頃のイギリスでした。

 

 


自転車でクアラルンプールに侵入する皇軍  朝日新聞 1942年1月27日付

 

マレー戦には勝利したものの、日本国内では軍事力確保のため、自転車の原材料が割当制となり、価格も公定化され自転車企業は採算が悪化、業者は転業または廃業を強要され、大阪府では45%の業者が憂き目を見ました。その後は銀輪部隊が活躍することなく終戦を迎え、自転車産業は焼野原となった日本の主要輸出品目としてふたたび経済を支えていきます。

 

朕深ク世界ノ大勢ト帝国ノ現状トニ鑑ミ非常ノ措置ヲ以テ時局ヲ収拾セムト欲シ茲ニ忠良ナル爾臣民ニ告ク 朕ハ帝国政府ヲシテ米英支蘇四国ニ対シ其ノ共同宣言ヲ受諾スル旨通告セシメタリ

 

日本の大東亜共栄圏の夢は破れましたが、アジア諸国は欧州列強に民族浄化されることなく、植民地支配からの独立を実現しています。そして現在、自転車産業は日・中・台による経済圏を確立して、世界に良質な自転車を供給しています。

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