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CATEGORY: 小ネタ

NYC「人中心のまちづくり」狂人サディック=カーンのアーバニズム

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政府は2030年に温室効果ガスを2013年比で46%削減すうる目標を標榜しています。

 

 

「おぼろげながら浮かんできたんです、46という数字が。シルエットが浮かんできたんです」

 

 

小泉進次郎環境相(当時)は、これまでの削減目標であった26%を大幅に引き上げる方針を表明、菅義偉首相も国際社会に対して脱炭素社会の実現に向けて積極的に取り組む姿勢を示しました。

2016年には環境負担軽減等を基本方針とした「自転車活用推進法」が施行され、国土交通大臣を長に自転車活用推進本部を設置、環境問題という世界的な潮流に前向きに取り組んでいます。大阪府も推進法に基づき「大阪府自転車活用推進計画」を策定、都市環境の形成・サイクルスポーツの振興・サイクルツーリズム促進・自転車事故削減などを目標に関係各局が緊密に連携し計画を促進しています。

 

 

 

 

吉村洋文知事は大阪のメインストリート御堂筋の6車線のうち側道2車線を自転車専用レーンを併設した歩道と緑地帯にする転換する方針を表明、「車中心の道路」から「人中心のにぎわい空間」と変え、地域活性化につなげたいとし、現在は整備中となっています。

 

 

かつて、バス・タクシー乗り場のあった南海難波駅北側も自動車の進入が禁止され、高島屋となんばマルイに挟まれた駅前空間は腰かけや植栽が設置され、くつろげる空間となっています。御堂筋のこのような街路の整備は、アメリカ同時多発テロ直後からニューヨーク市長となったマイケル・ブルームバーグ氏の市政のプロジェクトが参考とされ、2019年にはブルームバーグ市政下における交通局長ジャネット・サディック=カーン女史を道頓堀に招き、大阪市の建設企画部の担当者と取り組みを視察しました。

 

 

「大阪市、神戸市におけるサイクリストの数は、アメリカ、カナダ、あるいはヨーロッパの大多数の都市より多いにも関わらず、自転車インフラがほぼ整備されていません。」

 

 

カーン女史は日本が基本的な自転車レーン網が備われば、自転車人口は容易に倍になるとしています。NYCは2007~13年間だけで、約400マイル(643キロメートル)の自転車レーンを設置、自転車利用者は4倍近くに伸び、事故リスクが75%減少、負傷者も半減したとし、街路に新たな息吹を吹き込んだプロジェクトで、こうした都市の変革が世界中で展開されているとしています。

 

 

 

 

世界の各都市の自転車の交通分担率を調べると、大阪市は25%、ロッテルダム(蘭)20%、ローマ20%、ケルン11%(独)、ヘルシンキ(フィンランド)7%、パリ5%、ロンドン2%と欧州の先進的な自転車都市と比べて劣るどころか、むしろ大阪を上回るのはデンマークのコペンハーゲンくらいで、諸都市とは比較しても極めて高いことが分かります。しかも、大阪は地下鉄網や公共交通機関が充実、街路も自動車が走りやすいように整備されロードプライシングのような交通制限もなく、多様な移動手段の中からわざわざ自転車を選択して使用しているのです。

 

 

 

 

2019年にシンクタンクの調査によると「世界自転車都市ランキング」では、第1位はコペンハーゲン、パリは8位、東京が16位で、大阪市はランク外となっています。この調査がどれほど信頼できるものなのかは、知りませんが、大阪は少なくとも東京より下という考えにくいように思います。本ブログではこれまで大阪の自転車ネタを発信してきましたが、大阪市には政令市には一般的に設置されている自転車政策を推進する部署が存在せず、後退的な姿勢が目立ちます。そのため評価に値しないと考えられているのか、調査に必要なデータを収集していないのか、なんらかの瑕疵があるのではないかと推測されます。

 

 

sankei

 

 

大阪府では2008~12年までの5年間、大阪府警が自転車盗など計8万件以上の事件を少なく装うの偽装工作をしていたことが発覚、2023年には放置自転車を見つけ次第撤去する「リアルタイム撤去」開始、本年5月は同事業の組織ぐるみの不正が発覚し虚偽記載を横山英幸市長が陳謝、賠償を含めたと150万台の調査と再発防止の徹底を明言しました。

 

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【放置自転車数】

大阪市 6万1590台
神戸市 8799台
横浜市 5665台
さいたま市 3261台
広島市  1294台
浜松市 1195台
(令和2年 国土交通省 交通安全対策室資料)

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京都市はオーバーツーリズムによる交通網マヒの緩和策で、2010年から自転車総合政策を開始、自転車推進室を設置し本年には放置自転車が実質ゼロとなり、大阪市を上回っていた自転車事故もピーク年から4分の1に減少しました。交通分担率も23%と高く、成果が数字として表れています。一方で大阪は自転車利用を「マイナス40%運動」をミナミの団体と結託し標榜するなど、小泉進次郎さんがまともに見えるほどおぼろげな施策を展開しています。

 

 

 

カーン女史の活動も最初は理解されず、怒りのメッセージを書き込まれたプラカードや反対派の抗議活動で、自転車レーンの設置をめぐって市民同士が衝突し、狂人扱いされたようです。

 

「Don’t Be Conned by Sadik-khan」
(サディック=カーンに騙されるな)

 

カーン女史は、駐輪場の整備は沿道のビジネスにプラスの影響を与え、店舗を活気づけるとしています。御堂筋の再整備にはあふれかえる何万台という自転車を収容できるようにしっかりと設計されているのでしょうか。大阪市にはこの問題を解決する自転車政策を計画する部署がないのが最大の問題で、「放置自転車する人=悪人」と利用者個人のモラルでどうにかなると考えている点です。大阪人のマナーは度々問題となりますが、大阪には6万人の悪人がいて、京都はゼロというのはおかしな話です。しっかりとした計画を立て、チームを編成し、予算を計上していかなければ再整備後も放置自転車はなくならないのではないでしょうか。

 

 


アメリカの沿道デザイン案 全米都市交通担当者協会著「アーバンストリートデザインガイドブック」(2021,学芸出版社)より

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世紀の大敗北、インパールで「銀輪部隊」は餓死者を救えたのか

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本年2月に日本軍が先の大戦のマレー半島侵攻にて自転車を活用した銀輪部隊の電撃的機動力で大英帝国に見事に大勝利した対英マレー戦について投稿しました。また、7月には本土決戦に向けての最終兵器として軍用自転車200台が大阪の茨木市安威地下倉庫に備蓄されていたという資料を発掘したという投稿をしました。

では、なぜ対英マレー戦で自転車が兵器と大きな成果を得たにも関わらず、その後の進攻に銀輪部隊を有効活用しなかったのでしょうか。不思議なことに、銀輪部隊の活躍は後にも先にもマレー戦だけなのです。

 

 

日清・日露戦争の時代は日本国内でまだ自転車が高級品で誰でも訓練なしに乗ることができた訳ではなく、マレー戦はちょうど日本が自転車の内製化に成功し大衆に普及した時期にあたります。マレー戦では民生用に量産された実用車を軍隊向けに転用、英米によるABCD包囲網によって石油資源が枯渇状態に陥っている皇軍に打ってつけの工作手段となりました。

 

 

 

続くインパール作戦では銀輪部隊の活躍はみられず多くの餓死者を出し敗北、マレー半島の熱帯ジャングルの長距離進攻でタイヤ・チューブなどゴム関連のダメージが大きく、資源枯渇状態の部隊は修理が追いつきませんでした。インパールで部隊を率いた牟田口廉也司令官は象や牛の収集と訓練は命じたものの、マレー戦の銀輪部隊の活躍を実際に目にしておらず、陸上の兵糧輸送を軽視し、3万人の餓死者が置き去りにされたといいます。

ではインパールの大敗北は仕方がなかったのでしょうか。本年5月に上梓された「自転車で勝てた戦争があった」(兵頭二十八著,並木書房)によると、著者はゴムなし車輪の自転車でも「プッシュ・バイク」として兵糧を載せて手押しすることで餓死を回避できたと主張、実際に80kgの砂袋をタイヤ・チューブを外した改造車で山中を移動するの実験リポートを紹介してます。

 


タイヤのない自転車の実証実験「自転車で勝てた戦争があった」兵頭二十八(並木書房,2024)

 

もちろんこのような「if」でマンハッタン計画を阻止するのは無理だとしていますが、兵糧輸送や患者後送の手段として「押して歩く自転車」を役立てる着想があれば餓死者をゼロにおさえられた可能性があると詳説、徒歩で担いで運べる数倍の荷物を運べる自転車の有用性を説いています。

 

結局、安威地下倉庫に備えられた海軍の自転車は本土決戦に使用されることなく終戦をむかえました。ポツダム宣言受託後に兵器など軍需重工業に傾斜していた日本の産業体制はGHQ監視下で全面停止となり、三菱重工・片倉工業・大同製鐵・萱場産業・日本金属産業・中西金属・大和紡績など14工場が自転車企業に転業、自由競争経済下で軍事開発での知見を活かし高品質の自転車を製造しました。

 

「サイクリングは今 流行のレジャーなんだから」

 

戦後から立ち上がる1950年代を描いた映画「ALWAYS 三丁目の夕日」では、流行に敏感な中年女性がサイクリングに魅了され、堀北真希さんが自転車技士として町工場で修理をするが場面が登場します。自転車は女性の解放の象徴でもあり、1960年代にはママチャリの始祖となる自転車が開発され、一般家庭にも広く普及し子育てや買い物など日本独自の自転車文化が華開きます。

現在では、自転車が戦争に使用されることはほとんどみられず、大東亜戦争を賞賛することもタブー視されていますがこのような歴史があったことも事実なのです。

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シマノ自転車博物館に寄贈された「ジェイ・ラッド」をみてきました

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100年以上前にドイツで製造された「ジェイラッド」という自転車が堺市「シマノ自転車博物館」に寄贈されたという情報が6月に朝日新聞のサイトに公開されていたのでどんな自転車なのか見に行ってきました。

 

 

ジェイラッドは独シュトゥットガルトのヘスペルス・ワークス株式会社で製造されたリカンベント型の自転車で、同博物館にすでに1921年(大正10年)製の車両の展示1台があります。国内では極めて珍しく、私の知る限りこの2台のみだと思います。リカンベントというのは上体を後方にやや傾けた姿勢で操舵する自転車で、最近ではGIANTが「REVIVE」(リバイブ)という車種を生産していて、当店でも数台ですが販売歴があります。

 

 


▲GIANT「REVIVE」

 

リカンベントはユニークな形状ですが、空気抵抗を抑えられるため結構スピードがでます。しかしながら、車体が鈍重となり登り坂に向かないためあまり実用的でなく、ドイツでもこのタイプが主流化した歴史はありません。考案したのはツェッペリン飛行船を製造していた会社の技師ポール・ジァレイで、一般的な自転車がペダルを回すチェーン駆動なのに対して、ジァレイの自転車はワイヤーを足踏みで引っ張る構造となっています。

 

 

今回寄贈された車両は一般公開されていませんが、特別に現車を見せていただけることとなりました。「ラッド」とはドイツ語で自転車を意味し、「J」は考案者ジャレイの頭文字で「J・RAD」という車名なのでしょう、下ブリッジに色あせたシンボルマークが確認できます。

 

 

 

前輪が後輪より小径で、シートは背もたれ付きとなっています。展示車と比較すると寄贈車はペダル(足の乗せ)が左右3つと1組多くなっています。展示車は後輪ハブが内装式変速となっていますが、寄贈車は変速ナシなので、足の置き位置で脚への負担を調整するようになっているようです。

 

 

 

そもそも自転車というものは、1817年にドイツ人によって発明されたとされ、高級品として欧州で発展しました。1885年には現在のチェーンドライブ式の後輪駆動の自転車がすでに発明されて1900年以降は広く普及するため、1921年にこのような変形自転車が登場した経緯が分かりません。ドイツは1919年のベルサイユ条約で第一世界大戦の賠償金で、強烈なインフレに苦しんだ時期にあたるので、こんな遊具のような自転車を作っている余裕があったのでしょうか。戦後ドイツの事情はよくわかりませんが、日本も戦後すぐに三菱がけったいなジュラルミン製自転車「十字号」を制作したことを考えると、戦勝国から平和産業への転換を強要されたのかもしれません。

 

 

しかしながら、ワイヤーで自転車が駆動するなんて強度的に大丈夫なのでしょうか。ワイヤー自体もそれほど太くないものが使用されていたので、切れてしまうことも多かったのではないでしょうか。いずれにしても貴重な産業遺産であることは間違いないと思います。

 

 

 

大阪には東京国立博物館やスミソニアン博物館のような総合的な公立博物館ありません。歴史博物館や民俗学博物館はありますが、製造業の盛んな大阪になぜパナソニックミュージアムのような産業遺産を収蔵する公立施設がないのでしょうか。大阪の発明品は自転車関連にとどまらず数多くあり、もっと世界に向けてしっかりアピールした方がいいのではないかと思います。

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ビワイチ拠点、大津港サイクルステーション「o-portable」

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10年程前からスポーツ自転車を活用した地域振興が盛んになり「サイクルツーリズム」などと言われて久しくなります。その筆頭が滋賀県です。琵琶湖を自転車で一周することを「ビワイチ」とし、湖畔をサイクリングすることを観光資源に周辺自治体は様々な取り組みをしています。

本ブログでは2017年に長浜から1泊2日で北湖の走破を投稿しましたが、今回は南湖湖西側の大津港に2022年4月にできたサイクルステーション「o-portable」に行ってみました。

 

o-portable

 

滋賀県は2018年の自転車産業振興会の調査で、1世帯あたりの自転車保有台数で大阪府を抑えて全国トップの都道府県です。少し意外な調査結果ですが、滋賀県は官民連携で利用環境の整備やシンポジウムの開催など積極的に取り組んできました。旗振り役は09年に設立された「輪の国びわ湖推進協議会」というNPOで琵琶湖を周遊するコースの紹介など地域に密着した文化を内外に広げるため活動を続けています。その結果もあり、少子化で京都市や神戸市が大きく人口が減少する一方で、滋賀県は人口増加を堅持しています。

県庁所在地の大津はビワイチで唯一「街」を感じることができ、JRの新快速が停車することから起点としやすい場所です。琵琶湖畔の京阪線浜大津駅はクルーズ船「ミシガン」の港で関西だけでなく、世界各地から観光客が押し寄せ、20年前ほど前から計画的に整備され湖岸を散策できるようになっています。

 

 

大津市は京都駅から10分で、古くは大津京(近江京)として首都とされ、比叡山や三井寺(園城寺)、最近では「ちはやふる」のカルタ大会の近江神宮や今村翔吾「塞王の楯」の穴太(あのう)も全国的に注目されています。

サイクルステーション「o-portable」はミシガンの乗船切符売り場の隣にあり、観光案内だけでなくレンタルサイクルや自転車用品や補給食の販売・修理までサイクリングに関する総合的なサポートをしているようです。

 

 

 

 

「ビワイチするため、二人で奈良からきました」

 

施設のは無料の休憩所やトイレもあって、自転車利用者以外の人との交流できる賑わいを創出するスポットで地域の活性化に一役かっています。日中35度以上の炎天下でしたが、大学生風の若い女性2人組のサイクリストがスポーツ自転車を輪行していました。

 

 

 

 

 

併設のカフェ「Bird Cafe」は、サンドイッチやコーヒー、地元野菜を使ったお料理が楽しめます。私が行った日はちょうど琵琶湖花火大会の前日でかき氷が提供されていました。琵琶湖は1993年に水鳥の生息地として国際的に重要な湿地に関する条約「ラムサール条約」に登録され、持続的な生態系を維持するため様々な取り組みが計画され、実施されています。

 

 

 

このように自治体が自転車環境に投資することは投資効果が高く、地域の魅力が向上します。大津市は草津市や守山市と比べるとやや寂れた感じが漂っている部分もありますが、このような新施設によってまちが再び活性化するのではないかと期待されます。

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岸和田にあったもう一つの公営競技場「春木競馬場」

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現在、大阪府下の競輪場は岸和田競輪場のみですが、かつては住之江大阪中央豊中と合計4施設で公営競技が実施されていました。また、競馬場は現存しませんが、かつては長居公園「大阪競馬場」と岸和田「春木競馬場」の2ヶ所で競走が開催されていました。春木競馬場は岸和田競輪場のすぐ近くに所在したのですが、一体なぜ廃止されてしまったのでしょうか。

 

 

 

岸和田競輪場は南海本線「春木駅」西側、駅から見える立地で難波から30分ほどです。2018年から施設の大規模改修を行ない、長期間にわたって競走休止していましたが、行ってみるとなんか改修前とあまり変わってない感じでした。訪れた日は高松宮競輪杯(G1)が開催され、フードトラックやイベントブースが出展され、超レジェンド中野浩一さんが解説で来場していました。しかしながら、相変わらず閑散としていて、今回の主な改修も観客席の撤去とむしろ寂しい感じになっていました。

 

 

 

春木競馬場は南海本線を挟んだ競輪場と逆側の現在の岸和田市中央公園のある場所にあり、1974年まで競走が開催されていました。私はてっきり春木競馬場は戦前競馬だと思っていたのですが、戦後も大阪府と岸和田市によって実施され、年間売上110億円、78万人ファンが来場したそうです。ちなみに2024年の阪神タイガース主催の甲子園球場公式戦入場者数が89万人のようですので、春木競馬がいかに熱狂的な人気だったことがわかります。つまり、競走廃止の原因は不人気や売上げの低下ではなく、別の理由があるのです。

 

 

2006年に発行された「春木競馬場廃止運動に取り組んだ女性たち」によると、競走廃止運動のきっかけは競馬場行バスの砂煙被害や馬の暴走の危険性についての住民の新聞投書とあります。競馬場は商店街や病院などがある住宅街の中にあり、馬小屋の悪臭や来場者の立小便、自転車盗も問題になっていました。全国でも競輪場と競馬場が併設されるケースは珍しくなく、奈良や長居公園など競輪場開設の影響を受けて、競馬場の人気が低下し廃止にいたった施設もありますが、春木競馬場は全国ではじめて住民運動の影響で廃止になった競馬場なのです。

 

 

時代背景として、大阪府は1971年に日本共産党・社会党が支持をする黒田了一が知事に就任、その後に同和利権問題「八鹿高校事件」(1974年)の影響で社会党が支持を取り辞め、共産党が単独支持する政権が発足します。今では考えられないことですが、東京都の美濃部亮吉知事などこの時代は都市圏を中心に共産主義を標榜する革新都市が誕生し、資本主義の象徴として公営競技を次々と廃止していました。

岸和田は保守の強い地盤でしたが、71年に「明るい革新大阪府政をつくる会岸和田連絡会議」が共産・社会党を中心に結成され、黒田と共闘しました。春木競馬場問題は黒田にとっても「つくる会」にとっても試金石となり、地元の町会や婦人会と連動し競馬場を廃止に追い込みました。岸和田の地殻変動は79年まで続く大阪府の共産政権誕生の強力な後押しとなったのです。

 

 

 

春木競馬の廃止は和歌山「紀三井寺競馬」の存続や「柏原競輪場」新設計画にも影響を与え、公営競技を社会悪とみなした左翼思想が跋扈するようになります。繰り返しになりますが、公営競技は日本の戦後復興に多大に寄与し、現在でも公衆衛生・公共福祉・文化振興・インフラ整備・地方財源・娯楽創出など社会に貢献しています。しかしながら、共産主義首長は自らの思想をこじらせ、小学生でもできる簡単な足し算ができなくなってしまうのです。大阪府下でも共産常勝区はありますが、残念ながら平等に貧しい地区になり下がってしまっています。

 

 

 

岸和田市中央公園には奇妙な立て看板が掲げられています。京都市の宝ヶ池公園にも怪文書のような難解な張り紙がありましたが、こういう看板があるところは大体ややこしい過去を背負っています。

 

バイク・スクーターは、公園内では押しましょう!
(警察・許可車両は除きます)
警察官には公園の治安維持のため、バイクに乗ったままでの効率的な巡回をお願いしています。
ご理解ご協力お願いいたします

 

同公園では警察官が治安維持のために公園内をバイクに乗って巡回をしているようです。バイクというのはもちろん自転車をおしゃれに言っているのではなくオートバイのことです。岸和田では毎年、11月3日に「イレブン・スリー」というデコレーションオートバイのデモ走行が爆音と共に実施され、安全管理の名目で公園を中心に警官が1000名配備、多くの観衆を集める華やかなイベントとなっているようです。

 

 

 

 

 

公園内には一部に競馬場だった遺構が残り、地元の人もその過去を知っていました。話を聞くと競馬場の反対運動が盛んになっても、競輪場に反対する人は全くなかったそうです。大阪は2030年頃に夢洲にカジノを開場予定ですが、競馬や競輪など大阪のギャンブル史をもう少し検証して、施設のあり方を長期的な視座で考えた方がいいのではないでしょうか。オープン当初は全世界から多くの来場者で溢れても、国内にカジノが乱立し70年たったらどうなるのか、岸和田競輪場を参考にされるといいと思います。

 

 

 

 

 

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