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終戦直後に朝鮮半島から引揚げをする日本人の中には朝鮮人による強姦等により妊娠した女性が多く存在し、その数は福岡の二日市保養所に報告書があるだけで28名、中には帰国船から身を投げた妊婦もいたといいます。昨日までともに戦った戦友が突然と姿を変え牙を剥く、それが戦争の恐ろしさということだといえます。

日本国内に居た朝鮮人の場合はより複雑で、日本軍が引き揚げた半島はここぞとばかりにソ連に侵攻を受け祖国は二分、帰国のタイミングを逸し日本に在留する者も多くいました。こうした在日朝鮮人が国内で最も多住する地区が大阪市東部の生野区・東成区の猪飼野(いかいの)と呼ばれる地域で、現在は当時の事を知らない在日4世、5世・・によって、独特のコミュニティが形成されています。

 

 

「お母ちゃんが言うとったんや。北鮮、毎日ただでハム食えるし、でっかい家にも住める」

 

 

北朝鮮の帰還船が新潟が寄港し始めたのは、テレビ・冷蔵庫・洗濯機「三種の神器」が一般的に普及し始めた1959年末で、金日成首相は平壌で開催された「建国十周年記念祝賀大会」にて、すべての条件を保証するという帰還キャンペーンを実施、共和国をまるで楽園のように喧伝しました。当時の在阪の朝鮮人はほぼ定職にありつけず75%が無職、多くは日雇いや古鉄収集で何とかその日を生き、ヒロポンやドブロクの密造・空き巣や洋犬盗といった社会秩序とは無縁のハードボイルドな生活環境で、暴力組織が群雄割拠していました。

 

 


▲終戦当時の古鉄回収の様子 (写真「愛天愛国愛人」より) ㊨ 若き日の久保木修己

 

 

李ヨーカ(通名:西山)は在日二世、父親が服役中に死亡したため母と兄妹の4人で、腐乱したネコやネズミの死骸が転がる猪飼野の路地裏の細民窟に居住、家族そろって帰還船に乗ることを話し合っていましたが煮え切らず、犯罪組織の指示役の朴マサオ(通名:白井)とともに自転車盗を繰り返していました。この頃、大阪府下の自転車盗が2万3000件を上回り、一掃作戦のため府警は無灯火の自転車を片っ端から職質するなど、重点警戒の網を敷いていました。

 

 


▲ 北朝鮮に輸出される中古自転車 [京都・舞鶴港] 読売新聞 2003年6月14日

 

 

ヨーカはマサオと二人で布施駅前のパチンコ店から二台の自転車を盗み、マサオと別れると鼻歌交じりで自転車に乗っているところを捕まり、布施署に補導され新聞沙汰となります。背後には大きな闇組織がありましたがヨーカは黙秘、非行グループ内での地位がマサオと逆転したといいます。

ルポライターで、ヨーカと旧知の仲の黄民基(ファン・ミンキ)氏は「一人の自転車ドロの専門家を捕まえてみると、ついこないだまでは空き巣の名人と謳われた男であったという事実も実際にあった」として、古鉄窃盗団「アパッチ族」との関連を指摘、時代の表現者たりうるとしています。そして、ノンフィクション「奴らが哭くまえに」にて幼少期に公園に自転車でやってくる太田紙芝居を楽しみにしていた二人の思い出を綴っています。

 

「父子そろって殺人犯やなんて、血は争えんな」

 

ヨーカは1968年、盗みに入った家の主人をジャックナイフで突き刺し特別少年院に収容、ヨーカの母は新潟に向かい、そのまま行方不明になったと言われています。

 


1958年頃の猪飼野 「猪飼野少年愚連隊」黄民基より

 

 

現在、猪飼野に行ってみるとキムチや精肉店など半島の文化を継承した街並みがみられ、特に御幸通り商店街はK-POPや韓国コスメ店などはこのような歴史を知らない若い世代の女性が全国から押し寄せています。私は虚像と虚飾に満ちた新世代の韓流文化には全く興味がなく、BOA・ヨン様・KARAくらいが辛うじて知っているくらいで、RAIN(ピ)以降は誰が誰だか、何が何なのか、皆目判りません。

コンプレックスを抱え「ニッポンっ、ダイスキー」と覚えたての日本語で言わされいるさまが、アイデンティティが喪失していて目を覆いたくなるのです。一方で、大阪人のユーモアと半島人の狂暴性を合わせ持つ在日文学は刺激的で、ますます興味が湧いてきます。また、なにか面白い作品があれば本ブログで取り上げてみたいと思います。