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TAG: 鉄くず 在日コリアン

戦後の魔窟、自転車窃盗集団「猪飼野愚連隊」

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終戦直後に朝鮮半島から引揚げをする日本人の中には朝鮮人による強姦等により妊娠した女性が多く存在し、その数は福岡の二日市保養所に報告書があるだけで28名、中には帰国船から身を投げた妊婦もいたといいます。昨日までともに戦った戦友が突然と姿を変え牙を剥く、それが戦争の恐ろしさということだといえます。

日本国内に居た朝鮮人の場合はより複雑で、日本軍が引き揚げた半島はここぞとばかりにソ連に侵攻を受け祖国は二分、帰国のタイミングを逸し日本に在留する者も多くいました。こうした在日朝鮮人が国内で最も多住する地区が大阪市東部の生野区・東成区の猪飼野(いかいの)と呼ばれる地域で、現在は当時の事を知らない在日4世、5世・・によって、独特のコミュニティが形成されています。

 

 

「お母ちゃんが言うとったんや。北鮮、毎日ただでハム食えるし、でっかい家にも住める」

 

 

北朝鮮の帰還船が新潟が寄港し始めたのは、テレビ・冷蔵庫・洗濯機「三種の神器」が一般的に普及し始めた1959年末で、金日成首相は平壌で開催された「建国十周年記念祝賀大会」にて、すべての条件を保証するという帰還キャンペーンを実施、共和国をまるで楽園のように喧伝しました。当時の在阪の朝鮮人はほぼ定職にありつけず75%が無職、多くは日雇いや古鉄収集で何とかその日を生き、ヒロポンやドブロクの密造・空き巣や洋犬盗といった社会秩序とは無縁のハードボイルドな生活環境で、暴力組織が軍湯割拠していました。

 

 


▲当時の古鉄回収の様子 (写真「愛天愛国愛人」より) ㊨ 若き日の久保木修己

 

 

李ヨーカ(通名:西山)は在日二世、父親が服役中に死亡したため母と兄妹の4人で、腐乱したネコやネズミの死骸が転がる猪飼野の路地裏の細民窟に居住、家族そろって帰還船に乗ることを話し合っていましたが煮え切らず、犯罪組織の指示役の朴マサオ(通名:白井)とともに自転車盗を繰り返していました。この頃、大阪府下の自転車盗が2万3000件を上回り、一掃作戦のため府警は無灯火の自転車を片っ端から職質するなど、重点警戒の網を敷いていました。

 

 


▲ 北朝鮮に輸出される中古自転車 [京都・舞鶴港] 読売新聞 2003年6月14日

 

 

ヨーカはマサオと二人で布施駅前のパチンコ店から二台の自転車を盗み、マサオと別れると鼻歌交じりで自転車に乗っているところを捕まり、布施署に補導され、新聞沙汰となります。背後には大きな闇組織がありましたがヨーカは黙秘、非行グループ内での地位がマサオと逆転したといいます。

ルポライターで、ヨーカと旧知の仲の黄民基(ファン・ミンキ)は「一人の自転車ドロの専門家を捕まえてみると、ついこないだまでは空き巣の名人と謳われた男であったという事実も実際にあった」として、古鉄窃盗団「アパッチ族」の関連を指摘、時代の表現者たりうる、としています。そして、ノンフィクション「奴らが哭くまえに」にて幼少期に公園に自転車でやってくる太田紙芝居を楽しみにしていた二人の思い出を綴っています。

 

「父子そろって殺人犯やなんて、血は争えんな」

 

ヨーカは1968年、盗みに入った家の主人をジャックナイフで突き刺し特別少年院に収容、ヨーカの母は新潟に向かい、そのまま行方不明になったと言われています。

 


1958年頃の猪飼野 「猪飼野少年愚連隊」黄民基より

 

 

現在、猪飼野に行ってみるとキムチや精肉店など半島の文化を継承した街並みがみられ、特に御幸通り商店街はK-POPや韓国コスメ店などはこのような歴史を知らない若い世代の女性が全国から押し寄せています。私は虚像と虚飾に満ちた新世代の韓流文化には全く興味がなく、BOA・ヨン様・KARAくらいが辛うじて知っているくらいで、RAIN(ピ)以降は誰が誰だか、何が何なのか、皆目判りません。

コンプレックスを抱え「ニッポンっ、ダイスキー」と覚えたての日本語で言わされいる様が、アイデンティティが喪失していて目を覆いたくなるのです。一方で、大阪人のユーモアと半島人の狂暴性を合わせ持つ在日文学は刺激的で、ますます興味が湧いてきます。また、なにか面白い作品があれば本ブログで取り上げてみたいと思います。

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【未解決】驚愕!西宮競輪場 2900万円強盗事件の真犯人

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現在、西宮ガーデンズのある場所にはかつて「阪急西宮スタジアム」という野球場があり、プロ野球チーム阪急ブレーブスが本拠地として使用していました。そして、この球場で2002年まで西宮競輪が開催されていたことを昨年6月の本ブログで投稿しました。

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西宮競輪場では1993年11月に2900万円が奪われる強盗事件が発生、犯行は未解決のまま忘れ去られ時効を迎えました。その後、この事件が予期せぬ方向から、その犯行グループの姿が明らかにされました。

 

森下香枝著「グリコ・森永事件[最終報告]真犯人」(朝日新聞社,2007)
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2007年に出版された森下香枝著「真犯人」(朝日新聞社)は、前年に出版されたノンフィクションノベル「史上最大の銀行強盗」(朝日新聞社)をベースに、森本受刑囚や犯行リーダーの前田浩二への追加取材を加えたノンフィクション作品です。

 

「西宮競輪場の強盗事件も、鉄ちゃんと森本芳博と私の3人で下調べをしていた事件です。私が他の事件で逮捕された後、事件は鉄ちゃん、森本喜博で決行し、すべて成功しています」

 

犯行グループ「平成強盗団」はリーダーの前田を指示役に、実行部隊の森本喜博(よしひろ)、「鉄ちゃん」こと金翼哲(キム・イクチョル)の3人を中心にして、大阪の阪神ホテルの一室にて結成されました。グループは、小手調べに尼崎市園田の郵便局強盗を成功すると、西宮競輪場強盗を続けて決行します。

1993年11月24日11時、小倉競輪の場外車券の二日分の売上2740万円を積んだ「けんみん大和信用組合」西宮支店の2台のオートバイが競輪場の南東100mの西宮市高松町の路上で、突然二台の車に挟み撃ちにされ車から降りた男に短銃のようなものを突き付け職員を連行、現金運搬用の鍵を開けさせ強奪すると西宮市武庫之荘の路上で2人開放しました。

 

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朝日新聞 1993年11月24日夕刊 [大阪版]

 

競輪場強盗が成功すると犯行グループは次なるターゲットを神戸市元町の「福徳銀行」神戸支店に出入りする現金輸送車に絞り、下調べの尾行を繰り返しました。

1994年8月6日9時20分、JR元町駅から鯉川筋を60m南下した「福徳銀行」神戸支店に二人組の男が現金の詰まった3つのジュラルミンケースをわずか3分ほどで強奪、二人組は死角を突き、炎天下の繁華街を疾風のように目抜き通りを逆走し消え去っていきました。

国内の銀行強盗事件史上最高金額5億4000万円、二人のモンタージュ絵が作成され「サングラス男」「ミイラ男」とされ捜査されました。サングラス男が森本、ミイラ男がキムで、二人は犯行直後に強奪金の取り分を巡り揉め、それ以来一度も会うことはなかったようです。

 

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森本はその後海外に逃走、一連の事件の時効が成立すると帰国し2007年2月に名古屋市中区の「愛知信用金庫」西大須支店の駐車場にて、職員の持つジュラルミンケースを奪おうとし取り押さえられました。リーダーの前田は「5億4000万円強盗事件も鉄ちゃんがいればこそ成功したものであって、森本善博一人ではどうすることもできなかった」としています。懲役8年、奪おうとしたジュラルミンケースの中は空でした。

 

 

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<グループの起こした連続強盗事件>
・園田郵便局強盗事件 (1993年10月尼崎市)【未解決】500万
       ↓
・西宮競輪場強盗事件 (1993年11月西宮市)【未解決】2700万
       ↓
・福徳銀行強盗事件 (1994年8月神戸市)【未解決】5億4000万

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キムは在日二世、小学生時代の友人の末吉という苗字が気に入り、末吉鉄之助という通名で「鉄ちゃん」と呼ばれていました。実弟は帰化し「山下芳男」の日本名で大阪で鉄工所を経営、前田と山下は1997年7月27日に発生した東淀川のゴルフ場強盗事件で240万円奪った容疑で逮捕されています。

鉄ちゃんの実家は「鉄くず」回収工場で、朝鮮戦争の特需により一家は豊かな暮らしをしていたようです。柔道有段者で頭も良かったようですが「韓国人やから、就職できん」と定時制高校を中退し、父親の工場に「ダライ粉」と呼ばれる金属削りくずをオート三輪で収集する仕事をしていたようです。

 

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金属の削りくず「ダライ粉」 (写真の場所と本文は一切関係ありません)

 

本ブログではこれまで、「アパッチ族」の金時鐘、「吹田事件」の夫徳秀、朝鮮寺「龍王宮」の韓秀子管理人など在日朝鮮人による「鉄くず」関連の記事を投稿してきました。それぞれ違法行為には違いないのですが、各々複雑な事情があり、ブログを読んでいただくと悪人ではないことが分かると思います。しかし、鉄ちゃんはこの頃から古鉄盗みやヤクザの用心棒するなど前科14犯で「史上最大の銀行強盗」の片りんをみせていました。そして囚えられた前田・山下は、その凶悪な素性を供述しています。

 

はなよりも 箕面のさとの もみじ狩り みのひとつだに とれぬけいさつ

 

強盗事件が起こる10年前の1984年、昭和最大のミステリーとされる「グリコ・森永事件」が世を震撼させます。「かい人21面相」を名乗る犯人が、大阪の北部を中心に青酸ソーダ入りの菓子がバラ撒き挑戦状ともとれる犯行声明出す「劇場型犯罪」を繰り広げます。私の住む箕面でも毒入り菓子が見つかり、売り場では菓子の撤去が始まり、当時小学生だった私も憎き「かい人」の早期逮捕を待っていました。

 

一体、誰が何の目的でこんなことを、、
時効が成立し事件から38年の歳月を経た今でも謎は解明されていません。事件の発端は江崎グリコの江崎勝久社長の誘拐事件に始まり大事件へと発展し、謎を残したまま突如終わりを告げます。

 

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西宮市二見町の江崎邸跡 西宮競輪場から徒歩20分ほどで現在は駐車場となっている

 

グリコは道頓堀の広告看板で知られるように大阪の食品企業で、勝久社長はJR甲子園口から北へ300m先の閑静な住宅街の西宮市二見町に650平方メートルの敷地の2階建ての邸宅に家族と暮らしていました。84年3月18日夜、犯人は社長宅に侵入し、入浴中だった勝久社長を銃で脅し全裸のまま誘拐しました。

 

「ええか、グリコ・森永事件と5億4000万円の犯人は同じや」

 

社長はその後解放されますが、頭髪から少量の金属くずが採取されていました。連れ去られる際の目隠しに使用された布袋に微量に残っていたダライ粉が付着してしまったのです。

犯人のモンタージュ絵「キツネ目の男」が有名で単独犯のように思えてしまいますが、社長宅に押し入った犯人がすでに二人組で、鉄ちゃんは「ビデオ男」と呼ばれています。「ビデオ」というのは、事件が注目を集めていた同年10月に公開された「ファミリーマート 甲子園口店」の店内防犯ビデオのことで、撮影日時が森永の青酸入り菓子がバラ撒かれた時期で、どくいり きけん たべたら 死ぬで かい人21面相という紙が発見された事件です。このファミマは、江崎邸から60mと最寄りのコンビニで、鉄ちゃんの実家や競輪場も徒歩圏という立地で大胆な犯行です。

 

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国内最高金額の銀行強盗と戦後最大の怪事件の犯人が同一犯であるという衝撃的事実、犯人が特定されていて他のメンバーは逮捕されているのに、鉄ちゃんこと金翼哲はなぜ逮捕されないのでしょうか。

キムは福徳銀行強盗の強奪金を神戸市長田区のアパートの屋根裏に隠し、少しずつ資金洗浄をしていたのですが、犯行翌年にアパートが阪神大震災で被災し分け前の1億6000万円の大半が焼失してしまいます。そしてその後、神戸市中央区琴ノ緒町(ことのちょう)のマンションに住みパチンコ店で働いていました。

偶然なのですが、私も同時期に琴ノ緒町の二宮神社の向かいのワンルームマンションに住んでいました。福徳銀行まで歩いていける距離で、まだ震災の爪痕が残っていて少し寂しい雰囲気のする一角でした。もちろん凶悪犯が潜伏していたことを知るすべはありませんが、今思うとあの一帯は比較的捜査の目も及びにくい場所だったようにも思えます。

ところが1997年11月、自宅マンションを福徳銀行強盗の容疑で兵庫県警によって家宅捜索を受けます。強奪金は消失してしまっているためガサ入れは証拠不十分で失敗、キムは釈放されますが翌日に自宅から500m先で縊れた状態で発見されます。こうして、一連の犯行は時効が成立、県警の不手際もあるため未解決事件として処理され、謎を残したまま今でも世間を震撼させた怪事件として語り続けられているのです。

 

 

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霊山 生駒山、暗峠の北側山道「額田谷」朝鮮寺廃墟群

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前回の投稿で、在日朝鮮人と日本共産党が生駒山地で「大阪古物商総会」と称して、秘密裏に計画された騒擾事件「吹田事件」を紹介しました。

大阪平野の東端、奈良との県境にそびえる生駒山は大阪市の中心部から電車で20分ほどで行ける身近な山です。鉄道は「生駒トンネル」を通り、乗り換えなしに5分ほどで奈良側に着き、ケーブルカーで山頂まで登ることができます。生駒側から登ると中腹に「宝山寺」という真言律宗の大本山があり、大阪で水商売を始める人に後利益があるとされ、大阪側からは「石切神社」のお百度詣の参道に沿い商店が並び、霊山として多くの参拝者を集めています。

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山にはいくつか往来できるように道が整備されていて、石切神社参道から続くハイキングコース「辻子谷」や自転車のヒルクライムで全国最凶の酷道として知られる「暗峠」(くらがりとうげ)などがあります。

 

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マウンテンバイクでパスハンティングできる古道はないかと、大阪側から山中をトレイルランで散策していると、俗世を離れた神秘的な寺院や滝があったり、ユニークな石仏像に出会ったり、GoogleMap未踏の風景に大阪のまた違った一面を見ることができます。

 

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生駒山を貫く「生駒トンネル」は大正時代に掘削され、多くの朝鮮人労働者が従事し、当時は住民と衝突もあったそうです。そういう関係性もあり、山中には朝鮮仏教寺院が点在しています。朝鮮寺は1932年に在日朝鮮人が大阪市東淀川区に建立されたのをはじめに、信仰のよりどころとして広がっていきました。

一般的にはこのような寺社の存在はあまり知られているとは言えませんが、大阪市内にもベルリンの壁がある茶臼山「統国寺」や桜ノ宮「龍王宮」などがあり、神戸市や宝塚市、東京都内にも散在しているようです。しかし、生駒山地の大阪側には正確な数が把握できないほど多くの「朝鮮寺(韓寺)」があり、1985年に調査チーム「宗教社会学の会」が3年を掛けて行われた現地調査では、なんと60施設以上が確認されているようです。

 

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この日のトレイルランでは、辻子谷と暗峠の間に平行するようにある「額田谷」という山道を走ってきました。閑静な住宅地の間を抜けると「長尾の滝」までは谷筋に沿いモルタル舗装されていて、滝より奥は藪道のシングルトラックが霊気蠢く異界へ伸びています。林道に入ると全く人はおらず、ほんの数分で廃墟と思われる寂れた家屋がみられるようになります。

 

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韓国の仏教は日本の仏教と異なりお坊さんはおらず、仏教と巫俗の習合のような形態になって、主に女性シャーマンが憑依し、信者を集め賽神を行うようです。私は韓国仏教について詳しくありませんが、日本でも幕末より貧困層の女性が突然覚醒する「民衆宗教」が勃起したことは、2月の投稿でも取り上げました。生駒の朝鮮仏教は、中山みき「天理教」、出口なお「大本教」、大森智辯「辨天宗」、北村サヨ「天照皇大神宮教」などこれらの民衆宗教との類似点があるように思えます。

この半世紀、民衆宗教が信者数を軒並み減らしているのと同様に、生駒の朝鮮仏教信仰も衰退し、多くの施設は廃寺となり放置され今にも崩れそうな状態となっています。

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朝鮮仏教は寺院や仏像より女性シャーマンへの信仰心が強く、主が亡くなると相続する者がおらず、荒廃してしまうというケースが多いようです。施設は宗教法人格を持っていないばかりか、所有権が不明確な川べりや砂防ダム内に建物を造っているため不法占拠状態で、増水などにより流される危険もあります。

 

ghost temple

 

大川沿いにある桜ノ宮「龍王宮」も、周辺には朝鮮人の「鉄くず」業者のバラックが並んでいました。しかし、違法占拠が問題となり「古鉄街」は撤去、信仰を盾に「龍王宮」は免れていましたが、管理が行き届かずゴミであふれヌートリア(大型のネズミ)が住み着き、2007年に火災を起こし橋の上を走る「大阪環状線」の運行に支障を出してしまい、2010年に管理人の韓秀子さんによって解体され現在では跡形もなくなり「桜ノ宮ビーチ」のある親水公園として整備されています。

 

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私は新興宗教の信者でもなければ在日朝鮮人でもありませんが、その立場の私から見ても生駒山地の朝鮮寺の衰退は貴重な文化の喪失で、もっと何とかしようがあるのではないかという気持ちで胸が痛みます。激廃れの廃寺群はそれはそれで珍しく諸行無常を感じますが、何とかして崩れ落ちた壁の保全くらいはできないのでしょうか。

 

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生駒山の山頂付近には大阪を一望できる「生駒山上遊園地」があります。レストランやトイレがあり、無料で入園できるので子供やカップルに交じってハイキング客の姿も見られ、俗世に戻ってきた感じがします。園内には霊山らしくお化け屋敷「地獄門」があり、500円で恐怖を味わえます。

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ここまで本ブログでは、「アパッチ族」の金時鐘(キム・ジジョン)、「吹田事件」の首謀者である夫徳秀(ブ・トクス)と、戦後大阪の在日産業「鉄くず」収集の実態を調べてきました。私が不勉強なだけかもしれませんが、調べれば調べるほど知らなかった事実が発覚し、このような歴史の経て大阪というまちがあるのだと考えさせられました。ただ、肝心のスクラップ収集から中古自転車販売への転換となった経緯がミッシングリンクとなっていて調べきれていませんので、引き続き本ブログにて調査・報告をしていきたいと思います。

 

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三大騒擾事件「吹田事件」をたどる、ひとり反戦サイクリング

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先月の本ブログで、大阪の自転車販売の朝鮮人支配の源流をたどるため、アパッチ族のキム・ジジョンについて投稿しました。今回はキムがアパッチ族になる以前に参加した騒擾事件「吹田事件」を、事件を先導した秘密組織「祖国防衛委員会」リーダーである夫徳秀(ブ・トクス)らの視点で散走していきたいと思います。

日本がサンフランシスコ講和条約で主権を回復した1952年4月から破壊活動防止法が本格的に施行される2ヶ月の間、各地で多くの武装闘争がおこりました。特に皇居前「血のメーデー事件」、愛知県「大須事件」、「吹田事件」の3つは三大騒擾事件とされ、戦後史に刻まれています。

とはいえ、「吹田事件」の詳細は、複雑な事情から教科書やテレビなどでは取り上げられることはなく、初耳の方もいるかと思いますので、歴史的背景と共に説明していきたいと思います。

 

suita

1950年、朝鮮戦争が勃発すると、GHQは日本の占領政策を転換、日本は民主化路線から再び右傾化、米軍の兵站としての役割を果たすようになります。このような状態下で、日本共産党はマルクス主義に基づく革命闘争「51年テーゼ」を協議会にて決議、暴力による革命を公然と掲げ、各地で闘争を繰り返します。

共産党大阪委員会幹部の上田等(うえだ・ひとし)は、朝鮮戦争から勃発から2年となる52年6月24日に、大阪大学豊中キャンパスの北グランドにて反戦デモ集会「伊丹基地粉砕、反戦・独立の夕」を計画します。伊丹基地というのはキャンパスの西側にある大阪空港のことで、米軍はこの空港から朝鮮半島に空路で軍事物資を輸送していました。

osaka university

大学側はデモを黙認、グラウンドのある待兼山には学生や共産党員などおよそ1000人が集まり、労働歌が歌われ、反戦プラカードや北朝鮮国旗が掲げられていたようです。日本の共産主義運動は、日本共産党の1955年の武装放棄決議までは在日朝鮮人が支えていて、1948年には国内の騒擾事件の86%が在日朝鮮人によるものでした。そして、この集会の参加者の3分の2は朝鮮人で、その首謀者が夫徳秀です。

上田はグラウンドでの集会終了後に空港までデモ行進を行う予定でしたが、警備が強固だったため作戦を変更、吹田にある米軍の輸送拠点「吹田操車場」を標的にしました。操車場というのは列車の停車場にことで、大阪人には「ヤード」と英語でいう方が分かりやすいかもしれません。当時は米兵が吹田操車場に駐屯し、鉄道を利用して伊丹に物資を輸送していました。

suita yard

デモ隊は二手に分かれ、一隊は西国街道を西へ行進し操車場へ向かい、もう一隊は阪急石橋駅に向かい警備は混乱します。石橋駅では終電がすでに出ていて、上田の実弟の上田理(うえだ・おさむ)が、駅長に臨時電車を出すように強要、梅田行の電車を手配します。大阪大学と伊丹空港のあるこの辺りは、ちょうど豊中・池田・箕面・伊丹の境界で、管轄警察の連携もうまくいきませんでした。

 

suita riot

臨時電車に乗った一隊は「人民電車部隊」とされ、学生運動を指導していた理は電車隊の指揮します。集会において重要な人物である上田兄弟ですが、両者はデモ参加を互いに当日グラウンドで会うまで知らず、出会ってびっくりしたそうです。ちなみに上田兄弟の祖母は私立学校金蘭会学園の創設者のひとりで、教育者一家に育ち、哲学者の西田幾多郎とも縁者関係だそうです。

警察は梅田にて電車を待ち構えますが、理の指揮する部隊は服部駅で下車し操車場に向かいます。

 

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一方、西国街道からデモ行進する部隊は「山越部隊」とされ、首魁は三帰省吾(みき・しょうご)という日本人が務め、夫徳秀も朝鮮人を従え三帰と共に操車場に向かいます。夫徳秀は在日2世で東淀川で「鉄くず」収集で生計を立てる一方で、アパッチ族のキム・ジジョンらと祖国防衛委員会の機関誌「マルセ」を発行し、当時36歳という若さながら総連の地区委員長でした。朝鮮人たちは51年秋に共産党メンバーと生駒山地の山寺にて「大阪古物商総会」という名目で集まり、工作がバレないよう朝鮮語にて計画をしたようです。

 

夜を徹したデモ行進は吹田に向かう道中、西国街道(国道171号)沿いの豊川村小野原(現在の箕面市小野原)にて「右翼のドン」笹川良一宅を襲撃、笹川は事前に避難をしていて難を逃れました。

私の実家はこの小野原にあり、高校生時代に、ケンタッキー・フライド・チキン好きの「聖地」とされているカーネルバフェ(食べ放題)が実施されている小野原店でアルバイトをしていたので、昼食に食いまくってやろうと目論んでいたのですが、衝撃的なことに食べ放題が終了して、店も休業(改装中?)していました。

大阪市内では最近韓国チキン店が急増していますが、私はどうもあまり好きになれません。米朝の対立も、チキンのおいしさで競い合ってくれっれば良かったのですが、吹田操車場にて両陣営は対峙することとなります。

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夫徳秀やキム・ジジョンの属した「祖国防衛委員会」は、秘密組織ゆえにその実態や内幕は長く秘匿されていました。毎日放送の西村秀樹記者は、夫徳秀が「鉄くず」収集を辞め十三で焼鳥店をしていることを突き止め、20年通い顔なじみとなり、体験談を聞き出し「大阪で闘った朝鮮戦争」(2004,岩波書店)、「朝鮮戦争に参戦した日本」(2019,三一書房)という2冊の書籍にまとめています。

西村記者が仲間と研究会を立ち上げる以前は事件の関係者は口をつぐみ、相談をした関西大学教授からも「ゲスの勘ぐり」と困り顔をされたとしています。十三の焼鳥店は韓国チキン店ではなく「一平」という店名の赤ちょうちんの炭焼き焼鳥店のようなのですが、残念ながら探してもみつかりませんでした。

 

「軍需列車を10分止めれば同胞の命が1000人救われると言われ、必至の思いでした」

 

同書籍によるとデモ隊は「須佐之男命神社」(スサノオノミコト)に火炎瓶や竹やりで武装し集結、対峙する警備隊の警備線を越え毅然と操車場に進みました。書籍には夫徳秀の他に多くの関係者が事件を振り返っていますが、立場の違う者同士でそれぞれ考え方が違い、誰の目線で語るかによって事件の見え方が変わります。

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デモ隊は操車場内を行進後に投石など攻撃を行いましたが、朝になると解散、多くの通勤客がいる中で警備と揉み合いになり多くの逮捕者を出しました。

 

現在、吹田市は府下屈指の「住みやすいまち」として知られています。大阪大学(吹田キャンパス)や金蘭会学園の金蘭千里大、関西大などの有名大学が所在、Jリーグ「ガンバ大阪」も吹田をホームスタジアムとして使用し、1970年の万博も吹田市と茨木市の境界にて開催されるなどQOLの高いまちとなっています。

上田・兄は晩年に心筋梗塞で倒れ「国立循環器病センター」にて緊急手術で一命をとりとめます。国内屈指の先進医療を誇る同センターは、2019年に上田たちが闘争を行ったJR岸辺駅前へ移設、駅前エリアは「健都」として再整備されています。

 

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事件から70年経ちましたが朝鮮半島はいまだに統一されることなく、ロシアと西側陣営の対立も長期化しようとしています。ウクライナ情勢に関しては、平和主義を標榜する日本はできることは限られていますが、戦争終了後、樺太・千島列島・オホーツク・カムチャッカ・シベリアなど地域の平和的独立支援、ロシアが実効支配している北方領土の返還と平和協定締結、ウクライナ復興支援など果たせる役割は大きいと言えると思います。

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在日朝鮮文学の金字塔「夜を賭けて」大阪砲兵工廠~アパッチ集落 散走

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1月、本ブログで、大阪の自転車販売の在日朝鮮人支配ついて投稿しました。「鉄くず」収集などの静脈産業を生業としていた在日朝鮮人が、中古自転車販売のローカルチェーン店を展開し勢力を伸ばしているという現状に問題点があるという内容の投稿です。

詳しくは、その投稿を読んでいただきたいのですが、「そもそもなぜ在日朝鮮人が鉄くず収集を支配的に行っているのだろうか」と疑問を持っていると、その歴史的な経緯を紐解くような小説を見つけたので、その舞台をポタリングしてきました。

 

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梁石日「夜を賭けて」

1994年に発売された小説で、2002年には山本太郎主演で映画にもなった作品です。梁は朝鮮・済州島出身の在日の小説家で、実父をモデルとした代表作「血と骨」も崔洋一監督、ビートたけし主演で映画化され、高い評価をえています。

梁の出世作となった「夜を賭けて」は、終戦間もない頃の大阪の在日朝鮮人による怪盗団「アパッチ族」を描いた作品です。

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大阪城公園の北東側の端に明治期に建てられた古びた廃墟が残されています。このレンガ造りの建物は大日本帝国軍の兵器工廠で、太平洋戦争の終戦まで陸軍の兵器を製造していました。

かつては、天守閣周辺の森ノ宮から大阪ビジネスパーク辺りまで一帯が巨大な軍事施設で、極東最大の設備や技術力を誇り、シマノの創業者島野庄三郎や日本自転車産業の父・宮田栄助もこの施設で従事しました。

 

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明日 十四日 大阪を くうしゆうします
このばくげきがさいごで あります 一九四五年 U.S.A.

大阪上空より爆撃予告が投下され、終戦前日の8月14日に大阪はB29による空襲で焦土となり、工廠も大きな被害を受けました。工廠跡は近畿財務局の管理下に置かれますが、不発弾の残る一帯は立ち入りが禁止され、長らく放置されていました。

 

物語は、在日朝鮮人の「ババア」が誰も立ち入らない工廠跡で拾った「鉄くず」が5万円で買取された噂が広がるシーンから始まります。

1923年、関東大震災が発生。朝鮮人は「火事場泥棒をした」「井戸に毒を入れた」と差別され、大阪は以後現在に至るまで日本最大の在日朝鮮人の居住区となります。なかでも大阪市の東部を南北に流れる平野川周辺に肩を寄せ合うように住み着きました。「ババア」の住む集落は平野川の北端にあたり、地区には現在も朝鮮籍の住居が点在しています。

 

大阪城公園内には「ピースおおさか」という戦争資料の調査研究や展示を行っている施設があり、当時の様子を調べることができます。1960年当時の大阪の物価の展示を見ると、中華そば1杯55円、たこ焼き12個30円、サイダー35円、お好み焼き80円、散髪200円、ランドセル3000円、そして自転車は1万8000円だったあります。
今と比べると10分の1ほどの物価水準で、自転車の価格だけ現在とかわらず、鉄が高価であり、ババアの手にした金額が大金であることがわかります。

war bicycle

小説ではババアの噂は一夜で集落中に広がり、朝鮮人窃盗団が警察の目を盗み夜な夜な工廠内に侵入し、盗みを働く様子が、さながらアニメ「ルパン三世」のような活劇として描かれています。この朝鮮人窃盗団は実在し、梁は映画公開時にキム・ジジョンという人物が小説のモデルであったことを明かしています。

金時鐘(キム・ジジョン)、1929年朝鮮半島生まれ。

49年に日本に密航し、翌年に共産党に入党したキムは52年に「吹田事件」に関与します。「吹田事件」とは朝鮮戦争に反対する左翼運動の暴力事件で「血のメーデー事件」「大須事件」と合わせて「三大騒擾事件」とされている事件です。キムは「山越部隊」の一員として「笹川良一宅襲撃」や「吹田操車場襲撃(吹操襲撃)」に関わったとされている要注意人物でした。しかし、重要な襲撃当日にキムはあろうことか緊張のあまり脱糞、後にこの時の自らの様子を脱北者ならぬ「脱糞者」と称した詩を発表しています。

 

ズボンの/内側を/はぎとり/むれる/悪臭の/修羅場を/城ごと/あけ渡したのだ。
悲哀とは/山に包まれた/脱糞者の/心である。 (金時鐘「わが生と詩」から詩の一部を抜粋)

 

この事件は警察の不手際が重なり、裁判で弾圧の不当性を訴え司法は紛糾(吹田黙祷事件)、有罪となる証拠がそろわず騒擾罪が適用されませんでした。そして、その後にキムは怪盗「アパッチ族」となります。

 

korean town

在日集落といえば、生野「御幸通り商店街」や鶴橋のように、韓流グッズ店やおいしい焼肉やチキン店がたくさんあるのかと想像していましたが、実際に行ってみると、この「アパッチ集落」は西成の崖下のような老朽化した木造住宅が密集していて、残念ながら観光を楽しむようなところではありませんでした。

再開発され大型の福祉センターなどに建て替えられている箇所もありましたが、廃墟のような状態のバラックや入り組んだ路地に洗濯物が干されていて、どことなく一帯に異臭がただよっているような感じがしました。

耐えかねて平野川沿いにでると、川一面が見たことないほどの夥しい数のボラの死骸で覆いつくされていて、行き場を失った水鳥がゆっくり流れる悪臭の元を眺めていました。

hiranogawa

 

(「吹田事件」に続く)

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