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幻の自転車道「ホトトギスの道」の全貌とは

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2021年、東京五輪にあわせて太平洋沿岸に全長1200kmに及ぶ大規模サイクリングルート「太平洋岸自転車道」が整備されました。千葉県銚子から神奈川・静岡・愛知・三重・和歌山をまたぐ大事業で和歌山県の北端の加太が終点となっていて、残念ながらこの事業に大阪は参加していません。しかし、この計画には続きがあったのです。

 

 

(前回投稿のつづき)

府立図書館のアルバム書籍でみつけた「ホトトギスの道」の写真、1973年の生駒山西麓沿いに開通した5kmの自転車道は完全に忘れ去られ、現在では門扉は閉ざされて自転車走行禁止となっています。前回のブログで東大阪市役所に問い合わせたところまでを投稿しましたが、その後、大阪市立図書館と堺市の「シマノ自転車博物館」にて調査しましたが、「ホトトギスの道」という呼称は全く浸透しておらず、資料もありませんでした。

 

 

 

あきらめかけていた調査7日目の最終日、市立図書館の司書から連絡があり、2002年(平成14)の府議会の定例会の議事録に関連答弁を見つけたというのです。今から20年以上前の答申で、第2次安倍内閣で国土交通副大臣を歴任した北川イッセイ議員の府議時代の質疑でした。

 

「自転車道を作ろうと書いてある。これは府民の森計画、サイクリング計画と書いています」

 

北川議員は地元東大阪の出身で、父親は東大阪市長、2002年時点で府議4期目で実績を重ね、鞍替えして参議院議員になっています。北川氏は私と同じように管理道を歩き「本当にすばらしい」と絶賛、ルーツを詮索したようです。議事録によると、サイクリングコースは大阪南部から相生(兵庫県?)までを計画、水コース・山コース・田園コース・市街コース・谷筋コース・歴史コースと6コースを制定、生駒の自転車道は山コースで、第一のモデルコースとして開通したと言うのです。そして、自転車の有効性というのをもう一度考え直して積極的にやっていただくということをひとつお願いしておきます、と締めくくられています。

 

 

 

さらにさかのぼると、北川氏が初当選した1992年(平成4)にはすでに、これらの大構想は忘れ去られていたようで、開通早々に自転車の利用は禁止され、暴走族からハイカーの安全を確保するため出入り口に堅固なゲートを設置したとしています。

 

「出入り口の改修をするとともに、ハイキングに加え、サイクリングが楽しめる自然公園施設としてその管理体制を整えてまいりたいと存じます」

 

当時の農林水産部長の答申では自転車の走行禁止は「山腹の崩壊」と「自転車利用者の激減」と説明しながらも、出入り口の改修とネットワークの形成のため、様々な施策を協議したいとしています。この頃、米国で先行して人気が出ていた砂利道も走行できる新感覚の自転車「マウンテンバイク」の文化が日本にも上陸し、定着しつつありました。

このサイクリングコースはマウンテンバイクに打ってつけですが、現在になっても、出入り口の改修は行われず、ネットワークは途絶えたままとなっています。残念ながら、北川議員は志半ばの2021年に永眠されたようです。

 

 


▲1970年代の「サイクルスポーツ」誌の自転車道特集

 

 

自宅に戻り、昔の「サイクルスポーツ」誌を読み返すと、1970年代には合計3回サイクリングコースの特集が組まれ、73年8月号に大阪府の計画の記載があり、和歌山県加太に接続する総延長1520kmに及ぶサイクリングコース計画の記事が見つかりました。冒頭の加太を終点とした太平洋沿岸自転車道(1200km)に、まだ320km未完成道路があるということとなります。記事には加太、和泉山脈、河内長野、羽曳野、柏原、生駒山西麓に沿って交野、枚方、高槻を抜けて兵庫県・京都府を巡るコースとあります。また、77年4月号では「府民の森自転車道路」が11.9km完成とあることから、この時点ではまだ閉鎖されていないことも確認できました。

調べれば調べるほど計画が壮大で廃止がもったいないように感じます。時代が経過して、もはや計画を戻すことは難しいかもしれませんが、これからも調査は続けていきたいと思います。なにか、有益な情報がありましたらご協力をお願いいたします。最後に計画が持ち上がった際に作られたこの道の詩歌が書籍に掲載されていましたので、一旦、こちらで締めくくらせていただきます。

 

 

山腹のしわは尾根の谷 尾根を歩き、谷を走る
ぼくらの森は起伏がいっぱいだ
冒険をしよう そしてぼくらの世界を築き上げよう

<中略>

樹の香り、花の香り、枝の、幹の香り

風が自転車にのる若者をよぎる
神に香りが、見知らぬ若者を濡らす

「なるかわ・冒険と神秘の森」より

 

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えっ?!自転車走行禁止のサイクリング道「ホトトギスの道」

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本ブログでは昨年より生駒山地の大阪側を縦走する管理道を「生駒山グラベル道」として、将来的な自転車利用の可能性を考察し、現地調査を実施しています。この縦走道はヒルクライマーの聖地暗峠(くらがりとうげ)と「サイクリストのための百名峠ガイド」(八重洲出版)にも選ばれた十三峠(じゅうさんとうげ)の2つの峠を頂上付近で連絡する林道で、現在は両峠の入り口に侵入防止のゲートが設けられ、自転車を含む車両が通行禁止となっています。

 

【参考】生駒山グラベル道 第1回現地調査 (2023年10月14日投稿)

 

前回の2023年10月の調査にて、この林道は大阪市内を一望できる標高500mの山中にあるものの路面の高低差はそれほどなく、草木も刈り取られ歩きやすいようによく整備され、地元の人は「なるかわ管理道」と呼んでいることが分かりました。ゲート間はおよそ6km、路面は全体の3分の2以上が未舗装で、幅員は3mほどあり雄大な自然の中、ハイキングやトレイルランニングを楽しむ人の姿も見られました。

 

 

現地調査を踏まえて、林道が所在する自治体の東大阪市の道路管理室に出向き、管理状況を問い合わせると、山地内の道路は大阪府の管理で、現状を把握していない様子でした。また、同市は「ものつくりのまち」を標榜しているため、中核市としては珍しく観光やまちづくりに関する部署がなく、自転車関連としては駐輪場整備の管理部署のみで、本来ならば計画するものとされている「自転車活用推進計画」も未作成でした。当然、前回の現地聞き取りでシニア男性が言及していたレンタルサイクル事業廃止の経緯についても分かる者もいませんでした。

 

「自転車活用推進法の成立は知っていますが、東大阪市は推進計画は作成しておらず、部署もありません」

 

生駒山は1958年に国定公園に指定、自然公園法に基づいて大阪府が管理し、府民が自然に親しめる解放区として67年から数百億円を投じて合計面積600ヘクタールを整備、7つの「府民の森」を運営しています。80年代には「大阪府民の森利用促進事業」の5ヵ年計画を策定、91年には年間利用者が100万人を上回り、バーベキューやキャンプなどを楽しめる施設として賑わいました。一見すると順調にも見える生駒山の西麓の森林整備はいったいどこでボタンを掛け違い、奈良側と差がついてしまったのでしょうか。

 

 

 

私は活用推進法の地域間の温度差を痛感しながらも、帰り際に市役所に隣接する府立中央図書館に立ち寄り、生駒山についての資料を漁りました。大阪府立中央図書館は国内最大の公立図書館で、職員が地下書庫内の移動に自転車を用いるほど広大です。司書の女性に協力してもらい所蔵資料を手分けして探し、いくつか当時の事業に関する記述をあたりましたが、管理道について明瞭な文献は探し出すことはできませんでした。あきらめかけて、東大阪の市史を両手に抱えて書棚に戻していると「東大阪の昭和」という背表紙が見え、手に取りページをめくるとセピア色の古いカラー写真が目に飛び込んできました。

自転車に乗った3名の青年が「祝 ホトトギスの道 開通」と書かかれたゲートを通過するカラー写真で、支柱には「大阪府」「ぼくらの森 香りの森 開苑記念」とあります。そして、写真の説明として「府民の森が開園」<生駒山 昭和48年>と記されていました。周囲の感じがやや異なりますが、まぎれもなく管理道の写真です。しかしながら「ホトトギスの道」というのは初耳で、インターネット検索でも全くヒットせず、詳細は分かりません。

 


1973年開苑「府民の森」のサイクリング道「ホトトギスの道」 出典:石上敏監修「東大阪の昭和」

 

1973年の新聞で開通の記事がないかを探していると先ほどの女性司書が大きな資料を抱えて、私を探して館内中を歩き回っていたようで、行政資料を見つけ出してくれました。行政資料によると73年に開通した自転車道(ホトトギスの道)は5km、既存の自転車道と直結して全長15kmに及ぶとされています。

驚いたことに私が直観的にサイクリング道に向いていると思った林道は、そもそもサイクリング道として整備された道だったのです。それにしても、大金を投じて華々しく開通した「ホトトギスの道」がなぜ封鎖され、自転車走行禁止となってしまったのでしょうか、新たな疑問です。

 

「東大阪の昭和」にはもう一枚、1957年に生駒山麓で撮影されたサイクリストの写真が掲載されています。そして、写真の説明として1954年に自転車産業協議会が中心となり日本サイクリング協会(JCA)が結成、サイクリングの対象地が生駒山に拡大していたことが記されています。

 

 


1957年第一次サイクリングブームの生駒山 出典:石上敏監修「東大阪の昭和」

 

67年前の白黒写真が生駒山のどの辺りなのかは分かりませんが、比較すると現在の道路状況が一番醜いように感じます。繰り返しになりますが、生駒山の大阪側は廃墟・廃道・立入禁止と荒廃が進んでいます。このような管理下でも「なるかわ管理道」は利用可能な状態に維持され、なんとか再生することができるように思います。そして、人が戻れば、ふたたび地域に活気出ます。

 


閉ざされた「府民の森」のゲート 禁止x4 来る者を拒むような注意看板 

 

 

今回、「生駒山グラベル道」がもともと自転車道として開発された「ホトトギスの道」だったという忘れ去れた過去の発掘は私にとっては非常に有益な情報でした。これを踏まえ、さらに大阪市立図書館とシマノ自転車博物館にて調査を続けました。(つづく)

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