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2015年09月の記事一覧

リゾート&アート「玉野競輪場」の温故知新

岡山県玉野市の「玉野競輪場」に行ってきました。

 

 

玉野競輪場は1950年に開設された岡山県下唯一の競輪場で、玉野市が競走を主催しています。玉野市は人口およそ5万人、1988年に瀬戸大橋が開通するまでは連絡船が往来し造船業も盛んな港湾都市でしたが、現在では市の歳入のおよそ3割を競輪事業会計に依存しています。対岸の四国側には高松市営「高松競輪場」があり、宇野港を経由しアートで世界的な脚光を浴びる香川県の直島に行くことができ、観光収入が新たな収益源となっている港町です。

 

 

競輪場は宇野港から徒歩15分ほど離れた海沿いに位置します。JR宇野駅から送迎バスも出ているようですが、この日は最高気温35度でバスも待てないほどの灼熱地獄だったのでタクシーで直行、10分もしないうちに施設が見え、外周をぐるっと廻って料金1000円でした。

 

 

バンクは一周400mの屋外型で、ちょうど台風が接近していて、強い海風が流れ込んでいました。入場料は無料、ナイター設備がありガールズケイリンも開催されています。2022年にスタンドが改修され、空調の効いた海を望む最高のロケーションからレースを観覧でき、本場開催日のこの日はファンでほとんど埋まっていました。

 

 

 

「あか、がんばれー」

 

競輪場のマスコットは選手をイメージした「ガッツ玉ちゃん」。家族連れもファンもいて、子供の声援が場内に響きます。トイレも清潔で、喫煙者スペースも設けられています。野球やサッカーなどのスポーツ競技場なら当たり前の光景でも、迷惑施設と疎まれ続けてきた競輪場はエレベーターがあるだけでもマシな方で、屋根や壁が穴だらけで戦後期から放置され、取り残されている施設の方が多かったりする現状があります。

 

 

施設内には競輪の歩みやレースのポイントを分かりやすくパネル化したキャラリーを併設、主催の玉野市は競輪の観客による集客だけででなく、競輪事業による潤沢な収入で港湾整備や芸術祭、観光振興等に取り組み高い波及効果をみせています。

 

 

2022年のリニューアルは単なる改修工事ではなく、公営競技場のあり方を大きく転換するような急進的なテコ入れで、建て替えにはモンストやマイミクで一世風靡したIT企業「株式会社MIXI」傘下の「株式会社チャリロト」が参加、施設の包括的な運営を行っています。

 

 

本ブログではこれまで、岸和田奈良京都向日町小松島といった昭和臭する施設の現状を紹介してきました。玉野競輪場は行政から見放された老朽化公営競技施設の運営に新たな希望を与える成功事例といえます。しかし、玉野競輪場はこれだけではありません。同施設の本当のスゴさを2回にわたって詳説していきたいと思います。

シン公営競技論 :破

(前回の続き)

戦後の我国の公営競技は競馬から始まりました。競馬は戦前より実施されていましたが、中央集権的な組織体制をGHQに問題視され、1948年に新しい競馬法が制定、現在へと続く市町村が主催する「地方競馬」へとなり再スタートをします。同年に自転車競技法も制定され「競輪」は熱狂的に支持され瞬く間に全国的に広がり、次いで50年には「オートレース」、51年には「競艇」が誕生、52年にサンフランシスコ講和条約により日本が主権を取り戻すと54年に中央競馬法が可決され「日本中央競馬会」が発足します。オートレースはあまり人気がでませんでしたが、公営競技の王者は【地方競馬 → 競輪 → 競艇 → 中央競馬】と誕生順に移り変わっていきます。しかしながら、1970年代に入るとパチンコが市場規模で競輪・競艇を超え、80年代には全公営競技の合計を上回る規模と増大し、90年代には30兆円市場の巨大産業となり圧倒的な存在となります。

まさに国民的ギャンブルと成長したパチンコですが、1959年に大物代議士の福田赳夫自民党幹事長に「2年以内に完全納税できなければ、一斉摘発する」と忠告を受け、危機的状況に追い込まれていました。パチンコ業界はこの難局をどのように乗り切ったのでしょうか。まずはその歴史をみてみましょう。

初期のパチンコは一銭銅貨を投入して遊ぶコインマシンでした。その登場は古く、杉山一夫著「パチンコ誕生」(2008,創元社)によるとルーツは1920年代の大阪の新世界であるとしています。新世界は現在では通天閣を中心に多くの観光客が押し寄せますが、そのきっかけは今から100年以上前の1905年に開催された「第五回内国勧業博覧会」です。博覧会終了後に跡地はルナパークという遊園地となり1923年まで営業をしていました。杉村氏よるとルナパーク終了後の新世界の一角、通天閣の袂にあった露店パチンコ「オーエヌ商会」が初号機であるとしています。1932年に大阪ではパチンコ禁止令がだされ、太平洋戦争へと突入し禁止令は全国的に広がります。「オーエヌ商会」はその影響を受けて、カフェーと転業し現在でも「コロンバイン」という店名の喫茶店を営業されています。

 

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新世界の露店パチンコ「オーエヌ商会」があった場所  現在は喫茶「コロンバイン」となっている

 

 

戦争が終わると再び大阪市内でパチンコ店が営業が始まり出します。大阪府警に出身で戦時下は満州に駐屯していた水島年得(ねんとく)も心斎橋でパチンコ店を開業します。配給制で物資が不足していた状況下で、景品と交換できるパチンコは人気を博し、水島は道頓堀・玉造・鶴橋など多店舗化に成功、パチンコ店組合の全国組織「全遊連」の会長となります。「完全納税」の命を受けた水島ですが、当時は各地方ごとで指導法など違いがあり、統一化に向け「大阪方式」を導入、特殊景品を介し出玉をパチンコ店・景品交換所・景品問屋の3つの別々の業者が扱うこの方式は「三店方式」とも言われ、パチンコ店が出玉の換金行為に直接的に関与しないことから、賭博行為に相当しないという脱法的な営業形態です。水島が考案したこの方式でパチンコはどうにか一斉摘発を免れます。

 

「パチンコで換金が行われているなど、まったく存じ上げないことでございまして..」

 

2014年2月、高村正彦自民党副総裁らが発起人となる「時代に適した風営法を求める会」が設立、建前論ではなく実態に即して方式を整理し「パチンコ課税」の導入を要望すると、警視庁の担当者は「そういうこと(換金)もあるという話は聞いております」と官僚答弁に終始、「賭博」なく「遊技」で出玉交換は無関係の交換所で客が勝手に換金しているだけなので「課税する」という議論も成り立たないと白々しい答弁を繰り返し、現在でも協力姿勢を示していません。パチンコは公営競技と違い法的なプロセスを経て業態が成立していないという問題が常に付きまといます。

 

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警察はパチンコ以外の業種は「三店方式」を認めない方針  (朝日新聞 2014年8月26日)

 

 

「三店方式」の黙認も問題のですが、私がそれ以上に問題なのは「パチンコ依存症」だと思います。

ギャンブル依存症は1980年代から米国で精神医学の疾患として体系され、世界保健機関「WHO」においても病気とされています。2014年の厚生労働省の研究班の調査では国内のギャンブル依存の有病率は4.8%、わが国には500万人以上の依存者がいると推定されています。ギャンブル依存は重症度が高くなると精神疾患だけでなく、身体に異常が現れ日常生活が困難になる危険性もあります。加えて、借金を抱える事例が多く、場合によっては家族や職場など社会経済に悪影響をおよぼします。ゆえにギャンブルは一般事業者ではなく「公営」でしっかりとした大綱を設け、慎重かつ健全に開催する必要性があります。

研究者や医師においても明白にパチンコと公営競技を分けて研究している人は少なく、国内では精神科医の帚木蓬生(ははきぎ・ほうせい)氏の2005年から2年かけギャンブル依存の実態を初めて調査、100人のギャンブル症者の嗜癖をひとりひとり調べると、100人中96人がパチンコ・スロットであり、競輪は100人中たった1人でサイコロ賭博や花札よりも少ないという実態が報告されています。

私は患者数を減らすためにも、パチンコと公営競技を分けてしっかりと検証・研究していくことが予防につながると考えます。この2つは似ているようで、公益性など性質が大きく異なります。以下違いを説明しますが、結論から先に言うとパチンコ業界は競輪を規範に依存症対策をすべきなのです。分かりやすいように、「パチンコホール」か「競輪場」どちらかを我が町に1施設を設置すると仮定し、違いをみています。

 

(参考) パチンコ店 競輪場
営業 ほぼ毎日 月間 3~9日
利用者 ほぼ周辺住民 全国から投票
受益者 運営企業(非上場) 主催自治体(売上の25%)
ギャンブルの形態 遊戯業(大阪方式採用) 公営競技(自転車競技法)
平均使用額(回) 13600円 12300円
施設数 全国8000店舗 43施設

 

 

パチンコホールは全国8000店舗以上あるそうです。近所にも必ずあり店舗があり、新店が開業することも日常茶飯事、地域によっては向かい合って立地しています。一方、競輪場の開設は半世紀以上もなく、新設となると地域では反対活動が起こるかもしれません。しかし、2017年に施行された「自転車活用推進法」では12の基本方針が掲げられそのひとつに「自転車競技のための施設の整備」というが盛り込まれていて、地方公共団体の責務として基本理念の理解を住民に求め、協力を得るよう努めなければならないという内容になっています。もちろん、日本は法治国家ですから推進法に従い、本来ならプールや体育館のように都市のアメニティとして競輪場も設置すべきなのです。

パチンコホールは周辺住民から収益を得ます。昔は競輪場も同じような構造でしたが、近年はスマホの普及からインターネットを利用し全国から投票されます。周辺地域から金が散逸するパチンコと対照的に、競輪場は全国から金が集まり、その売上金の25%が主催自治体の一般財源として、地域に恩恵をもたらします。一方でパチンコホールはすべて非上場企業で、経営者は長者番付の上位にランクされ格差を生んでいます。

営業日数も明白に異なります。ほぼ毎日営業するパチンコホールに対し、競輪場は全国で分散して開催されているため月に5日程しか実施されません。月に25日労働し、5日競輪場で過ごすのが依存でしょうか。それとも、休催日にも競輪場に出向き自転車が走っていないバンクを見て、ドーパミンを放出しているのでしょうか。公営競技は前もって投票券などを購入しておくこともできます。精神状態が冷静な出走前に投票を締め切り、ライブベッティングはできません。パチンコに依存してしまうと朝から閉店まで10時間以上も、効果音響やパターン点滅などの仕掛けのある遊技台の前に座り続けてしまう人もいます。健常な人でも毎日射幸心煽るこの状況に置かれれば、正確な判断ができなくなってしまいます。

パチンコホールも全国で100施設ほどに漸減し、営業も月に3~9日ほどに減らせば、依存症の数は大幅に減らすことができます。到底できっこない話となりますが、公営競技はこれを実行してもなお依存症対策が不十分であるというご指摘を頂戴しているのです。競輪はスポーツですが、ゴールデンタイムのスポーツニュースで出走結果が報道されることもありません(中央競馬はたまにあります)。青少年への影響を考慮して、少女アイドルグループや少年マンガ・アニメをコマーシャルに使用することもありません。

 

 

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少年が主人公のロボットアニメ「エヴァンゲリオン」がタイアップするパチンコ

 

私は競輪場を全国に8000施設に増設すべきだと主張しているのでありません。選手が3000人ほどしかいませんので限界があります。ただ、財政論として公営競技の実施を各都道府県・市区町村で議論のテーブルにあげるべきであると言いたいのです。

本ブログでは繰り返し、大阪は夢洲のカジノの隣に競輪場を新設すべきと主張をしています。関係者の方に怒られるかもしれませんが、今の競輪は賞味期限が切れています。私は、舞洲に1施設作るだけでドミノ倒しのように公営競技が生まれ変わり、戦後期の奇跡的な経済成長が再び訪れると確信しています。現代貨幣理論(MMT)やマルクス経済理論のような絵に描いた餅ではありません。終戦後、わが国は焼野原から競輪・競艇という独自の経済構造をひねり出し、その収益を原動力に経済成長を実現しました。しかしながら、パチンコの台頭により日本経済は長期にわたり停滞、このいわゆる「失われた20年」に日本人がパチンコに使用した額は500兆円以上だそうです。

次の投稿ではなぜに今、大阪の夢洲に競輪場が必要なのかもう一度詳説したいと思います。

 

シン公営競技論 : 序

私の出身は大阪府北部の箕面市というところです。18歳まで実家で暮らし、今も両親は箕面に住んでいます。箕面市は府下でも屈指の高級住宅地域として知られていますが、私の家は普通の農家の家系で、地区がまだ「豊川村」と呼ばれていた時代から実家があり、私や両親は開発による周囲の変貌に驚いています。箕面市がこのようなまちづくりに成功した背景として、1954年から公営競技「競艇(ボートレース)」を主催し、安定的な税収外収入を確保していることは知られています。箕面市の財政は公営競技に依存しており、今後もその利権を手放すことはまず考えられません。公営競技があってよかった、少なくとも「豊川村」の住民は皆がそう思っています。

 

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住之江競艇場   大阪市内に所在するが市はレースを主催しない

 

逆に「豊川村」の出身の私から見ると、なぜ他の自治体は公営競技を実施しないのだろうかと問いたくなります。公営競技による恩恵を受けたことのない地区に住んでいる方は全くピンとこない話で、むしろ公営競技を実施すると周辺の治安が下がったり、ギャンブル依存症が増加したりするのではないかと不安に思われるかもしれませんが、決してそんなことはありません。確かにかつてはそのような問題が指摘されていました。しかし、公営競技は「反対する声」を真摯に受け止め、行政と一体となり改善を重ね、現在では適正円滑に遂行され、その収益は地方財政を支える有力な財源となり、社会福祉・公衆衛生・公共施設整備・公共事業の振興などに寄与しています。正しく認識をしていただけるなら公営競技が、パチンコ・スポーツ賭博・インターネットカジノなどと全く性質が異なり、社会的に有益であることが分かっていただけると思います。

 

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岸和田競輪場  所有は岸和田市 (2018年撮影)

 

現在、全国に競艇場が24施設、競輪場43施設あります。現存するこれらの施設はすべて1948(昭和23年)年からの8年間に開場したもので、競艇場は1956(昭和31)年、競輪場は52年(昭和27)年を最後にして70年程新設がありません。大阪府下にもかつては多くの公営競技場があり、なかでも競輪は熱狂的な人気がありましたが、日本共産党が単独推薦する黒田了一知事が誕生したことで、政治的なイデオロギーでから公営競技から撤退、競輪場も廃止となりました。

 

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<戦後の大阪府下の公営競技場>

住之江競艇場 [1956年-] 箕面市など主催
住之江競輪場 [1948-1964年] 政治的判断で休止
大阪中央競輪場 [1950-1962年] 政治的判断で廃止
豊中競輪場 [1950-1956年] 政治的判断で休止
岸和田競輪場 [1951年-] 岸和田市主催
大阪競馬場 1948-1959年] 政治的判断で廃止
春木競馬場 1929-1974年] 売上低迷により廃止
長居オートレース場 [1951-1952年] 売上低迷により廃止

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廃止となった「大阪中央競輪場」全国でも屈指の人気であった

 

その後、公営競技の存廃議論は全国的に広がり、池田勇人内閣は公正取引委員会の長沼弘毅委員長を会長とした諮問機関「公営競技調査会」を設置、1961年7月に調査会は運営方法など基本方針を示した「長沼答申」を打ち出し「公営競技場数やレース数等について規定より増やさない」という基本態度で委員が一致、運営改善の具体策を提案します。長沼が公営競技を全廃せずに存続という結論を出した理由は主催自治体に対する財政面での影響が大きいことと、全廃すれば「非公開のとばく」の拡大の懸念があるという2点でした。

 

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公営競技の運営指針「長沼答申」(朝日新聞1961年7月26日朝刊)

 

池田首相はギャンブルに対し否定的な立場をとっていて、大蔵大臣時代の1951年1月の衆議院予算委員会では「パチンコは全国津々浦々まで浸透しており苦々しく思っている、これは百害あって一利のないものである。競輪は私の所轄ではない」と、庶民の娯楽であるパチンコにも厳しい態度を示していました。池田内閣は、公営競技の運営体制を厳格化すると同時に、パチンコの産業の関係者に対しても「全国組織の結成」と「完全納税」という条件を突き付け、出来なければ「一斉摘発する」と内密に通達しました。

日本では賭博行為は禁止されていますが、競輪は自転車競技法(1948年)、競艇はモーターボート競走法(1951年)、地方競馬は地方競馬法(1946年)と、それぞれ法令に基づき例外的に運営されています。しかしパチンコはそうではありません。そもそも、なぜ法的に認められていないパチンコホールが黙認されているのでしょうか。次回の投稿では、追い込まれたパチンコ業界に現れた救世主「水島の後に水島なし」と言われた大阪府警OBで、パチンコ店組合の全国組織「全遊連」会長の水島年得を通してパチンコの歴史を辿ってみたいと思います。

 

大阪を南北に貫く「上町断層」を歴史散走

2021年6月大阪市西成区、高台の縁に建つ住宅が崖下へ崩落するニュースが注目を集めました。一軒の住宅が今にも崩れそうなギリギリの状態で斜面に残されて、一歩誤れば大惨事になりかねない現場には規制線が張られ、日常に潜む予期せぬ危険を考えさせられました。

現場は大阪市内中心部南北に貫く「上町台地」の西側の縁で、断層の影響で10m近い高低差があり、将来的に大きな地震を引き起こす危険性が指摘されています。

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大阪の中心部はわりかし平坦な地形で、この台地の高低差が唯一の急こう配となっていて、生活圏にこの坂が含まれるかによって、自転車選びに影響を及ぼします。それだけでなく、都市の発展にも少なからず影響を与え、台地の上と下では、全く違ったライフスタイルになったりします。

崩落事故の現場も阿倍野区と西成区の境界線で、崖上の阿倍野区は大きな施設や高級住宅が広がる一方で、崖下のに西成区は庭のない木造長屋など老朽化した住宅が残されて、自転車でなければ通れない路地が多く残され再整備が進んでいません。

前回投稿の「てんしば」と「天王寺動物園」もまさにこの崖の上と下であり、なにかこの物理的な高低差がメタファーのようになってしまっているようにも思えます。

 

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大阪には長い歴史があり、古くから「オオサカ」と呼ばれています。由来は諸説あるようですが、まさにこの高低差の北端にある「法円」が起源であるとする説が有力視されています。実際、この地に行くと、かつての日本の首都であった「難波宮」が公園としてそれらしく整備され、北側には大坂城を望み、歴史博物館が建てられています。

 

– 難波宮

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645年、中大兄皇子と中臣鎌足は蘇我入鹿を暗殺。昔の教科書ではこの事件を「大化の改新」としていましたが、最近ではこれを「乙巳の変」と教え、その後の難波宮遷都を含めた政変を「大化の改新」としているようです。

この際、国号を「日本」と正式に定め、元号「大化」を初めて制定したそうなので、大坂の出発点どころか、「日本」の歴史の起点となります。

地質学的には、上町断層は断層帯を形成していて、北は豊中から存在しているようなのですが、サイクリングは、歴史の起点であり、高低差が顕著にみられるこの地から南下してみたいと思います。

 

-四天王寺 

 

大阪の歴史は見事にこの高低差に沿って繰り広げられます。

京都や奈良に比べ大阪には歴史がないなどと、大勘違いをしている人が稀にいますが、この断層を数分走っただけで、その濃密さに驚くことだろうと思います。学生の方は教科書を片手に、ペダルを回すと日本史が身近に感じると思います。

 

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難波宮から自転車で10分ほど南下すると、聖徳太子(厩戸皇子)が建立した仏教寺院「四天王寺」に着きます。

四天王寺は、建立の際に「四天王寺七宮」といわれる七つの神社が造営され、現在では歴史観光として風情ある「天王寺七坂」が整備されています。

一帯は「夕陽丘」という新興住宅地のような地名ですが、平安時代の和歌に詠まれているほど歴史があり、坂の下は海で、文字通り夕陽がきれいに見えていたそうです。太子が日没する処の天子という書簡を中国の皇帝に送り激怒されたそうですが、もしかすると四天王寺から見た美しい夕焼けのイメージがあったのかもしれませんね。

 

– 茶臼山

 

七坂の最南に位置する坂の逢坂(おうさか)の南側には茶臼山という低山があります。

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アニメ「じゃりン子チエ」のエンディング曲のちゃうすやーまードンコ釣り~のあの茶臼山です。山の南側には池があり、チエが離れて暮らす母親と手漕ぎボートに乗っていた池も実在し、通天閣を望むことができます。

茶臼山は自然に形成された山ではなく、古墳であるという説もありますが、よくわかっていません。

1614年、江戸幕府と豊臣家による合戦「大坂冬の陣」にて、大坂城の弱点である南側から攻撃をするため、家康が本陣を構えた古戦場です。この戦いでは、豊臣方大将の真田幸村が大坂城と茶臼山の中間あたりに鉄壁の出城「真田丸」を築き、徳川遠征軍を撃退します。そして翌年の夏、再度出陣した家康に、幸村は家康が拠点としていたこの茶臼山にて幕府軍と対峙しました。しかし、激しい幕府軍の襲撃に幸村は逢坂の下に追いやられ最期を迎えます。幸村の死は豊臣軍の敗北を意味し、それは同時に華々しい大坂を中心とした歴史の終焉を意味していて、以降、政治の中心は完全に江戸に移行し発展を遂げ、その中心が大阪に戻ることはありませんでした。

 

 

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茶臼山とその南側に広がる日本庭園「慶沢園」は大正期には、住友家の敷地となり、現在は崖の縁には豪華な「大阪市立美術館」が鎮座しています。私は、てっきりこの建物が住友家の私邸で「財閥解体」で、接収されたとものと勝手に思い込んでいたのですが、どうやらそうではないようです。美術館は戦前にはすでに開館していて、所蔵の美術品なども市が購入したものが多いそうです。

 

– 飛田遊郭

 

坂を下り、5分ほど南進すると、日本最大の遊郭「飛田新地」となります。

1956年、敗戦から奇跡的な復興を果たした日本は「もはや戦後ではない」と新しい時代の到来を宣言、売春活動を防止する「売春禁止法」が成立し罰則が設けらます。古くから「赤線」といわれた飛田は「飛田料理組合」として料亭に転業し、歴史の風情を受け継いでいます。

 

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阿倍野区と西成区の間には「嘆きの壁」という境界壁が立ちはだかり、崖下には異世界のような空間が広がっています。ちょうど緊急事態宣言が発令されていて、店は営業しておらず、怪文書のような張り紙が全店に貼られていて魑魅魍魎とした魔窟の闇の深さを垣間見たような気分でした。

 

– あべのハルカス

 

飛田は料亭と言ってもここでは実際に料理は出てこないので、上町台地を再び上り、「あべのハルカス」で昼食をとりました。

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「あべのハルカス」は近鉄グループによって2014年に開業、地上60階の日本で最も高いの複合商業施設です。ビル名のハルカスというのは「伊勢物語」の一節に由来し、国内外から多くの観光客が訪れます。ビルの12~14階がレストランフロアになっていて、12階「千里しゃぶちん」では崖下の西側にある通天閣を見下ろしながらしゃぶしゃぶを堪能できます。大阪の牛肉中心の食文化は有名ですが、同店は一人鍋しゃぶしゃぶ発祥の店で、コロナの感染リスクが軽減できるスタイルを昔から提案しています。

山盛り野菜に、美しくサシの入った肉を自家製の2種類のタレでいただきます。ご飯もお代わりでき満腹、これで1600円くらいだったと思います。六本木ヒルズとかで食べたら3000~5000円くらいするんじゃないかなぁ(行ったことないけど)とか思いながら、大満足で眼下に広がる風景をぼんやり見ていると「ラーメン、つくりましょうか?」と店員さんが声をかけてくれます。

ラーメンは無料なんですが、女性なら食べきれない量です。
日本最高峰でも、さすが「くいだおれの街」大阪。

 

 

上町断層の本体は堺市の仁徳天皇陵あたりまで連なり、そこから分岐し岸和田市まで断層帯を形成しているらしいのですが、少し日本史の濃密さが薄れ、崖線からも外れますのでまたの機会としたいと思います。

 

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難波宮からハルカスや飛田新地あたりまでは5kmほどで30分もあれば自転車でポタリングできます。地下鉄や自動車では感じることのできない新鮮さがきっとあると思います。

 

天王寺動物園「戦時中の動物園展」チンパンジーのプロパガンダ

日本国内の自転車産業の中心は大阪です。それは敗戦直後から現在に至るまでそうなんですが、戦後自転車産業史を見てみると、東京は東京で全く別の盛り上がり方をすることがあります。

ようやくスポーツ自転車というものが一般普及を見せ始めた1965(昭和40)年、東京を中心としたハンドメイドスポーツ自転車専門の7社が「東京セブンメンバーズ」という団体を結成し、各自のブランドの責任において、1丸となりサイクリング自転車の普及に乗り出します。

 

エバレスト:土屋製作所
ホルクス:横尾双輪館
ゼファー:東京サイクリングセンター
ダザイ:パターソンズハウス
トーエイ:東叡社
アルプス:アルプス自転車工業
サンノー:山王スポーツ

 

 

関西では部品メーカーの団体JASCAグループが結成され、交流が盛んになり、ひたひたと勢力を拡大する体制が整い始め、対する東京セブンメンバーズは新しい自転車のアイデアを一般公募するなど奇策を展開、その後のサイクリング車黄金期のきっかけを作りました。

そのうちの1社、パターソンズハウスを手掛ける太宰茂秀氏は1927年生まれ、59年に自転車部品の輸入を開始、自転車文化センター資料収集委員や日本サイクリング協会委員やメーカーの顧問などを兼任し、自転車店も運営していました。獣医の家庭に育ち博識で、著書に「自転車の整備と組み立て」(八重洲出版)・「自転車専科」(山海堂)があり、専門誌でも精力的に執筆してました。

 

「サルの自転車を作成して欲しい、東京都からの依頼だ」

 

ある日、太宰氏は父親から奇妙な依頼を受けます。
動物愛護団体から大目玉を食らうと一度は固辞したものの、「どこに行っても断られる」という動物園からの再三にわたる依頼に断り切れず、太宰氏は上野にサルの採寸に出向きます。

 

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サル用自転車「Velo WING」 自転車文化センター所蔵 (2020年1月撮影)

 

「大変も大変、頭が変になりそう」

 

苦労の末、太宰氏はサイドカー付きのサル用の特注自転車を2台作成。
ペダルは丸い形、幼児用自転車や乳母車の部品を使い、ギアはサイクルポロ用の20Tの固定ギアを使用。そして、サルが自転車の練習をする姿がニューサイクリング誌(1967.1月号)の表紙を飾ると大きな反響がありました。

 

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太宰氏作成の自転車を乗るチンパンジーの表紙 「ニューサイクリング」1967年1月号

 

 

しかし、サル用自転車というのはこの上野の2台以前より前になかった訳ではないようなのです。実際、太宰氏も同誌にて「数年前に丸都で作ったサル用自転車に乗らせて寸法を取る事にした」としています。

一体いつ頃からサル用自転車というものがあるのかはよく分かりませんが、大阪の天王寺動物園では戦時中にチンパンジーの猿回しをプロパガンダとして利用、そして自転車にのる曲芸を披露していたようです。

 

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天王寺動物園は1915年、日本で3番目の動物園として開園。チンパンジーは規模を拡大した32年から飼育され、自転車に乗るほかに、馬やゴーカートも乗りこなしたそうです。現在、同園では動物に芸を仕込むことは一切しておらず、自然環境に近い状態で飼育されています。霊長目も多く飼育されていてチンパンジーの他にも、国内で唯一、ドリルという強面の大型サルを飼育しています。芸ではないのですが、このドリルは「バイバイ」と言いながら手を振ると振り返してくれます。

 

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ただ、近年では入場者の減少などで運営の維持が困難となり、経費の掛かるゾウやコアラなどの姿が園から消し、動物のいないオリが目立つ寂しい状況に陥っていました。再生に向けて、ビジネスパートナーの公募や一般へ寄付を募ったり対策をしてきましたが、21年4月運営が大阪市から独立行政法人へと移管されました。

 

再生計画の一環として園の中心に新しい施設「TENNOJI ZOO MUSEUM」が完成。7月27日から8月29日の期間「戦時中の動物園 ~Our Wars,Not Theirs.~」と題して企画展が開催され、第二次世界大戦中の同園で殺処分された動物のはく製や当時の写真などが展示されています。

 

戦争に加担しなければ殺される ⁻
国家総動員の状況下、笑顔のない観衆を前にサルはまさに決死の覚悟でペダルを踏んで戦意を高めました。ブログの公開が遅れ、特別展はすでに終了してしまっていますが、新施設には、はく製や骨格標本が美しくディスプレイされている小さな博物館になっていて、自由に読める動物関連の書籍やきれなトイレもあり、新体制の革新的な姿勢を感じました。

 

monkey cyclist

 

天王寺は、梅田・難波に次ぐ大阪市でも屈指のターミナルで、近年ではあべのハルカスやキューズモールなど再開発され「住みたい街」ランキング上位になるなど賑わいがみられます。天王寺動物園はハルカスから天王寺公園内「てんしば」を通りすぐの好立地にあります。普通、動物園というところは多くの見物客を集める施設であると思うのですが、天王寺動物園はむしろ周囲に比べてひと気がなくなり、昭和のすたれた場末感が漂います。

園の西側は、通天閣がある新世界地区でコロナ前は多くの観光客で賑わい活気があり、間に位置している動物園が、新世界とハルカス周辺とのコミュニティを断絶するような存在になってしまっているのです。

 

zoo zou
老衰のため死亡した天王寺動物園のアジアゾウ (2014年撮影)

 

現在「てんしば」があるゾーンも数年前まで動物園と同様に有料だったのですが、全面リニューアルを機におしゃれなカフェやレストランが出店する誰もが楽しめる芝生公園に生まれ変わりました。動物園内に新設された「TENNOJI ZOO MUSEUM」は「てんしば」のような雰囲気があり、運営交代の期待感が高まりました。

 

厳しい財政事情があるなら、ほとんどの大都市が実施している公営競技を大阪市はなぜ主催しないのでしょうか。当ブログでは繰り返しになりますが、本当に理解に苦しみます。働きもせずに「金がない」といっているようなものです。

 

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2021年10月、いよいよ千葉市「千葉JPFドーム」にて、250mの新しい競輪が始動します。この新しいドーム型の競輪場がある千葉公園は、中央図書館などが所在する市の中心部にあり、天王寺公園に似ています。

 

chibacity 250
2021年10月完成予定の「千葉JPFドーム」完成予想図 (千葉市ホームページより)

 

前回の投稿で書いた通り、17年に自転車活用推進法が施行され、地方公共団体は「自転車競技のための施設の整備」を推し進めていかなければなりません。動物のいないオリを設置しているスペースがあるのなら、千葉市の様に競輪場を誘致し、その収益金で園を運営すれば、ユーカリ代が払えないなどとコアラの口減らしをする必要なかったのではないかと本当に残念でなりません。

OGK MUNI カラビナ式テールライト「KARABINER LIGHT」

自転車のチャイルドシートでおなじみのOGK技研より、アクセサリーのようなカラビナ式のリアライトMUNI「KARABINER LIGHT」が発売されます。

muni karabiner

USBで充電して繰り返し使用できる尾灯で、2灯の赤色LEDが点滅します。
サドルのレールなどに工具なしで取り付けができ、内側のロゴ部分をタッチすると点滅します。

ogk karabinerlight

リチウムイオン充電池を使用していますが、連続点灯1時間とランニングタイムが短いため、反射板と併用して使用する方がいいかもしれません。充電は付属の専用マイクロUSBケーブルを使用し2時間ほどで充電できます。

ogk muni karabinerlight

カラーはグレー,ホワイト,ブルーホワイト,イエローホワイトの4色、
重量は28g、
価格は3300円です。

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