Pocket
Bookmark this on Google Bookmarks

私の出身は大阪府北部の箕面市というところです。18歳まで実家で暮らし、今も両親は箕面に住んでいます。箕面市は府下でも屈指の高級住宅地域として知られていますが、私の家は普通の農家の家系で、地区がまだ「豊川村」と呼ばれていた時代から実家があり、私や両親は開発による周囲の変貌に驚いています。箕面市がこのようなまちづくりに成功した背景として、1954年から公営競技「競艇(ボートレース)」を主催し、安定的な税収外収入を確保していることは知られています。箕面市の財政は公営競技に依存しており、今後もその利権を手放すことはまず考えられません。公営競技があってよかった、少なくとも「豊川村」の住民は皆がそう思っています。

 

suminoe pool
住之江競艇場   大阪市内に所在するが市はレースを主催しない

 

逆に「豊川村」の出身の私から見ると、なぜ他の自治体は公営競技を実施しないのだろうかと問いたくなります。公営競技による恩恵を受けたことのない地区に住んでいる方は全くピンとこない話で、むしろ公営競技を実施すると周辺の治安が下がったり、ギャンブル依存症が増加したりするのではないかと不安に思われるかもしれませんが、決してそんなことはありません。確かにかつてはそのような問題が指摘されていました。しかし、公営競技は「反対する声」を真摯に受け止め、行政と一体となり改善を重ね、現在では適正円滑に遂行され、その収益は地方財政を支える有力な財源となり、社会福祉・公衆衛生・公共施設整備・公共事業の振興などに寄与しています。正しく認識をしていただけるなら公営競技が、パチンコ・スポーツ賭博・インターネットカジノなどと全く性質が異なり、社会的に有益であることが分かっていただけると思います。

 

keirin 2018
岸和田競輪場  所有は岸和田市 (2018年撮影)

 

現在、全国に競艇場が24施設、競輪場43施設あります。現存するこれらの施設はすべて1948(昭和23年)年からの8年間に開場したもので、競艇場は1956(昭和31)年、競輪場は52年(昭和27)年を最後にして70年程新設がありません。大阪府下にもかつては多くの公営競技場があり、なかでも競輪は熱狂的な人気がありましたが、日本共産党が単独推薦する黒田了一知事が誕生したことで、政治的なイデオロギーでから公営競技から撤退、競輪場も廃止となりました。

 

– – – –

<戦後の大阪府下の公営競技場>

住之江競艇場 [1956年-] 箕面市など主催
住之江競輪場 [1948-1964年] 政治的判断で休止
大阪中央競輪場 [1950-1962年] 政治的判断で廃止
豊中競輪場 [1950-1956年] 政治的判断で休止
岸和田競輪場 [1951年-] 岸和田市主催
大阪競馬場 1948-1959年] 政治的判断で廃止
春木競馬場 1929-1974年] 売上低迷により廃止
長居オートレース場 [1951-1952年] 売上低迷により廃止

osaka keirin
廃止となった「大阪中央競輪場」全国でも屈指の人気であった

 

その後、公営競技の存廃議論は全国的に広がり、池田勇人内閣は公正取引委員会の長沼弘毅委員長を会長とした諮問機関「公営競技調査会」を設置、1961年7月に調査会は運営方法など基本方針を示した「長沼答申」を打ち出し「公営競技場数やレース数等について規定より増やさない」という基本態度で委員が一致、運営改善の具体策を提案します。長沼が公営競技を全廃せずに存続という結論を出した理由は主催自治体に対する財政面での影響が大きいことと、全廃すれば「非公開のとばく」の拡大の懸念があるという2点でした。

 

naganuma toushin
公営競技の運営指針「長沼答申」(朝日新聞1961年7月26日朝刊)

 

池田首相はギャンブルに対し否定的な立場をとっていて、大蔵大臣時代の1951年1月の衆議院予算委員会では「パチンコは全国津々浦々まで浸透しており苦々しく思っている、これは百害あって一利のないものである。競輪は私の所轄ではない」と、庶民の娯楽であるパチンコにも厳しい態度を示していました。池田内閣は、公営競技の運営体制を厳格化すると同時に、パチンコの産業の関係者に対しても「全国組織の結成」と「完全納税」という条件を突き付け、出来なければ「一斉摘発する」と内密に通達しました。

日本では賭博行為は禁止されていますが、競輪は自転車競技法(1948年)、競艇はモーターボート競走法(1951年)、地方競馬は地方競馬法(1946年)と、それぞれ法令に基づき例外的に運営されています。しかしパチンコはそうではありません。そもそも、なぜ法的に認められていないパチンコホールが黙認されているのでしょうか。次回の投稿では、追い込まれたパチンコ業界に現れた救世主「水島の後に水島なし」と言われた大阪府警OBで、パチンコ店組合の全国組織「全遊連」会長の水島年得を通してパチンコの歴史を辿ってみたいと思います。