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2025年09月の記事一覧

丸尾良昭「朝来町 自転車店糾弾事件」 荊の葛藤

1960年代、日本は年間経済成長が始めて二桁に達し、移動に自転車が利用されるようになり需要が高まりました。兵庫県但馬地方の朝来町にある自転車店では数百台の自転車を仕入れても、部品の生産が追い付かずオート三輪で大阪まで買い付けていたそうです。ある日、ジープに乗った作業着の男が朝来町にある上田貞雄の経営する自転車店を訪れボールベアリングを無償で譲るように要求、上田が代金を請求すると男は激怒し硬貨を投げつけ1時間ほど口論の末、警察沙汰となり駆け付けた警察官は作業着の男に謝罪を要求しました。

 

「それでわしはカァときた」

 

自転車店の上田貞夫の父は町会議員を務める地元の名士、作業着の男は暴力を振ったとして警察官は「謝罪しなければ逮捕する」と取り調べもせず脅しました。作業着の男は名は丸尾良昭(23)、勤務中に故障した自動車の修理にベアリングが必要だったが持ち合わせの小銭がなく、助けをもとめ自転車店入ったと状況を説明しました。

丸尾は自宅に戻ると近所の青年を集め自転車店に乗り込み上田を糾弾、「一切の脅迫をうけておりません」と自己批判書を書かせ、町会議員の父の実印を捺印させました。そして、その書面を持参し警察署を連日訪れ署員を詰問しました。ただ、この事件は丸尾の波乱万丈の活動人生の序章にすぎませんでした。

 


南但の名門八鹿高校  「八鹿高校事件から半世紀」東上高志編著より

 

 

丸尾は被差別部落の出身で、1973年9月から100日間兵庫県西宮市役所が部落解放同盟によって占拠された「西宮事件」をきっかけに本格的に人権活動に取り組み、後に起こる「八鹿高校事件」では解放同盟のリーダーとして、教職員と対峙しました。丸尾は同和のドン朝田善之助の理念である部落排外主義・反共主義に心酔、暴力的交渉術を学び南但馬の多くの学校の同和窓口を一本化していきました。

 

「トンビはトンビ、タカはタカ、生まれは変わらん」 

 

解放同盟は1960年代半ばに日本共産党と決別、共産党と連繋している教職員組合とも反目し合い、同和の利権をめぐって左翼陣営同志の主導権争いとなり、解放同盟は教育現場にも介入、1974年11月に兵庫県の八鹿高校を舞台に戦後の左翼政治史の分岐点となる凄惨な事件が巻き起こります。

 


丸尾一派に対する抗議集会

 

八鹿高校は南但の名門として知られ、早い段階から実践的な同和教育に取り組み、校内に同和教育室が設けられ生徒のクラブ活動として「部落問題研究会」がありました。ところが5月に転校してきた生徒が解放同盟系統の「部落解放研究会」の設置を新たに申請、丸尾は同会の正常化要求会議の議長となり、発足を後押ししました。八鹿高の教員は職員会議の末に新しい解放研究会の設置を認めませんでしたが、丸尾は校長を長時間糾弾し設置を認可させ、教員を激しく批判し対立しました。

 

「赤犬教師が解放研を認めないのは差別だ!」
「八鹿高校の教育が差別教育であることを認めよ!」

 

丸尾は部落解放同盟に呼びかけ50名の同盟員が集まり、教員の背中、腕、頭などを殴りつけ両手足をとってトラックに投げ込み暴行、そして体育館にて糾弾しました。教員は解同グループに激しく暴行を受け、そこでもまた蹴る、棒で打つ、水をかけられる、髪を引っ張られ服を破られる、たばこの火を幾度も押し付けられるなど13時間にわたり徹底的に集団リンチ、一部にはバスケットゴールに逆さづりの拷問を行ったという報道などもみられました。女性にも容赦なく、教員2年目の女教師は無理やり裸にされ、男二人に1時間近くも「マッサージ」や「生理の介抱」を受けたとされ、女教師は今日の事はだれにも言わないで欲しいと懇願したと報道、他にも脊髄骨折・気絶など多くの負傷者を出し、はっきりとしているだけで7人が病院送りとなりました。

 

 


丸尾議長を追及する八鹿高校の生徒

 

町民は警察に対して丸尾の逮捕を要求しましたが不介入の姿勢をみせ、高校生は丸尾を囲み教員に暴力を振わないように懇願、丸尾は集まった高校生を前に長い間の不当な差別を理由に暴力を正当化、雄弁に自身の主張を語りました。

 

「確かに先生を殴った、蹴った、でも仕方なかったんだ!他に方法があったら教えてくれ!」

 

事件に関しては大手各紙は沈黙、共産党機関誌「赤旗」だけが報道し、国民は国会のテレビ中継によって惨状を知ることとなりました。丸尾は逮捕され、解放同盟メンバーは傷害罪など13人がそれぞれ執行猶予半年から4年の刑が言い渡されました。これに対して社会党の影響下にある機関紙は「目撃者は一人もおらず誇大な入院劇を演出」と解同を支持し反論しましたが、1990年11月最高裁で丸尾らの有罪が確定しました。

八鹿高校事件は公営競技の在り方が争点となった1975年の東京都知事選大阪府知事選の戦局にも影響を与え、石原慎太郎が落選し革新政治が台頭しました。刑期を終えた後年、丸尾は部落解放同盟を除名されNPO法人を設立「すべての人々が人間らしく生きることができる地域の創造」を目的に人権活動をおこない、表舞台に立つことはなくなりました。

本年5月に神戸の新川スラムについて投稿しました。妄信的な丸尾の生き様は賀川豊彦と正反対のようにも見えますが、被差別問題に対する強い思いは共通していた部分もあるのかもしれません。事件は政治色が濃く、背後関係から異なる解釈がされますが、同和出身者以外が同和に意見することを差別と考えている方がいるようなので、今回は私の所感は差し控えさせていただきます。

戦後大阪の光と影、NHKドラマ「大阪激流伝」

8月31日のNHKスペシャル「大阪激流伝」は終戦から1970年万博までの大阪城近くの小さな町工場と実在した陸軍工廠に残された金属クズにまつわる家族のドラマでした。ドラマは堤真一さん主演で、町工場に残された資料や取材証言をもとに構成されゴールデンタイムに放送されました。

 

 

本ブログではかつて大阪が軍都として栄え、真田山の陸軍墓地安威川海軍倉庫など遺構が残っていることを投稿してきました。また、焦土化した大阪の混沌から復興平和産業への転換の経緯を自転車を通じて紹介してきました。ドラマは本ブログをなぞるような内容で、在日朝鮮人による静脈産業や左翼活動デモなどこれまでメディアが避けていた秘史にも踏み込んでおり、史実に近い現実味あるストーリーとなっていました。

 

 

堤さん演じる田口留蔵は、戦中に大阪城公園にあった東洋随一の軍事工場「陸軍大阪砲兵工廠」で兵器の製造に従事、戦後は金属加工を生業とし朝鮮戦争をきっかけに爆弾を米軍に供給、新しい工場は雇い順調に軌道に乗り、従業員を雇い仕事に打ち込みます。そこに在日朝鮮人の青年が工場に訪れ爆弾製造の中止を懇願、祖国を憂いながら大阪でギリギリの生活をする朝鮮人の葛藤が込み上げ、衝突寸前の人間模様が表現されていました。

 

「ウチは忘れへん、大阪が鉄クズやったことを」

 

本ブログではこれまで大阪朝鮮人騒擾事件(1948年)、東成署襲撃事件(1951年)、親子爆弾事件(1951年)と猪飼野不逞朝鮮による騒擾事件を取り上げてきましたが、朝鮮人暴動は難解な情勢を理解できるリテラシーがなければ差別主義を助長する恐れもあるため描写はなく、アパッチ族や自転車窃盗団へ言及もありませんでした。

 

 

猪飼野(いかいの)の在日朝鮮人は激しく職業差別を受けほぼ定職にありつけず75%が無職、ほとんどは日雇いや古鉄収集で何とかその日を生き、ヒロポンやドブロクの密造・空巣や洋犬盗など組織犯罪を繰り返し、共産主義を支持する北鮮系「朝鮮総連」と米国を支持する民団系の代理戦争が日常化していました。アパッチ族というのは大阪工廠から古鉄を盗んでいた朝鮮人窃盗団のことで、1956年にはよせや経由の鉄スクラップを規制する大阪府金属屑営業条例が成立しました。私が放送をみて一番驚いたことは、アパッチ族だった金時鐘(キム・シジョン)本人が出演していたことです。

金時鐘は日本共産党(解放戦線)の上田等らとともに「吹田事件」に参加、吹田操車場や笹川良一宅を狙った騒擾事件は血のメーデー・大須事件とともに「三大騒擾事件」の一つとされています。金は詩人として活動して、私は本ブログでファンを公言していましたが、初めて肉声を耳にしました。失礼ながら存命されていることにも驚いたほどで大変貴重な放送だったように思います。

 

 

最後に私の好きな金時鐘の詩の一節を紹介したいと思います。

 

ズボンの/内側を/はぎとり/むれる/悪臭の/修羅場を/城ごと/あけ渡したのだ。
悲哀とは/山に包まれた/脱糞者の/心である。 (金時鐘「わが生と詩」から詩の一部を抜粋)

金は吹田操車場襲撃直前にあろうことか緊張のあまり脱糞、自らを脱北者ならぬ「脱糞者」として左翼運動に心酔していた若いころをユーモアを交え綴っています。金は朝鮮人であり日本人ではありませんが紛れもない大阪人であり、大阪の昭和史の一部なのです。

 

 

見逃した方は9月23日の昼1時からBSでデレクターズカット版が再放送されるようです。

世紀の大敗北、インパールで「銀輪部隊」は餓死者を救えたのか

本年2月に日本軍が先の大戦のマレー半島侵攻にて自転車を活用した銀輪部隊の電撃的機動力で大英帝国に見事に大勝利した対英マレー戦について投稿しました。また、7月には本土決戦に向けての最終兵器として軍用自転車200台が大阪の茨木市安威地下倉庫に備蓄されていたという資料を発掘したという投稿をしました。

では、なぜ対英マレー戦で自転車が兵器と大きな成果を得たにも関わらず、その後の進攻に銀輪部隊を有効活用しなかったのでしょうか。不思議なことに、銀輪部隊の活躍は後にも先にもマレー戦だけなのです。

 

 

日清・日露戦争の時代は日本国内でまだ自転車が高級品で誰でも訓練なしに乗ることができた訳ではなく、マレー戦はちょうど日本が自転車の内製化に成功し大衆に普及した時期にあたります。マレー戦では民生用に量産された実用車を軍隊向けに転用、英米によるABCD包囲網によって石油資源が枯渇状態に陥っている皇軍に打ってつけの工作手段となりました。

 

 

 

続くインパール作戦では銀輪部隊の活躍はみられず多くの餓死者を出し敗北、マレー半島の熱帯ジャングルの長距離進攻でタイヤ・チューブなどゴム関連のダメージが大きく、資源枯渇状態の部隊は修理が追いつきませんでした。インパールで部隊を率いた牟田口廉也司令官は象や牛の収集と訓練は命じたものの、マレー戦の銀輪部隊の活躍を実際に目にしておらず、陸上の兵糧輸送を軽視し、3万人の餓死者が置き去りにされたといいます。

ではインパールの大敗北は仕方がなかったのでしょうか。本年5月に上梓された「自転車で勝てた戦争があった」(兵頭二十八著,並木書房)によると、著者はゴムなし車輪の自転車でも「プッシュ・バイク」として兵糧を載せて手押しすることで餓死を回避できたと主張、実際に80kgの砂袋をタイヤ・チューブを外した改造車で山中を移動する実験リポートを紹介してます。

 


タイヤのない自転車の実証実験「自転車で勝てた戦争があった」兵頭二十八(並木書房,2024)

 

もちろんこのような「if」でマンハッタン計画を阻止するのは無理だとしていますが、兵糧輸送や患者後送の手段として「押して歩く自転車」を役立てる着想があれば餓死者をゼロにおさえられた可能性があると詳説、徒歩で担いで運べる数倍の荷物を運べる自転車の有用性を説いています。

 

結局、安威地下倉庫に備えられた海軍の自転車は本土決戦に使用されることなく終戦をむかえました。ポツダム宣言受託後に兵器など軍需重工業に傾斜していた日本の産業体制はGHQ監視下で全面停止となり、三菱重工・片倉工業・大同製鐵・萱場産業・日本金属産業・中西金属・大和紡績など14工場が自転車企業に転業、自由競争経済下で軍事開発での知見を活かし高品質の自転車を製造しました。

 

「サイクリングは今 流行のレジャーなんだから」

 

戦後から立ち上がる1950年代を描いた映画「ALWAYS 三丁目の夕日」では、流行に敏感な中年女性がサイクリングに魅了され、堀北真希さんが自転車技士として町工場で修理をするが場面が登場します。自転車は女性の解放の象徴でもあり、1960年代にはママチャリの始祖となる自転車が開発され、一般家庭にも広く普及し子育てや買い物など日本独自の自転車文化が華開きます。

現在では、自転車が戦争に使用されることはほとんどみられず、大東亜戦争を賞賛することもタブー視されていますがこのような歴史があったことも事実なのです。

シマノ自転車博物館に寄贈された「ジェイ・ラッド」をみてきました

100年以上前にドイツで製造された「ジェイラッド」という自転車が堺市「シマノ自転車博物館」に寄贈されたという情報が6月に朝日新聞のサイトに公開されていたのでどんな自転車なのか見に行ってきました。

 

 

ジェイラッドは独シュトゥットガルトのヘスペルス・ワークス株式会社で製造されたリカンベント型の自転車で、同博物館にすでに1921年(大正10年)製の車両の展示1台があります。国内では極めて珍しく、私の知る限りこの2台のみだと思います。リカンベントというのは上体を後方にやや傾けた姿勢で操舵する自転車で、最近ではGIANTが「REVIVE」(リバイブ)という車種を生産していて、当店でも数台ですが販売歴があります。

 

 


▲GIANT「REVIVE」

 

リカンベントはユニークな形状ですが、空気抵抗を抑えられるため結構スピードがでます。しかしながら、車体が鈍重となり登り坂に向かないためあまり実用的でなく、ドイツでもこのタイプが主流化した歴史はありません。考案したのはツェッペリン飛行船を製造していた会社の技師ポール・ジァレイで、一般的な自転車がペダルを回すチェーン駆動なのに対して、ジァレイの自転車はワイヤーを足踏みで引っ張る構造となっています。

 

 

今回寄贈された車両は一般公開されていませんが、特別に現車を見せていただけることとなりました。「ラッド」とはドイツ語で自転車を意味し、「J」は考案者ジャレイの頭文字で「J・RAD」という車名なのでしょう、下ブリッジに色あせたシンボルマークが確認できます。

 

 

 

前輪が後輪より小径で、シートは背もたれ付きとなっています。展示車と比較すると寄贈車はペダル(足の乗せ)が左右3つと1組多くなっています。展示車は後輪ハブが内装式変速となっていますが、寄贈車は変速ナシなので、足の置き位置で脚への負担を調整するようになっているようです。

 

 

 

そもそも自転車というものは、1817年にドイツ人によって発明されたとされ、高級品として欧州で発展しました。1885年には現在のチェーンドライブ式の後輪駆動の自転車がすでに発明されて1900年以降は広く普及するため、1921年にこのような変形自転車が登場した経緯が分かりません。ドイツは1919年のベルサイユ条約で第一世界大戦の賠償金で、強烈なインフレに苦しんだ時期にあたるので、こんな遊具のような自転車を作っている余裕があったのでしょうか。戦後ドイツの事情はよくわかりませんが、日本も戦後すぐに三菱がけったいなジュラルミン製自転車「十字号」を制作したことを考えると、戦勝国から平和産業への転換を強要されたのかもしれません。

 

 

しかしながら、ワイヤーで自転車が駆動するなんて強度的に大丈夫なのでしょうか。ワイヤー自体もそれほど太くないものが使用されていたので、切れてしまうことも多かったのではないでしょうか。いずれにしても貴重な産業遺産であることは間違いないと思います。

 

 

 

大阪には東京国立博物館やスミソニアン博物館のような総合的な公立博物館ありません。歴史博物館や民俗学博物館はありますが、製造業の盛んな大阪になぜパナソニックミュージアムのような産業遺産を収蔵する公立施設がないのでしょうか。大阪の発明品は自転車関連にとどまらず数多くあり、もっと世界に向けてしっかりアピールした方がいいのではないかと思います。

競輪場に泊まれる玉野競輪「HOTEL 10」

(前回投稿の続き)

玉野競輪場「HOTEL 10」は世界初の競輪場に泊まれるホテルです。

 

 

昨年開業したこのホテルはスタンドの一部を建て替えた新しい施設で、客室から瀬戸内海が望め競走の開催日はベランダから熱い戦いを観ることができます。ホテルの運営は食堂「FORQ」と同様に株式会社MIXI傘下「チャリロト」が受託、解体前の廃材をおしゃれに再活用した内装になっています。

 

 

8階建ての施設の客室は100室ほどあり、公式サイトから予約をして宿泊しました。ハイシーズンの夏休み中でしたが朝食付で8000円台と地域最安値、直島で宿泊するよりかなり安く泊まれるのではないでしょうか。競輪場東側には海岸公園がありますが、個人的には対岸の直島のビーチ(夏季無料シャワーあり)の方がおすすめです。どちらにしても、ほとんど海水浴客はいない、プライベートビーチ状態です。

 

 

客室は第1コーナーを眼下に見ろす位置となり、おそらく声援も選手に届いていると思います。宿泊部屋はビジネスホテルのような感じでしたが開放感がありベランダで座って景色を眺めボーっっとしているだけで気持ちよくなります。デラックス・スイート部屋も格安料金なので、空室があるならそちらがおススメです。

 

 

部屋にはテレビモニターが設置され、競輪の中継も見ることができます。館内着はポロシャツで、あとは普通のビジネスホテルと同じような感じでした。注意点としては、競輪開催日は大浴場が使用できないので、部屋のシャワーのみとなります。

 

 

ゲームコーナーやライブラリーといった付属施設はありませんが、廊下の壁面がギャラリーとなっていてアート作品が飾られています。ロビー横には売店があり、館内着のポロシャツやセンスのよい雑貨類が購入することができます。

 

 

チェックインの時に領収書を出せば、宇野駅からのタクシー代を1000円まで返金してもらえるようです。また、宇野駅 – 競輪場 – HOTEL10を走るジャンボタクシーも利用ができます。

 

 

近年、競輪はMIXIだけでなくソフトバンク、楽天、サーバーエージェントといったIT企業が担い手となっています。公営競技はインターネット投票が解禁となり、少なくとも全体で600万人が参加しているそうです。このような状況で売上げはV字回復していますが、競輪場の入場者数は減少し続けているようです。玉野競輪場の一連の取り組みは成功事例として、各主催自治体のロールモデルとなるように思います。

玉野競輪場の食堂「FORQ」

競輪場によく行く方は場内の食堂というと、うどんやどんぶりのような学食のようなところをイメージされるのではないでしょうか。老朽している施設では戦後から変わらないバラック小屋で、ギャンブル飯といえば低価格で昔ながらのB級グルメが相場となっています。

(前回の続き)

玉野競輪場の食堂「FORQ」はこれまでの競輪場のイメージを覆すレベル違いのレストランとなっています。

 

 

レストランはバンクを眼下に望むホームストレッチ側の2階にあり、競走の開催されていない日でも営業しています。宇野駅から少し離れているため利用者はそれほど多くなく広々としたおしゃれな店内で、バンク側が一面ガラス張りで瀬戸内海を借景にレースを見ることができます。

 

 

座席はテーブルとカウンターがあり、モニターでレース中継を見ながら食事をとることができ、同じフロアに車券売り場もあります。オーダーをするとフードコート用の呼び出しベルが渡され、着席して待っていると他に客はいなかったため、注文品を持ってきてくれました。

 

 

 

岡山の地元野菜や近海で獲れた魚介類などB級どころか「S級S飯」の素材を生かしたメニュー、クラフトビールやレモンサワーなど女子会やコンパにもおススメです。値段もチェーン店の居酒屋くらいで、割と料理の量もガッツリ目です。宇野港周辺には数店舗飲食店がありましたが、こんな海を見ながらゆったりできる空間は他にあるのでしょうか。

 

 

メニューも豊富、ディナーは、野菜グラタン¥1300、森林鶏(ってなんや?)のフライドチキン¥880、フィシュ&チップス¥1000といった感じのスパイスの効いた洋食で、競輪場のグルメの王道のモツ煮込みとか焼きそばとかはちょっとなさそうです。

 

 

夜は9:30ラストオーダー、行き交う船や地元選手がバンクで練習している光景をぼんやり眺めながら夕食を食べることができます。ランチ・カフェもこだわりのメニューでドリンクは飲んだことない複雑な味のジュース、コップ1杯の中に密度の違う刺激的なフレーバーが交錯し濃淡あるまさにケイリンのように予想の難しい味でした。

 

 

卓球台もありレースの合間の時間つぶしをすることできます。無料ですが、混みあってるときはテーブルとして使用されているかもしれません。

 

 

この食堂はランチ・カフェ・ディナーと宿泊者限定のモーニングがあります。

宿泊者?!

競輪場に宿泊??

玉野競輪場はホテルが併設されていて泊まることができるのです。

 

朝食付きで1泊8000円代と地域最安値「HOTEL10」に泊まってきました

(次回につづく)

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