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2022年03月の記事一覧

自転車文化センター「競輪・ケイリン・KEIRIN」展

東京・目黒の自転車文化センターの特別展「競輪・ケイリン・KEIRIN」を見てきました。

 

 

自転車文化センターは、財団法人日本自転車普及協会が運営する総合施設で、希少な自転車や関連文献の管理や研究をおこなっています。定期的にテーマ展示をおこなっていて、一般の方も無料で自由に内覧できる施設となっています。

2月16日まで「競輪・ケイリン・KEIRIN」と題して、テーマに沿った歴史的な競技車両の展示をしていましたので、その様子の一部を撮影してきました。

なお、この展示会は終了しています。

 

 

競輪は戦後間もない1948(昭和23)年に北九州「小倉競輪場」と大阪府「住之江競輪場」で始まりました。当初は競輪と書いて「きょうりん」と読んでいましたが、格闘技や職業野球を凌ぐ熱狂的なブームが巻き起こり「狂輪(きょうりん)」と揶揄されたことから「ケイリン」と呼称があらためられました。2000年シドニー五輪からは日本発祥の世界スポーツとして「KEIRIN」が正式種目となりました。特別展が漢字・カタカナ・ローマ字表記となっているのはこのような歴史的な流れを意味しているものだと思われます。

 

 

自転車には説明パネルが添えられ、競輪や自転車に関心のない方でも分かるようになっています。現在、競輪場は全国に43施設あり、競技スポーツとして楽しむだけでなく公営競技として主催都市の財政を潤しています。競輪場の新設は1953年から70年以上なく、入場料も基本的には無料か開場当時の物価水準(50円ないし100円)とインフレの影響を全く受けない良心的な公共空間となっています。

使用する自転車も厳格な競技規則があり公正公平、選手にも八百長行為や違反薬物使用には大変なペナルティがありほとんどみられない世界でも最もクリーンなスポーツです。年間シリーズは経済規模としても仏ツールドフランスを凌ぐ巨大な規模で、登録選手は2300人と国内プロスポーツで最多で男女全選手が専業で充分生活ができる唯一の職業スポーツとなっています。

 

 

センターでは年間4回ほど企画展を開催していますが、競輪をテーマにした企画は人気でほぼ毎年開催されています。展示規模は大きなものではありませんが、私が来場した際は若い女性が関連書籍をめくり、調べものをしていました。

大阪はかつて、全国最多のバンクを有していましたが共産主義をこじらせ公営競技場を目の敵とし次々と廃止、大阪市営・府営の施設がひとつもありません。結果としてみるみると財政が赤貧化しました。ちなみに、このような歴史的経緯から住之江のボートレース場は所在しているだけで収益は大阪府市には入らず、箕面市の歳入となり潤沢な資金から鉄道を自費敷設、大阪大学の誘致に成功しています。

 

 

ボートレース場は設置に関して水辺という条件が必須となりますが競輪場は低コストで建設できるため、なぜ各自治体が設置しないのか分かりません。私の知る限り、競輪に対して積極的な首長は千葉市の熊谷俊人市長(現・千葉県知事)と石原慎太郎都知事くらいで、ほとんど議題に上がりません。

2016年に成立した自転車活用推進法では「自転車競技のための施設の整備」(第八条の四)が明記され、推進法に基づいた策定された第二次自転車活用推進計画では具体的に地方公共団体に国際規格に合致した自転車競技施設の整備促進を提起しています。競輪場は図書館や学校などと同様に社会的共通資本であり、設置計画を検討しないという自治体は違法なのです。

私は今春開催される関西万博の跡地に設置されるカジノ施設に競輪場を併設するべきと考えています。

 

 

ギャンブルは依存性があるからこそ公営でなくてはなりません。競輪はギャンブル依存症対策を長きに渡って真剣に取り組み、競輪場依存者をなくすことにほぼ成功しています。カジノは競輪を規範とし、住之江のボートレース場と共栄すべきなのです。

1970年大阪万博でも巨額の競輪マネーが使用され、資金により「動く歩道」(エレベーター)などが提供されました。ご存じの通り「動く歩道」は国内だけでなく世界に普及し日本の輸出品となりました。70年の大阪万博跡地は公園となり商業施設や博物館・水族館、そして関西サイクルスポーツセンター(万博事業所)となっています。夢洲も70年同様に関西サイクルスポーツセンターの事業所を誘致し、その中に国際規格に合致した自転車競技施設をつくれば、アンチの方にも合意が取れるのではないでしょうか。

「輪泊」という新しい価値を創造する星野リゾート「BEB5土浦」

(前回のつづき)
JR土浦駅の駅ビル「PLAYatré TSUCHIURA」の3~5階部分には星野リゾートが運営する輪泊施設「BEB5土浦」が入居しています。

 

 

2020年に完成したBEB5は土浦駅改札の目の前の徒歩数秒、出口やトイレよりも見つけやすいホント真ん前で自転車ごとチャックインができるアトレの中核施設となっています。ホテルは自転車観光のイメージを押し付けていますが、普通にビジネスホテルとして間違いなく土浦イチ便利な立地です。

館内はできたばかりなのでさすがにキレいで、ところどころに自転車ユーザーに利用しやすいような工夫がなされています。

 

 

高級旅館のイメージが強い星野リゾートですが「BEB」は「居酒屋以上、旅未満」をコンセプトとした気軽に過ごす施設で沖縄と軽井沢にも同様の施設があるようです。食事は持ち込み推奨で24時間営業のカフェがあり、自由な空間が満喫できるようになっています。

私が宿泊した日はオフシーズンということもあり朝食付きで8000円ほど、2人で宿泊すると1人6000円ほどで宿泊できます。

 

 

空気入れや工具のある専用スペースや洗濯乾燥機の共用スペースあり、壁のスクリーンには自転車レースが上映されていました。カードゲームやボードゲームも自由に使え、大人数で来るとより楽しめそうです。専用の裏通路でコンビニや薬局に雨にぬれずスグに買い出しに行けますし、便利で快適です。

 

 

これまで本ブログでは、尾道市「Onomichi U2」や玉野競輪場「HOTEL10」を紹介してきましたが、自転車ホテルは進化しているように感じます。BEB5土浦は値段の割に部屋が広く、私1人で宿泊した部屋「ヤグラルーム」はゆうに3人は寝れそうな感じでした。あえて言うなら、部屋に飲料水とパジャマがなく別料金なのと、風呂に鏡がないのが難点でした。

 

 

24時間使える「TAMARIBA」では自分でペダルを漕いでスムージーを作って飲むバイクがあり、楽しみながら自由にくつろぐことができるようになっています。レンタル自転車も3車種あり、チェックイン前でも自転車を借りてサイクリングを楽しむことができます。

 

 

 

大阪にはまだ自転車をコンセプトとしたホテルはありませんが万博を控えてインバウンド需要が高まる今後はこのようなアクティビティと融合した施設は人気が高まるのではないでしょうか。「BEB5」が大阪にもできればいいのになあ。

幻の自転車道「ホトトギスの道」の全貌とは

2021年、東京五輪にあわせて太平洋沿岸に全長1200kmに及ぶ大規模サイクリングルート「太平洋岸自転車道」が整備されました。千葉県銚子から神奈川・静岡・愛知・三重・和歌山をまたぐ大事業で和歌山県の北端の加太が終点となっていて、残念ながらこの事業に大阪は参加していません。しかし、この計画には続きがあったのです。

 

 

(前回投稿のつづき)

府立図書館のアルバム書籍でみつけた「ホトトギスの道」の写真、1973年の生駒山西麓沿いに開通した5kmの自転車道は完全に忘れ去られ、現在では門扉は閉ざされて自転車走行禁止となっています。前回のブログで東大阪市役所に問い合わせたところまでを投稿しましたが、その後、大阪市立図書館と堺市の「シマノ自転車博物館」にて調査しましたが、「ホトトギスの道」という呼称は全く浸透しておらず、資料もありませんでした。

 

 

 

あきらめかけていた調査7日目の最終日、市立図書館の司書から連絡があり、2002年(平成14)の府議会の定例会の議事録に関連答弁を見つけたというのです。今から20年以上前の答申で、第2次安倍内閣で国土交通副大臣を歴任した北川イッセイ議員の府議時代の質疑でした。

 

「自転車道を作ろうと書いてある。これは府民の森計画、サイクリング計画と書いています」

 

北川議員は地元東大阪の出身で、父親は東大阪市長、2002年時点で府議4期目で実績を重ね、鞍替えして参議院議員になっています。北川氏は私と同じように管理道を歩き「本当にすばらしい」と絶賛、ルーツを詮索したようです。議事録によると、サイクリングコースは大阪南部から相生(兵庫県?)までを計画、水コース・山コース・田園コース・市街コース・谷筋コース・歴史コースと6コースを制定、生駒の自転車道は山コースで、第一のモデルコースとして開通したと言うのです。そして、自転車の有効性というのをもう一度考え直して積極的にやっていただくということをひとつお願いしておきます、と締めくくられています。

 

 

 

さらにさかのぼると、北川氏が初当選した1992年(平成4)にはすでに、これらの大構想は忘れ去られていたようで、開通早々に自転車の利用は禁止され、暴走族からハイカーの安全を確保するため出入り口に堅固なゲートを設置したとしています。

 

「出入り口の改修をするとともに、ハイキングに加え、サイクリングが楽しめる自然公園施設としてその管理体制を整えてまいりたいと存じます」

 

当時の農林水産部長の答申では自転車の走行禁止は「山腹の崩壊」と「自転車利用者の激減」と説明しながらも、出入り口の改修とネットワークの形成のため、様々な施策を協議したいとしています。この頃、米国で先行して人気が出ていた砂利道も走行できる新感覚の自転車「マウンテンバイク」の文化が日本にも上陸し、定着しつつありました。

このサイクリングコースはマウンテンバイクに打ってつけですが、現在になっても、出入り口の改修は行われず、ネットワークは途絶えたままとなっています。残念ながら、北川議員は志半ばの2021年に永眠されたようです。

 

 


▲1970年代の「サイクルスポーツ」誌の自転車道特集

 

 

自宅に戻り、昔の「サイクルスポーツ」誌を読み返すと、1970年代には合計3回サイクリングコースの特集が組まれ、73年8月号に大阪府の計画の記載があり、和歌山県加太に接続する総延長1520kmに及ぶサイクリングコース計画の記事が見つかりました。冒頭の加太を終点とした太平洋沿岸自転車道(1200km)に、まだ320km未完成道路があるということとなります。記事には加太、和泉山脈、河内長野、羽曳野、柏原、生駒山西麓に沿って交野、枚方、高槻を抜けて兵庫県・京都府を巡るコースとあります。また、77年4月号では「府民の森自転車道路」が11.9km完成とあることから、この時点ではまだ閉鎖されていないことも確認できました。

調べれば調べるほど計画が壮大で廃止がもったいないように感じます。時代が経過して、もはや計画を戻すことは難しいかもしれませんが、これからも調査は続けていきたいと思います。なにか、有益な情報がありましたらご協力をお願いいたします。最後に計画が持ち上がった際に作られたこの道の詩歌が書籍に掲載されていましたので、一旦、こちらで締めくくらせていただきます。

 

 

山腹のしわは尾根の谷 尾根を歩き、谷を走る
ぼくらの森は起伏がいっぱいだ
冒険をしよう そしてぼくらの世界を築き上げよう

<中略>

樹の香り、花の香り、枝の、幹の香り

風が自転車にのる若者をよぎる
神に香りが、見知らぬ若者を濡らす

「なるかわ・冒険と神秘の森」より

 

えっ?!自転車走行禁止のサイクリング道「ホトトギスの道」

本ブログでは昨年より生駒山地の大阪側を縦走する管理道を「生駒山グラベル道」として、将来的な自転車利用の可能性を考察し、現地調査を実施しています。この縦走道はヒルクライマーの聖地暗峠(くらがりとうげ)と「サイクリストのための百名峠ガイド」(八重洲出版)にも選ばれた十三峠(じゅうさんとうげ)の2つの峠を頂上付近で連絡する林道で、現在は両峠の入り口に侵入防止のゲートが設けられ、自転車を含む車両が通行禁止となっています。

 

【参考】生駒山グラベル道 第1回現地調査 (2023年10月14日投稿)

 

前回の2023年10月の調査にて、この林道は大阪市内を一望できる標高500mの山中にあるものの路面の高低差はそれほどなく、草木も刈り取られ歩きやすいようによく整備され、地元の人は「なるかわ管理道」と呼んでいることが分かりました。ゲート間はおよそ6km、路面は全体の3分の2以上が未舗装で、幅員は3mほどあり雄大な自然の中、ハイキングやトレイルランニングを楽しむ人の姿も見られました。

 

 

現地調査を踏まえて、林道が所在する自治体の東大阪市の道路管理室に出向き、管理状況を問い合わせると、山地内の道路は大阪府の管理で、現状を把握していない様子でした。また、同市は「ものつくりのまち」を標榜しているため、中核市としては珍しく観光やまちづくりに関する部署がなく、自転車関連としては駐輪場整備の管理部署のみで、本来ならば計画するものとされている「自転車活用推進計画」も未作成でした。当然、前回の現地聞き取りでシニア男性が言及していたレンタルサイクル事業廃止の経緯についても分かる者もいませんでした。

 

「自転車活用推進法の成立は知っていますが、東大阪市は推進計画は作成しておらず、部署もありません」

 

生駒山は1958年に国定公園に指定、自然公園法に基づいて大阪府が管理し、府民が自然に親しめる解放区として67年から数百億円を投じて合計面積600ヘクタールを整備、7つの「府民の森」を運営しています。80年代には「大阪府民の森利用促進事業」の5ヵ年計画を策定、91年には年間利用者が100万人を上回り、バーベキューやキャンプなどを楽しめる施設として賑わいました。一見すると順調にも見える生駒山の西麓の森林整備はいったいどこでボタンを掛け違い、奈良側と差がついてしまったのでしょうか。

 

 

 

私は活用推進法の地域間の温度差を痛感しながらも、帰り際に市役所に隣接する府立中央図書館に立ち寄り、生駒山についての資料を漁りました。大阪府立中央図書館は国内最大の公立図書館で、職員が地下書庫内の移動に自転車を用いるほど広大です。司書の女性に協力してもらい所蔵資料を手分けして探し、いくつか当時の事業に関する記述をあたりましたが、管理道について明瞭な文献は探し出すことはできませんでした。あきらめかけて、東大阪の市史を両手に抱えて書棚に戻していると「東大阪の昭和」という背表紙が見え、手に取りページをめくるとセピア色の古いカラー写真が目に飛び込んできました。

自転車に乗った3名の青年が「祝 ホトトギスの道 開通」と書かかれたゲートを通過するカラー写真で、支柱には「大阪府」「ぼくらの森 香りの森 開苑記念」とあります。そして、写真の説明として「府民の森が開園」<生駒山 昭和48年>と記されていました。周囲の感じがやや異なりますが、まぎれもなく管理道の写真です。しかしながら「ホトトギスの道」というのは初耳で、インターネット検索でも全くヒットせず、詳細は分かりません。

 


1973年開苑「府民の森」のサイクリング道「ホトトギスの道」 出典:石上敏監修「東大阪の昭和」

 

1973年の新聞で開通の記事がないかを探していると先ほどの女性司書が大きな資料を抱えて、私を探して館内中を歩き回っていたようで、行政資料を見つけ出してくれました。行政資料によると73年に開通した自転車道(ホトトギスの道)は5km、既存の自転車道と直結して全長15kmに及ぶとされています。

驚いたことに私が直観的にサイクリング道に向いていると思った林道は、そもそもサイクリング道として整備された道だったのです。それにしても、大金を投じて華々しく開通した「ホトトギスの道」がなぜ封鎖され、自転車走行禁止となってしまったのでしょうか、新たな疑問です。

 

「東大阪の昭和」にはもう一枚、1957年に生駒山麓で撮影されたサイクリストの写真が掲載されています。そして、写真の説明として1954年に自転車産業協議会が中心となり日本サイクリング協会(JCA)が結成、サイクリングの対象地が生駒山に拡大していたことが記されています。

 

 


1957年第一次サイクリングブームの生駒山 出典:石上敏監修「東大阪の昭和」

 

67年前の白黒写真が生駒山のどの辺りなのかは分かりませんが、比較すると現在の道路状況が一番醜いように感じます。繰り返しになりますが、生駒山の大阪側は廃墟・廃道・立入禁止と荒廃が進んでいます。このような管理下でも「なるかわ管理道」は利用可能な状態に維持され、なんとか再生することができるように思います。そして、人が戻れば、ふたたび地域に活気出ます。

 


閉ざされた「府民の森」のゲート 禁止x4 来る者を拒むような注意看板 

 

 

今回、「生駒山グラベル道」がもともと自転車道として開発された「ホトトギスの道」だったという忘れ去れた過去の発掘は私にとっては非常に有益な情報でした。これを踏まえ、さらに大阪市立図書館とシマノ自転車博物館にて調査を続けました。(つづく)

【独自考察】神器でたどる「日下町」と「日本」

太宰治の小説で「パンドラの匣」という作品があります。結核療養施設に隔離された少年と太宰の文通が書簡形式で書き記された異色の小説で、2009年に染谷将太・川上未映子主演で映画化され話題となった作品です。自虐的な作品が多い太宰ですが、本作品は少年の病床日記への返信が素材のため太宰の前向きな一面が垣間見えファンからの評価も高く、療養生活の実態の記録としても読み継いでいきたい作品です。

この小説に登場する結核療養施設のモデルは「孔舎衙健康道場」という病院で、戦前に生駒山の西麓に実在しました。「孔舎衙」というのは辺りの地名で、難読ですが「くさか」と読み、現在では施設は解体され「パンドラの丘」という空地となりベンチが置かれ、地域の住民やハイキング客が休憩できるように整備されています。

 


結核隔離施設「孔舎衙健康道場」跡

 

孔舎衙という字名は大正時代まで使用され、現在では日の下と書いて「日下町」(くさか ちょう)として継承されています。下を「か」と読むのは理解できますが「日」がなぜ「くさ」になるのでしょうか。さまざまな説があるようですが、記紀に由来するほど時代が古く、よく分かっていないようです。

日下町には、大正期に近鉄「孔舎衛坂駅」(くさえざか えき)がありましたが、1964(昭和39)年に廃止され、最寄り駅は200m南側の近鉄奈良線「石切駅」となります。大阪人に石切とえば、お百度参りの神社「石切神社」が有名です。神社の創建時期は不明ですが神武天皇(初代天皇)の創建と伝えられ、正式名は「石切剣箭神社」(いしきり つるぎや じんじゃ)といい、太刀が奉納されています。三種の神器に草薙(くさなぎ)剣がありますが「日(くさ)」となにか関連があるのでしょうか。ちなみに石切神社は「石切駅」より、近鉄けいはんな線「新石切駅」で降車した方が近くなります。

 


太刀を持った「石切不動」 2022年撮影

 

けいはんな線は地下鉄中央線直通で、奈良方面に行く際の交通手段として利用されています。地下鉄は「中央大通」の地下を通り、大阪の東西軸の大動脈となっています。沿線の森ノ宮駅の南西側には勾玉に由来した「玉造稲荷神社」があります。そして、石切神社と玉造稲荷を横一直線で結んだ北緯34.6上には、難波宮と平城宮があり、西大寺と東大寺、孔舎衙もこの直線上に位置しています。要するに孔舎衙は平城宮から見ると真西に位置し、日が沈む場所「日の下」となるのです。これで日下が「くさか」と読まれる由縁ではないかと推察されます。

 

 


「玉造稲荷神社」祭りにてたこ踊りを踊る男性 2016年撮影

 

難波宮は孔舎衙よりさらに西に位置し、遷都した大化の改新の際に「日本」と国号が決まったとされています。この時代にはまだ平城京はありませんので、孔舎衙から見て日の沈む場所「日の本(もと)」となったのではないでしょうか。つまり、皇記の文明の基準点は孔舎衙にあり、時代的に「孔舎衙」が「日下」となったのは、平城京遷都後ではないかという推測です。そして、この説が正しいなら、孔舎衙の地が古代の日本の原点であることを意味する論拠となるのではないでょうしょうか。

 

 


大化の改新で遷都された「難波宮」跡

 

 

自宅に帰り、三種の神器の八咫鏡を祀るところはないかとインターネットで探していると、石切神社と同じ東大阪市内に若江鏡神社という仲哀天皇(西暦149-200年?)を祀る神社があるようなので、また行って調べてみたいと思います。この神社は例の一直線上から南に1kmほどずれてしまっています。文献に登場する最初の記述も9世紀と時代が異なり、地歴から見ても当時、周囲は湿地帯だったと考えられます。しかしながら、北緯34.6上の皇統の歴史が単なる偶然とも思えなくなってしまったので、古事記・日本書紀の歴史書の記述と併せて、この国の起源をじっくり考え直してみたいと思います。

ちなみに難波宮から東大阪市日下町までは直線で12km、日下町から奈良側には生駒山があるため自転車では直線的には行けませんので、お気をつけください。

 

<参考年表>
645年 難波宮 遷都(大化の改新 ~667年)

694年 藤原京 遷都
710年 平城京 遷都
712年 古事記 完成
720年 日本書紀 完成

※神武・仲哀天皇の即位や石切神社・玉造稲荷の完成は年表以前の時期となり、歴史学的には年代は分かっていません。

堀江には公衆トイレがありません

先月の東京・浅草で開催された合同展示会の際に、代々木上原の近くに宿泊したのですが、周辺のQOLが非常に高かったのでそれについて少し書きたいと思います。代々木上原は代々木公園の西側で、原宿駅から徒歩圏で、大阪で言うならちょうどサイクルショップ203のある南堀江に近い雰囲気を持っている暮らしやすいそうな地域です。

 

yoyogi park

 

代々木公園は明治神宮の西側に隣接する広大な公園で、公園内にはレンタル自転車があり敷設されたサイクリングコースでサイクリングを楽しむことができます。サイクリングコースは歩行者と分離されていて「歩行禁止」となっています。あたり前と言えばあたり前なのですが、大阪には歩行者が完全に「歩行禁止」のサイクリングコースはないのではないでしょうか。コースはもちろん自分の自転車を持ち込んで走行することもできます。

公園の周辺には好感度のショップや飲食店が点在し、この日は佐世保バーガー風のハンバーガー店で食事をとりました。こういうお店は堀江にもありますが、印象としては大阪に比べお客さんが多いように思います。

 

humberger

 

公園の端の道路を挟んだ西側の「はるのおがわプレーパーク」には、新しくなった千葉競輪場(千葉JPFドーム)を設計した建築家の坂茂さんがデザインした公衆トイレがあります。トイレはガラス張りで通常はスケルトンとなっていて、中から施錠すると曇る斬新な仕掛けとなっています。公衆トイレというと不衛生で暗いイメージですが、このトイレはできたばかりということもありきれいでメンテナンスも行き届いて、観光スポットのようにトイレの前で撮影をしているグループもいました。

 

tokyo toilet

 

私の行った時は冬の寒さでガラス壁のギミックが仕掛け不良になり、常時不透明な状態でしたがトイレとしての機能には問題ありませんでした。このような斬新な仕掛けにSNSなどでは戸惑いや批判的な意見が投稿されていましたが、そもそも公衆トイレがひとつも存在しない大阪の堀江と比べると管理の行き届いたトイレがあるだけ贅沢な悩みで、むしろ不思議な現象が広く知れ渡ったことでより実用的な技術開発の後押しとなったのではないでしょうか。周辺住民にとっても身近にこのような施設があることは、利便性だけでなく子供たちへの科学技術や建築への関心を促す装置となっているようにも思えます。

 

shigeru ban

 

渋谷区にはこのトイレ以外にも安藤忠雄や隈研吾、佐藤可士和、NIGOといった世界的な建築家やクリエイターがデザインした個性的な公共トイレが「THE TOKYO TOILET」というプロジェクトとして17ヶ所に設置され、メンテナンスやマネジメントされています。大阪人にとっては舞洲の1000億円以上かけたフンデルト・ヴァッサーのゴミ焼却場の悪夢がありデザイナー建築に拒否反応が出てしまいますが、同プロジェクトは税金ではなく、ボートレースの売上金による社会福祉団体「日本財団」によって手掛けられています。

清潔なトイレというものは誰しもが渇望するもので、近年ではSDGs(持続可能な開発目標)という人類の17の課題のひとつとなっています。大阪万博を2025年に控えて堀江にも公衆トイレを設置してもらいたいのですが、本ブログでも繰り返してますが大阪府・大阪市はアンチ公営競技を率先した黒歴史時代があり、今も尚、当時の共産党系の首長の意向を踏襲していることから公営競技からの支援を要求できる立場にないように思います。

 

design toilet

 

1月にはサイクルショップ203の最寄り駅の大阪メトロ「西大橋」(大阪市西区北堀江1丁目)の駅トイレにて腹部を刺される事件が発生、人に目に付きにくい閉鎖的な多目的トイレのつくりに不安の声が上がっていました。大阪市内では大きな公園にしか公衆トイレはなく、堀江公園のような規模の小さい公園にはありません。はるのおがわプレイパークでは、フットサルを楽しむ子供やペタンクをしている老人がいましたが残念ながらトイレがない堀江では近隣住民を対象とした小規模なイベントしか開催できません。

同じ大阪府でも私の故郷の箕面市はボートレースを主催していて、どの公園にもだいたい公衆トイレくらいはあったので、大阪市内に転居した当時はたいへん戸惑いました。本年末にはボートレースの収益金を活用し、北大阪急行が延伸され大阪メトロ御堂筋線の終着駅が千里中央駅から「箕面萱野駅」となる予定で、箕面市は新しい商業施設や図書館などと合わせた都市計画を推進、大阪大学の新キャンパスの誘致にも成功しました。大阪市・大阪府は緊縮体制で赤字解消に取り組んでいますが、個人的にはなぜかつてのように公営競技を実施しないのか、本当に不思議で不思議でなりません。

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