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グレーター千里構想は「第二東京」となるか

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2024年3月、大阪の大動脈である地下鉄御堂筋線から直通する北大阪急行の終着駅の千里中央から2駅北側に新駅が増設されました。新設駅は2か所とも箕面市内にあり、大阪大学箕面キャンパスがある「箕面船場阪大前」と大阪平野の最北「箕面萱野」で、地価上昇などのよる経済効果は3200億円以上、年間600億円以上に及ぶとされています。鉄道の延伸は箕面市民にとって60年越しの妄想路線で、箕面出身の私にとっても親世代のころからの悲願です。まあ、そんな感じで、折角なので久しぶりに実家に帰ってきました。

 


延伸開業した北大阪急行「箕面萱野」

 

箕面市は人口13.7万人の新興ベッドタウンですが、実家は市の南西側の旧集落地区にあり、箕面村と豊川村の合併前から先祖代々住んでいます。1970年の大阪万博をきっかけに国道171号線が敷設され徐々に開発され、子供の頃は水田と竹藪がまだ結構残っていましたが、今では戸建住宅やマンションが建ち並んでいます。
箕面市は住之江競艇による収益金が累計1000億以上あり、都市開発など公共政策に広く使用され北急延伸にもこの資金が利用されています。

一方で、これまで始発駅だった豊中市の「千里中央」は途中駅となり、商業施設「千里セルシー」や「大丸ピーコック」は閉鎖されるなど豊中市民にとっては素直に喜べない不穏な影響が発生、バス路線の再編など将来的な不安の声も上がっています。箕面・豊中・池田・吹田・茨木の大阪北部一帯は、「千里」と呼ばれ千里中央はこれまで文字通りその中心的役割を果たしていました。箕面萱野が発展しても、千里中央が衰退するなら3200億の経済効果も怪しくなります。

 


閉鎖されたアイドルの登竜門「千里セルシー」AKBやBTSなどイベントが定期開催された

 

箕面・豊中・池田・吹田・茨木の5市の人口を合計するとおよそ130万人、京都市や神戸市が150万人前後であることを考えれば、京阪神の真ん中に実はもうひとつ大きな都市が存在していると考えることができます。70年大阪万博の成功の立役者である文化人類学者の梅棹忠夫は、これら千里ニュータウンを中心した広域都市圏を「グレーター千里」として一体的な開発を提案、万博跡地利用や大阪モノレール等を構想し、一部実現化しています。

 

 

<自治体人口>
豊中市 40万人  大阪市 270万人
吹田市 37万人  堺市 84万人
茨木市 28万人  神戸市 153万人
箕面市 13万人      京都市 147万人
池田市 10万人  奈良市 36万人
千里5市合計129万人

 

 

千里の住民の特色として進学意欲が高く、阪急電車沿線といった文化的価値観が同質で、チェーン店を選好する傾向が強くみられます。古書店と言えばBOOKOFF、中華料理店と言えば王将、自転車も基本的にサイクルベースあさひで購入、他県からの転入者が多いため地元意識が大阪南部と比べて弱いように感じます。このような傾向から、私は5市はいっそのこと合併して、政令市を目指すべきだと考えています。

大阪市内を通らないのに「大阪モノレール」、吹田市で開催されたのに「大阪万博」、池田・豊中市に所在するのに「大阪空港」、ガンバ千里ではなく「ガンバ大阪」、もちろん箕面にキャンパスが新設されても箕面大学にはならず「大阪大学」となり、千里は福岡市や広島市と伍する都市規模を持ちながら、全国的な知名度が低く、その潜在性を十分に生かせていないように感じています。

 

 


吹田市にある「万博記念公園」 1970年に大阪万博が開催され大阪が絶頂期をむかえた

 

 

平成期には経済低迷や人口減少でシュリンクする地方自治体の合併が政府主導で行われ、大阪府でも豊中市や吹田市など周辺自治体を大阪市に取り込み「大阪都」とする「グレーター大阪」構想が提起、副首都議論が議題に上がり、東日本大震災が発生すると具体的に大阪空港(池田・豊中市)と万博公園(吹田市)を候補地として検討されました。

 

 

「副首都」建設、与野党で機運高まる 国家的危機管理必要
年内にも建設着手 伊丹空港跡地が最有力

候補地として大阪国際空港(伊丹空港)跡地(大阪府、兵庫県)、関西文化学術研究都市(大阪府、京都府、奈良県)、万博公園(大阪府)、愛・地球博記念公園(愛知県)、名古屋空港跡地(同)を検討。敷地の広さや交通アクセス、東京からの距離など7基準から総合評価した結果、伊丹空港跡地が最有力となった。
(産経ニュース)

 

 

副首都議論は石原慎太郎知事や橋下徹知事が賛同、副首都建設を目指す超党派議連が結成され、災害時のバックアップ機能として首都機能の一部が構想されていました。スーパーコンピュータ富岳によると、南海トラフ地震が発生すると津波により梅田で1mの濁流が押し寄せ地下街は浸水しその致死率100%、東京・名古屋も広い範囲で地盤が液状化し長期に渡り都市機能がマヒするようです。危機管理という観点からも、政府と直接やり取りできる政令市になることは必要な条件のように思います。

 

 


2011年東日本大震災により津波被害など大きな被害で副首都の建設が構想された

 

 

千里5市合併は二重行政解消を目的とした「大阪都構想」より、大阪の成長を望めるように思います。京阪神に支店を構えている企業が、もし4支店目を出店するなら、奈良や滋賀ではなく自然と人口の多い「千里」となります。豊中や池田市のままなら、そうはならないのではないでしょうか。さらに私は首都のバックアップ機能を考慮するなら、合併後の名称を「第二東京市」や「新東京市」と改称すれば、千里市・北摂市・北大阪市などと月並みにするより全国的なインパクトが与えられ、大阪のみならず国内経済の成長のドライバーになるように思います。

ここまで読んで多くの方は「自転車屋の妄想も大概にしろ」と感じたことと思います。しかし、梅棹は一部のエリートや専門家ではなく一般の市民も思想気軽に扱おうと呼びかけ、小松左京などと「千里眼」という同人誌を出版しました。

 

思想はつかうべきものである
思想は西洋かぶれのプロ思想家の独占物ではないのであって
アマチュアたる土民のだれかれの自由な使用にゆだねるべきである
プロにはまかせておけない
アマチュア思想道を確立すべきである
(梅棹忠夫「アマチュア思想家宣言」1954)

 

過去には保育園に落ちた女性の「日本死ね」といった匿名ブログが、国会で取り上げられ待機児童問題がクローズアップされたこともあります。本ブログも以前に有名ユーチューバーの方に動画内で読み上げていただき、投稿内容が60万人以上に拡散されたこともあります。

 

 


吹田市と箕面市の境界

 

私は人口減少に歯止めがかからない日本は全地域が均等に成長し続けることは困難で、将来的に各自治体が人(若者)の争奪戦となり、魅力のない地域や公共政策に乏しい自治体は衰退していくように思います。そのためにも私は公営競技の実施による財源の確保、なかでも最もギャンブル依存症対策がなされていて、低コストで実施できる競輪場の運営は、自治体の選択肢として有力のように思います。

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三大騒擾事件「吹田事件」をたどる、ひとり反戦サイクリング

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先月の本ブログで、大阪の自転車販売の朝鮮人支配の源流をたどるため、アパッチ族のキム・ジジョンについて投稿しました。今回はキムがアパッチ族になる以前に参加した騒擾事件「吹田事件」を、事件を先導した秘密組織「祖国防衛委員会」リーダーである夫徳秀(ブ・トクス)らの視点で散走していきたいと思います。

日本がサンフランシスコ講和条約で主権を回復した1952年4月から破壊活動防止法が本格的に施行される2ヶ月の間、各地で多くの武装闘争がおこりました。特に皇居前「血のメーデー事件」、愛知県「大須事件」、「吹田事件」の3つは三大騒擾事件とされ、戦後史に刻まれています。

とはいえ、「吹田事件」の詳細は、複雑な事情から教科書やテレビなどでは取り上げられることはなく、初耳の方もいるかと思いますので、歴史的背景と共に説明していきたいと思います。

 

suita

1950年、朝鮮戦争が勃発すると、GHQは日本の占領政策を転換、日本は民主化路線から再び右傾化、米軍の兵站としての役割を果たすようになります。このような状態下で、日本共産党はマルクス主義に基づく革命闘争「51年テーゼ」を協議会にて決議、暴力による革命を公然と掲げ、各地で闘争を繰り返します。

共産党大阪委員会幹部の上田等(うえだ・ひとし)は、朝鮮戦争から勃発から2年となる52年6月24日に、大阪大学豊中キャンパスの北グランドにて反戦デモ集会「伊丹基地粉砕、反戦・独立の夕」を計画します。伊丹基地というのはキャンパスの西側にある大阪空港のことで、米軍はこの空港から朝鮮半島に空路で軍事物資を輸送していました。

osaka university

大学側はデモを黙認、グラウンドのある待兼山には学生や共産党員などおよそ1000人が集まり、労働歌が歌われ、反戦プラカードや北朝鮮国旗が掲げられていたようです。日本の共産主義運動は、日本共産党の1955年の武装放棄決議までは在日朝鮮人が支えていて、1948年には国内の騒擾事件の86%が在日朝鮮人によるものでした。そして、この集会の参加者の3分の2は朝鮮人で、その首謀者が夫徳秀です。

上田はグラウンドでの集会終了後に空港までデモ行進を行う予定でしたが、警備が強固だったため作戦を変更、吹田にある米軍の輸送拠点「吹田操車場」を標的にしました。操車場というのは列車の停車場にことで、大阪人には「ヤード」と英語でいう方が分かりやすいかもしれません。当時は米兵が吹田操車場に駐屯し、鉄道を利用して伊丹に物資を輸送していました。

suita yard

デモ隊は二手に分かれ、一隊は西国街道を西へ行進し操車場へ向かい、もう一隊は阪急石橋駅に向かい警備は混乱します。石橋駅では終電がすでに出ていて、上田の実弟の上田理(うえだ・おさむ)が、駅長に臨時電車を出すように強要、梅田行の電車を手配します。大阪大学と伊丹空港のあるこの辺りは、ちょうど豊中・池田・箕面・伊丹の境界で、管轄警察の連携もうまくいきませんでした。

 

suita riot

臨時電車に乗った一隊は「人民電車部隊」とされ、学生運動を指導していた理は電車隊の指揮します。集会において重要な人物である上田兄弟ですが、両者はデモ参加を互いに当日グラウンドで会うまで知らず、出会ってびっくりしたそうです。ちなみに上田兄弟の祖母は私立学校金蘭会学園の創設者のひとりで、教育者一家に育ち、哲学者の西田幾多郎とも縁者関係だそうです。

警察は梅田にて電車を待ち構えますが、理の指揮する部隊は服部駅で下車し操車場に向かいます。

 

hattori

一方、西国街道からデモ行進する部隊は「山越部隊」とされ、首魁は三帰省吾(みき・しょうご)という日本人が務め、夫徳秀も朝鮮人を従え三帰と共に操車場に向かいます。夫徳秀は在日2世で東淀川で「鉄くず」収集で生計を立てる一方で、アパッチ族のキム・ジジョンらと祖国防衛委員会の機関誌「マルセ」を発行し、当時36歳という若さながら総連の地区委員長でした。朝鮮人たちは51年秋に共産党メンバーと生駒山地の山寺にて「大阪古物商総会」という名目で集まり、工作がバレないよう朝鮮語にて計画をしたようです。

 

夜を徹したデモ行進は吹田に向かう道中、西国街道(国道171号)沿いの豊川村小野原(現在の箕面市小野原)にて「右翼のドン」笹川良一宅を襲撃、笹川は事前に避難をしていて難を逃れました。

私の実家はこの小野原にあり、高校生時代に、ケンタッキー・フライド・チキン好きの「聖地」とされているカーネルバフェ(食べ放題)が実施されている小野原店でアルバイトをしていたので、昼食に食いまくってやろうと目論んでいたのですが、衝撃的なことに食べ放題が終了して、店も休業(改装中?)していました。

大阪市内では最近韓国チキン店が急増していますが、私はどうもあまり好きになれません。米朝の対立も、チキンのおいしさで競い合ってくれっれば良かったのですが、吹田操車場にて両陣営は対峙することとなります。

kfc

夫徳秀やキム・ジジョンの属した「祖国防衛委員会」は、秘密組織ゆえにその実態や内幕は長く秘匿されていました。毎日放送の西村秀樹記者は、夫徳秀が「鉄くず」収集を辞め十三で焼鳥店をしていることを突き止め、20年通い顔なじみとなり、体験談を聞き出し「大阪で闘った朝鮮戦争」(2004,岩波書店)、「朝鮮戦争に参戦した日本」(2019,三一書房)という2冊の書籍にまとめています。

西村記者が仲間と研究会を立ち上げる以前は事件の関係者は口をつぐみ、相談をした関西大学教授からも「ゲスの勘ぐり」と困り顔をされたとしています。十三の焼鳥店は韓国チキン店ではなく「一平」という店名の赤ちょうちんの炭焼き焼鳥店のようなのですが、残念ながら探してもみつかりませんでした。

 

「軍需列車を10分止めれば同胞の命が1000人救われると言われ、必至の思いでした」

 

同書籍によるとデモ隊は「須佐之男命神社」(スサノオノミコト)に火炎瓶や竹やりで武装し集結、対峙する警備隊の警備線を越え毅然と操車場に進みました。書籍には夫徳秀の他に多くの関係者が事件を振り返っていますが、立場の違う者同士でそれぞれ考え方が違い、誰の目線で語るかによって事件の見え方が変わります。

susano

デモ隊は操車場内を行進後に投石など攻撃を行いましたが、朝になると解散、多くの通勤客がいる中で警備と揉み合いになり多くの逮捕者を出しました。

 

現在、吹田市は府下屈指の「住みやすいまち」として知られています。大阪大学(吹田キャンパス)や金蘭会学園の金蘭千里大、関西大などの有名大学が所在、Jリーグ「ガンバ大阪」も吹田をホームスタジアムとして使用し、1970年の万博も吹田市と茨木市の境界にて開催されるなどQOLの高いまちとなっています。

上田・兄は晩年に心筋梗塞で倒れ「国立循環器病センター」にて緊急手術で一命をとりとめます。国内屈指の先進医療を誇る同センターは、2019年に上田たちが闘争を行ったJR岸辺駅前へ移設、駅前エリアは「健都」として再整備されています。

 

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事件から70年経ちましたが朝鮮半島はいまだに統一されることなく、ロシアと西側陣営の対立も長期化しようとしています。ウクライナ情勢に関しては、平和主義を標榜する日本はできることは限られていますが、戦争終了後、樺太・千島列島・オホーツク・カムチャッカ・シベリアなど地域の平和的独立支援、ロシアが実効支配している北方領土の返還と平和協定締結、ウクライナ復興支援など果たせる役割は大きいと言えると思います。

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