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サイクルショップ203の最大の取引先(仕入れ先)は神戸市のマルイという自転車商社です。マルイは国内の自転車店を網羅するほどの流通網を持ち、自社製品や国産部品の輸出も手掛けています。

 


▲「台北サイクルショー」のマルイのブース  2016年 撮影

 

マルイの創業はいまから100年程前で婦人靴などを主に扱っていましたが、1960年頃にオーストラリアの商社を買収し自転車の輸出入を開始、70年代には中興の祖である丸井功平氏(現会長)が渡米しTIOGAブランドのマウンテンバイクタイヤを販売、91年にはスポーツ自転車のステムの標準規格である「オーバーサイズ」(O/S)を考案、現在もBMXのトップレーサーのほぼ全ての選手が同社の製品を使用しています。あまり知られていませんが、世界初の量産マウンテンバイク「STUMPJUMPER」は功平氏が東奔西走して形にしたもので、米SPECIALIZEDや台湾のMERIDA、TOPEAKといった有名ブランドの育ての親といっても言い過ぎではありません。

 


▲大阪のメーカーが作成した世界初の量産型マウンテンバイク「STUMPJUMPER」シマノ博物館所蔵

 

本社は神戸の魚崎にあり阪神大震災では液状化で機能が停止、倉庫内に砂山ができる程の大被害を被りましたが、苦境を乗り切り現在では日本を代表する自転車商社となっています。毎年、秋には国内で取り扱いブランドを一斉に集めた展示会が東京・大阪で開催され、マルイの展示会が終われば新年度の始まりといった感じとなります。展示会にはお土産があり、神戸名物の洋菓子をいただくのが輪業人のちょっとした楽しみとなっています。

 


神戸菓子「モロゾフ」本社はマルイの対岸の六甲アイランドに所在

 

神戸は港町で居留地が置かれたことから、洋菓子文化が根付いています。魚崎には神戸を代表する洋菓子メーカー「モロゾフ」と「ゴンチャロフ」が所在しています。両製菓ブランドの歴史は戦前まで遡り、それぞれロシアからの移民に起源をもっています。現在はウクライナ戦争の影響で日露関係は冷え込んでいますが、1910年代は日露協約により両国の関係が歴史上最高潮に良好で、大日本帝国は今とは真逆でロシアに武器を供与、一方でウクライナ人と交戦し血潮を流しました。

 

1918年8月12日、日本軍はウクライナ人が多住したシベリアに兵を派遣、「シベリア出兵」という言葉は歴史の授業で習ったことを覚えている方も多いと思いますが、教科書にはその戦争のことは詳説されていません。私もウクライナ戦争が勃発してから知った史実なのですが、シベリア出兵で日本軍が対峙したのは、ロシアでなくウクライナ人国家の「極東共和国」というあまり聞き馴染みがない国のようなのです。

しかしなぜ100年前、ウクライナと遠く離れた日本海沿岸にウクライナ人国家があり、日本と戦争をしたのでしょうか。その背景は複雑で、当時の日本が関与したにも関わらず、現在では知られざる歴史となってしまっています。ピーク時には40万人以上居住したという極東共和国の起源は、シベリア鉄道と南満州鉄道をつなぐ短絡線「東清鉄道」にウクライナ人のドミートリ―・ホルヴァートが派遣されたことをきっかけとしています。ロシア中央政府から指揮官に任命されたホルヴァ―トは、ウクライナ人を呼び寄せ沿線は繁栄「幸福なホルヴァ―ト王国」と呼ばれるようになります。もちろん「王国」といっても東清鉄道はロシアの勢力下で、実際に国ではなく兵庫県南部を「阪急王国」と呼ぶような感じの俗称です。

その後もウクライナ人は増え続け、入植地はウラジオストック(浦塩)やサハリン(樺太)にまで拡大、1917年にロマノフ王朝が倒れ、ロシア革命が起きるとウクライナ人は「グリーンウクライナ」(緑ウクライナ)の建国を計画します。グリーンというのはデンマークのグリーンランド同様、極寒だけどなんとか植物が生える大地ですよ、といった感じなのだと思います。独裁国家なのに「朝鮮民主主義人民共和国」、統治時代の半分の国土なのに「韓民国」、日本の傀儡なのに満州人の「満州国」といった感じで、極東の国名というのは割と実状を投影しないものなのかもしれません。

 

green ukraine
1917年当時、極東には42万人のウクライナ人が居住した ヴィオレッタ・ウドヴィク著「日本とウクライナ」(2022)より

 

ロシア革命が勃発すると政情が不安定となり、共産主義に反対する「白系ロシア人」は亡命、この時に革命から逃れて神戸にたどり着いたのがモロゾフやゴンチャロフです。有名なところでは、プロ野球選手のスタルヒンや横綱の大鵬(出生名:イヴァン・ボリシコ)も白系ロシア人の血を引いています。

シベリア出兵はチェコ人の救出を大義名分にしていましたが、実際はロシア革命に対する干渉行為であり、レーニンは日本との全面戦争を避けるため、傀儡国家「極東共和国」を緩衝国として認定、日本軍を極東に釘付けにし欧州戦線への進出を阻みました。極東共和国は1919~20年と短命で、1991年にソ連の崩壊により秘蔵資料が解禁になるまで研究も進んでおらず、住民も日本軍撤退後に次第にロシア人に同化していきました。

 

 

本年3月、岸田首相はゼレンスキー大統領と会談のためキーウを訪問、5月にはゼレンスキー大統領が「G7広島サミット2023」参加のため電撃来日しました。終わりの見えないウクライナ戦争の着地点として国際社会が容認できるのはウクライナの「失地回復」に限定され、仮にロシアに勝利したとしても、日本の恩恵は限られます。日本は戦争による直接的な被害はありませんが、物価高騰などじわじわと影響が出てきています。このままでは、ウクライナ支援より足元の国内の経済的支援を優先させるべきという意見もでてくるように思います。

ソ連崩壊時には独立国家が東欧に15ヶ国が誕生しました。ウクライナ戦争終結後、日ウ両国に恩恵ある復興支援としてウクライナ人の「失地」である、サハリンやシベリア地区の独立支援があります。独立への障壁として、極東共和国に残された国民の帰属意識がウクライナではなく、ロシア人として同化してしまっていることです。横綱大鵬はサハリン出身で父親がウクライナ人ですが、自伝で関取になった後に自身の出生を週刊誌報道で知り、しばらく半信半疑だったとしています。

平和主義を標榜する日本はウクライナ戦争に参戦できる訳ではありません。このような状況下で日本がウクライナにできることは戦後支援であり、日本と両国の戦争史を深く知ることだと思います。