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太宰治の小説で「パンドラの匣」という作品があります。結核療養施設に隔離された少年と太宰の文通が書簡形式で書き記された異色の小説で、2009年に染谷将太・川上未映子主演で映画化され話題となった作品です。自虐的な作品が多い太宰ですが、本作品は少年の病床日記への返信が素材のため太宰の前向きな一面が垣間見えファンからの評価も高く、療養生活の実態の記録としても読み継いでいきたい作品です。

この小説に登場する結核療養施設のモデルは「孔舎衙健康道場」という病院で、戦前に生駒山の西麓に実在しました。「孔舎衙」というのは辺りの地名で、難読ですが「くさか」と読み、現在では施設は解体され「パンドラの丘」という空地となりベンチが置かれ、地域の住民やハイキング客が休憩できるように整備されています。

 


結核隔離施設「孔舎衙健康道場」跡

 

孔舎衙という字名は大正時代まで使用され、現在では日の下と書いて「日下町」(くさか ちょう)として継承されています。下を「か」と読むのは理解できますが「日」がなぜ「くさ」になるのでしょうか。さまざまな説があるようですが、記紀に由来するほど時代が古く、よく分かっていないようです。

日下町には、大正期に近鉄「孔舎衛坂駅」(くさえざか えき)がありましたが、1964(昭和39)年に廃止され、最寄り駅は200m南側の近鉄奈良線「石切駅」となります。大阪人に石切とえば、お百度参りの神社「石切神社」が有名です。神社の創建時期は不明ですが神武天皇(初代天皇)の創建と伝えられ、正式名は「石切剣箭神社」(いしきり つるぎや じんじゃ)といい、太刀が奉納されています。三種の神器に草薙(くさなぎ)剣がありますが「日(くさ)」となにか関連があるのでしょうか。ちなみに石切神社は「石切駅」より、近鉄けいはんな線「新石切駅」で降車した方が近くなります。

 


太刀を持った「石切不動」 2022年撮影

 

けいはんな線は地下鉄中央線直通で、奈良方面に行く際の交通手段として利用されています。地下鉄は「中央大通」の地下を通り、大阪の東西軸の大動脈となっています。沿線の森ノ宮駅の南西側には勾玉に由来した「玉造稲荷神社」があります。そして、石切神社と玉造稲荷を横一直線で結んだ北緯34.6上には、難波宮と平城宮があり、西大寺と東大寺、孔舎衙もこの直線上に位置しています。要するに孔舎衙は平城宮から見ると真西に位置し、日が沈む場所「日の下」となるのです。これで日下が「くさか」と読まれる由縁ではないかと推察されます。

 

 


「玉造稲荷神社」祭りにてたこ踊りを踊る男性 2016年撮影

 

難波宮は孔舎衙よりさらに西に位置し、遷都した大化の改新の際に「日本」と国号が決まったとされています。この時代にはまだ平城京はありませんので、孔舎衙から見て日の沈む場所「日の本(もと)」となったのではないでしょうか。つまり、皇記の文明の基準点は孔舎衙にあり、時代的に「孔舎衙」が「日下」となったのは、平城京遷都後ではないかという推測です。そして、この説が正しいなら、孔舎衙の地が古代の日本の原点であることを意味する論拠となるのではないでょうしょうか。

 

 


大化の改新で遷都された「難波宮」跡

 

 

自宅に帰り、三種の神器の八咫鏡を祀るところはないかとインターネットで探していると、石切神社と同じ東大阪市内に若江鏡神社という仲哀天皇(西暦149-200年?)を祀る神社があるようなので、また行って調べてみたいと思います。この神社は例の一直線上から南に1kmほどずれてしまっています。文献に登場する最初の記述も9世紀と時代が異なり、地歴から見ても当時、周囲は湿地帯だったと考えられます。しかしながら、北緯34.6上の皇統の歴史が単なる偶然とも思えなくなってしまったので、古事記・日本書紀の歴史書の記述と併せて、この国の起源をじっくり考え直してみたいと思います。

ちなみに難波宮から東大阪市日下町までは直線で12km、日下町から奈良側には生駒山があるため自転車では直線的には行けませんので、お気をつけください。

 

<参考年表>
645年 難波宮 遷都(大化の改新 ~667年)

694年 藤原京 遷都
710年 平城京 遷都
712年 古事記 完成
720年 日本書紀 完成

※神武・仲哀天皇の即位や石切神社・玉造稲荷の完成は年表以前の時期となり、歴史学的には年代は分かっていません。