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三大騒擾事件「吹田事件」をたどる、ひとり反戦サイクリング

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先月の本ブログで、大阪の自転車販売の朝鮮人支配の源流をたどるため、アパッチ族のキム・ジジョンについて投稿しました。今回はキムがアパッチ族になる以前に参加した騒擾事件「吹田事件」を、事件を先導した秘密組織「祖国防衛委員会」リーダーである夫徳秀(ブ・トクス)らの視点で散走していきたいと思います。

日本がサンフランシスコ講和条約で主権を回復した1952年4月から破壊活動防止法が本格的に施行される2ヶ月の間、各地で多くの武装闘争がおこりました。特に皇居前「血のメーデー事件」、愛知県「大須事件」、「吹田事件」の3つは三大騒擾事件とされ、戦後史に刻まれています。

とはいえ、「吹田事件」の詳細は、複雑な事情から教科書やテレビなどでは取り上げられることはなく、初耳の方もいるかと思いますので、歴史的背景と共に説明していきたいと思います。

 

suita

1950年、朝鮮戦争が勃発すると、GHQは日本の占領政策を転換、日本は民主化路線から再び右傾化、米軍の兵站としての役割を果たすようになります。このような状態下で、日本共産党はマルクス主義に基づく革命闘争「51年テーゼ」を協議会にて決議、暴力による革命を公然と掲げ、各地で闘争を繰り返します。

共産党大阪委員会幹部の上田等(うえだ・ひとし)は、朝鮮戦争から勃発から2年となる52年6月24日に、大阪大学豊中キャンパスの北グランドにて反戦デモ集会「伊丹基地粉砕、反戦・独立の夕」を計画します。伊丹基地というのはキャンパスの西側にある大阪空港のことで、米軍はこの空港から朝鮮半島に空路で軍事物資を輸送していました。

osaka university

大学側はデモを黙認、グラウンドのある待兼山には学生や共産党員などおよそ1000人が集まり、労働歌が歌われ、反戦プラカードや北朝鮮国旗が掲げられていたようです。日本の共産主義運動は、日本共産党の1955年の武装放棄決議までは在日朝鮮人が支えていて、1948年には国内の騒擾事件の86%が在日朝鮮人によるものでした。そして、この集会の参加者の3分の2は朝鮮人で、その首謀者が夫徳秀です。

上田はグラウンドでの集会終了後に空港までデモ行進を行う予定でしたが、警備が強固だったため作戦を変更、吹田にある米軍の輸送拠点「吹田操車場」を標的にしました。操車場というのは列車の停車場にことで、大阪人には「ヤード」と英語でいう方が分かりやすいかもしれません。当時は米兵が吹田操車場に駐屯し、鉄道を利用して伊丹に物資を輸送していました。

suita yard

デモ隊は二手に分かれ、一隊は西国街道を西へ行進し操車場へ向かい、もう一隊は阪急石橋駅に向かい警備は混乱します。石橋駅では終電がすでに出ていて、上田の実弟の上田理(うえだ・おさむ)が、駅長に臨時電車を出すように強要、梅田行の電車を手配します。大阪大学と伊丹空港のあるこの辺りは、ちょうど豊中・池田・箕面・伊丹の境界で、管轄警察の連携もうまくいきませんでした。

 

suita riot

臨時電車に乗った一隊は「人民電車部隊」とされ、学生運動を指導していた理は電車隊の指揮します。集会において重要な人物である上田兄弟ですが、両者はデモ参加を互いに当日グラウンドで会うまで知らず、出会ってびっくりしたそうです。ちなみに上田兄弟の祖母は私立学校金蘭会学園の創設者のひとりで、教育者一家に育ち、哲学者の西田幾多郎とも縁者関係だそうです。

警察は梅田にて電車を待ち構えますが、理の指揮する部隊は服部駅で下車し操車場に向かいます。

 

hattori

一方、西国街道からデモ行進する部隊は「山越部隊」とされ、首魁は三帰省吾(みき・しょうご)という日本人が務め、夫徳秀も朝鮮人を従え三帰と共に操車場に向かいます。夫徳秀は在日2世で東淀川で「鉄くず」収集で生計を立てる一方で、アパッチ族のキム・ジジョンらと祖国防衛委員会の機関誌「マルセ」を発行し、当時36歳という若さながら総連の地区委員長でした。朝鮮人たちは51年秋に共産党メンバーと生駒山地の山寺にて「大阪古物商総会」という名目で集まり、工作がバレないよう朝鮮語にて計画をしたようです。

 

夜を徹したデモ行進は吹田に向かう道中、西国街道(国道171号)沿いの豊川村小野原(現在の箕面市小野原)にて「右翼のドン」笹川良一宅を襲撃、笹川は事前に避難をしていて難を逃れました。

私の実家はこの小野原にあり、高校生時代に、ケンタッキー・フライド・チキン好きの「聖地」とされているカーネルバフェ(食べ放題)が実施されている小野原店でアルバイトをしていたので、昼食に食いまくってやろうと目論んでいたのですが、衝撃的なことに食べ放題が終了して、店も休業(改装中?)していました。

大阪市内では最近韓国チキン店が急増していますが、私はどうもあまり好きになれません。米朝の対立も、チキンのおいしさで競い合ってくれっれば良かったのですが、吹田操車場にて両陣営は対峙することとなります。

kfc

夫徳秀やキム・ジジョンの属した「祖国防衛委員会」は、秘密組織ゆえにその実態や内幕は長く秘匿されていました。毎日放送の西村秀樹記者は、夫徳秀が「鉄くず」収集を辞め十三で焼鳥店をしていることを突き止め、20年通い顔なじみとなり、体験談を聞き出し「大阪で闘った朝鮮戦争」(2004,岩波書店)、「朝鮮戦争に参戦した日本」(2019,三一書房)という2冊の書籍にまとめています。

西村記者が仲間と研究会を立ち上げる以前は事件の関係者は口をつぐみ、相談をした関西大学教授からも「ゲスの勘ぐり」と困り顔をされたとしています。十三の焼鳥店は韓国チキン店ではなく「一平」という店名の赤ちょうちんの炭焼き焼鳥店のようなのですが、残念ながら探してもみつかりませんでした。

 

「軍需列車を10分止めれば同胞の命が1000人救われると言われ、必至の思いでした」

 

同書籍によるとデモ隊は「須佐之男命神社」(スサノオノミコト)に火炎瓶や竹やりで武装し集結、対峙する警備隊の警備線を越え毅然と操車場に進みました。書籍には夫徳秀の他に多くの関係者が事件を振り返っていますが、立場の違う者同士でそれぞれ考え方が違い、誰の目線で語るかによって事件の見え方が変わります。

susano

デモ隊は操車場内を行進後に投石など攻撃を行いましたが、朝になると解散、多くの通勤客がいる中で警備と揉み合いになり多くの逮捕者を出しました。

 

現在、吹田市は府下屈指の「住みやすいまち」として知られています。大阪大学(吹田キャンパス)や金蘭会学園の金蘭千里大、関西大などの有名大学が所在、Jリーグ「ガンバ大阪」も吹田をホームスタジアムとして使用し、1970年の万博も吹田市と茨木市の境界にて開催されるなどQOLの高いまちとなっています。

上田・兄は晩年に心筋梗塞で倒れ「国立循環器病センター」にて緊急手術で一命をとりとめます。国内屈指の先進医療を誇る同センターは、2019年に上田たちが闘争を行ったJR岸辺駅前へ移設、駅前エリアは「健都」として再整備されています。

 

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事件から70年経ちましたが朝鮮半島はいまだに統一されることなく、ロシアと西側陣営の対立も長期化しようとしています。ウクライナ情勢に関しては、平和主義を標榜する日本はできることは限られていますが、戦争終了後、樺太・千島列島・オホーツク・カムチャッカ・シベリアなど地域の平和的独立支援、ロシアが実効支配している北方領土の返還と平和協定締結、ウクライナ復興支援など果たせる役割は大きいと言えると思います。

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【追憶の競輪場FILE④】競輪史上最悪の大暴動が起きた鳴尾競輪場

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「大阪人=阪神ファン」
大阪人にはそういうイメージがあると思います。

阪神タイガースの本拠地「阪神甲子園球場」は、兵庫県西宮市の南部にありプロ野球だけでなく、春夏と高校野球も戦前から開催されています。兵庫県なのに、大阪のイメージが強い地域です。

 

koushien

 

第二次世界大戦末期、甲子園球場を含む西宮市一帯は、米軍による空襲を繰り返し受け大きな被害を被りました。その様子は「火垂るの墓」(1988 スタジオジブリ)としてアニメ映画化されているので、イメージしやすいと思います。

 

一村の存続を賭けた「鳴尾競輪場」

鳴尾競輪場は戦後間もない1949年に甲子園球場のやや浜手に設立されました。

 

koushien baseball

 

当時、球場のある一帯は鳴尾村という小さな村で、2005年にまとめられた「鳴尾村誌 1889-1951」(鳴尾村誌編集委員会)によると、村は入場税を戦災復旧に充てるため、テニスコートの跡地2万7000坪という広大な敷地に東洋一の規模の競輪場を設立、隣接する西宮市「西宮競輪」、尼崎市「園田競馬」と共に復興財源のため競走を実施したようです。

 

naruo bank  naruo keirin

 

しかし、開場翌年の50年、近畿地方を襲った大型台風「ジェーン台風」で大きな被害を受けてしまいます。当時の施設は突貫工事で作られただけでなく、競技法により戦災で倒壊した家屋の廃材の利用が競輪場の建設に義務付けされ強度に難があり、屋根が吹き飛ばされ開催継続が危ぶまれるほどだったそうです。そのような状況にも関わらず主催者は災害救援と銘打ち競走を強行しました。

 

競輪史上最悪の大事件「鳴尾事件」

事件は台風直撃から6日後の9月9日第11レース、本命の選手の機材トラブルで、高額配当となり観衆が混乱、競走のやり直しを求めて怒号が飛び交う混乱の中、11レースは成立しました。しかし、レース内容に納得のいかない一部のファンが走路に雪崩込み暴徒化、続く第12レースは中止となり、主催者は車券の払い戻しを発表するも、事態は収拾にはいたりませんでした。

 

naruo jiken

さらには、審判員を包囲し暴行を加え、車券売り場を破壊、売上金の強奪を図る者、ガソリンを巻き放火する者など悪質行為はエスカレートし、観衆1万人のうちおよそ半数の5000名が騒動に加わり、警察や米軍憲兵が鎮圧にあたる事態となりました。

死者1名、逮捕者250名。

競輪史上最悪の大事件は「鳴尾事件」と呼ばれ、競輪廃止論のきっかけとなりました。

 

naruo riot

 

事件により鳴尾競輪場は休止となり、競走による収入を期待していた鳴尾村は一転し、財政が立ち行かなくなり隣の市に編入を決意、51年に編入先を巡る住民投票にて尼崎市案を西宮市案が上回り、鳴尾村の名は地図から消滅することとなります。

競輪史に残る汚点を残した鳴尾競輪場は廃止も検討されましたが「甲子園競輪場」として再スタートを切ることとなり名勝負を繰り広げ、大きな収益をもたらします。

 

koshien keirin

 

しかし、レジャーの多様化、特にパチンコの射幸心を煽るド派手な台や少年漫画のキャラクターを採用した台などなりふり構わない無秩序な拡大が影響し、睨みを利かされている競輪はファンを奪われ甲子園競輪場も収益が伸びず継続が難しくなってしまいます。

西宮市にはもう一ヶ所近隣に「西宮競輪」があり、両施設を統合する案も検討されましたが、事業収支の悪化が予想されることから、2002年に半世紀にわたる長い歴史に幕を下ろすこととなりました。

跡地は売却され、現在では大規模なマンションが建設されています。

 

naruokeirin

 

地元の方に話を伺うと甲子園競輪場に反対していた住民は全くおらず、廃止に追い込んだというより「役割を終えた」という感じでした。現地は閑静な住宅街となり当時の名残は見当たらず、事件のことを切り出すと地元の主婦の方は非常に驚いた表情をされていました。

 

パチンコ栄えて、国滅ぶ

競輪の売上高と日本経済の盛衰は見事なまでに一致します。
景気が良くなると、遊興する余裕が出るので、当然と言えば当然で、これは他の公営競技にもおよそ当てはまります。

しかし、同じように見えるパチンコは、景気との連動性はなく、むしろその逆のようにも思えます。パチンコ産業は規模も大きく平成期には消費者金融の「グレーゾーン金利」と相まって日本の長引く不況や貧困化の片棒を担いでしまった前科もあります。依存による害悪が大きく、コロナ禍でも槍玉に挙げられています。

公営競技が日本の公衆衛生や施設建設など地域発展の原動力になっているのに反し、パチンコはその収益が海外へと送金され日本がさらに弱体化されるのではないかといった懸念も持たれています。

兵庫県には、甲子園競輪場の他に3つの競輪場がありました。
今では全廃され、県は収益を失っています。

【FILE⑤】では、西宮市内にあったもう一つの競輪場「阪急西宮スタジアム」を紹介したいと思います。

 

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