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2022年04月の記事一覧

三大騒擾事件「吹田事件」をたどる、ひとり反戦サイクリング

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先月の本ブログで、大阪の自転車販売の朝鮮人支配の源流をたどるため、アパッチ族のキム・ジジョンについて投稿しました。今回はキムがアパッチ族になる以前に参加した騒擾事件「吹田事件」を、事件を先導した秘密組織「祖国防衛委員会」リーダーである夫徳秀(ブ・トクス)らの視点で散走していきたいと思います。

日本がサンフランシスコ講和条約で主権を回復した1952年4月から破壊活動防止法が本格的に施行される2ヶ月の間、各地で多くの武装闘争がおこりました。特に皇居前「血のメーデー事件」、愛知県「大須事件」、「吹田事件」の3つは三大騒擾事件とされ、戦後史に刻まれています。

とはいえ、「吹田事件」の詳細は、複雑な事情から教科書やテレビなどでは取り上げられることはなく、初耳の方もいるかと思いますので、歴史的背景と共に説明していきたいと思います。

 

suita

1950年、朝鮮戦争が勃発すると、GHQは日本の占領政策を転換、日本は民主化路線から再び右傾化、米軍の兵站としての役割を果たすようになります。このような状態下で、日本共産党はマルクス主義に基づく革命闘争「51年テーゼ」を協議会にて決議、暴力による革命を公然と掲げ、各地で闘争を繰り返します。

共産党大阪委員会幹部の上田等(うえだ・ひとし)は、朝鮮戦争から勃発から2年となる52年6月24日に、大阪大学豊中キャンパスの北グランドにて反戦デモ集会「伊丹基地粉砕、反戦・独立の夕」を計画します。伊丹基地というのはキャンパスの西側にある大阪空港のことで、米軍はこの空港から朝鮮半島に空路で軍事物資を輸送していました。

osaka university

大学側はデモを黙認、グラウンドのある待兼山には学生や共産党員などおよそ1000人が集まり、労働歌が歌われ、反戦プラカードや北朝鮮国旗が掲げられていたようです。日本の共産主義運動は、日本共産党の1955年の武装放棄決議までは在日朝鮮人が支えていて、1948年には国内の騒擾事件の86%が在日朝鮮人によるものでした。そして、この集会の参加者の3分の2は朝鮮人で、その首謀者が夫徳秀です。

上田はグラウンドでの集会終了後に空港までデモ行進を行う予定でしたが、警備が強固だったため作戦を変更、吹田にある米軍の輸送拠点「吹田操車場」を標的にしました。操車場というのは列車の停車場にことで、大阪人には「ヤード」と英語でいう方が分かりやすいかもしれません。当時は米兵が吹田操車場に駐屯し、鉄道を利用して伊丹に物資を輸送していました。

suita yard

デモ隊は二手に分かれ、一隊は西国街道を西へ行進し操車場へ向かい、もう一隊は阪急石橋駅に向かい警備は混乱します。石橋駅では終電がすでに出ていて、上田の実弟の上田理(うえだ・おさむ)が、駅長に臨時電車を出すように強要、梅田行の電車を手配します。大阪大学と伊丹空港のあるこの辺りは、ちょうど豊中・池田・箕面・伊丹の境界で、管轄警察の連携もうまくいきませんでした。

 

suita riot

臨時電車に乗った一隊は「人民電車部隊」とされ、学生運動を指導していた理は電車隊の指揮します。集会において重要な人物である上田兄弟ですが、両者はデモ参加を互いに当日グラウンドで会うまで知らず、出会ってびっくりしたそうです。ちなみに上田兄弟の祖母は私立学校金蘭会学園の創設者のひとりで、教育者一家に育ち、哲学者の西田幾多郎とも縁者関係だそうです。

警察は梅田にて電車を待ち構えますが、理の指揮する部隊は服部駅で下車し操車場に向かいます。

 

hattori

一方、西国街道からデモ行進する部隊は「山越部隊」とされ、首魁は三帰省吾(みき・しょうご)という日本人が務め、夫徳秀も朝鮮人を従え三帰と共に操車場に向かいます。夫徳秀は在日2世で東淀川で「鉄くず」収集で生計を立てる一方で、アパッチ族のキム・ジジョンらと祖国防衛委員会の機関誌「マルセ」を発行し、当時36歳という若さながら総連の地区委員長でした。朝鮮人たちは51年秋に共産党メンバーと生駒山地の山寺にて「大阪古物商総会」という名目で集まり、工作がバレないよう朝鮮語にて計画をしたようです。

 

夜を徹したデモ行進は吹田に向かう道中、西国街道(国道171号)沿いの豊川村小野原(現在の箕面市小野原)にて「右翼のドン」笹川良一宅を襲撃、笹川は事前に避難をしていて難を逃れました。

私の実家はこの小野原にあり、高校生時代に、ケンタッキー・フライド・チキン好きの「聖地」とされているカーネルバフェ(食べ放題)が実施されている小野原店でアルバイトをしていたので、昼食に食いまくってやろうと目論んでいたのですが、衝撃的なことに食べ放題が終了して、店も休業(改装中?)していました。

大阪市内では最近韓国チキン店が急増していますが、私はどうもあまり好きになれません。米朝の対立も、チキンのおいしさで競い合ってくれっれば良かったのですが、吹田操車場にて両陣営は対峙することとなります。

kfc

夫徳秀やキム・ジジョンの属した「祖国防衛委員会」は、秘密組織ゆえにその実態や内幕は長く秘匿されていました。毎日放送の西村秀樹記者は、夫徳秀が「鉄くず」収集を辞め十三で焼鳥店をしていることを突き止め、20年通い顔なじみとなり、体験談を聞き出し「大阪で闘った朝鮮戦争」(2004,岩波書店)、「朝鮮戦争に参戦した日本」(2019,三一書房)という2冊の書籍にまとめています。

西村記者が仲間と研究会を立ち上げる以前は事件の関係者は口をつぐみ、相談をした関西大学教授からも「ゲスの勘ぐり」と困り顔をされたとしています。十三の焼鳥店は韓国チキン店ではなく「一平」という店名の赤ちょうちんの炭焼き焼鳥店のようなのですが、残念ながら探してもみつかりませんでした。

 

「軍需列車を10分止めれば同胞の命が1000人救われると言われ、必至の思いでした」

 

同書籍によるとデモ隊は「須佐之男命神社」(スサノオノミコト)に火炎瓶や竹やりで武装し集結、対峙する警備隊の警備線を越え毅然と操車場に進みました。書籍には夫徳秀の他に多くの関係者が事件を振り返っていますが、立場の違う者同士でそれぞれ考え方が違い、誰の目線で語るかによって事件の見え方が変わります。

susano

デモ隊は操車場内を行進後に投石など攻撃を行いましたが、朝になると解散、多くの通勤客がいる中で警備と揉み合いになり多くの逮捕者を出しました。

 

現在、吹田市は府下屈指の「住みやすいまち」として知られています。大阪大学(吹田キャンパス)や金蘭会学園の金蘭千里大、関西大などの有名大学が所在、Jリーグ「ガンバ大阪」も吹田をホームスタジアムとして使用し、1970年の万博も吹田市と茨木市の境界にて開催されるなどQOLの高いまちとなっています。

上田・兄は晩年に心筋梗塞で倒れ「国立循環器病センター」にて緊急手術で一命をとりとめます。国内屈指の先進医療を誇る同センターは、2019年に上田たちが闘争を行ったJR岸辺駅前へ移設、駅前エリアは「健都」として再整備されています。

 

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事件から70年経ちましたが朝鮮半島はいまだに統一されることなく、ロシアと西側陣営の対立も長期化しようとしています。ウクライナ情勢に関しては、平和主義を標榜する日本はできることは限られていますが、戦争終了後、樺太・千島列島・オホーツク・カムチャッカ・シベリアなど地域の平和的独立支援、ロシアが実効支配している北方領土の返還と平和協定締結、ウクライナ復興支援など果たせる役割は大きいと言えると思います。

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ママチャリ大国ニッポン  ~世紀の大発明はいかに生まれ、普及したのか~

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前回の投稿では大阪の自転車企業「サンスター自転車」の興亡を通して、戦後の日本の自転車文化を紹介させていただきました。

わが国の自転車利用者の男女比は51:49とほぼ半々で、他国と比べ女性の利用割合が最も高い国だそうです。その理由のひとつに、高度経済成長期より主婦が子育てのために自転車を利用しているという点があります。前回のブログで、1950年代の自転車の主用途が「運搬」であったと投稿しましたが、「ママチャリ」の登場により、その構図に変化が現れます。

 

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サンスターの女性用自転車「婦人サンスター号」

 

今からちょうど60年前の1962年、ロンドンのアールズコートで開催された展示会に画期的な自転車が出品されます。前年9月に英誌「エンジニアリング」にて発表されたこの「MOULTON」(モールトン)という小さな車輪の自転車は、構造的にも注目され欧州各地で続々とコンパクトな類型車がつくられるようになります。

 

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▲ 「MOLTON」が紹介された記事   [ニューサイクリング誌より  1963年4月発行]

 

日本国内では、1955年にすでに片倉工業が16インチのオリタタミ自転車「ポーターシルク」を製造していましたが、モールトンの登場は日本にもすぐさま伝えられ、64年には変速機メーカーの前田工業の河合淳三が英国から持ち帰ります。河合は16インチ車輪のモールトンを研究、日本の道路事情に合わせ20インチの自転車を設計し、これを「婦人」をターゲットに普及に努めます。戦後間もない時期は「不妊になる」となど言われ自転車に乗る女性は全体の10%以下、女性専用車はあるにはありましたが使用は女医や女学生の一部などに限られていました。このタイプの婦人向け自転車をなんとか普及させようと、日本サイクリング協会委員の鳥山新一が「ミニサイクル」と命名、各社は開発を進めていきました。

 

 

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▲ 片倉工業「ポーターシルク」(関西サイクルスポーツセンター所蔵)

 

現在の日本では車輪径が小さい自転車は、全く珍しいものではありませんが、海外ではほとんど利用されていません。欧州の一部で、自転車にこだわっている人が、折り畳み式高級車を乗っていることはありますが、日本の様に価格の安いスモールホイールの自転車は販売すらされていませんし、「ミニベロ」という言葉も外国人には通じません。「ミニサイクル」や「ミニベロ」を日常的に誰もが利用するという文化は、実は日本自出の独特の文化で「ママチャリ」というのも土俗的なものではなく、マーケティングによって創造されたカテゴリーなのです。1968年のサイクルショーにて、販売促進のため当時の自民党幹事長福田赳夫にまだなじみの薄い「ミニサイクル」を見てもらうと、福田は「おい、私に子供用を乗せようというのかね」と困惑したというエピソードがあったそうです。

 

同じ頃、大阪市内では千林商店街のドラッグストア「主婦の店 ダイエー」や衣料品店「赤のれん」、天神橋筋商店街の下着店「ハトヤ」、西成の衣料品店「イズミヤ」などの有力商店が、セルフ販売による米国式の新しい小売店のスタイルの研究組織「ペガサスクラブ」を結成、このクラブには四日市の呉服店「岡田屋」や東京の「ヨーカ堂」なども参加し、スーパーマーケットへと進化します。大阪万博が決定すると千里や泉北にニュータウンが建設され、経済成長を支える人口が都市部に集中し始め、生活様式が大きく変化し、それまで「家内」とよばれて文字通り家の中の家事仕事をしていた主婦がスーパーのチラシをチェックして特売品を自転車で買いまわる「ママ」となります。ママ用の自転車「ママチャリ」はオイルショックも手伝い、自転車保有台数も急増、1955年から70年の15年間で2倍以上、生産台数も4倍と増産に次ぐ増産となります。

 

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▲ナショナル自転車のミニサイクルの販促物

 

販売方式もこれまでの自転車店だけでなく、スーパーマーケットやディスカウントストアでも販売されるようになり、客寄せ用の目玉商品として仕入れ原価以下で廉売されるようになり、自転車業界内では「ママチャリ害悪論」まで浮上し、安売り店と対立するようになります。なかでも、ナショナル自転車工業の松下幸之助とダイエーの中内功は裁判沙汰になり「流通戦争」といわれるほど激しく対立ます。販売店との共存共栄を標榜し「天与の尊い道」といった精神論的な経営をする松下、研究による研究で科学的かつ合理的な方式で急拡大を目指す中内、互いの考えは水と油で、ママチャリメーカーは系列店重視の「工業型」と廉売志向の「商業型」と区別されるようになります。

 

1985年プラザ合意以後の急激な円高と89年自転車輸入関税撤廃により、海外から輸入される安い自転車が急増、平成不況も相まって「工業型」メーカーや部品メーカーは大打撃を受け事業縮小や倒産が相次ぎ、日本の自転車産業は空洞化、「商業型」メーカーも中国依存を強めます。2000年代に入ると自転車の低価格化は一層進み、平均価格は10500円、局所的には7000円台で廉売されるようになり、「コーナン商事」に代表されるホームセンターや「サイクルベースあさひ」など小売業が主導権を握るようになります。

 

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▲ ショッピングセンターで販売される自転車

 

2008年の広辞苑(第6版)で「ママチャリ」という言葉を調べると「婦人用の自転車」と掲載されています。
それが、2018年の最新版(第7版)では「俗に生活用自転車のこと」と「女性用」という説明がなくなっています。この10年で、ママチャリは男女問わず使用される乗り物へと変質した証左だといえます。長身の男性も使用するため車輪径もミニではなくなり26または27インチが主力となり、 海外とは全く異なる独自の自転車文化となっているのです。ママチャリはその存在があまりに身近であるため、評価されることはほとんどありませんが、日本の生活に与えた影響は非常に大きいといえます。

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