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2022年12月の記事一覧

「能勢農場」は本当に過激派のアジトなのか

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6月の本ブログで、未解決の1993年11月西宮競輪場の売上金2700万円強盗事件の真犯人が「鉄ちゃん」こと金翼哲(キム・イクチョル)を実行犯とした犯行グループであるというという投稿をしました。犯行グループは、西宮競輪場強盗の翌年94年8月には福徳銀行3億円強盗に成功、2つの強盗事件は未解決のまま時効を迎えました。

この事件について取材をしていた朝日新聞の森下香枝記者が2007年に出版された「真犯人」(2007,朝日新聞社)で、新事実としてさらに鉄ちゃんが昭和最大のミステリー「グリコ・森永事件」の犯人「かい人21面相」であるという衝撃の報告をしています。

昭和を生きた人なら「グリコ・森永事件」を知らない人はいないと思いますが、同事件も未解決のまま時効を迎え、今でもその犯人像を巡って様々な考察がされています。2020年には事件をモチーフにした映画「罪の声」は日本アカデミー賞にノミネートされ最優秀脚本賞などを受賞、原作者の塩田武士さんは新聞記者をしながら事件を再調査、「極力、史実通り再現しました」と発生日時や事件報道を再現しています。

映画では、かい21面相は複数犯であり、鉄ちゃんらしき人物や株価操作の仕手筋に加えて、過激派の共産主義者が犯人が群像劇として描かれています。森下記者の「真犯人」ではさらに具体的に、江崎グリコ社長誘拐や森永製菓青酸ソーダ混入の実行犯の通称「ビデオ男」が鉄ちゃんであるとされ、重要参考人のいわゆる「キツネ目の男」として極左の男が捜査線上にあがったとしています。本を読んでいて犯人について少し気になったので実際に現地まで行って調べてみました。

昭和の日本を震撼させたキツネ目の男とはいったい誰なのか。「劇場型犯罪」とされ多くのメッセージで警察を翻弄した「かい人」は一節の句を詠んでいます。

 

はなよりも 箕面のさとの もみじ狩り みのひとつだに とれぬけいさつ

 

新古今和歌集の一節をもじった句からは、犯人が挑発的で知的水準がかなり高いことが見て取れます。箕面とは青酸入り菓子が発見された場所のひとつで紅葉の名所と知られています。大阪市内から北へ20キロ、大阪平野最北端で、さらに北側にいくと能勢町となり、山がちで大阪では珍しく農業が盛んにおこなわれている地域となります。

 

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公安はグリコ森永事件の容疑者として、能勢で自然派農場「能勢農場」の設立メンバーの上田等(うえだ・ひとし)を執拗にマーク、農場を昼は鍬を持ち畑を耕し、夜はマルクス主義を座学する「過激派の巣窟」としていました。

上田は1952年6月の「吹田事件」のリーダーのひとりで、笹川良一宅襲撃の部隊の責任者でした。吹田事件は日本共産党と在日朝鮮人が結託し計画された騒擾事件で、大阪大学豊中キャンパスに集結したデモ隊がその後に分裂し夜通し各所を遊撃したテロ事件です。詳しくは本ブログで以前に投稿していますのでそちらを参考いただきたいのですが、襲撃当日は笹川本人は自宅に不在で、情報と証言不足から起訴や逮捕者もなくこの事件は記録から消滅し、裁判終了後も未解明となっていました。

 

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▲15人が有罪となった三大騒擾事件のひとつ「吹田事件」1963年6月22日 読売新聞 夕刊

 

 

上田の父親は東大数学科出身の数学教師、祖母が私立学校の金蘭会学園の創設者のひとりで上田も北野中(現在の北野高校)卒の秀才で、日本共産党大阪府委員会の農村対策部長をつとめ「人民新聞」という新左翼系新聞発行の中心人物です。

日本共産党は1951年にマルクス主義に基づく革命闘争「51年テーゼ」を協議会にて決議、暴力による革命を公然と掲げ各地で武力闘争を繰り広げていました。これは49年に中華人民共和国が闘争によって成立した影響が大きく、コミンフォルム(コミンテルン)は暴力による世界同時革命を目指し「吹田事件」もこの思想に基づいた反米活動のひとつでした。ところが日本共産党は1955年の六全協(日本共産党 第6回全国協議会)にてコミンフォルムの意向に反して非武装路線に方針を転換、これに対して上田は日本共産党の主流派を「修正主義」と非難し除名され、過激派「日本共産党(解放戦線)」の中心メンバーとなります。

 

上田は新聞発行に関わりながら茨木市のヤシマ乳業という牛乳メーカーに勤務していましたが1964年に同社が廃業、失業した上田は大胆にも襲撃した笹川宅の隣町の箕面市今宮にて牛乳販売の事業を始め、自転車で牛乳を配達して生計を立ててました。今宮は青酸菓子が発見された「ダイエー箕面店」「大丸ピーコック千里中央店」にも路線バスでアクセスが容易な場所で、ヤシマ乳業の設備をグリコ傘下の企業が買収したつながりから公安当局は上田を何度も捜査をしました。牛乳事業以外にも上田は様々な事業に関わり、74年から大阪府の北端の能勢町にて左翼学生を集め、自給自足を目指して養鶏や有機野菜栽培などの指導者として共同農場を始めます。

 

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能勢町は人口1万人ほどの山林や田畑の多い地区ですが、能勢電鉄や国道173号線が整備されていています。傾斜が強いため、ママチャリやスポーツ自転車初心者には厳しいですが、猪名川の上流の渓谷や一庫のダムのダム湖は風光明媚で、一時期は島田紳助さんが郷土の魅力に取りつかれてたほどです。能勢農場は険しい山を抜けた北側の京都との県境付近にあるようです。

 

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農場の設立目的は「人間解放をめざす人が多く生まれ、育つこと」と「農場憲章」に掲げられ、政治にも積極的に関わり、選挙になれば内部から候補者を出し、それができない場合は思想の近似する候補者の支援をする組織で、81年からは北大阪を中心に活動している消費者団体「関西よつば連絡会」と密接に活動をしていました。現在「よつば」は4万世帯の会員を支える大所帯で、衆議院議員の辻元清美氏や箕面市議の藤沢純一氏などを積極的に応援するなど、組織的に支援をしていました。藤沢は「よつば」と共に消費者運動を行っていた経歴を持ち、農場への体験ツアーも行っていました。そして、2004年にはグループの全面的支援を受けて箕面市長に当選、しかし、藤沢は一連の活動を「ひとことで言って、古い!」と批判、自然派食品を販売していながらインスタント食品に頼る活動員の生活を改めなければ前進は望めないとしています。

 

 

nose farm

 

農場に実際に行ってみると一帯が山に囲まれた田園地帯のため、どこからが「能勢農場」の敷地なのかはっきりとしませんでしたが、10台ほどの自動車と2台のライトバンが止まっている場所があり、横道を入るとかわいい牛が牛舎から顔をだしていました。牛を見ていると40歳前後の農作業着の男性が「こんにちわー」と笑顔で通り過ぎていました。上田は心臓発作と脳卒中を患い車いす生活で生きていれば94歳、男性が上田ではないことは確実ですが、通りすがりに「あなたは過激派なのですか?」といった不躾な質問もできる訳もなく、会釈だけすると男性は足早に建物内に入っていきました。

農場は憲章にて「来るものはこばまず、たてこもらず開かれた農場を目指す」を掲げ、子供動物園やテレビ取材受けるなどしていて、過激派特有の物々しさは別段ありませんでした。

 

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脇田憲一著「朝鮮戦争と吹田・枚方事件」(2004,明石書店)にて、上田は、笹川宅襲撃の首魁であることを認める供述をしている一方でグリコ事件は容疑を完全に否定、81年にヤシマ乳業の背任容疑で逮捕はされましたがそれ以外の容疑は訴追されませんでした。

前回の投稿の通り笹川は個人で空軍を組織するほどの有力者です。両者は右と左で思想こそ正反対ですが、命を張って自身の信念を貫く姿勢は共通するものがあるのかもしれません。上田の思想を受け継ぎ、この施設から窮地の日本を救う人材が出てくるのでしょうか。

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舞い上がれ!東大阪「大阪防空飛行場」跡 散走

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今からちょうど120年前、米インディアナ州東部出身のウィルバー・ライトはオハイオ州デイトンで自転車店「ライト自転車商会」を経営していました。この頃、ミシュラン兄弟によって空気入りタイヤが普及が進み、米国でも自転車が急速に広がっていました。ウィルバーの自転車店も評判で、売上金を元手に弟のオーヴィルと飛行機「ライトフライヤー号」の作成に挑戦、1903年に世界で初めての動力飛行に成功しました。飛行距離36m、見物人は5人と注目されていませんでしたが、大空への夢を乗せたこの12秒は人類にとって大きな一歩でした。

今期、NHKで放送中の朝ドラ「舞い上がれ!」は、大空を舞う夢をみるヒロインを福原遥さんが演じ「育成成功」と話題を集めています。舞台は町工場が集中する平成期の東大阪、幼少期から飛行機に憧れ、夢を実現するために懸命に生きる姿が描かれています。

 

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東大阪は大阪平野の東部にある政令市で、技術力の高い中小企業が多く集まり人工衛星「まいど1号」の開発でも知られています。自転車関連企業もベビーシートのOGK技研などがあり、大阪市からも近いことから物流拠点としても活用され、トラックの通行量が多い地区になっています。

 

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自転車ベビーシート全国首位の「OGK技研」(東大阪市高井田)

 

福原さん演じる舞ちゃんの家はネジ工場という設定で、髙橋克己さんが社長として舞の父を演じています。東大阪にはラグビーの聖地「花園ラグビー場」があり、毎年高校ラグビーが開催され、2019年にはラグビーのW杯の大会にも使用されました。舞の父は元ラガーマンという設定で、高校時代にラグビー部だった高橋さんのはまり役となっています。

 

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戦後より、この地区で働く工場労働者のために提供された濃い醤油味の中華そばは「高井田系らーめん」として全国的に知られ、点在する麺屋に多くのラーメンファンが訪れています。チェーン店と異なり、店は狭くトイレもない店がほとんどですがリーズナブルな価格と受け継がれている癖になる太麺は地元民にも愛され、私がこの日入った「中華そば 住吉」も常連で満席でした。

 

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舞ちゃんは航空工学を専攻すため「浪速大学」に入学、人力飛行機のサークル「なにわバードマン」に入り琵琶湖での記録飛行を目指しパイロットに志願、12万8000円の中古ロードバイクを値切って購入しトレーニングに励むようになります。役作りのために福原さんはロードバイクの乗車レッスンを受けて、ロケは実際に東大阪市内の自転車屋と公園で収録されたようです。浪速大は架空の大学で大阪公立大がモデルとなっています。大阪公立大は市大と府大が統合されて本年に開設された大学で、現在森ノ宮に新キャンパスを建設中です。新キャンパスから高井田までは5kmほどで、ロードバイクなら30分もかからない距離となります。新キャンパス予定地には、かつて「城東練兵場」があり戦前に飛行場として使用されていました。

 

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森ノ宮に建設中の大阪公立大の新キャンパス 2022年11月撮影

 

城東練兵場は狭小で周囲に障害物多く夜間飛行ができず、航空産業の発展や大阪の防空のためにより大きな専用施設が必要とされました。そこで1933年に東大阪に計画されたのが「大阪防空飛行場」です。大阪防空飛行場は広大な施設でしたが、終戦後に敷地が払下げられ残念ながら当時の面影はほとんど残っていません。このことはおそらく朝ドラで語られることもないでしょうが、現在の東大阪に町工場や倉庫業が集中しているのもこの飛行場が大きく関係しています。

 

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水田の真ん中に開港した「大阪防空飛行場」 伊藤隆編「国防と航空」(2010,中央公論新社)

 

この頃、アメリカではチャールズ・リンドバーグが大西洋横断飛行に成功するなど名声を獲得、31年には航路の調査のため来日し航空技術が目覚しく発展した時代でした。アメリカに追いつくべく国粋大衆党の党首・笹川良一は京阪神の防空のため私費を投じて「国粋義勇飛行隊」を設置、21名の飛行士を養成し中河内郡盾津村(現在の東大阪市新庄周辺)の水田の真ん中に同飛行隊の専用飛行場の建設を計画しました。施設は完成後に笹川の意思により陸軍に寄贈され終戦まで運用されました。

笹川も舞ちゃん同様に幼少期より飛行士を目指し、小学校を卒業すると軍隊に入隊します。ライト兄弟の快挙からまだ10年ほどしか経っておらず、一般には飛行士は冒険家のような扱いをされていた時代です。しかし、笹川の家系は裕福な庄屋で、良一少年は父に飛行機1機を手配をうけて、入隊時には操縦術を習得していたようです。

笹川はその後右腕を負傷し政治家に転身、第二次世界大戦が勃発し「バスに乗り遅れるな」とほとんどの議員が「大政翼賛会」に合流する状況下で行われた翼賛選挙(第21回衆議院議員総選挙)にて当選、笹川は株式相場で財産を蓄えて北浜に事務所を構えて東條内閣に反対姿勢の大衆政党「国粋大衆党」にて出馬していました。

 

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笹川の活動は大阪にとどまらず、自らが戦火の最前線に飛び立ち、日中戦争最中の関東軍やスパイの川島芳子を慰問、満州国皇帝の溥儀や中国南京政府の汪兆銘と面会するなどしました。前回の投稿の通り、日本は満州の利権をめぐって世界から孤立していて抜き差しならない状況でした。笹川はムッソリーニに協力を仰ぐためイタリアに飛び会談、翌年には「日独伊三国同盟」が締結され英米からの侵攻を回避しました。

 

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ムッソリーニと会談に向かう笹川良一(中央の袴の男性) 

 

飛行場では資材不足の戦争末期には松下航空機が木製飛行機を試作、松下航空機は松下幸之助の義弟の井植年男が代表を務める企業で飛行場のそばに工場を新設し、戦後は三洋電機として家電メーカーに転業、昭和を代表する大企業へと成長します。

 

「300万台重要は、ざらにない」

 

松下幸之助も井植と同様に戦争が終わると家電生産に復帰、1951年には自転車の大きな需要を見込み製造を開始し米国輸出やタイヤ工場の建設など業界をけん引します。50年代の長者番付上位は井植と幸之助、そしてブリヂストンの石橋正次郎と自転車産業は花形産業となり、自転車企業の集中する大阪は戦後の焼野原から見事に復活をとげます。1970年に開催された「日本万国博覧会」はまさに大阪の絶頂を象徴し、三洋館「人間洗濯機」や競輪助成金によって敷設された「動く歩道」は世界を驚かせました。

 

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大阪万博に使用されたサンヨーの電動自転車 「EXPO’70パビリオン」 所蔵

 

以前にも紹介しましたが笹川と幸之助は同じ宗教を信仰し、共に社会貢献活動に熱心に取り組みました。笹川は「競艇のドン」として知られ、最近では「国際勝共連合の~」といった文脈で語られ悪名を着せられていますが、同氏の功績はその時代背景とあわせて考えなければならないように思います。

 

 

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戦争が終わると飛行場の敷地は払い下げられ現在のトラックが行き交う工場地帯となりました。盾津中学校の北側にはひっそりと慰霊碑があり、この飛行場で訓練を受けて沖縄の海で敵艦目掛け戦死した学生を追悼しています。自転車に跨り慰霊碑を眺めていると、教員の方が校内に入れて下さり銘板を見ることができました。銘板には笹川の名はなく「民間からの寄付」と説明されていました。

笹川の誰もが驚く破天荒なストーリーはおそらく「舞い上がれ!」にはないと思いますが、前回の朝ドラの失速から「#ちむどんどん反省会」とSNS上で話題になった「二の舞」だけにはならないように見届けたいと思います。

 

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安威川に咲いた「尊農・二反長音蔵」の白い花

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大阪平野を東西に流れる神崎川は大阪市北端の境界で、中流で北から流れる安威川(あいがわ)と合流し大阪湾に注ぎます。安威川は茨木・摂津・吹田市など三島郡を流れる一級河川で河川敷が整備され、自転車が走行できるようになっています。秋も深まり自転車に乗るのに気持ちいいシーズンとなりましたので、大阪平野の最北端の茨木市まで、安威川沿いをサイクリングしてきました。

 

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茨木市は「伊豆の踊子」「雪国」で知られているノーベル賞作家の川端康成が幼少期に過ごした郷です。川端は成績優秀で茨木中学(現・茨木高等学校)に首席で入学、作家を志望するようになります。茨木中は府下でも屈指の名門校で、地元農家の二反長半二郎(にたんちょう はんじろう)も川端の影響を受け入学、二反長半(にたんちょう なかば)のペンネームで文筆活動をしていました。二反長半は児童文学や伝記などを数多く執筆「自転車と犬」(鶴書房,1941)、「松下幸之助」(盛光社,1964)、「若き池田大作」(集英社,1971)といった作品を残しています。二反長家は村をまとめる篤農家でしたが、半は法政大学に進学後に教員となり作家活動をしていたそうです。父の後を継がなかった理由としては川端の影響もありますが、それ以上に二反長家が栽培していた植物の品種に関連しています。

 

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半の父・二反長音蔵は1875(明治8)年三島郡福井村生まれ、旧姓は川端。
20歳頃からケシの栽培に興味を持ち船場の道修町で種子を買い込み、独自で品種改良や栽培方法を研究します。ケシはアヘン・モルヒネ・ヘロインの原料で当時でも国内では中毒などの薬害が十分に認識されていて、政府の厳重な管理のもとで栽培されていました。音蔵は薬用アヘンの国内での自給自足を目指し、台湾産ケシから「福井種」、中東産から「三島種」といった優良種を開発、台湾総督府の後藤新平にも高く評価され日本政府から信頼を受けていました。

 

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江戸時代に日本は200年以上も鎖国政策をとっていましたが、その間世界では交易が盛んになり、コーヒー・紅茶・タバコなど依存性の高い嗜好品の貿易が増えていきました。なかでもアヘンは東アジアで嗜好され諸国に広がりました。1895年日本は日清戦争の勝利により下関条約で清国から台湾の割譲を受けます。台湾原住民はアヘンを嗜好し、蔓延の対策に指名されたのが医師の後藤新平でした。後藤は原住民との衝突を避け円滑に統治できるようにアヘンを禁止するのではなく漸減策とります。アヘンを日本の管理下に置き台湾国内での栽培を禁止、星製薬の星一(作家の星新一の父)の力を借り専売制を実施、毒をもって毒を制する手段を取ります。

 

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一面に広がるケシ畑の光景  向かって一番右が二反長音蔵   「戦争と日本阿片史」より

 

国家的な政策により音蔵のケシ畑の耕地面積は増え福井村を中心に500アール、18000人の搾取人を要し、春になると安威川沿いには一面のケシの花が咲き、最盛期には和歌山県有田郡にも作付けされ、国内の98%を供給したそうです。音蔵はケシ栽培に情熱を掛ける一方で自転車で「テクッ」ることを好み、船場や和歌山の耕作地まで汽車を使わず英国製「ラーヂ号」を使って移動してたようです。

 

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「ラーヂ号」を販売する茨木市内の自転車店 (1934年頃) 在郷町古きまちなみ写真展より

 

時は流れ1905年、日露戦争でロシアに勝利した日本はポーツマス条約により南満州鉄道の運営に着手、鉄道の警備員「関東軍」を配備します。歴史はこの鉄道を舞台に諜報戦となり、31年に日本は清朝最後の皇帝・溥儀を担ぎ中国北東部に満州国の建国を宣言します。五族協和を掲げ建国された満州国でしたが実態は日本の傀儡国家で、各国の諜報員が暗躍するスパイ天国となっていました。アヘンは戦略的物資として特務機関「里見機関」よって地下組織に密売され、中国と軍事衝突していた関東軍の秘密資金とされました。

満州国内では急速にアヘンの需要が増加、吉林で900軒、チチハルで500軒と各地でアヘン窟が公然と営業されました。なかでもハルビンは魔窟「大観園」をはじめ3000軒以上の吸引所があり、過酷な労働に従事する人を蝕んでいました。

アヘンは国際条約で禁止されているため日本が国家主導で直接売買はできませんので、政府はあくまで「民間企業」が法の目をくぐり狡猾に密売を行っているという建前で、実態は関東軍主導の極秘任務で音蔵はその片棒を担いでいました。

 

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もちろん、このような事実は当時の日本人は知るすべもなく長く秘匿されていました。しかし1998年10月、愛知県立大学倉橋正直教授が音蔵の遺品である門外不出の箱の調査を二反長家に依頼、死後一度もあけられた形跡のない箱内の資料により音蔵の特務が明らかにされました。

音蔵は馬にまたがり50名の満州国軍の護衛兵を率いて吉林省の山岳地帯の奥地に出向きケシの栽培を指導、満州国から招かれたこのときの自らの様子を「阿片王一行」と記しています。音蔵は67歳にして伊勢から自宅まで自転車に跨り1日で走破する健脚ぶりだったそうですが、初めて乗った馬のサドルは音蔵には合わず移動中は尻の痛みに悩まされたようです。ケシ栽培は実地指導だけでなく、作付け品種の選定から技術面の指導など非常に計画的に行われ、朝鮮・蒙古を含み合計で少なくとも37回の外地旅行に出かけたとしています。

 

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満州国の阿片精製の実景 二反長半著「戦争と日本阿片史」(すばる書房,1977)より 

 

しかし、関東軍のこのような偽装工作は米国スパイによって徹底的に監視され、軍拡を警戒した米国は国際連盟の諮問機関の委員会にて日本を糾弾、満州の独立を認めず中国からの撤退を勧告します。英米は蒋介石率いる中国国民党を支援、中国侵攻から大東亜共栄圏の確立を目指す日本に原油の輸出禁止措置など経済的に制裁を下します。引くに引けない日本は国連脱退を表明、英米との全面戦争へと発展していきます。

 

 

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日本国内ではアヘンが蔓延した歴史はありませんが東アジアでは通貨のように使用され、法律で禁止しても断つことは難しく、扱いを間違うと人だけでなく国家そのものをダメにしてしまうこともあります。音蔵はアヘンの吸引や密売に手を染めることはありませんでしたが、研究や旅費に多額の財産を費やし所有していた山林や田畑など財産を次々と手放し、晩年は「尊農」を自称し宗教にのめり込みました。

現在、福井ではケシ畑のあった形跡は消え去り、二反長家の隣にあるJAの職員や近所の老人たちに聞いても、そんな話は初耳だと言っていました。100年前、音蔵が「テクッ」た安威川の河川敷の轍、伊勢から150kmを走り帰宅した際も音蔵は「少しも疲れなかった」と言っていたそうです。

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シマノ自転車博物館 特別展「自転車の旅 様々なかたち」

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堺東にあるシマノ自転車博物館で開催中の特別展「自転車の旅 様々なかたち」とみてきました。
特別展は「心と心の共鳴」をテーマに4階の特別展示室で2023年3月19日まで催される予定となっています。

 

jitensha tabi

展示は3つの旅が取り上げられていて、実際に旅で使用された自転車だけでなくパネルやVTRなどを使用し、旅先でのふれあいや思い出が再現されています。

①宇都宮夫妻
②坂本達ファミリー
③西川昌徳と参加者

 

cannondale

 

 

★★

 

 

 世界で一番長いハネムーン 宇都宮一成・トモ子

宇都宮夫妻は1997年から10年半、五大陸88ヶ国10万キロを2人乗りのタンデム自転車で走破、その旅行記「世界でいちばん長いハネムーン」(風濤社,2010)は495ページあり、一日一日の旅の様子が残されています。エピソードから鉄砲玉のようなご主人を勝手に想像していましたが、展示車からは意外と用意周到で本のイメージとは少し違ってました。

自転車は「zephyr」(ゼファー)製のMTBタイプのクロモリ製のスペシャルメイド、同著によると自転車は2台あるようで「二代目はアルミ製フレーム」とあることから、1台目の自転車の方なのでしょうか。zephyrは以前にも紹介した「東京セブンメンバーズ」一員の自転車店「東京サイクリングセンター」のオリジナルで、おそらく鳥山新一監修、フレームは東叡社によって製作されたものだと思われます。

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宇都宮夫妻の東京サイクルリングセンター「zephyr」のタンデム自転車

 

 

 

② 家族で自転車世界冒険 坂本ファミリー

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▲ TOPEAK「Babyseat」を装着した坂本ファミリーのマウンテンバイク

 

坂本達さんは子供衣料ブランド「ミキハウス」の社員で、特別有給休暇を取得し1993年から4年3ヶ月かけ5万5千キロの自転車で世界一周を走破、2015年10月からは佳香夫人と3人の子供共に自転車旅を続けています。著書「やった。」は私が初めて読んだ自転車紀行文で個人的に思い入れがあります。続編の「ほった。」とそれぞれ写真が豊富で読みやすく、高校や中学の教科書に採択されているようです。

ミキハウスは八尾市の企業で坂本ファミリー以外にも多くの支援活動を行っていて、博物館では自転車絵画コンテスト「ミキハウス賞」の展示も同時にされていました。

mikihouse
▲自転車絵画コンテストに協賛する子供服衣料メーカー「ミキハウス」

 

③子供たちと自転車旅  西川昌徳と参加者

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▲西川昌徳さんは2019年からは「daily life bicycle cafe」で日本縦断

 

西川さんは1983年兵庫県姫路市生まれ、12年間で36ヶ国9万キロをマウンテンバイクで走り学校公演などで子供たちに旅人の物語を伝える活動をされているそうです。私はこの特別展で初めて西川さんのことを知りましたが、2019年からはコーヒーを通じて出会いを生み出す「daily life bicycle cafe」にて日本を縦断、そして反日政治や反日デモを性懲りもなく展開する韓国に見かねて、あえて服の袖に日の丸を付けて無料でコーヒーを振る舞う活動「Free Coffee」をしているようです。

 

 

★★

博物館は本年3月に大仙公園から堺東駅にリニューアル、特別展以外にアドベンチャーバイクが何台か展示されていて楽しめるようになっています。

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シマノ自転車博物館
[施設] 大阪府堺市堺区南向陽町2-2-1
[開館時間] 午前10:00~午後4:30
[休館日] 月曜日、祝日の翌日(土、日の場合は開館)

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戦後初の女性国会議員「山口シヅエ」の正体

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ヤクザが仕切る盗品が並んだ新橋の闇市、桃太郎旗を掲げた男がカランカランと鐘を鳴らすと食べ物屋が来たと思い込んだ人がつられて焼け跡のバラックから駆け出し外へ出てきます。集まった人を前に白いブラウスにハイヒールを履いた初々しい女性がおさげ髪を揺らし壇上に上がり、名を名乗り笑顔でなにやら演説を始めました。老猿のような男性が持つ旗には「山口シヅエ」とあり、演説は二人三脚で脚がパンパンになるまで歩き回り、貴重品の紙を大量に手配しパンフレットを配布、戦火で荒廃した東京の新しい時代の幕開けでした。

 

「一日六時間働けば食べていける、そんな世の中をつくりましょう。そうすれば、女が働きながら子供を育てられます」

 

1945年8月、日本は二発の原爆の投下により壊滅的な被害を受け降伏、6年あまりにわたって続いた連合国との戦争は昭和天皇による玉音放送にて終結します。その後、GHQの管理下で婦人参政権が認められ翌年4月10日の総選挙では1300万以上の女性が投票、39名の女性代議士が誕生しました。

 

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 山口シヅエ 日本で初めての女性国会議員 

 

新憲法下初めての総選挙は31%の議席を獲得した日本社会党が比較第一党となり、民主党などと連立を組み片山内閣が発足しました。日本社会党というと中ソと交流を重視した政党のイメージがありますが、社会党が東側諸国から秘密資金を受けるなど左傾化したのは、日本共産党が「非武装」路線に主義を修正し中国共産党との関係が悪化した1955年以降になってからで、発足当初は党内に複数の派閥があり、シヅエはキリスト教社会主義指導者の強い影響と後ろ盾を受けて初当選、日本で初めての女性代議士としての道を歩み始めました。

5月16日、この日に初めて国会に登庁した39人の女性議員の中でシヅエは最年少の28歳、東京1区という大激戦区で鳩山一郎(後の首相)に次ぐ得票数を獲得し「下町の太陽」と評され、党の看板娘となります。このときの39名の大半が再選できず1期で政治家生命を終えるのに対して、シヅエは通算当選回数13回で1980年代まで政治家として活動し、在任中には女性運動や売春防止法の制定に力を注ぎ、全国婦人連盟会長や経済企画庁政務次官などを務めました。

シヅエは30年以上に亘る政治家人生で幾度となく辛酸を舐めます。なかでも1967年の衆議院選では、党内の派閥抗争で選挙違反を問われ書類送検、不起訴となったものの不信感から社会党を離党、追いかかるように恋愛スキャンダルや元秘書の資金横領にも見舞われました。シヅエは戦争で実弟を亡くし、深川にあった自宅も空襲で被災に遭い丸裸で、唯一心の頼りにしていたのは父親の重彦でした。

 

 

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▲ 山口重彦 独自の経営力で山口自転車を一代で築いた

 

父親の山口重彦は1894年生まれ、ダット自動車(現在の日産自動車)で技師として勤務後に「山口自転車」を設立、8000店もの小売店網を構築し一代でトップメーカーにしました。ABCD包囲網により国内の原油備蓄がわずかとなった戦時中、蒋介石を支援する英国の援蒋ルートを断つため、シンガポールを目指し侵攻していた我が国の歩兵部隊は英領マレーに石油を使用しない自転車部隊で南進、山口の自転車の工場は「銀輪部隊」の軍需によりフル回転しました。戦後も商才を発揮し、自転車業界が協会の談合で販売価格を決めあぐねている間に他社を出し抜く廉価価格の長期月賦方式を採用し自由競争時代をけん引、ママチャリなどまだ存在もしない時代に女性にターゲットをしぼった専用自転車「スマートレディ」の発売など業界を騒然とさせました。シヅエが立候補を決めると、仕事そっちのけで選挙活動に付き添い惜しみなく私財を投入、自身も選挙にのめり込み出馬を決め参議院議員を2期務め、政治と自転車メーカーという二足のわらじを履き周囲の注目を集めていました。

 

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山口自転車の女性専用自転車「スマートレディ」 シマノ自転車博物館所蔵  [筆者撮影]

 

シヅエが初当選した翌年9月、首相となった片山哲に愛知県選出の社会党代議士から政策に関わるある計画の詳細が説明されました。

「車券付き自転車競技、つまり競馬のようなものだね。まあ、ちょとだけの賭け金なら認めてもいいだろう」

片山はキリスト教徒で社会民主主義者として知られ、滅多に自分の意見を明らかにしない人でしたが、戦災で映画館や劇場も焼け、労働者の娯楽があまりない情勢を考慮して「車券付き自転車競技」の実現の協力を約束しました。11月、衆議院内の議員食堂にて各党の代議士と提案者が会合を開き趣旨や経緯を説明、シヅエは集まった出席者に茶菓を接待し会合は和気あいあいと進められ、計画は提案者から懇請されました。

車券付き競走という奇抜なアイデアの種をまいたのは南関東自転車競技会の海老沢清文副会長でした。海老沢は「自転車産業の復興とサイクルスポーツの振興」を大義名分に自転車産業界とパイプを持つ倉茂貞助に原案の作成を依頼、自転車総合メーカー日米商店(現在のフジ)の岡崎進社長を引き込み議員に陳情にあたりました。岡崎の父は日米商店の創業者で当選6回の衆議院岡崎久次郎、そして叔父も外務大臣をつとめた代議士で、法案は瞬く間にまとまりました。

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㊧倉茂貞助 自転車競技法の制定に尽力
㊨海老沢清文 競輪の発案者

 

ところがこの頃はまだわが国はまだ連合国軍の占領下にあり、法律案には総司令部の了承が必要でした。法案は一旦は総司令部民政局に受理されたましたが、GHQ内の派閥関係の事情で不認可となります。認可取り消しに驚いた議員団は、改めてひざ詰めで法案の上程を談判し、ようやく「自転車競技法」が審議されます。

法案は共同提案として超党派で付託され、シヅエら委員によって審議、自転車産業の復興と京都市・大阪市・横浜市・神戸市・名古屋市の5都市地方財政の増収を目的と定めて議論されました。法案は衆議院で満場一致、参議院では賛成多数で可決し競技法は成立、衆議院本会議において日本自由党の委員から一部修正の申し出があり、主目的が「自転車産業の復興」から「戦災都市の復興」に重点が変更され空襲の被害にあった206都市が開催候補地としてリストされました。

競輪というスポーツは日本以外では開催されていない新競技で、主催することで利益が本当に得られるのか分からず各地の反応はさっぱりでしたが、1947年には福岡県小倉競輪と大阪の住之江競輪で開催されました。すると熱狂的な人気を博して、全国の60の超える競輪場で開催されるようになり、復興の貴重な財源となり主催自治体の財政を下支えました。そして、75年経った現在もこの内で43施設が現役で、当時の想定をはるかに超える天文学的な恩恵を地域にもたらしています。

一方で競輪は直接的に自転車産業にもたらす恩恵は少なく、山口自転車は1963年に経営不振となり重彦も体調を崩し65年に71歳で他界してしまいます。倒産の原因は選挙に資金をかけすぎたこととオートバイ事業の失敗といわれ、生産設備は台湾の穂高(ホダカ)に売却、「山口」のブランドは大手商社の丸紅に受け継がれ「山口ベニー」としてランドナー「べニックス」などヒット車を生みます。シヅエは同社に飯事部の部長して勤務していましたが、立候補後は家業を離れ政治活動に専念していました。

 

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山口ベニー「べニックス」の雑誌広告  サイクルスポーツ1975年6月号

 

シヅエは1967年に政権与党の自由民主党に入党、異端の政治家また同政党の唯一の女性代議士として精力的な活動をし、80年には女性として初めて国連平和賞を受賞、引退後には女性政治家の草分けとして瑞宝章を授与されます。

「日本の女性の社会的地位は、戦後飛躍的に向上しましたが、まだ男性と対等に実力を発揮している訳ではありません。対等の報酬を受ける時代がいずれ来るでしょうが、そうした時代に向けての捨て石になれたと、満足しています。」

2012年、山口シヅエは94歳にて波乱の生涯に幕を閉じます。
競輪誕生から75年、孫の世代まで恩恵をもたらす驚異の構想、そして功名心を捨て献身的な姿勢で将来を見据え達観する姿、サンスター自転車の金田邦夫の投稿にも記しましたが、落ちぶれた令和の日本人がまさに規範とすべき人生のように思います。

 

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瑞宝章を授与された山口シヅエ 読売新聞 1987年11月27日夕刊

 

 

■参考 <日本人の国連平和賞受賞者>
1979年 岸信介 (元首相) 日本人初の受賞
1980年 山口シヅエ 女性初の受賞
1981年 福田赳夫 (元首相)他1名
1982年 笹川良一 (日本船舶振興会会長)他2名
1983年 池田大作 (宗教法人会長)他1名
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