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本年2月、作家で政治家の石原慎太郎が亡くなりました。ブログ投稿のためちょうど「巷の神々」(1967,サンケイ新聞出版)を図書館で借り、読んでいたところだったので大変に驚いたように覚えています。私は1978年生まれで作家時代の石原のことは実はあまり良く知らず、20年程前、東京都民だったせいか都知事としての印象が強く残っています。没後にその他の著作や関連書籍などを読み、私なりに「政治家 石原慎太郎」の政治人生を考察、本稿にまとめ、振り返ってみました。

石原は大学時代に「太陽の季節」(1956,新潮社)で芥川賞を受賞、産経新聞で「巷の神々」を連載したことをきっかけに宗教的な後援を獲得し、68年に自由民主党公認で参議院選挙に出馬、圧倒的知名度で史上最高の票数を集め初当選、72年には衆議院に鞍替えをします。

 

その頃、東京では社会党と日本共産党は同和問題を巡り対立、両党が支持する美濃部亮吉知事は、1975年4月の次期都知事選に不出馬を表明していました。ところが、衆議院任期中の石原が名乗りを上げると分裂状態の左派が「ファシストの石原だけには都政は渡せない」と一枚岩となり、3選を目指し美濃部を引きずり出します。

 

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都知事選で落選した石原慎太郎と片目ダルマ  (朝日新聞 1975年4月14日夕刊)

 

 

「都政の荒廃を立て直し、新しい東京をつくる。私は生まれ変わるつもりでこの大仕事に取り組みます」

石原は自民党の推薦を受け美濃部に挑みますが、大都市を中心に革新勢力が躍進、人口の多い東京・大阪・神奈川の3都府県で保守勢力が破れます。

 

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▲ 公営ギャンブル廃止を掲げ当選した美濃部亮吉 (朝日新聞 1975年4月14日)

 

美濃部亮吉はマルクス経済学者で、任期中に公営競技を公害の一種とし「公営ギャンブル廃止」の見解を掲げ、東京都競走事業廃止対策本部を設立し後楽園競輪・京王閣競輪など5施設の廃止の方針を示していました。石原の敗北はこれらの方針を決定づけるものとなりました。

 

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1973年に廃止された後楽園競輪場 「競輪二十年史」(1971,自転車振興会)

 

石原はその後に国政に復帰、1990年には長男の伸晃氏と共に親子で衆議院となり、95年に在職25年表彰を受け衆議院議員を辞職しました。伸晃氏は「父の頭の中には、24年前から一貫して都知事のことがあった」としています。

石原の衆議院議員辞職から4年後の1999年、青島幸男知事がわずか1期で都知事を退任、青島は東京都初の中道ノンポリのタレント政治家で、臨界副都心開発事業「世界都市博覧会」中止を公約に掲げ当選、公約通り都市博を中止したものの、ただそれだけで主だった実績がなく都民の支持を得ることなく任期を終えました。4月11日の選挙戦では石原は渡哲也など実弟の裕次郎の残した「石原軍団」総動員で、他の候補を退け雪辱を果たします。

 

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都知事に当選した㊨石原慎太郎と㊧長男・伸晃氏 (読売新聞1999年4月12日)

 

バブル崩壊による長期的な停滞や杜撰な会計で東京都の財政状況は石原の想像以上で、都は財政再建団体に転落寸前、石原は在任中に外形標準課税の導入や複式簿記化など財政の健全化に取り組みます。また同時に、「東京マラソン」や「首都大学東京」など意欲的に新しい政策事業にも取り組み支持を集め、共同通信の世論調査では「次の首相」として現職の小泉純一郎氏を抑え第1位となります。

 

「これまでの常識を覆す、若者や女性にも楽しめる斬新でスマートな競輪を目指す」
「ドームは雰囲気も違うので、昔と違ったイメージ活用したらいい」

 

石原は、公営競技廃止により美濃部都政以降に減少した都の財源の確保として、後楽園競輪の復活と「お台場カジノ構想」を2つを提唱します。

 

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美濃部路線の転換を表明した石原都政  (朝日新聞 2003年6月24日夕刊)

 

 

東京ドームは88年に完成、後楽園競輪場の跡地に建設され、地下に折り畳み式の競輪用バンクが設置されていると言われています。後楽園競輪場廃止は東京近郊にいくつも競輪場があったことからファンが分散しただけで、競輪の売上げが落ちることはありませんでした。しかし、公営競技の歴史に詳しい大阪商業大の古川岳志氏は「競輪文化」(青弓社,2018)で、後楽園競輪場廃止は「象徴的損失」であったとしています。
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後楽園競輪場の跡地に建つ東京ドーム (2021年7月撮影)

 

石原の新競輪の計画は地元住民の反対にあい難航、お台場のカジノ計画も構想を実現するには現行法の枠内では実現が難しく2003年に断念を発表しました。在任中、石原は2016年五輪招致に失敗や設立した「新銀行東京」の赤字化、さらには築地移転問題など批判も多かった一方で、長期不況で経済が全国的に停滞する中で「東京一極集中」といわれるほど、東京は発展し続け都民から高い支持をえていました。

都民そして全国の支持を受けて2010年に新党を設立、同年に大阪で産声を上げた地域政党「大阪維新の会」と協調し、12年には知事を辞職し「日本維新の会」代表に就任し国政に復帰すると、翌年には悲願のカジノ法案を提出します。法案は議論を重ね18年に成立、石原は高齢のため政界を引退していましたが、舞台は大阪の夢洲に移り準備を着々と進めています。

 

 

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▲ ㊧府市主導のディストピア「咲州」と㊨2025年万博・IRカジノ予定地「夢洲」

 

 

大阪では1955年に赤間文三知事が全国に先駆けて競輪・地方競馬の全廃を決定、55年に豊中競輪場、59年に大阪競馬場、62年に大阪中央競輪場、64年には住之江競輪場と次々に廃止または休止され、大阪府の財政状況は東京以上に悪化、財政健全化のため大阪維新の会代表の橋下徹知事が2010年にベイエリアにカジノ誘致の方針を表明します。安倍政権下で増加したインバウンド需要の恩恵を最も受けた大阪は街の景色を変えるほど観光客であふれ返り、カジノ新設は受け皿として打ってつけだったのです。計画では万博前の2024年に開場を目指していたのですが、コロナや土地整備問題で遅れ、首尾よくいっても26年頃となり経済効果を疑問視する声も上がっています。

 

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石原からバトンを受けた「日本維新の会」副代表の吉村洋文知事 (2020年11月撮影)

 

私は全くと言っていいほどギャンブルはしないのですが、財政論としてカジノという施設の有益性は大いにあり、施設ができたらどんなところなのか一度行ってみたいと思っています。カジノ賛成派です。公営ギャンブルの是非について様々な意見があることは知っていますが、石原が財政策として公営ギャンブルを推し進めてきた経緯はあまり知られていないように思います。

本ブログでは、以前から夢洲の万博跡地を競輪場として活用するべきであると主張しています。カジノ施設は収容人数が限られていて、日本だけでなく全世界から多くの来客があり、オープンからしばらくは入場ができないことは目に見えています。溢れ返った観光客をただただ返してしまうのはもったいないことで、本場のKEIRINを体感していただければ、他国のカジノとの差別化にもなり再訪にもつながるのではないでしょうか。