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TAG: 生駒山

45年間放置されたサイクリングロード、府民の森「ホトトギスの道」

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今年の3月から調査中の生駒山西麓の「ホトトギスの道」ですが、今のところ有力な情報もなく、当時の状況や頓挫している再開計画の詳細は依然としてよく分からないままです。本ブログでは、このサイクリング道の再開のため、自転車走行禁止になった詳しい経緯や整備道の現状などを調べております。長年放置され、役所でももはや存在そのものが忘れ去られた荒道に再び光をあてるべく調査を継続、中之島の図書館に向かいました。

 

【参考】
えっ?!自転車走行禁止のサイクリング道「ホトトギスの道」(2024年3月17日投稿)
幻の自転車道「ホトトギスの道」の全貌とは         (2024年3月24日投稿)

 

 

大阪府には府立図書館が東大阪と中之島に2館あり、中之島は主にビジネス書と郷土資料を所蔵、2012年に橋下徹知事が廃館を表明しましたが、13年に松井一郎知事が撤回、耐震工事や外壁リニューアルをして、現在も書庫の工事中で、明治期の中之島の歴史的な建造物のひとつとして、図書館機能を堅持しています。大阪市内には西区北堀江の大阪市立図書館もあり二重行政のひとつと位置付けていましたが、廃止が報道されると抗議が殺到、すると一転して、三軒隣に絵本など児童書専門の図書館「こども本の森 中之島」が20年新設されました。

ただ中之島図書館は古い建物ゆえに市立図書館と比べ利用しづらく、法律で設置が義務付けられている駐輪場の設置もありません。個人的には統合して民間に貸し出してレストラン等にした方がいいと橋下案を支持していましたが、北堀江にない持ち出し厳禁の古い府政資料があるようなので閲覧しました。

 

中之島は2021年に「こども本の森」の前を通る車道を自動車通行禁止に再整備、憩いの空間が広がりました。市内は外国人観光客であふれている場所もありますが、中之島は歴史景観と都市公園の緑地が見事に融合した美しい地区なのですが、大阪らしさがないためか外国人観光客の姿はあまりありません。

中之島公園では、以前に大阪市が主催で「スマイルサイクルフェスタ」という交通マナーや交通安全をテーマにした自転車イベントを開催、市の関係者に聞くと予想以上の人出があり好評だったようです。しかしながら、予算がカットとなり、18年以降は開催が見送られ今年も開催されないようです。近年では、主婦や自走式自転車の利用者の交通違反動画をSNSで拡散することが娯楽化していて、今こそこのような啓発イベントを開催する意味があるように思います。

 

 

少し話がそれてしましましたが、中之島図書館には「府政百年記念 府民の森」という1968年に府の農林部が作成した資料が蔵書されているようなので、書庫から取り寄せ、事業のあらましを調べました。1週間待って司書の方が差し出した資料は1枚モノの見開きで詳細な記述がないパンフレットのようなもの、分厚い年史のようなものを想像していただけに落胆しました。

資料を開くと帯となった生駒山の山影写真がヘッダーとなり、その下にスケッチとポエムが並んでいました。
スケッチは風景画と挿絵・詳細に描かれた地図がそれぞれ数点あり、事業はあらましが小さく書かれていました。

 

 

地図は割と山道や谷が詳細に描かれ森と森をつなぐ自転車専用道のコースも記されています。1969年3月20日の読売新聞にはサイクリングコースは全長55km、10ヶ年計画で総工費が90億円余り「生駒山を貫く壮大な計画」と紹介され、「ホトトギスの道」という呼称こそみられませんが、計画が遂行されていたことが分かります。また、1992年10月9日の朝日新聞によると自転車道がゲートで閉鎖されたのは1979年であることが分かりました。

 

 

 

資料のあらましには1967年からの9年間で事業費60億円、自転車道は40kmと掲載されていますが、計画と言っていい程の計画はなく完全にどんぶり勘定で、事業自体も明解に大失敗で幻となっています。

 

事業期間  昭和42年度から昭和50年度まで(9ヶ年)
事業費 約60億円
面積  約560ヘクタール 4地区
道路 自動車道(5メートル) 15キロメートル
   自転車道(3メートル) 40キロメートル
   遊歩道(2メートル) 60キロメートル
緑地帯として道路を含め巾員30メートルとし展望台苑35ヘクタールを設置する。

 

これらの無謀な計画は鳥取環境大の吉村元男客員教授が現地調査やデータの収集を含めて、わずか10日で作成を依頼されたもので、時間的な余裕がなく論理的な筋立ては「簡略化」され政府に提出されたようです。というのも、プロジェクトは大阪湾の埋め立てに使用される採石事業の妨害が主目的で、自転車道の敷設など美辞麗句は口実にすぎなかったのです。

 

 

1979年から放置されていた自転車道は、92年に北川イッセイ府議会議員の指摘により、農林水産部長が出入り口の改修と自転車道ネットワークの形成のため様々な施策を協議したいと復活させる意向を示し、9月には開放イベントが開催、家族連れから最高齢の70歳男性など600名、広がり始めたマウンテンバイクブームに多くサイクリストが参加しました。

 

「家族とふれあうゆとりができた」
「自転車ほどおもしろいものはおまへんなあ」

 

北川氏は現地に何度も足を運び計画を「ほんとうに素晴らしい」と絶賛、古い行政資料を発掘し繰り返し陳情しました。その後、北川氏は第2次安倍内閣で国土交通副大臣を歴任、21年に志なかばで永眠されたようです。

 

 

北川氏の死後も門扉は固く閉ざされ、もはや管理道が自転車道であったことも忘れ去られようとしていますが、私は暗峠を含めて、遅れている大阪のサイクルツーリズムの起爆剤として再活用すべきと考えています。今後も再開のための調査を続けていきたいと思います。

 

 

 

<生駒山 ホトトギスの道 年表>
1958 生駒山 国定公園に指定
1968 府民の森計画 開発開始
1969 読売新聞「90億円 壮大な計画」と紹介
1973 ホトトギスの道が開通
1979   ゲートが閉鎖 (自転車道 廃道)
1992 府議会での質疑
2002 府議会にて再陳情

 

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えっ?!自転車走行禁止のサイクリング道「ホトトギスの道」

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本ブログでは昨年より生駒山地の大阪側を縦走する管理道を「生駒山グラベル道」として、将来的な自転車利用の可能性を考察し、現地調査を実施しています。この縦走道はヒルクライマーの聖地暗峠(くらがりとうげ)と「サイクリストのための百名峠ガイド」(八重洲出版)にも選ばれた十三峠(じゅうさんとうげ)の2つの峠を頂上付近で連絡する林道で、現在は両峠の入り口に侵入防止のゲートが設けられ、自転車を含む車両が通行禁止となっています。

 

【参考】生駒山グラベル道 第1回現地調査 (2023年10月14日投稿)

 

前回の2023年10月の調査にて、この林道は大阪市内を一望できる標高500mの山中にあるものの路面の高低差はそれほどなく、草木も刈り取られ歩きやすいようによく整備され、地元の人は「なるかわ管理道」と呼んでいることが分かりました。ゲート間はおよそ6km、路面は全体の3分の2以上が未舗装で、幅員は3mほどあり雄大な自然の中、ハイキングやトレイルランニングを楽しむ人の姿も見られました。

 

 

現地調査を踏まえて、林道が所在する自治体の東大阪市の道路管理室に出向き、管理状況を問い合わせると、山地内の道路は大阪府の管理で、現状を把握していない様子でした。また、同市は「ものつくりのまち」を標榜しているため、中核市としては珍しく観光やまちづくりに関する部署がなく、自転車関連としては駐輪場整備の管理部署のみで、本来ならば計画するものとされている「自転車活用推進計画」も未作成でした。当然、前回の現地聞き取りでシニア男性が言及していたレンタルサイクル事業廃止の経緯についても分かる者もいませんでした。

 

「自転車活用推進法の成立は知っていますが、東大阪市は推進計画は作成しておらず、部署もありません」

 

生駒山は1958年に国定公園に指定、自然公園法に基づいて大阪府が管理し、府民が自然に親しめる解放区として67年から数百億円を投じて合計面積600ヘクタールを整備、7つの「府民の森」を運営しています。80年代には「大阪府民の森利用促進事業」の5ヵ年計画を策定、91年には年間利用者が100万人を上回り、バーベキューやキャンプなどを楽しめる施設として賑わいました。一見すると順調にも見える生駒山の西麓の森林整備はいったいどこでボタンを掛け違い、奈良側と差がついてしまったのでしょうか。

 

 

 

私は活用推進法の地域間の温度差を痛感しながらも、帰り際に市役所に隣接する府立中央図書館に立ち寄り、生駒山についての資料を漁りました。大阪府立中央図書館は国内最大の公立図書館で、職員が地下書庫内の移動に自転車を用いるほど広大です。司書の女性に協力してもらい所蔵資料を手分けして探し、いくつか当時の事業に関する記述をあたりましたが、管理道について明瞭な文献は探し出すことはできませんでした。あきらめかけて、東大阪の市史を両手に抱えて書棚に戻していると「東大阪の昭和」という背表紙が見え、手に取りページをめくるとセピア色の古いカラー写真が目に飛び込んできました。

自転車に乗った3名の青年が「祝 ホトトギスの道 開通」と書かかれたゲートを通過するカラー写真で、支柱には「大阪府」「ぼくらの森 香りの森 開苑記念」とあります。そして、写真の説明として「府民の森が開園」<生駒山 昭和48年>と記されていました。周囲の感じがやや異なりますが、まぎれもなく管理道の写真です。しかしながら「ホトトギスの道」というのは初耳で、インターネット検索でも全くヒットせず、詳細は分かりません。

 


1973年開苑「府民の森」のサイクリング道「ホトトギスの道」 出典:石上敏監修「東大阪の昭和」

 

1973年の新聞で開通の記事がないかを探していると先ほどの女性司書が大きな資料を抱えて、私を探して館内中を歩き回っていたようで、行政資料を見つけ出してくれました。行政資料によると73年に開通した自転車道(ホトトギスの道)は5km、既存の自転車道と直結して全長15kmに及ぶとされています。

驚いたことに私が直観的にサイクリング道に向いていると思った林道は、そもそもサイクリング道として整備された道だったのです。それにしても、大金を投じて華々しく開通した「ホトトギスの道」がなぜ封鎖され、自転車走行禁止となってしまったのでしょうか、新たな疑問です。

 

「東大阪の昭和」にはもう一枚、1957年に生駒山麓で撮影されたサイクリストの写真が掲載されています。そして、写真の説明として1954年に自転車産業協議会が中心となり日本サイクリング協会(JCA)が結成、サイクリングの対象地が生駒山に拡大していたことが記されています。

 

 


1957年第一次サイクリングブームの生駒山 出典:石上敏監修「東大阪の昭和」

 

67年前の白黒写真が生駒山のどの辺りなのかは分かりませんが、比較すると現在の道路状況が一番醜いように感じます。繰り返しになりますが、生駒山の大阪側は廃墟・廃道・立入禁止と荒廃が進んでいます。このような管理下でも「なるかわ管理道」は利用可能な状態に維持され、なんとか再生することができるように思います。そして、人が戻れば、ふたたび地域に活気出ます。

 


閉ざされた「府民の森」のゲート 禁止x4 来る者を拒むような注意看板 

 

 

今回、「生駒山グラベル道」がもともと自転車道として開発された「ホトトギスの道」だったという忘れ去れた過去の発掘は私にとっては非常に有益な情報でした。これを踏まえ、さらに大阪市立図書館とシマノ自転車博物館にて調査を続けました。(つづく)

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【独自考察】神器でたどる「日下町」と「日本」

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太宰治の小説で「パンドラの匣」という作品があります。結核療養施設に隔離された少年と太宰の文通が書簡形式で書き記された異色の小説で、2009年に染谷将太・川上未映子主演で映画化され話題となった作品です。自虐的な作品が多い太宰ですが、本作品は少年の病床日記への返信が素材のため太宰の前向きな一面が垣間見えファンからの評価も高く、療養生活の実態の記録としても読み継いでいきたい作品です。

この小説に登場する結核療養施設のモデルは「孔舎衙健康道場」という病院で、戦前に生駒山の西麓に実在しました。「孔舎衙」というのは辺りの地名で、難読ですが「くさか」と読み、現在では施設は解体され「パンドラの丘」という空地となりベンチが置かれ、地域の住民やハイキング客が休憩できるように整備されています。

 


結核隔離施設「孔舎衙健康道場」跡

 

孔舎衙という字名は大正時代まで使用され、現在では日の下と書いて「日下町」(くさか ちょう)として継承されています。下を「か」と読むのは理解できますが「日」がなぜ「くさ」になるのでしょうか。さまざまな説があるようですが、記紀に由来するほど時代が古く、よく分かっていないようです。

日下町には、大正期に近鉄「孔舎衛坂駅」(くさえざか えき)がありましたが、1964(昭和39)年に廃止され、最寄り駅は200m南側の近鉄奈良線「石切駅」となります。大阪人に石切とえば、お百度参りの神社「石切神社」が有名です。神社の創建時期は不明ですが神武天皇(初代天皇)の創建と伝えられ、正式名は「石切剣箭神社」(いしきり つるぎや じんじゃ)といい、太刀が奉納されています。三種の神器に草薙(くさなぎ)剣がありますが「日(くさ)」となにか関連があるのでしょうか。ちなみに石切神社は「石切駅」より、近鉄けいはんな線「新石切駅」で降車した方が近くなります。

 


太刀を持った「石切不動」 2022年撮影

 

けいはんな線は地下鉄中央線直通で、奈良方面に行く際の交通手段として利用されています。地下鉄は「中央大通」の地下を通り、大阪の東西軸の大動脈となっています。沿線の森ノ宮駅の南西側には勾玉に由来した「玉造稲荷神社」があります。そして、石切神社と玉造稲荷を横一直線で結んだ北緯34.6上には、難波宮と平城宮があり、西大寺と東大寺、孔舎衙もこの直線上に位置しています。要するに孔舎衙は平城宮から見ると真西に位置し、日が沈む場所「日の下」となるのです。これで日下が「くさか」と読まれる由縁ではないかと推察されます。

 

 


「玉造稲荷神社」祭りにてたこ踊りを踊る男性 2016年撮影

 

難波宮は孔舎衙よりさらに西に位置し、遷都した大化の改新の際に「日本」と国号が決まったとされています。この時代にはまだ平城京はありませんので、孔舎衙から見て日の沈む場所「日の本(もと)」となったのではないでしょうか。つまり、皇記の文明の基準点は孔舎衙にあり、時代的に「孔舎衙」が「日下」となったのは、平城京遷都後ではないかという推測です。そして、この説が正しいなら、孔舎衙の地が古代の日本の原点であることを意味する論拠となるのではないでょうしょうか。

 

 


大化の改新で遷都された「難波宮」跡

 

 

自宅に帰り、三種の神器の八咫鏡を祀るところはないかとインターネットで探していると、石切神社と同じ東大阪市内に若江鏡神社という仲哀天皇(西暦149-200年?)を祀る神社があるようなので、また行って調べてみたいと思います。この神社は例の一直線上から南に1kmほどずれてしまっています。文献に登場する最初の記述も9世紀と時代が異なり、地歴から見ても当時、周囲は湿地帯だったと考えられます。しかしながら、北緯34.6上の皇統の歴史が単なる偶然とも思えなくなってしまったので、古事記・日本書紀の歴史書の記述と併せて、この国の起源をじっくり考え直してみたいと思います。

ちなみに難波宮から東大阪市日下町までは直線で12km、日下町から奈良側には生駒山があるため自転車では直線的には行けませんので、お気をつけください。

 

<参考年表>
645年 難波宮 遷都(大化の改新 ~667年)

694年 藤原京 遷都
710年 平城京 遷都
712年 古事記 完成
720年 日本書紀 完成

※神武・仲哀天皇の即位や石切神社・玉造稲荷の完成は年表以前の時期となり、歴史学的には年代は分かっていません。

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鬼伝説、生駒山地 暗峠「鬼取集落」

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大阪と奈良の境にある生駒山は歴史ある山で、二都を往来する山道が古くから利用されています。代表的なルートは東大阪市枚岡と額田の間あたりから生駒に抜ける国道308号線「暗峠」(くらがりとうげ)で1000年以上前からあり、最近ではヒルクライムの聖地として、全国から挑戦者を集め、ロードバイク愛好家に間ではひそかに有名スポットになりつつあります。最大斜度40%以上という日本屈指の急勾配の峠坂は、路面は一応はコンクリートやアスファルトで舗装されていますが、状態が悪く全国屈指の「酷道」と評されています。

 


ヒルクライマーの聖地「暗峠」

 

本ブログでは生駒山について何度か取り上げ、とりわけ大阪側の管理が悪く、道路の舗装状況だけでなく廃墟や立入禁止が目立ち、せっかくの歴史ある山が台無しとなってしまている現状を投稿しています。再整備して、もっと上手にPRをすれば高尾山や嵐山のように多くの観光客を呼び込むことができると思うのですが、どうにかならないものなのか、関心をもっていただくために、この山にまつわる伝承をひとつ紹介したいと思います。

 

日本に仏教が伝来してから100年ほどたった7世紀半ば、役小角は山岳信仰と仏教の融合「修験道」を大成します。円小角は円行者(えんの ぎょうじゃ)ともいわれ、箕面の滝や熊野の山に伏して、各地に伝承を残しています。小角はよく二体の鬼を従え石仏や絵巻に描かれていますが、この鬼は夫婦で「前鬼・後鬼」といい、もともとは暗峠に棲む人食い鬼でした。鬼は峠で小角を喰おうしたところ改心させられ修行に同行したそうです。

 


役行者ゆかりの教弘寺の石仏   1578(天正6)年作成とされている

 

現在も暗峠の奈良県側には「鬼取」という地名が残っていて、周辺にはゆかりの地が点在しています。生駒山の奈良県側は山腹まで人が居住していて、伝説が残っている鬼取山にも段々畑が広がり、林業や採石業が現在でも盛んです。暗峠の鬼取という字名は霊山らしくおどろおどろしい感じがしますが、実際に行くと牧歌的な集落で、一生かかっても建てれないような立派な御宅が峠道に並び、生駒の新興住宅地を見下ろしています。

 

 


▲前鬼・後鬼が棲んでいたとされる鬼取山

 

公共交通機関やコンビニはありませんが、集落には割と新しい宿泊施設やレストランがあり、都会の喧騒から放たれたゆっくりした時間が流れています。時代に取り残された過疎地の田舎暮らしではなく、最近のサイクリングやアウトドアなどの流行も取り入れ、サスティナブルで理想的な郷となっています。

 


環境に配慮された鬼取集落のレストラン

 

鬼取集落からそのまま道なりに北に行くと、宝山寺という大きな敷地の寺院があり、ケーブルカーで生駒の市街地まで降りることができます。宝山寺は水商売にご利益があるとされる山寺で、参道には精進落としの遊郭が並んでいます。さすがに令和のこの時代ですので、かなり寂れていますが、一部の料理旅館は現役で営業しているようです。観光客は数少ないながらも、廃業した料理旅館の建物の雰囲気を残し、カフェや服屋などに改装して大正~昭和頃のノスタルジックな街並みをなんとか維持しています。

 


ノスタルジックな宝山寺の参道   写真を撮っても怖い人がでてこない(?)唯一の遊郭

 

生駒ケーブルは大正時代にできた日本で最初のケーブルカーで子供や鉄オタにも人気です。実は私はこのケーブカーが好きで生駒市から取材を受け、市の広報紙に掲載されたことがあります。私はそれほど鉄オタという訳ではないのですが、大阪側の旧生駒トンネルも鉄オタならずとも、観光資源として貴重な財産だと思いますが、閉鎖後は立入禁止となってしまっています。例えば、鬼・遊郭・大正時代・列車、と絡めて、人気漫画「鬼滅の刃」のオタクやコスプレイヤー向けのイベントとか開催してはどうでしょうか。

 


経産省「近代化産業遺産」に認定された旧生駒トンネル 大阪側は柵によって立入禁止となっている

 

 

役行者に同行した前鬼・後鬼は、修行により人間となり、奈良の山中に移り住み、現在でもその子孫が宿坊を営んでいるそうです。奈良県吉野郡下北山村「前鬼集落」は、2004年に「紀伊山地の霊場と参詣道」として世界遺産に認定、大峰山の麓で伝説を語り継いでいるようです。

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「生駒山グラベル道」第1回現地調査

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大阪と奈良の間に横たわる生駒山地を越えるにはいくつかの山道コースがありますが、自転車が通行可能な舗装道路は限られています。最大斜度40%以上の酷道「暗峠」(くらがりとうげ)と「サイクリストのための百名峠ガイド」(八重洲出版)にも選ばれた「十三峠」(じゅうさんとうげ)の2つの峠はとりわけ全国からヒルクライマーが集まるほど名の知れたコースとなっています。

 

 

暗峠と十三峠はおよそ6km離れていますが、2つの峠は山頂に近い標高500m付近で縦走道路で連絡しており南北に移動することができます。ただし、この縦走道は車両通行禁止で認可を受けた車両以外は自転車も含めて現在は通行はできません。両峠の入り口には入山者を拒むように車両侵入防止のゲートがあり、トレランのランナーに向けて歩行者とのトラブルとなる走行をしないように注意喚起の看板もデカデカと掲げられています。

 

 

道路の正式な名称は分かりませんが、地元の人は森林整備の自動車が通ることからこの林道のことを「管理道」や「なるかわ管理道」と呼んでいるようです。路面は全体の3分の2以上が未舗装で、幅員は3mほどあります。山中にあるものの高低差はそれほどなく、草木も刈り取られ歩きやすいようによく整備されていて、山地を南北に歩けるようになっています。

 

 

 

雨上がりの9月中旬で大阪市内の最高気温32度と汗ばむ暑さでしたが、山の中は市街地より涼しく峠の温度計は12時時点で27度と表示されていました。休憩をしながら6kmを2時間かけてハイキング、平日だったせいか人は少なく、散歩客が2人、ハイキングが3組、トレランが4人と合計男女10人ほどがいました。

 

 

 

途中で大阪の街を見下ろし休憩、地元の方にこの道について詳しく聞くことができました。

 

「昔は府がちゃんと管理していてこの道でレンタル自転車なんかもやってたよ、(生駒山地の)奈良県側の道は(自転車が)いけるけど大阪側はどこも自転車禁止や。橋下(徹知事)になってからアカンようになったわ、住友林業に委託なってからは閉鎖しとる道もあるで」

 

毎週来ているというシニアの男性は生駒山地の奈良県側と大阪側の管理のレベルに言及、府の財政悪化による改革による大阪側のサービスレベルの低下を嘆いていました。また、現在は自転車禁止ですが、かつては禁止どころか府がレジャーとしてレンタル自転車サービスをおこなっていたということを教えてくれました。

 

 

しばらく男性と話していると60歳代の女性が合流、2人は知り合い同志のようでした。ベンチに腰掛けて3人で談笑しているとランナーが走り去り、ふとゲートの看板を思い出し女性に状況を聞きました。

 

「えっ?? この山? この山、全然、人なんかおらんよ。ほんま、全然。私、晴れたら(毎日のように)来てるけど、ほんま、全っ然。つつじの時くらいちゃうかな」

 

この管理道は「府民の森」という施設を貫通、数百メートルに渡ってつつじが植えられていて区間があり、道幅もやや狭く一部が急勾配となっています。女性によると開花の時期は花見客が訪れることもありますが、その時期以外はランナーとのトラブルなど考えられないほど、誰も来ない山道だそうです。

 

 

 

サイクルショップ203がある道頓堀周辺は、海外からの観光客をたくさん押しよせ、最近ではオーバーツーリズム(観光公害)が問題化しています。生駒山地は大阪市内からも鉄道で30分程度で行くことが可能で、クマも生息していませんし遭難の危険も考えられない登りやすい山です。日本書記にも登場するほどの古い歴史があり、山中には寺社・仏閣・遊郭・遊園地などの観光資源や滝・洞穴などの自然も楽しめます。観光客の分散化のためにも、再び観光に力をいれ海外の方を呼び込むことはできないものなのでしょうか。

 

「新・観光立国論」(2015,東洋経済新報社)の著者で、日本の観光政策に詳しいデービッド・アトキンソン氏は2018年に大阪市中央公会堂で行われた講演にて大阪のこれからの観光産業の戦略を提起、私はこのシンポジウムを聴講して衝撃を受けて、それ以来、押し寄せる海外からの観光客の見方が大きく変わりました。

 

「LCCで来て、エアビーで宿泊する中国や韓国人は練習です。本当に観光立国を目指すなら、10時間以上かけて来日し7泊8日で泊まり、お金を落とす欧米人をターゲットとすべきなのです」

 

アトキンソン氏はアジア人観光客は踏み台に過ぎず、大阪が真の観光立国を目指すなら日本に長期滞在する欧米人を取り込む必要性をあると熱弁、そして、そのために必要なのは「おもてなしの心」や神社・仏閣ではなく、なんと「自転車」だというのです。どういうことなのでしょうか。アトキンソン氏の本業は日本の歴史的な文化財や工芸品の修復です。まさか、観光産業の講演でアトキンソン氏の口から自転車の活用を提言があるとは全く予想していなかった私はただただ混乱しました。

 

「欧米人でもさすがに7日連続で仏像ばかりだとうんざりします。アクティビティ、例えばマウンテンバイクとか自転車が必要なのです」

 

外国人は大阪城や京都の風情を楽しみに来日しているものだと思っていた私にはアトキンソン氏の話はほんとに目からうろこでした。たしかに、東京の高尾山には1日1万人ほどの登山者がいると聞きます。関西圏でも高野山(和歌山)・嵐山(京都)・六甲山(兵庫)・吉野山(奈良)は観光客が多く訪れますが、大阪の山に観光に来る人はあまりいません。かつては観光客を集めていた生駒山も廃寺、廃ホテル、廃病院など廃墟マニアの肝試しスポットとなり、遊郭の灯も消えかかっています。

 

korea temple
無残な姿の生駒山中の朝鮮寺廃墟群 2022年5月筆者撮影

 

2017年には自転車活用推進法が制定され、自転車を活用した観光「サイクルツーリズム」の振興が明記されています。滋賀県「ビワイチ」や和歌山県「太平洋岸自転車道」は国土交通省がナショナルサイクリングルートに制定、兵庫県淡路島もビワイチに倣い「アワイチ」として自治体がアピール活動をしています。大阪は自転車の一大生産拠点ですが、自転車観光という点ではまだまだ余地を残しています。本ブログでは生駒山地の縦走道を「生駒山グラベル道」として、将来的に自転車利用を可能にできないかを考察していきたいと思います。

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