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飲酒自転車事故の抗議で東成警察署襲撃「親子爆弾事件」

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自転車の飲酒運転は危険で場合によっては逮捕される場合があります。道路交通法の第65条には「何人も、酒気を帯びて車両等を運転してはならない」(第六十五条の1)と規定されています。道交法は同時に117条2の2の「罰金」において「軽車両は除く。」とあることから、軽車両である自転車の酒気帯び運転は、まっすぐ歩けないほどの泥酔状態でなければ基本的に罰則はありません。しかしながら、酩酊状態では自分自身の酒酔い具合が正確に判断できないため、大きな事故を引き起こす可能性あり大変危険です。

 

(前回の続き)

 

戦後間もない1951年11月10日、在日朝鮮人男性の安重鎔は自転車で帰宅中に、生野区の路上で転倒し腹部を打ち付けパトロール中の警察官に保護されました。男性は泥酔状態で東成署で保護されましたが、様子が急変し医師の手当を受けましたが保護から1時間半の午後7時30分ごろ死亡が確認されました。大阪大学の死体解剖の結果、死因は自転車の転倒による腹部の圧迫で、肝臓が破裂していたことが分かりました。東成署長は家族に状況を説明、家族はそのまま帰宅しました。

 


朝鮮人集団に襲撃された東成署   大阪府警察史(1973年)より

 

ところが12日朝、30人ほどの在日朝鮮人が安の死亡原因にめぐって署長に面会を要求、署長は代表者6名に真相を伝えましたが、朝鮮人側は「警察官の暴行でより死亡した」と一方的にデマを流し、再三東成署に押しかけて抗議しました。そして翌月1日、大阪各地から参集した左翼系朝鮮人は生野区内の朝鮮人小学校に集まり、東成署に向かい行進、催涙性の白煙が発生するラムネビン3本・小石・キムチの原材料の唐辛子などを警備隊に向かい投げつけ、朝鮮人3名が逮捕されました。

 

 


▲ デモ隊が集結した朝鮮人学校  廃校後に「いくのパーク」として再活用されている

 

「東成署襲撃事件」から半月後の16日、転倒死亡した安重鎔の生野区大友町の自宅前において慰霊祭を挙行、遺族や関係者だけでなく生前に何の縁もなかった朝鮮人集団が反戦旗やプラカードを掲げ、独立運動の犠牲者安重根の慰霊祭を行い革命歌が高唱される異様な状態になり、警備中の生野署員が解散を命令しました。しかしながら、命令は聞き入れられず不法デモが敢行され、群衆は3つの部隊に分かれ破壊行為を展開しました。

第一隊は生野区内の爆弾工場で保管中の親子爆弾を撒き散らし、第二隊は中河内郡巽町(現在の生野区)の特需工場に侵入し機械や板べいを破壊し「こんなものをつくると殺すぞ」と紙に書き貼り事務員に暴行、第三隊は東成区大今里の工場の窓ガラス等を破壊した後に鶴橋の市場の民団の団長宅を襲撃し店頭陳列のゴム靴30足を路上に放棄するなど次々と遊撃しました。

 


戦後の雰囲気が残る現在の鶴橋駅前の市場

 

一連の犯行は当時「親子爆弾事件」と称されました。親子爆弾は現在では「クラスター爆弾」と言われ、朝鮮戦争で米軍に配給するために大阪市東部の町工場で製造されていました。誤解を生みがちな事件名称ですが、暴動でクラスター弾を使用したのではなく、クラスター爆弾の製造工場を襲撃したから「親子爆弾事件」です。日本は朝鮮戦争には参戦していませんが、南北の亀裂は対岸の火事ではなく米軍統治下の我国にも確実に飛び火していました。

 


▲ 親子爆弾

 

当時の大阪府警視総監の鈴木栄二の叙事伝によると「当時のこれらの朝鮮人学校は、ほとんど全部朝鮮人連盟が経営していたものである。この朝連は終戦以来、明らかに北鮮の民主人民共和国を支持してきたもので、日本共産党とは常に緊密な連絡を保ち、暴力的なデモにはほとんど例外なく朝連指導下の教員や生徒が参加していた」と一連の犯行は左翼系朝鮮人と日本共産党と共同作戦であるとしています。

日本共産党と朝鮮人集団による騒擾事件は、大阪府庁占拠(1948) → 東成警察襲撃事件(1951) → 親子爆弾事件(1951) と苛烈になり、クライマックスの1952年6月の驚天動地の大暴動「吹田事件」と繋がっていきました。

 

osaka police
▲ デモ隊と現在の大阪府警本部  警察本部は府庁の二軒隣に位置する (2022年撮影)

 

敗戦の反省から、戦後の平和教育は自虐的な歴史観を美徳として培われ「大東亜戦争」は「太平洋戦争」に、「支那事変」は「日中戦争」などと呼称が修正されました。同様に、府庁を占拠した「大阪朝鮮人騒擾事件」は教育・学問の自由を守った「阪神教育運動」のひとつとなり、「親子爆弾事件」は共産主義思想を弾圧した「レッドパージ」のひとつととなっているようですが、今回の投稿は1973年発行「大阪府警察史」を引用し、大阪府警察の立場からみた歴史観及び呼称とさせていただいております。

本ブログでは以前より、大阪市の自転車小売業の実態研究の一環で、在日朝鮮人の「鉄くず」回収業の戦後史を調査しています。私は在日朝鮮人ではありませんが、彼らの文化や思考は調べれば調べるほど独特で、ひきつけるものがあるように思います。一連の犯行は戦後警察史に残る大事件で、朝鮮人が朝鮮人ゆえに起こしたれっきとした犯罪行為ですが、本ブログは「差別」や「犯罪」を助長する意図はありません。卑劣なヘイト行為や事件の模倣は絶対に辞めてください。

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自転車警邏隊制度実施のきっかけ 「大阪朝鮮人騒擾事件」

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2023年4月の道路交通法の改正により、自転車使用時のヘルメットが努力義務化となりました。サイクルショップ203でも、以前まではそれほど売れていなかったヘルメットも一時完売するほど品薄となり、着用率も徐々に向上しています。

まちを見渡しても警察官がヘルメットを着用で巡回するなど法改正の徹底が見受けられます。令和になり奈良・和歌山と政治家襲撃事件が相次ぎ、危険な任務と隣り合わせの警官はなおさら自衛のためのヘルメットは必須といえます。

 

テレビも無ェ ラジオも無ェ クルマもそれほど走って無ェ
ピアノも無ェ バーも無ェ お巡り毎日ぐーるぐるっ! 

 

1984年にヒットした吉幾三「俺ら東京さ行ぐだ」。歌詞に「クルマもそれほど走って無ェ」とあることから、お巡りさんが自転車を使用してパトロールをしている田舎の原風景が思い浮かびます。テレビやピアノが普及していない辺境の田舎でも警官による巡回網が機能、自転車警備の実施よって全国津々浦々まで治安維持を担い、80年代初頭にはすでにそれが日常の光景となっていました。当たり前の光景となっていますが、カーチェイスや射殺が繰り広げられる海外の様子と比較すると、警察武道と自転車で世界最高屈指の治安の実現をしている日本の警察は異常なまでに優秀なように思います。

 

police bike

 

全国で初めて警察のパトロールで自転車が採用されたのは終戦間もない1949年で、大阪市の阿倍野・城東・大正・南の各警察署にて試験的に導入されました。英米の制度を参考に、従来の派出所による固定勤務から「点から面へ」「警邏第一主義」に活動重点が改革されました。警邏(けいら)という言葉はあまり聞き慣れませんが「パトロール」のことです。自転車警邏が大阪から発祥した経緯は、当時起きたある事件が関係しています。

 

police osaka
大阪の治安維持に導入された「自転車警邏隊」 大阪府警察史(1973年発行)より

 

1947年に施行された新憲法では国民は集会の自由が保障され、公共の秩序を無視した大衆運動が一部で過激化、全国各地で衝突が発生しました。連合国軍総司令部GHQは在日朝鮮人の子供たちも教育基本法に従い日本人学校への編入を指示、朝鮮人学校の閉鎖を命令しました。これに対して在阪朝鮮人は「朝鮮人教育問題共同闘争委員会」を組織し、閉鎖の撤回を叫び抗議運動を展開しました。48年4月23日、府庁前の大手前公園には7000人の朝鮮人等が集結、府庁正面の警戒線を突破し4000人が庁内に乱入し、ガラスや調度品を破壊、電話線を引きちぎりなど暴行に発展し、179人が騒擾罪で検挙される大暴動「大阪朝鮮人騒擾事件」が発生しました。

 

osaka jiken
「大阪朝鮮人騒擾事件」大阪府庁に乱入する朝鮮人デモ隊   大阪府警察史(1973年発行)より

 

同事件では戦後初の非常事態宣言が発令され、翌48年以降もデモが断続的に発生、大阪市警視庁では惨事を未然に防ぐ警察活動が論議され、警邏員の任務を重要視するように基本規定され、制度が改革されました。これにより所轄の受持区が「徒歩・自転車・出張所」の3つに区分けされ、科学的な方法をもって合理的かつ適正に配置されました。

 

「警ら員は、公安の維持、生命および財産の保護犯罪の予防ならびに警視庁がその執行の責任を持つ諸法令違反者の逮捕の責任を負う」 (第37条)

 

しかしながら、朝鮮人による陳情抗議はこれで収まった訳ではありませんでした。朝鮮戦争が激化する中で、反米思想が強くなり、在留した朝鮮人は複雑な状況に置かれ、朝鮮学校問題を含めて現在でも禍根が残っています。

 

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▲国内で使用されている警察官用自転車    自転車文化センター「働く自転車展」(2020年撮影)

 

1951年11月10日夕方、在日朝鮮人の安重鎔は泥酔状態で生野の自宅に帰る途中、自転車で路上に倒れ腹部を打ち付け、パトロール中の警官に保護されました。これがまたまた惨劇の引き金となったのです。(次回につづく)

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