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【追憶の競輪場・番外編】幻の五輪会場「有明ベロドローム」

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2019年、自転車の世界選手権がポーランドのワルシャワ近郊の街プルシュクフという都市で開催されました。

 

「日本以外に立候補している国があるとは知らなかった」

 

日本自転車競技連盟(JCF)は、国際自転車競技連合(UCI)に五輪開催の前年のこの年に日本での開催を申請し、「ポーランド開催」は寝耳に水の知らせとなり、準備をしていた静岡県の関係者は落胆した様子が伝えられました。プルシュクフの会場は10年前の2009年にもトラック種目の世界選手権が開催されているため、日本人ならずとも違和感を感じる発表でした。

しかし、この決定には複雑な過程があり、それを踏まえるとむしろ日本側に落ち度があり、開催地は制裁のため変更されたと考える方が自然であると私は考えます。

 

| 世界に公約した競輪会場「有明ベロドローム」の新設

 

「世界一コンパクトな五輪」を公約にし東京都は2020年の五輪招致活動を行い、ブエノスアイレスの総会にて競合の末に見事に大会を勝ち取りました。東京数キロ圏内に競技会場を集中させ、自転車競技のトラック種目は東京湾の臨海地区に20億円をかけ専用競技場「有明ベロドローム」を建設するとしていました。同行の猪瀬直樹知事(当時)も都の財政力の健全性を主張し、持続可能な「都市型」夏季五輪を標榜しました。

 

ariake cycle

 

自転車競技においては、新競技場のこけら落として2019年の世界選手権の誘致が提案され、五輪開催の決定はそれを後押しするものとなり、1990年の北関東での開催以来29年ぶりにKEIRINの母国で勇士が観れることがほぼ内定していました。

しかし、2016年にこの状況が大きく変わります。

 

対立するイデオロギー、自転車競技場の建設撤回の余波

 

猪瀬氏の後を継ぐ舛添要一氏が政治資金問題で都知事を失脚すると、小泉内閣で環境大臣などを歴任した小池百合子氏が自民党を離党、政治団体「都民ファーストの会」を立ち上げ新しい都知事となり、五輪組織委員会と激しく対立します。小池知事は「これまでも会場の変更というのはしばしばあった」とし、カヌー競技会場などの競技会場の見直しを提言、有明の20億円の競輪場も白紙となります。

五輪の競技場を巡っては、ザハ・ハディッド氏が監修した新国立競技場の建設費が2500億円を超える膨大な金額になることなど当初予測を大きく上回る甘い試算が問題視されていました。20億円という建設費は他国のこれまでの施工例を見ても決して高い訳ではありませんが「有明ベロドローム」の建設は見送りが決定となり、別会場での開催を余儀なくされます。

都内には国際基準に基づく屋根付きの競輪場がなく、競輪開催の実績がある東京ドームに西宮スタジアムのような仮設走路を組み、プロ野球と日程を調整しておこなう代案が検討されました。ただ、トラック競技は自転車競技最多の6種目が実施され、長期間使用されることから、興行面からプロ野球側の同意が難しいのではないかと目されていました。

tokyodome keirin

そうこうしているうちに野球が東京五輪の正式種目に追加され、とうとう自転車トラック競技は行き場を失ってしまいます。

 

 

問われる「アスリートファースト」と「レガシー問題」

 

トラック競技は2000年のシドニー五輪より大幅なルールの変更があり、一周250mの木製の走路と指定されています。日本国内には40施設以上の競輪場がありますが、この概要を満たす公認の「カテゴリー1」の施設がなく、当初、日本代表は海外で合宿をしていました。

このような状況を改善するため2011年、静岡県伊豆市の「日本サイクルスポーツセンター」内に、選手強化のため、UCI規格の「伊豆ベロドローム」を建設します。この競輪場が国内で唯一の国際規格を満たしている競技場で、もはや日本にはこの山奥にある練習場で五輪を開催するしか手段がなく、都合上、前哨戦の世界選手権も同会場を開催地として誘致活動を継続していました。

 

velodorome

 

柔道・空手と並び、日本発祥の五輪競技としてメダル獲得を期待されている自転車競技のKEIRIN。しかし、世界選手権開催地の落選や五輪会場建設の白紙など残念な話題が続いています。ただ、私がそれ以上に問題視したいのは、これらの状況の自省や批判の声が全く上がってこないという点です。

伊豆の施設は五輪のため大型改修し、さらに近隣にサブトラックを増設しましたが、その負担は結局、競輪を統括するJKAが担い、税金は全く投入されませんでした。また、千葉市の「千葉競輪場」(2021年完成予定)も民間企業が全額負担していることから、少し思案すればいくらでも方法はあったはずなのです。有明の施設もそのまま都営の競輪場として使用すれば、建設費20億円も数年で回収が可能で、五輪後の跡地利用を巡る課題の、いわゆる「負のレガシー」となることもないのです。

 

紆余曲折あった五輪の開催もいよいよ1ヶ月後となりました。自転車トラック競技は8月2日から8日まで実施予定となっています。いろいろと問題もありましたが、選手が奮起しメダルを獲得すれば、状況も好転するかもしれません。トラック種目は、全4競技ある自転車競技で唯一メダル獲得の実績がある種目です。選手の方にはメダル量産を期待しています。

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【追憶の競輪場FILE⑤】野球場の中の競輪 西宮スタジアム

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現在、兵庫県内では競輪は行われていませんが、かつては4ヶ所の競輪場で競走が開催されていました。

FILE④で紹介した甲子園(鳴尾)競輪場の他には、ヴィッセル神戸の本拠地ノエビアスタジアムにあった神戸競輪場、明石城跡にある明石競輪場、そして阪急西宮スタジアムです。

 

hanjyu nishinomiya stadium

 

西宮スタジアムは阪急電鉄の西宮北口駅のすぐ南側に位置し、パリーグの阪急ブレーブスの本拠地として使用されていました。子供の頃、何度かこの球場で公式戦デーゲームを観戦したことがあります。サブマリン投法の山田久志、韋駄天の福本豊、吠えるアニマル・レスリーと試合は子供ながらに物凄く面白かった記憶が残っています。一方で観客席はガラガラで、トイレが衝撃的に不衛生だったのをかすかに覚えています。

スタジアムは野球以外に、アメリカンフットボールやコンサートにも使用され、パネルを敷き詰めて競輪も行われていました。

 

nishinomiyakeirin

 

野球場の中のバンク「西宮競輪」

阪急ブレーブスは1988年にオリックス・ブレーブスとなり、91年には本拠地をグリーンスタジアム神戸へ変更、以後プロ野球での使用頻度が減り、西宮スタジアムは競輪の開催がメインとなります。

開場直後は木製パネルをサーカスの様に組み立て使用していたようですが、選手からの評判は悪く、落車時はささくれが突き刺さり酷い擦過傷が残ったそうです。

1995年には阪神大震災が発生、スタジアムは避難所や自衛隊の活動拠点として使用され、ボンジョヴィやSMAPが復興コンサートをするなど長く親しまれてきましたが、2002年に兵庫県内の競輪が廃止となると、スタジアムは取り壊され、跡地にはショッピングセンターとなることが決まります。

一時は甲子園競輪場との合併も検討されましたが、鳴尾競輪場での事件で兵庫県では競輪のイメージが悪く、競輪場の警備や予想屋などの利権をめぐって暴力団抗争が起きるなどの問題も発生して、廃止の声は強く、残念ながら県内の競輪場が全廃となります。

 

keirin yosouya
兵庫県内の競輪場の予想屋 本文とは一切関係ありません

 

2008年、跡地に「西宮ガーデンズ」という県内でも最大規模のショッピングモールが建設され、今では買い物客でにぎわっています。

nishinomiya garden

野球場の中の競輪場というのは少し珍しいようですが、実は読売ジャイアンツの本拠地である東京ドームも競輪が開催されたことがあり、2003年の都議会では石原慎太郎知事(当時)がドームでの競輪を再開する意向を表明しました。

都はいまだに競走の再開を実施していませんが、コロナの影響で財政が悪化している都政の改善案として早く再開に取り組んでもらいたいところです。

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【追憶の競輪場FILE④】競輪史上最悪の大暴動が起きた鳴尾競輪場

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「大阪人=阪神ファン」
大阪人にはそういうイメージがあると思います。

阪神タイガースの本拠地「阪神甲子園球場」は、兵庫県西宮市の南部にありプロ野球だけでなく、春夏と高校野球も戦前から開催されています。兵庫県なのに、大阪のイメージが強い地域です。

 

koushien

 

第二次世界大戦末期、甲子園球場を含む西宮市一帯は、米軍による空襲を繰り返し受け大きな被害を被りました。その様子は「火垂るの墓」(1988 スタジオジブリ)としてアニメ映画化されているので、イメージしやすいと思います。

 

一村の存続を賭けた「鳴尾競輪場」

鳴尾競輪場は戦後間もない1949年に甲子園球場のやや浜手に設立されました。

 

koushien baseball

 

当時、球場のある一帯は鳴尾村という小さな村で、2005年にまとめられた「鳴尾村誌 1889-1951」(鳴尾村誌編集委員会)によると、村は入場税を戦災復旧に充てるため、テニスコートの跡地2万7000坪という広大な敷地に東洋一の規模の競輪場を設立、隣接する西宮市「西宮競輪」、尼崎市「園田競馬」と共に復興財源のため競走を実施したようです。

 

naruo bank  naruo keirin

 

しかし、開場翌年の50年、近畿地方を襲った大型台風「ジェーン台風」で大きな被害を受けてしまいます。当時の施設は突貫工事で作られただけでなく、競技法により戦災で倒壊した家屋の廃材の利用が競輪場の建設に義務付けされ強度に難があり、屋根が吹き飛ばされ開催継続が危ぶまれるほどだったそうです。そのような状況にも関わらず主催者は災害救援と銘打ち競走を強行しました。

 

競輪史上最悪の大事件「鳴尾事件」

事件は台風直撃から6日後の9月9日第11レース、本命の選手の機材トラブルで、高額配当となり観衆が混乱、競走のやり直しを求めて怒号が飛び交う混乱の中、11レースは成立しました。しかし、レース内容に納得のいかない一部のファンが走路に雪崩込み暴徒化、続く第12レースは中止となり、主催者は車券の払い戻しを発表するも、事態は収拾にはいたりませんでした。

 

naruo jiken

さらには、審判員を包囲し暴行を加え、車券売り場を破壊、売上金の強奪を図る者、ガソリンを巻き放火する者など悪質行為はエスカレートし、観衆1万人のうちおよそ半数の5000名が騒動に加わり、警察や米軍憲兵が鎮圧にあたる事態となりました。

死者1名、逮捕者250名。

競輪史上最悪の大事件は「鳴尾事件」と呼ばれ、競輪廃止論のきっかけとなりました。

 

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事件により鳴尾競輪場は休止となり、競走による収入を期待していた鳴尾村は一転し、財政が立ち行かなくなり隣の市に編入を決意、51年に編入先を巡る住民投票にて尼崎市案を西宮市案が上回り、鳴尾村の名は地図から消滅することとなります。

競輪史に残る汚点を残した鳴尾競輪場は廃止も検討されましたが「甲子園競輪場」として再スタートを切ることとなり名勝負を繰り広げ、大きな収益をもたらします。

 

koshien keirin

 

しかし、レジャーの多様化、特にパチンコの射幸心を煽るド派手な台や少年漫画のキャラクターを採用した台などなりふり構わない無秩序な拡大が影響し、睨みを利かされている競輪はファンを奪われ甲子園競輪場も収益が伸びず継続が難しくなってしまいます。

西宮市にはもう一ヶ所近隣に「西宮競輪」があり、両施設を統合する案も検討されましたが、事業収支の悪化が予想されることから、2002年に半世紀にわたる長い歴史に幕を下ろすこととなりました。

跡地は売却され、現在では大規模なマンションが建設されています。

 

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地元の方に話を伺うと甲子園競輪場に反対していた住民は全くおらず、廃止に追い込んだというより「役割を終えた」という感じでした。現地は閑静な住宅街となり当時の名残は見当たらず、事件のことを切り出すと地元の主婦の方は非常に驚いた表情をされていました。

 

パチンコ栄えて、国滅ぶ

競輪の売上高と日本経済の盛衰は見事なまでに一致します。
景気が良くなると、遊興する余裕が出るので、当然と言えば当然で、これは他の公営競技にもおよそ当てはまります。

しかし、同じように見えるパチンコは、景気との連動性はなく、むしろその逆のようにも思えます。パチンコ産業は規模も大きく平成期には消費者金融の「グレーゾーン金利」と相まって日本の長引く不況や貧困化の片棒を担いでしまった前科もあります。依存による害悪が大きく、コロナ禍でも槍玉に挙げられています。

公営競技が日本の公衆衛生や施設建設など地域発展の原動力になっているのに反し、パチンコはその収益が海外へと送金され日本がさらに弱体化されるのではないかといった懸念も持たれています。

兵庫県には、甲子園競輪場の他に3つの競輪場がありました。
今では全廃され、県は収益を失っています。

【FILE⑤】では、西宮市内にあったもう一つの競輪場「阪急西宮スタジアム」を紹介したいと思います。

 

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【追憶の競輪場FILE③】わずか5年で幕を閉じた豊中競輪場

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大阪府の北部・豊中市に服部緑地という大きな公園があります。

当ブログでは、定期開催されている自転車パーツ類の蚤の市「シクロジャンブル」の会場として何度か紹介していますが、かつてこの公園内には「豊中競輪場」という競輪場がありました。

 

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(シクロジャンブル 2020年撮影)

 

 不祥事のあおりで5年で幕をとじた「豊中競輪場」

「豊中競輪場」は住之江、大阪中央競輪場に続き1950年に突貫工事で建設されました。敷地総面積39600坪、コンクリート舗装された500mの走路と15000席の観覧席を含む30000名の収容人員の競輪場で、55年までの5年間、大阪府や豊中市が主催となり競走が開催されました。

 

toyonaka keirin

toyonaka velodrome toyonaka keirin

 

公園内の詳細位置は「シクロジャンブル」がいつも開催されている「古民家集落広場」と言われている場所の北側にある「服部緑地陸上競技場」のあるところとなります。

この競輪場は、前述の「住之江競輪八百長騒ぎ」や「鳴尾事件」など相次ぐ不祥事を重く見た赤間文三知事[在任期間:1947-1959年]が、真っ先に閉鎖した施設で、現在では400mの陸上トラックやサッカーのコートに再整備され利用されています。

 

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自民党所属だった赤間は知事に当選すると次第に高慢な態度を取り、中央政治と対立、独断で府下の公営競技の全廃を決定します。こういった知事の姿勢はどことなく東京の小池百合子知事にも共通しているように思います。ただ、赤間は主立った成果のない小池氏と違い、大阪北部の丘陵地帯の開発案「千里ニュータウン構想」の地ならしなど後世に残る実績を挙げています。服部緑地もニュータウンの最南部に位置し、大型団地群と合わせて住環境の向上の一役を担っています。

 

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 | 大阪の絶頂期を支えた公営競技

千里ニュータウンには、計画的に千里北公園や千里中央公園などいくつか大きな公園が点在していますが、服部緑地の知名度はとりわけ高く、大阪で単に「緑地公園」といえば服部緑地のことを指します。理由としてはその大きさもさることながら、北大阪急行「緑地公園駅」の駅設置の強い影響があるといえます。1970年の日本万国博覧会(大阪万博)のアクセス手段として着工された同路線は、大阪の大動脈である地下鉄御堂筋線に直結し、北摂地域の主要路線になっています。また2年後の2023年には、現在の終着駅「千里中央」から箕面まで競艇マネーにより北へ延伸される予定となっています。

 

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70年の大阪万博には、競輪・競艇からそれぞれ約20億円が協賛金として拠出され、広報費や設備建設の事業費にあてられました。2005年の愛知万博でも、民間負担分の3分の1にあたる約200億円が公営競技からの資金となっていて、25年の大阪・関西万博でも資金源の柱と期待されています。

でも、どうでしょうか。

公営競技を反故にし続けてきた歴史がある大阪府に資金を要求できる権利があるのでしょうか。実際、70年の万博では、中央競馬会は支援を断っています。

大阪・関西万博は、大阪府だけの事業ではなく国家的プロジェクトです。前例を踏襲し、競輪を統括するJKAはおそらく大きな支援をすることでしょうが、見返りとして万博跡地の夢洲に競輪場施設の建設を許可することぐらいはしないと、筋が通らないのではないでしょうか。

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【追憶の競輪場FILE②】府下最大のマネーマシン 大阪中央競輪場の興亡

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現在、大阪市には競馬場はひとつもありませんが、かつては長居公園内に「大阪競馬場」がありました。
1948年から59年までの11年間、地方競馬が開催され一時期は全国2位の売上があったそうです。

 

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長居公園は、住之江公園の2km東に位置し、地下鉄なら御堂筋線が利用でき交通アクセスも抜群です。

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敷地も広大で住之江公園の3倍ほどの面積があり、1年を通して四季折々の花が楽しめるだけでなく、公園内には博物館やプール、セレッソ大阪がホームとして使用しているサッカー場「ヤンマースタジアム長居」など施設も充実し市民の憩いの場となっています。

 

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長居公園にあった日本一の競輪場「大阪中央競輪場」

大阪中央競輪場は住之江競輪場の大成功を受け建設省に計画を出願、GHQ総司令部の了解のもと1950年に開場しました。年利1000%以上の投資効果が上がっていた住之江の勢いを示すように、正門アーチには桃山調の色彩美しい大理石、足元には厚さ10cmの御影石を敷き詰め、周囲には銀杏やつつじを植林、競走路も日本一立派に仕上げられ総工費はなんと住之江の4倍の9000万円という戦後間もない時期とは思えぬ豪華な施設でした。

 

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1958年発行の「大阪競輪史」によると、競馬場の北側に建てられた施設は、敷地総面積22000坪、コンクリート舗装された500m走路と25000の観覧席、106の窓口が設けられ、収容人員55000名という日本一の施設だったそうです。詳細位置は、現在の「ヤンマースタジアム」のある辺りにあったと推定できます。相乗効果があるのかは分かりませんが、この頃は公営競技場を併設するというスタイルよく見られ長居公園もこの形をとり、短い期間ですがオートレース場もあったそうです。

 

osaka keirin

 

大阪中央競輪場は、住之江と並び主要会場として空前の盛況を呈し全国屈指の売上高になり、府下の自治体に驚くべき収入をもたらしました。その使途は市営住宅の建設・病院の整備・地下鉄の延伸・厚生施設や学校の建設・保健衛生費、中小企業や失業者対策など多岐にわたり、敗戦で荒廃した都市を復興へと導きました。そして、大阪での成功を見て全国に拡大した競輪の総売上高は年間600億円、同書によるとこの金額は政府発行紙幣の6%に相当するらしく、娯楽としてだけでなく国民経済に多大な影響をあたえる公共事業だったようです。

 

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公営競技全廃を決めた大阪府の大誤算

 

しかし、住之江競輪場で発生した放火暴動騒ぎや鳴尾事件をきっかけに起こった「競輪廃止論」に大阪府知事赤間文三は、施行都市や関連執務員に相談することなく1955年にあっさりと府営の公営競技場の廃止を決定。すると、大阪府の財政は翌年の56年には赤字に転落、府の新規事業は殆ど見送り状態となり赤字危機は深刻な様相を呈するようになり、大阪府の後に続く自治体はありませんでした。

 

「人間は馬以下」 (東京新聞)

「便所が汚いからやめてしまえというような競輪廃止論は軽率だ (産業経済新聞)

 

マスコミや世論による批判は小さいものではなく、しばらくは全国各地の競輪場は自粛体制のもとで競走を実施、しかしながら競輪人気は高く、中央組織である日本自転車振興会や選手育成のための競輪学校を設立するなど事業の健全化を図り総売上高は2兆円にまで大きく成長、住之江・大阪中央競輪から得られる収益金は5000億円規模(WTCタワー 5個分)と推計され、赤間のとった方針は、あまりに独断的で明々白々と権力の乱用であったといえます。

 

 

コロナ禍、存在感を示す「進化した競輪」

 

仮に一点、暴動やギャンブル依存症による地域の治安悪化を理由に公営競技場の再開しないというなら、私はその考えは古く改めなければならないフェイズになっていると思います。

奈良競輪場の投稿でも少し説明しましたが、かつては周辺に住む人々がわざわざ競輪場に出向いて購入していた車券も、現在ではスマホやパソコンを利用し、インターネットで投票ができるようになり、「立地」と「治安」の関連性がなくなり、競輪場は所在するだけで全国からただ自動的に大きな収益を獲得できる優良なマネーマシンへと変貌を遂げているのです。

財政的に困窮している大阪府は、コロナ対策にも大規模な政策を打てずに感染が拡大しています。今こそ、府営競輪の再開を打ち出し、収益を病院建設や失業者対策、事業助成金などにあてるべきではないでしょうか。

 

【FILE③】では、大阪府北部にあった「豊中競輪場」の紹介をしたいと思います。

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