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戦後初の女性国会議員「山口シヅエ」の正体

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ヤクザが仕切る盗品が並んだ新橋の闇市、桃太郎旗を掲げた男がカランカランと鐘を鳴らすと食べ物屋が来たと思い込んだ人がつられて焼け跡のバラックから駆け出し外へ出てきます。集まった人を前に白いブラウスにハイヒールを履いた初々しい女性がおさげ髪を揺らし壇上に上がり、名を名乗り笑顔でなにやら演説を始めました。老猿のような男性が持つ旗には「山口シヅエ」とあり、演説は二人三脚で脚がパンパンになるまで歩き回り、貴重品の紙を大量に手配しパンフレットを配布、戦火で荒廃した東京の新しい時代の幕開けでした。

 

「一日六時間働けば食べていける、そんな世の中をつくりましょう。そうすれば、女が働きながら子供を育てられます」

 

1945年8月、日本は二発の原爆の投下により壊滅的な被害を受け降伏、6年あまりにわたって続いた連合国との戦争は昭和天皇による玉音放送にて終結します。その後、GHQの管理下で婦人参政権が認められ翌年4月10日の総選挙では1300万以上の女性が投票、39名の女性代議士が誕生しました。

 

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 山口シヅエ 日本で初めての女性国会議員 

 

新憲法下初めての総選挙は31%の議席を獲得した日本社会党が比較第一党となり、民主党などと連立を組み片山内閣が発足しました。日本社会党というと中ソと交流を重視した政党のイメージがありますが、社会党が東側諸国から秘密資金を受けるなど左傾化したのは、日本共産党が「非武装」路線に主義を修正し中国共産党との関係が悪化した1955年以降になってからで、発足当初は党内に複数の派閥があり、シヅエはキリスト教社会主義指導者の強い影響と後ろ盾を受けて初当選、日本で初めての女性代議士としての道を歩み始めました。

5月16日、この日に初めて国会に登庁した39人の女性議員の中でシヅエは最年少の28歳、東京1区という大激戦区で鳩山一郎(後の首相)に次ぐ得票数を獲得し「下町の太陽」と評され、党の看板娘となります。このときの39名の大半が再選できず1期で政治家生命を終えるのに対して、シヅエは通算当選回数13回で1980年代まで政治家として活動し、在任中には女性運動や売春防止法の制定に力を注ぎ、全国婦人連盟会長や経済企画庁政務次官などを務めました。

シヅエは30年以上に亘る政治家人生で幾度となく辛酸を舐めます。なかでも1967年の衆議院選では、党内の派閥抗争で選挙違反を問われ書類送検、不起訴となったものの不信感から社会党を離党、追いかかるように恋愛スキャンダルや元秘書の資金横領にも見舞われました。シヅエは戦争で実弟を亡くし、深川にあった自宅も空襲で被災に遭い丸裸で、唯一心の頼りにしていたのは父親の重彦でした。

 

 

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▲ 山口重彦 独自の経営力で山口自転車を一代で築いた

 

父親の山口重彦は1894年生まれ、ダット自動車(現在の日産自動車)で技師として勤務後に「山口自転車」を設立、8000店もの小売店網を構築し一代でトップメーカーにしました。ABCD包囲網により国内の原油備蓄がわずかとなった戦時中、蒋介石を支援する英国の援蒋ルートを断つため、シンガポールを目指し侵攻していた我が国の歩兵部隊は英領マレーに石油を使用しない自転車部隊で南進、山口の自転車の工場は「銀輪部隊」の軍需によりフル回転しました。戦後も商才を発揮し、自転車業界が協会の談合で販売価格を決めあぐねている間に他社を出し抜く廉価価格の長期月賦方式を採用し自由競争時代をけん引、ママチャリなどまだ存在もしない時代に女性にターゲットをしぼった専用自転車「スマートレディ」の発売など業界を騒然とさせました。シヅエが立候補を決めると、仕事そっちのけで選挙活動に付き添い惜しみなく私財を投入、自身も選挙にのめり込み出馬を決め参議院議員を2期務め、政治と自転車メーカーという二足のわらじを履き周囲の注目を集めていました。

 

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山口自転車の女性専用自転車「スマートレディ」 シマノ自転車博物館所蔵  [筆者撮影]

 

シヅエが初当選した翌年9月、首相となった片山哲に愛知県選出の社会党代議士から政策に関わるある計画の詳細が説明されました。

「車券付き自転車競技、つまり競馬のようなものだね。まあ、ちょとだけの賭け金なら認めてもいいだろう」

片山はキリスト教徒で社会民主主義者として知られ、滅多に自分の意見を明らかにしない人でしたが、戦災で映画館や劇場も焼け、労働者の娯楽があまりない情勢を考慮して「車券付き自転車競技」の実現の協力を約束しました。11月、衆議院内の議員食堂にて各党の代議士と提案者が会合を開き趣旨や経緯を説明、シヅエは集まった出席者に茶菓を接待し会合は和気あいあいと進められ、計画は提案者から懇請されました。

車券付き競走という奇抜なアイデアの種をまいたのは南関東自転車競技会の海老沢清文副会長でした。海老沢は「自転車産業の復興とサイクルスポーツの振興」を大義名分に自転車産業界とパイプを持つ倉茂貞助に原案の作成を依頼、自転車総合メーカー日米商店(現在のフジ)の岡崎進社長を引き込み議員に陳情にあたりました。岡崎の父は日米商店の創業者で当選6回の衆議院岡崎久次郎、そして叔父も外務大臣をつとめた代議士で、法案は瞬く間にまとまりました。

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㊧倉茂貞助 自転車競技法の制定に尽力
㊨海老沢清文 競輪の発案者

 

ところがこの頃はまだわが国はまだ連合国軍の占領下にあり、法律案には総司令部の了承が必要でした。法案は一旦は総司令部民政局に受理されたましたが、GHQ内の派閥関係の事情で不認可となります。認可取り消しに驚いた議員団は、改めてひざ詰めで法案の上程を談判し、ようやく「自転車競技法」が審議されます。

法案は共同提案として超党派で付託され、シヅエら委員によって審議、自転車産業の復興と京都市・大阪市・横浜市・神戸市・名古屋市の5都市地方財政の増収を目的と定めて議論されました。法案は衆議院で満場一致、参議院では賛成多数で可決し競技法は成立、衆議院本会議において日本自由党の委員から一部修正の申し出があり、主目的が「自転車産業の復興」から「戦災都市の復興」に重点が変更され空襲の被害にあった206都市が開催候補地としてリストされました。

競輪というスポーツは日本以外では開催されていない新競技で、主催することで利益が本当に得られるのか分からず各地の反応はさっぱりでしたが、1947年には福岡県小倉競輪と大阪の住之江競輪で開催されました。すると熱狂的な人気を博して、全国の60の超える競輪場で開催されるようになり、復興の貴重な財源となり主催自治体の財政を下支えました。そして、75年経った現在もこの内で43施設が現役で、当時の想定をはるかに超える天文学的な恩恵を地域にもたらしています。

一方で競輪は直接的に自転車産業にもたらす恩恵は少なく、山口自転車は1963年に経営不振となり重彦も体調を崩し65年に71歳で他界してしまいます。倒産の原因は選挙に資金をかけすぎたこととオートバイ事業の失敗といわれ、生産設備は台湾の穂高(ホダカ)に売却、「山口」のブランドは大手商社の丸紅に受け継がれ「山口ベニー」としてランドナー「べニックス」などヒット車を生みます。シヅエは同社に飯事部の部長して勤務していましたが、立候補後は家業を離れ政治活動に専念していました。

 

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山口ベニー「べニックス」の雑誌広告  サイクルスポーツ1975年6月号

 

シヅエは1967年に政権与党の自由民主党に入党、異端の政治家また同政党の唯一の女性代議士として精力的な活動をし、80年には女性として初めて国連平和賞を受賞、引退後には女性政治家の草分けとして瑞宝章を授与されます。

「日本の女性の社会的地位は、戦後飛躍的に向上しましたが、まだ男性と対等に実力を発揮している訳ではありません。対等の報酬を受ける時代がいずれ来るでしょうが、そうした時代に向けての捨て石になれたと、満足しています。」

2012年、山口シヅエは94歳にて波乱の生涯に幕を閉じます。
競輪誕生から75年、孫の世代まで恩恵をもたらす驚異の構想、そして功名心を捨て献身的な姿勢で将来を見据え達観する姿、サンスター自転車の金田邦夫の投稿にも記しましたが、落ちぶれた令和の日本人がまさに規範とすべき人生のように思います。

 

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瑞宝章を授与された山口シヅエ 読売新聞 1987年11月27日夕刊

 

 

■参考 <日本人の国連平和賞受賞者>
1979年 岸信介 (元首相) 日本人初の受賞
1980年 山口シヅエ 女性初の受賞
1981年 福田赳夫 (元首相)他1名
1982年 笹川良一 (日本船舶振興会会長)他2名
1983年 池田大作 (宗教法人会長)他1名
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女性のレインコート320枚、怪盗「かっぱ男」依田淑雄(51)逮捕

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本ブログでは以前に大阪は人身事故や放置自転車数が全国ワーストである投稿をしました。人口が多く、自転車の保有率が全国2位の大阪は不名誉にも自転車関連の犯罪が多く、自転車盗難率も全国ワーストとなって、街頭犯罪の80%が「自転車盗」となっています。これは「ひったくり」の60倍で、大阪の警官は自転車の盗難の書類作りが日課となっている状況なのです。

 

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大阪市中央区の街頭犯罪  自転車の盗難が大半をしめている

 

大阪府は2008年に橋下知事(当時)が「街頭犯罪 全国ワースト1」の返上を表明、自転車盗「脱ワースト1」を公表していましたが、2014年に大阪府警による組織的統計偽装が発覚、全65署おいて8万件の街頭犯罪のを過少計上し、統計偽装に関わった90人の警官を口頭注意など処分をしています。8万件のうち45%占める3万7000件の自転車盗を統計に加えると偽装期間の2008~12年も全国最悪で、防犯登録所である弊社にも「警察が被害届を受理してくれない」などのクレームが寄せられていました。

 

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戦後最大の集団偽装事件、大阪府警による組織的治安偽装 産経新聞 2014年7月31日

 

 

 

自転車には「防犯登録」が義務付けられていて足が付き易いため、最近ではライトなど付属している部品を盗み、インターネットオークションやフリマアプリで売却する手口が横行しています。特に、電動アシスト自転車のバッテリーを狙った被害が急増していて大阪府は警戒を呼びかけています。

サイクルショップ203では、常時30種100錠以上の自転車錠をストック、「iPhoneを探す」で位置が分かる最新のバイクファインダーknog「SCOUT」も店頭販売しています。街頭犯罪ワースト脱却のためにも、ぜひ愛車に「SCOUT」を装備するなど自衛策をお願いいたします。

 

そしてまたしても、我が街大阪でとんでもない窃盗犯が逮捕されました。

 

「かっぱ男」窃盗疑い逮捕 320着押収

自転車のかごから女性用の雨がっぱを繰り返し盗んだなどとして、大阪府警阿倍野署は22日までに、窃盗などの疑いで大阪市東住吉区、会社員依田淑雄容疑者(51)を逮捕、追送検した。自宅から雨がっぱ約320着を押収。雨がっぱばかりを狙う手口から、捜査員の間で「かっぱ男」と呼ばれていた。  

署によると、依田容疑者は「女性の肌に触れる雨がっぱを見ると、下着と同じような感じがして興味があり、2009年ごろから始めた」と供述。雨天時に雨がっぱを着た女性の後を付けたり、止めてあった自転車の前かごに干されていた雨がっぱを物色したりしていた。  (共同通信 2022年9月22日)

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▲毎日新聞 大阪版 2022年9月23日

 

窃盗の疑いで逮捕・送検された東住吉区桑津1丁目の新聞配達員・依田淑雄容疑者は、2013年12月から今年5月までの間、大阪市や東大阪市で雨の日に女性のあとをつけ、脱いだレインコートを盗むなど、100件以上の窃盗を繰り返し、警察は「かっぱ男」として男の行方を追っていました。

依田容疑者のように定期的に現れるパラフィリア障害とみられる自転車部品盗は、今までサドルに限定されていたため、自転車の前カゴに入ったレインコートという社会通念から大きく逸脱した異常な性的嗜好には困惑してしまいます。また、2020年に発覚した須田広昭による大量サドル盗難事件と犯行時期・エリアが重なることから、両者は地下で熾烈な犯行合戦が繰り広げていたということとなり、大阪府警にとってはまさに汚名返上となる逮捕で、地域に住むの女性はようやく安心して眠れます。

 

 

こうした収集癖が起こす事件はたびたびニュースで目にしますが「変態」や「フェチ」などと一言で片づけられ、なぜ窃盗を起こすのかという本質に迫ることはありませんでした。文筆家のインベカヲリ★氏は、2013年に横浜で発生した連続サドル盗事件で逮捕された近藤丈司(35)を取材、メディアが事実を大げさに歪曲し近藤を異常性癖者のように報道されたことを不服とし訴状が提起されている事実を明るみにし、コメントを得ることに成功、「新潮45」(2016年4月)に投稿しました。

 

 

「新潮45」によると2013年神奈川県横浜市にて自転車のサドルを200個を盗んだとして35歳の男が逮捕、1日平均3~4個、最高で8個のサドルを盗んだとしています。

 

「匂いを嗅いだり舐めたりした」
「サドルに若い主婦の股部が付いている姿に興奮し舐めてみたいと思うようになった」

 

男は自慰行為によってたまらなく性欲が満たされ、次々に盗むようになったと供述しているとしています。神奈川県警は2012年12月頃から県内で自転車のサドル盗事件が頻発していたため、プロジェクトチームを編成し捜査、狙われるサドルはベビーシートが付いているなど一目で女性が使用していると推測ができる自転車であるという共通性があり警戒を強めていました。

 

男はその後に不起訴となり、報道したメディア6社と神奈川県に対し深刻な名誉毀損を受けたとして提訴、

「サドルに対して性的な興奮を覚えるフェチではない」
「盗んだサドルの匂いを嗅いだり舐めたりしたことがあったのは事実であるが、それが盗みの目的ではなかった」

男は犯行の動機は行きつけの日焼けサロンでの「人間関係のストレス」であり、性的な目線は一切なくテレビ報道で「仰天!サドルフェチ男」などと陳列された200個の押収品の映像とともにデフォルメされた報道に不快感を持ち、さらに2015年に受けた知能検査で成人の平均がIQ100に対し、それをはるかに下回るIQ50という知能指数の低さに苦しみ通院歴があり、薬物治療を続けていることを神奈川県警が発表しなかったことで記事が不本意に拡散したとしている。これに対し、県警は普通免許を所持している点や犯行の際に指紋を残さないように黒手袋を着用している点などから「責任能力がない訳ではない」としています。

犯行時の精神的疾患や障害の程度は分かりませんが、犯行が狡猾で計画性があり逮捕時の供述を修正しているため近藤の主張を受け入れるにはさらに詳しい説明が必要となります。また、近藤は革製品が好きでサドルの「革」のにおいや質感がたまらないと供述していようですが、ママチャリ用のサドルはポリウレタン製の合成皮革であり本革ではありません。ストレスが原因で「サドル盗」を引き起こすという心理も極めて難解です。真相は分かりませんが、自転車店という立場から見ると近藤が変態かどうかは問題ではなく、自転車製品を繰り返し盗むことが大迷惑で許しがたい行為なのです。

「かっぱ男」こと依田淑雄が今後どのような処罰がくだされるか、本ブログでも注目していきたいと思います。

 

 

<自転車関連の街頭犯罪事件簿>

① 2013年4月 横浜 サドル盗事件 近藤丈司(35)
② 2019年10月 東京 大田区 サドル盗事件 羽鳥秋夫(61)
③ 2018年6月 長野県議 自転車サドル器物破損事件 生出光(28)
④ 2020年2月 トラック運転手 サドル盗事件  須田広昭(57)
⑤ 2022年9月  大阪 かっぱ男事件 依田淑雄(51) ←New

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【ケース①】近藤 丈司

女性の自転車のサドルを盗んだとして、神奈川県警山手署は24日、窃盗の疑いで、横浜市中区立野、無職、近藤丈司(じょうじ)容疑者(35)を逮捕した。

1月ごろから、女性が使っているとみられる自転車から革製のサドルだけを選んで盗みを重ねていたといい、同署は自宅からポリ袋に入ったサドル計200個(計120万円相当)を発見、押収した。(2013年8月25日 サイクリスト)

 

 

【ケース②】羽鳥 秋夫

自転車のサドルを盗んだとして、警視庁蒲田署は窃盗の疑いで、東京都大田区南六郷、アルバイト、羽鳥秋夫容疑者(61)を逮捕した。同署によると「去年の夏ごろにサドルを盗まれて買い直し、他人に同じ思いを味わわせてやろうと、腹いせに盗むようになった」と供述している。

自宅からサドル159個を押収。羽鳥容疑者が自転車の前かごに複数のサドルを入れて走行する姿が防犯カメラで確認されており裏付けを進めている (2019年10月3日 産経ニュース)

 

【ケース③】生出 光

長野地検は21日、器物損壊罪で元長野市議の生出光容疑者(28)=長野市伊勢宮=を起訴した。認否は明らかにしていない。起訴状によると、生出被告は1月30日午後11時50分ごろ、市内の住宅敷地に駐輪されていた自転車のサドルに体液を付けて汚し、損壊したとしている。器物損壊容疑で5日に逮捕されており、同7日に市議を辞職していた。一方、県警長野中央署は21日、強制わいせつの容疑で生出被告を再逮捕した。逮捕容疑は4月19日午後7時40分ごろ、市内の路上で、通行中の10代の女性の身体を触るなどしたとしている。関係者によると、生出容疑者は、いずれの事件についても、容疑を認めているという。(産経ニュース 2018年6月21日)

 

【ケース④】須田広昭

大阪府東大阪市で自転車のサドルを盗んだとして、河内署は28日までに、窃盗の疑いで静岡県沼津市、トラック運転手須田広昭容疑者(57)を逮捕した。署によると「約25年前に仕事のストレス解消で東京や大阪で盗み始め、収集がだんだん楽しくなった」と容疑を認めており、署は須田容疑者が借りていた貸倉庫からサドル約5800個を押収した。

 署によると、これだけの量のサドルを押収するのは異例。大半は一つずつポリ袋に入れられて保管されていた。須田容疑者は各地をトラックで回りながら、都市圏を中心に、行く先々でサドル窃盗を繰り返していたとみられている(2020年2月28日 共同通信)

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皇統と稲作で読み解く「前方後円墳」の謎 ~ 古墳巡りサイクリング ~

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季節も良くなってきたので、サイクリングで堺市に古墳巡りに行ってきました。

大阪市の中心部から南に20km、大和川の南岸には今から1500年以上前に造られたとされる大小多くの古墳が現存しています。大仙古墳など巨大な前方後円墳や陪塚は、2019年には「百舌鳥・古市古墳群」として大阪府下で初めての世界文化遺産に認定され、再注目されています。

 

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世界文化遺産に登録された大仙古墳

 

古墳時代はまだ文字がなく、中国が内乱期で当時の日本を記した文献もないため「空白の四世紀」とされ、なぜこのような巨大な古墳が造営されたのか未だに良くわかっていません。私が初めて百舌鳥・古市古墳群について知り、この時代に興味を持ったのは「キン肉マン」という格闘プロレス漫画で、自身の左腕を鍵にして前方後円墳に突き刺し、悪役レスラーを弱体化させるという、伏線なしの衝撃のクライマックスシーンのくだりです。作者「ゆでたまご」の嶋田隆司さんは大阪出身、荒唐無稽でスリリングな世界観は「ゆで理論」と言われ連載終了後もファンから礼賛されています。

 

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▲ 富士山麓に突如出現した前方後円墳に左腕を刺すキン肉マン 23巻「わが身を捨てて鍵となれ」より

 

「ゆで理論」では前方後円墳は地球を活動させたり停止させたりするための鍵穴とされていますが、鍵のような形状になっている墳丘は「穴」ではなく実際は土が盛られ凸型で、しかも巨大です。そもそも、この時代にはまだ日本に鍵は伝来していないため、歴史学や考古学的にも仰天のフィニッシュホールドです。「ゆで理論」以外にも、この時代においては「騎馬民族征服王朝説」や「日本ユダヤ同祖論」などユニークな考察がされていますが、文化遺産登録後も本格的な発掘調査は許可されず、いまだに多くの謎を残しています。

それにしても、これほど大きな古墳を一体、誰が、何のために、どうやってつくったのでしょうか。現地に行けばなにか謎を紐解くヒントがあるかもしれません。

 

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百舌鳥と古市古墳群の間に位置する「大泉緑地」 広大で誰でも利用できるBMXコース

 

古墳群は百舌鳥古墳群と古市古墳群の2つに分かれていいます。両古墳群は5kmほど離れていて、その間には広大な敷地の府営緑地「大泉緑地」があります。緑地内には無料で誰でも利用できるBMXのダートコースがあり、南側には田園風景が広がっています。

前方後円墳は上空から見ると確かに鍵穴のような形状にみえますが、真横から見ると全貌が分からず陵墓は木が生い茂る小高い丘で、外濠はただの水路のように見えます。世界遺産になってまだ時が浅いためか、大仙古墳の周囲ですらまだ観光向けの再開発が本格化しておらず、昭和時代の老朽化したラブホテルや文化住宅が残っていています。

 

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水路の様に見える「大仙古墳」の外濠  

 

大仙古墳はエジプトのピラミッドより巨大で、推計によるとを当時の土木技術で築造すると工期は15年以上、作業員数は延べ680万人だそうです。盛り土の総容量は140万㎥以上、これは10tダンプ25万台分で周濠の切削残土だけでは半分ほどにしかならず、周辺から墳墓のために膨大な土が集められたということになります。これほど多くの労働力を賄うためには水や食料が必要となり、狩猟採集だけでなく稲作などの農耕が行われていました。

稲作農業には灌漑施設が必須となるため、前方後円墳の周濠は農業用水の確保のために掘削されたとも考えることもできます。つまり一帯を共同事業で農地の開墾をした副産物が古墳で、主目的は水田稲作だったのではないでしょうか。大泉緑地の南側の水田地帯には世界遺産指定の古墳はありませんが、その代わりため池が点在しています。大仙古墳周辺も昭和期までは水田地帯で、現在も奈良県の一部では周濠の水を農業用水に利用しているようです。

 

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大泉緑地の南側に残されている水田地帯

 

自宅にもどり図書館で調べてみると、稲作のために古墳を築造したという説は全く無い訳ではありませんが、通説では周濠の水を灌漑利用しだしたのは中世以降という見解が有力のようです。農業土木の技術者である田久保晃氏は考古学や歴史学の常識とはまた違ったアプローチで独自考察、著書「水田と前方後円墳」(2018, 農文教プロダクション)にて、前方後円墳は、墓であるとともに、その周濠が溜池として機能していたとしています。ピラミッドは農閑期の公共工事としての役割を担っていたそうですが、前方後円墳もきっと同様の役割を果たしていたのでしょう。

 

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水田に囲まれている昭和期の大仙古墳 山根徳太郎「難波王朝」(学生社,1969)より

 

巨大な前方後円墳も大化の改新以後は薄葬令が出され姿を消していきます。大化の改新では首都が難波宮に遷都されます。難波宮は8月にも本ブログで取り上げましたが台地の上にあり、当時は半島で一帯は水田利用された地歴がありません。政治の中枢と農地が離れた場所になったため天皇が直接的に農地開発する農本的思想から律令体制に移行、農地の中心である古墳に価値を求めなくなり、簡素化していったのではないでしょうか。

大和民族は端的に「皇統」と「米」の民族といえます。大化の改新以降は大和川水系を離れ、長岡京や平安京など琵琶湖~淀川水系に首都を設置することが多くなりますが、現在でも宮中催事で新嘗祭などの収穫を祝う儀礼が執り行われています。

謎が多い古墳時代ですが、世界遺産の登録は今後の調査・研究を活発にするきっかけとなり、新しい発見があるかもしれません。堺は国内輪業の中心で仕事柄行く機会が多いので、また新発見があれば行ってみたいと思います。

 

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シン公営競技論:Q

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シン公営競技:序
シン公営競技:破
の続きです。

– – –

競輪は国内では公営競技として70年以上の長い歴史を有していますが、同時に競技スポーツという側面も併せ持っています。日本のプロスポーツとしては国内最多の2000人以上の選手が登録され、2000年からはシドニー五輪からは正式種目に採用されています。日本発祥スポーツの五輪種目は柔道・競輪・空手(東京五輪)の3つで、海外でもそのまま「KEIRIN」と表記されています。

日本はKEIRINの母国でプロ選手も多く抱えていますが、これまで北京五輪で獲得した銅メダルが1個のみで金メダルはありません。かつて日本選手はトラック競技において世界選手権で圧倒するほどの成績を上げていました。当時の五輪は創始者クーベルタン男爵の提唱する「アマチュアリズム」を標榜しており、プロ選手が参加できませんでした。五輪は時代と共に商業化を強め、徐々にプロに門戸を開くようなっていきます。

日本の競輪選手が所属する「JKA」はオートレースと競輪の2つを管理する公益法人です。サッカーではJFA(日本サッカー協会)はFIFAの影響下にありますが、JKAは元々経済産業省所轄の団体で国際自転車競技連合「UCI」の関係先ではなく両者は目指す方向性に大きな違いがあり、協調しあって自転車競技の振興をしている訳ではありません。

UCIは2000年に自転車トラック競技の大改革を断行し、その際に日本はKEIRINを正式種目に入れ込むことに成功しました。同時にトラック競技のルールが変更され、1周250m板張りの「ベロドローム」と言われる室内競技場と厳格化されました。しかしながら、日本にはこの規格の公認競技場がなく参加選手はオーストラリアで合宿をするなどして五輪に挑んみましたが、新ルールに対応することがなかなかできませんでした。ルール改正に伴い、欧州各国・米国・カナダ・豪州などの先進国は公認ベロドロームを設置、中国・ロシア・香港・インド・イスラエル・コロンビア・トルクメニスタン・マレーシアなどでも国際大会が実施されています。母国日本はルール改正から遅れること11年、静岡県の伊豆半島の山中に「伊豆ベロドローム」がようやく完成、大きな大会を実施するにはアクセスが悪く、主に選手の練習場となっていました。

 

「お・も・て・な・し」

 

「世界一コンパクトな五輪」を公約にし東京都は2020年の五輪招致活動を行い、ブエノスアイレスの総会にて競合の末に見事に大会を勝ち取りました。猪瀬直樹都知事(当時)は、東京数キロ圏内に競技会場を集中させ、自転車競技のトラック種目は東京湾の臨海地区に20億円をかけ専用競技場「有明ベロドローム」を建設するとしていました。

しかし、小池百合子知事になるとこの計画の見直しを提言「これまでも会場の変更というのはしばしばあった」とし、有明の競輪場も白紙となります。伊豆のベロドロームはサッカーでいうなら「Jビレッジ」のような強化施設のため、五輪のような大きな国際大会を実施するには大規模な改修が必要となり、代表選手は実践を想定した練習ができずに2月の冷たい雨の中で屋根のないコンクリート走路で直前合宿をしいられました。東京五輪の反省点から分かるように、日本に必要なのは国際規格のベロドロームなのです。現存する40以上の競輪場は賞味期限が切れていて、新規格の競技場に更新していく必要性があるのです。

 

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白紙となった夢の競輪施設「ベロドローム有明」

 

競輪は誕生から70年以上が経過、施設は老朽化が進み、最盛期で全国に62あった競輪場も43施設となりました。減少した施設のほぼ半数は関西の施設で、革新自治体の首長による政治的判断によるもです。このような共産体制レジームは消滅しましたが、競輪を再開した自治体はひとつもありません。東京都の石原慎太郎知事(当時)が「新しい競輪」「お台場カジノ計画」構想を表明しましたが実現にはいたりませんでした。しかしながら、石原の意思は受け継がれ2018年にはカジノを含む統合型リゾート(IR)の整備法が成立、大阪は関西大阪万博が開催予定の人工島「夢洲」にて一体的な開発を行う予定となっています。

 

 

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 2025年夢洲で開催される「大阪・関西万博」 開催には競輪の協賛金が支出される

 

大阪は古くから自転車産業の中心的な役割を果たしてきました。また、自転車の普及率や利用状況も、欧州の「自転車都市」に引けを取らない高い水準となっていてます。競輪史においても住之江競輪場の熱狂的な人気が、全国へと拡大した経緯を見てみても、関西初の屋根付きのベロドロームは大阪にあるべきなのです。

とはいえ、大阪は財政的に困窮していた時期が長く緊縮体制を取っているため、競輪場の建設に対して公共政策として予算を組むとなると反対する意見も多く出てくるはずです。2000年以降に国内に建設された屋根付きの競輪施設は3施設ありますが、どれも税金は1円も使用されていません。小池知事は建設費を問題として、有明の施設を撤回しましたが、少し知恵を働かせれば税金を使わず施設を建設できるのです。

私が万博後の夢洲でKEIRINを実施すべきであるとしているのは、万博で建設されるパビリオンを競輪場に転用することで、税金を使わず「負のレガシー」を収益事業に変換することができるからです。カジノが開業すると国内外から収容できないほどの多くの観光客が訪れます。カジノは席数に限りがありますから、あふれ返ったギャンブラーたちをターゲットに日本独自の公営競技を楽しんでいただければ一石二鳥ですし、休催日にはボクシング・アイススケートやコンサートなどのイベント会場として貸し出せば、一層の収益を出すことができます。

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競輪の人気のピークは1950年代でファンも高齢化し、一般的には昭和の終わったコンテンツと認識されているのではないでしょうか。ところが令和になり、米国でスマホを介したスポーツベッティングが流行の兆しを見せると、ソフトバンク・サイバーエージェント・楽天・DMMなどのIT企業が相次いで事業として競輪に投資、売り上げも底を打ちイメージも変わりつつあります。ゴジラやウルトラマンが新装し再ブームを起こしているように、競輪も少しテコ入れをすれば新たなファン層を獲得し、世界から本場の競輪見たさに来日客が訪れ、他国のカジノと差別化にもつながります。

大阪からは、野球のダルビッシュ有選手、テニスの大坂なおみ選手、サッカーの本田圭佑選手など多くの一流アスリートが生まれています。これは自宅の近くに練習施設ある環境で幼少期を過ごした結果です。静岡の伊豆まで電車を乗り継いで行く必要がないのです。ベロドロームは、スポーツ振興という面でも、遅かれ早かれ設置しなければなならいのです。

「シン公営競技」と題して公共政策としての公営競技について妄言を交え3回にわたり投稿させていただきました。夢洲のカジノには賛否があることは承知をしていますが、印象として反対派も賛成派もギャンブルの現状を正確に認識して声を上げている訳ではなく、ポジショントークをしているだけのように感じます。私は、より深い議論をするため、本稿で述べてきたような歴史的経緯やギャンブルに対する正しいリテラシーを各々が身に着けていくべきではないかと思っています。

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シン公営競技論 :破

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(前回の続き)

戦後の我国の公営競技は競馬から始まりました。競馬は戦前より実施されていましたが、中央集権的な組織体制をGHQに問題視され、1948年に新しい競馬法が制定、現在へと続く市町村が主催する「地方競馬」へとなり再スタートをします。同年に自転車競技法も制定され「競輪」は熱狂的に支持され瞬く間に全国的に広がり、次いで50年には「オートレース」、51年には「競艇」が誕生、52年にサンフランシスコ講和条約により日本が主権を取り戻すと54年に中央競馬法が可決され「日本中央競馬会」が発足します。オートレースはあまり人気がでませんでしたが、公営競技の王者は【地方競馬 → 競輪 → 競艇 → 中央競馬】と誕生順に移り変わっていきます。しかしながら、1970年代に入るとパチンコが市場規模で競輪・競艇を超え、80年代には全公営競技の合計を上回る規模と増大し、90年代には30兆円市場の巨大産業となり圧倒的な存在となります。

まさに国民的ギャンブルと成長したパチンコですが、1959年に大物代議士の福田赳夫自民党幹事長に「2年以内に完全納税できなければ、一斉摘発する」と忠告を受け、危機的状況に追い込まれていました。パチンコ業界はこの難局をどのように乗り切ったのでしょうか。まずはその歴史をみてみましょう。

初期のパチンコは一銭銅貨を投入して遊ぶコインマシンでした。その登場は古く、杉山一夫著「パチンコ誕生」(2008,創元社)によるとルーツは1920年代の大阪の新世界であるとしています。新世界は現在では通天閣を中心に多くの観光客が押し寄せますが、そのきっかけは今から100年以上前の1905年に開催された「第五回内国勧業博覧会」です。博覧会終了後に跡地はルナパークという遊園地となり1923年まで営業をしていました。杉村氏よるとルナパーク終了後の新世界の一角、通天閣の袂にあった露店パチンコ「オーエヌ商会」が初号機であるとしています。1932年に大阪ではパチンコ禁止令がだされ、太平洋戦争へと突入し禁止令は全国的に広がります。「オーエヌ商会」はその影響を受けて、カフェーと転業し現在でも「コロンバイン」という店名の喫茶店を営業されています。

 

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新世界の露店パチンコ「オーエヌ商会」があった場所  現在は喫茶「コロンバイン」となっている

 

 

戦争が終わると再び大阪市内でパチンコ店が営業が始まり出します。大阪府警に出身で戦時下は満州に駐屯していた水島年得(ねんとく)も心斎橋でパチンコ店を開業します。配給制で物資が不足していた状況下で、景品と交換できるパチンコは人気を博し、水島は道頓堀・玉造・鶴橋など多店舗化に成功、パチンコ店組合の全国組織「全遊連」の会長となります。「完全納税」の命を受けた水島ですが、当時は各地方ごとで指導法など違いがあり、統一化に向け「大阪方式」を導入、特殊景品を介し出玉をパチンコ店・景品交換所・景品問屋の3つの別々の業者が扱うこの方式は「三店方式」とも言われ、パチンコ店が出玉の換金行為に直接的に関与しないことから、賭博行為に相当しないという脱法的な営業形態です。水島が考案したこの方式でパチンコはどうにか一斉摘発を免れます。

 

「パチンコで換金が行われているなど、まったく存じ上げないことでございまして..」

 

2014年2月、高村正彦自民党副総裁らが発起人となる「時代に適した風営法を求める会」が設立、建前論ではなく実態に即して方式を整理し「パチンコ課税」の導入を要望すると、警視庁の担当者は「そういうこと(換金)もあるという話は聞いております」と官僚答弁に終始、「賭博」なく「遊技」で出玉交換は無関係の交換所で客が勝手に換金しているだけなので「課税する」という議論も成り立たないと白々しい答弁を繰り返し、現在でも協力姿勢を示していません。パチンコは公営競技と違い法的なプロセスを経て業態が成立していないという問題が常に付きまといます。

 

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警察はパチンコ以外の業種は「三店方式」を認めない方針  (朝日新聞 2014年8月26日)

 

 

「三店方式」の黙認も問題のですが、私がそれ以上に問題なのは「パチンコ依存症」だと思います。

ギャンブル依存症は1980年代から米国で精神医学の疾患として体系され、世界保健機関「WHO」においても病気とされています。2014年の厚生労働省の研究班の調査では国内のギャンブル依存の有病率は4.8%、わが国には500万人以上の依存者がいると推定されています。ギャンブル依存は重症度が高くなると精神疾患だけでなく、身体に異常が現れ日常生活が困難になる危険性もあります。加えて、借金を抱える事例が多く、場合によっては家族や職場など社会経済に悪影響をおよぼします。ゆえにギャンブルは一般事業者ではなく「公営」でしっかりとした大綱を設け、慎重かつ健全に開催する必要性があります。

研究者や医師においても明白にパチンコと公営競技を分けて研究している人は少なく、国内では精神科医の帚木蓬生(ははきぎ・ほうせい)氏の2005年から2年かけギャンブル依存の実態を初めて調査、100人のギャンブル症者の嗜癖をひとりひとり調べると、100人中96人がパチンコ・スロットであり、競輪は100人中たった1人でサイコロ賭博や花札よりも少ないという実態が報告されています。

私は患者数を減らすためにも、パチンコと公営競技を分けてしっかりと検証・研究していくことが予防につながると考えます。この2つは似ているようで、公益性など性質が大きく異なります。以下違いを説明しますが、結論から先に言うとパチンコ業界は競輪を規範に依存症対策をすべきなのです。分かりやすいように、「パチンコホール」か「競輪場」どちらかを我が町に1施設を設置すると仮定し、違いをみています。

 

(参考) パチンコ店 競輪場
営業 ほぼ毎日 月間 3~9日
利用者 ほぼ周辺住民 全国から投票
受益者 運営企業(非上場) 主催自治体(売上の25%)
ギャンブルの形態 遊戯業(大阪方式採用) 公営競技(自転車競技法)
平均使用額(回) 13600円 12300円
施設数 全国8000店舗 43施設

 

 

パチンコホールは全国8000店舗以上あるそうです。近所にも必ずあり店舗があり、新店が開業することも日常茶飯事、地域によっては向かい合って立地しています。一方、競輪場の開設は半世紀以上もなく、新設となると地域では反対活動が起こるかもしれません。しかし、2017年に施行された「自転車活用推進法」では12の基本方針が掲げられそのひとつに「自転車競技のための施設の整備」というが盛り込まれていて、地方公共団体の責務として基本理念の理解を住民に求め、協力を得るよう努めなければならないという内容になっています。もちろん、日本は法治国家ですから推進法に従い、本来ならプールや体育館のように都市のアメニティとして競輪場も設置すべきなのです。

パチンコホールは周辺住民から収益を得ます。昔は競輪場も同じような構造でしたが、近年はスマホの普及からインターネットを利用し全国から投票されます。周辺地域から金が散逸するパチンコと対照的に、競輪場は全国から金が集まり、その売上金の25%が主催自治体の一般財源として、地域に恩恵をもたらします。一方でパチンコホールはすべて非上場企業で、経営者は長者番付の上位にランクされ格差を生んでいます。

営業日数も明白に異なります。ほぼ毎日営業するパチンコホールに対し、競輪場は全国で分散して開催されているため月に5日程しか実施されません。月に25日労働し、5日競輪場で過ごすのが依存でしょうか。それとも、休催日にも競輪場に出向き自転車が走っていないバンクを見て、ドーパミンを放出しているのでしょうか。公営競技は前もって投票券などを購入しておくこともできます。精神状態が冷静な出走前に投票を締め切り、ライブベッティングはできません。パチンコに依存してしまうと朝から閉店まで10時間以上も、効果音響やパターン点滅などの仕掛けのある遊技台の前に座り続けてしまう人もいます。健常な人でも毎日射幸心煽るこの状況に置かれれば、正確な判断ができなくなってしまいます。

パチンコホールも全国で100施設ほどに漸減し、営業も月に3~9日ほどに減らせば、依存症の数は大幅に減らすことができます。到底できっこない話となりますが、公営競技はこれを実行してもなお依存症対策が不十分であるというご指摘を頂戴しているのです。競輪はスポーツですが、ゴールデンタイムのスポーツニュースで出走結果が報道されることもありません(中央競馬はたまにあります)。青少年への影響を考慮して、少女アイドルグループや少年マンガ・アニメをコマーシャルに使用することもありません。

 

 

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少年が主人公のロボットアニメ「エヴァンゲリオン」がタイアップするパチンコ

 

私は競輪場を全国に8000施設に増設すべきだと主張しているのでありません。選手が3000人ほどしかいませんので限界があります。ただ、財政論として公営競技の実施を各都道府県・市区町村で議論のテーブルにあげるべきであると言いたいのです。

本ブログでは繰り返し、大阪は夢洲のカジノの隣に競輪場を新設すべきと主張をしています。関係者の方に怒られるかもしれませんが、今の競輪は賞味期限が切れています。私は、舞洲に1施設作るだけでドミノ倒しのように公営競技が生まれ変わり、戦後期の奇跡的な経済成長が再び訪れると確信しています。現代貨幣理論(MMT)やマルクス経済理論のような絵に描いた餅ではありません。終戦後、わが国は焼野原から競輪・競艇という独自の経済構造をひねり出し、その収益を原動力に経済成長を実現しました。しかしながら、パチンコの台頭により日本経済は長期にわたり停滞、このいわゆる「失われた20年」に日本人がパチンコに使用した額は500兆円以上だそうです。

次の投稿ではなぜに今、大阪の夢洲に競輪場が必要なのかもう一度詳説したいと思います。

 

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